Frédéric Malle
フレデリック・マル

フレデリック・マル ブランド創業者

 圧倒的な香りのクオリティと知的な雰囲気のあるミニマルな香水瓶から、海外だけでなく日本でも香水愛好家から畏敬の念を持って話題に上がるブランドがあります。それがエディションドゥパルファム フレデリックマル(Editions de Parfum Frederic Malle)です。創業者は一体どのような人生を歩み、どんな信念を持ってブランドを創設したのか。少しでも謎に包まれたその素顔を垣間見て頂ければ、フレデリックマルというブランドをもっと楽しんで頂けるのではないかと思います。

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もし香水の王族というものがあるのだとしたら、フレデリック・マルこそ、その名にふさわしいだろう。

2017年ニューヨークタイムズ誌

マルの人生

香水の申し子生誕

 1962年7月17日、パリに生まれたフレデリック・マルは、本名をPierre Frédéric Serge Louis Jacques Malleと言います。クリスチャン・ディオールの香水部門のクリエイティブディレクターであった母親マリーと、ハーバード大学を卒業し、後にリーマンブラザーズのトップにのぼりつめる父親フランソワのもとで、パリの第7区で育ちます。(家族構成はこちら

 住んでいたアパートはCourty通りの8番地にあり、以前はゲラン家の所有でありました。幼少期に過ごしていたベッドルームは、ジャン・ポール・ゲラン(ゲランの4代目調香師)が昔使っており、夜間飛行の香りが染み付いていたため、母親は何度も壁を塗り替えたそうです。

 母がディオールにいたこともあり、幼い頃から兄弟のギヨームとともに香水の実験台にされていました。幼児のための香水Baby Diorは、2人のために作られたと言われています。また、4、5歳くらいからオーソバージュをふりかけられていたのだと、マルは回顧しています。

 母親は、学校の行き帰りを送迎してくれていて、よくマーケティング部に対する愚痴を言っていました。そして、学校が終わると、ディオールのオフィスでお絵描きをしたり、香水のできる過程を最初から最後まで見たりしていました。こうして幼きマルは、知らず知らずのうちに香水業界の核を自身の感覚に刻んでいくのです

 そして、12歳ごろのとき、オーソバージュをつけて、ホッケーで走り回って、汗をかいたマルは、温かい体香水がいかに興味深くかつパワフルに結びつくかということを知りました。

 14、5歳になると、プレイボーイになりたかったというマルは、当時アメリカで仕事をしていた母からメンズフレグランスを送ってもらっていました。特に、マルの注意を引いた2つの香水は、レザリーシプレーの金字塔アラミス(1966、ベルナール・シャン)とIso E Superが初めてオーバードーズされたHalstonZ14(1974、マックス・ガバリー)でありました。この2つによって、香水の持つ力を理解したとマルは言います。

まだ若いとき、私は多くの女の子に恋をしてきました。イヴ・サンローランのパリをつけている女の子に恋したり(その子はイノセントに見えた!)、逆に全くイノセントさのないゲランのシャリマーをつけている女の子に恋をしたり。それらの香水は、その子たちに合った香りで、マグネットのように惹きつけられたのです。それは不可抗力でありました。

フレデリック・マル

芸術への傾倒

 1980年、18歳のとき、母親の勤めるDiorで働きたいとも思わず、父親の行ったハーバード大学に行こうとも思わず、アートの道に進もうと考えました。マルが最初に興味を持ったのは、香水そのものではなく、香水ビジネスにおけるマーケティングやアートであったのです。

 美術史を学ぶために、まずはロンドンのサザビーズの学校で学び、1982年からはニューヨーク大学に入学し、Art History(芸術史)とEconomics(経済学)を修めています。

私は常に心の中で、その二つがとても結びついていると感じていました。いつも商業が好きだったし、いつも芸術も好きだったのです。

フレデリック・マル
ちなみに…

そんなマルが憧れたのは、シャネルのアートディレクターであったジャック・エリュ(Jacques Helleu、-2007)でありました。シャネルの目と呼ばれ、シャネルの広告や香水瓶を40年以上手掛けていました。現行のNo゜5やココ、チャンスのボトルデザインは彼のデザインになります。

 卒業後は、何になりたいかはハッキリ決めていませんでしたが、1つだけマル自身の中で決めていたことは、「世界と結びついている何か芸術的なものを作りたい」ということでありました。そして、しばらくは、写真家として働いたり、広告業界で働いたりして、着実にアートのセンスを深めていきました。

転機と才能開花

 転機は、1987年、突然にやってきました。
 彼女もおらず、お金も無かったマルは、ご飯を作ってもらうため、母親の家を訪れました。するとたまたま、その夜は、母親の同僚であり、友人であるジャン・アミック(ルール社の社長)が香水のサンプルをマリーに試してもらうためにやってきていた日であったのです。
 一緒にチェックすることになったマルは、サンプルを試すや、「この香りはあなたが10年前に持ってきて見せたものと全く同じではないですか?」と発言。3週間後、マルはルール社(現在のジボダン社)で働くことが決定しました。

 1988年、ジャン・アミックのアシスタントとしてまずは雇われます。ジャン・アミックは、ルール社の社長であり、香水界のグルと呼ばれる人物でありました。オピウム(イヴサンローラン、1977)やオブセッション(カルバンクライン、1985)の調香師としても有名です。

 同時に、ルール社の調香師学校(現:ジボダンパフューマリースクール)に入学させてもらい、フランソワ・キャロンエドゥアール・フレシェジャン・ギシャールから調香技術を学んでいきます。
 最初からすでに卓越した嗅覚を持っていたマルは、まるでマジシャンのように香りを当てるため、周りからとても驚かれ、特に上記の3人は、マルに将来性を見出し、マルのために毎晩、小さな勉強会を開いてくれました。昼は香りについて教え、夜は質問に答えるという具合に。

 ルール社では、他にもブランド創設の際に、香水を創ってもらうことになる調香師たちとの出会いもありました。ピエール・ブルドンと出会い、彼からはドミニク・ロピオンを紹介してもらい、ドミニクからはマル自身のお気に入り調香師であったオリビア・ジャコベッティを紹介してもらいます。

 そして、技術も学び、業界のことを知ったマルは、1993年からコンサルタントとして活動し、クリスチャン・ラクロワ(LVMH)、エルメス(当時は、ジャン‐ルイ・デュマがCEO)、ショーメで働き、マークバーリーでは96年にピエール・ブルドンとコラボして香水を手がけています。

私が初めてシャンゼリゼ通りのある香水ブランドを訪れた時、芸術的表現や内面を表現するものとしての香水は段々と死んでいっているということに気づきました。だから、我々の職業が平凡化することに対するアンチドート(解毒剤)としてEditions de Parfums Frederic Malleを生み出す以外に解決方法は無かったのです。

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機は熟し、王座を戻す革命始まる

 1990年代後半になると、香水市場は、中身ではなく、広告マーケティングにお金ばかりをかけることに専念しはじめ、マルは大きく失望します。なぜなら、そのようにして作られた香水は、イメージ先行で、one-size-fits-all(直訳は、1つのサイズが全ての人にフィットする。つまり、万人に合う香水ということ)であり、どの香水も同じアコードを使っていたからです。
 そして、それまで香水が好きだった人たちは、昔の香水をつけるか、香水をつけないという選択をする時代になっていたのです。

それ(調香師に万人向けの香水を作らせること)は、F1レーサーにタクシードライバーをさせるようなものなのです。

フレデリック・マル

 そして、家族のように慕うピエール・ブルドンやジャンクロード・エレナと話し合い、自分の考えを打ち明けます。つまり、お金や時間に制限をかけず、マーケットテストもしないブランドを創ることを宣言したのです。市場に失望している調香師と、彼らと同じように失望し、美しい香水を求めているカスタマーたちをつなげるのが自分の役割であると。そして、デザイナーではなく、調香師たちによって作られたフレグランスのコレクションを作ろうと。

私は、壁にかかっている(ブティックや店舗の壁にかかっている調香師の肖像画)彼らのために仕事をしています。調香師たちが私のために仕事をしているわけではないのです。

フレデリック・マル

 そして、革命の産声は2000年6月6日にあがりました。プロジェクトのストーリーをヨーロッパのリーマンブラザーズのトップであった父に話し、資金を得たマルは、兄弟であるギヨームとともに小切手を書き、パリのグルネル通り37番地に9つの香水とともに店を開いたのです。

ちなみに…

 マルがブティックをオープンしようとしていた時、家族ぐるみで仲の良かったクリスチャン・ルブタンは、「ぼくの見せの反対側に店を構えたらいいよ。そんな難しいことじゃない、君ならできる、ぼくができたんだから」とアドバイスをしたそうです。マル自身はルブタンのアドバイスには気が乗らなかったようですが。

 そんなルブタンが好きなマルの香りは、コロンビガラード、ローディベール、ベチベルエクストラオーディネールの3つで、ボディ製品も使うそうです。

 完全なクリエイティブの自由原料・テクノロジーに対する経済的な制限なしで、自身の香水を生み出すことができ、マーケットテストもマーケティング戦略も一切行わない。全てのお金は、香水の中身に詰め込んだのです。フレデリック・マル37歳のときのことでした。

もし私が調香師だったら、すべてを香水のなかに入れ、外側にはなにも見せない・・・ものすごく高価なものにして、真似されないようにしたいわ

ココ・シャネル

ブランドのこだわり

 キリアンのこだわりは、バロック様式のような、豪勢で華やかさと香水を最初から最後まで楽しむという点でした。フレデリック・マルは、真逆のようなシンプルを追求した先にある美にこだわりを持っています。しかし、2人に共通するのは、真に力を入れているのは香りのクオリティという点になります。

ブランド名

 ブランドの名前は、最初、叔父のルイ・マルが作ったNouvelles Editions de Filmsから、Nouvelles Editions de Parfumsにしようとしていました。しかし、自分の仕事は出版社にとても似ていると思ったマルは、最後にはNouvellesを削り、「Editions de Parfums Frederick Malle」としました。これは、フランスの有名な出版社Editions de Gallimardに倣ったものです。

 Editions de Parfumとは、「香りの出版社」という意味になります。

ボトルデザイン

 フレデリックマルのボトルデザインは、バウハウスにインスパイアされています。マルがアーヴィング・ペン(Irving Penn、アメリカの写真家)とした会話から着想を得ています。
 2人は、1999年にクリスチャン・ラクロワでマルが香水のコンサルタントをしたときに、出会い、ペンは、その時の香水ボトルの写真をとっています。しかし、ペンは、そのボトルデザインが好きではなく、モダンなボトルデザインはどのような見た目であるべきかということをマルに諭していました。この経験から、ミニマリズムを追求し、無駄なものをそぎ落としたシンプルな、しかし高級感があり、タイムレスな見た目になっているのです。

 また、元々は、フレグランス毎に違うデザインにしようと考えていましたが、お金がなかったということと、さらに重要なのは、入れ物ではなく中身に注意を向けたかったため、現在のようなデザインになりました。

 そして、キャップは、当時、シャネルしか使っていなかったBakelite(ベークライト)を選びました。かつての偉大な香水たちは、ベークライトを使用していたので、クラシックな香水たちを参考にしたのです。

バウハウスとは…

バウハウス(Bauhaus)とは、元々、1919年に設立された芸術を教育する学校の名前で、合理主義・機能主義的考えを重視し、無駄なものを削ぎ落したシンプルなデザインを教えていました。ボールペンで有名なLAMY(ラミー)やLouis Vuitton(ルイ・ヴィトン)のロゴに使われている書体は、バウハウスの影響を受けた代表的なものになります。

ラベル・パッケージ

 調香師がゴーストライターのように影の存在になっていることにも不満を覚えていたマルは、ブランド名よりも作品名調香師の名が目立つようにしました。主役はブランドではなく、中身であり、それを作った調香師であるということを強調したかったのです。

 ブランドローンチ当初は、ボトルのラベルには、どこにもブランド名が書かれていなかったくらい、マルは作品名と調香師名を前面に出していました。これほど調香師の名を前面に出すブランドは世界初のことでありました。

 現在でも、ラベルおよびパッケージにおいて、文字の大きさは、ブランド名<調香師名<作品名となっており、いかにマルがこのことを重視しているかが分かります。

調香師たちが名前も出されず、ローンチイベントにも呼ばれず、不当に扱われていることをいつも考えていた。それほど無駄なことはないと。なぜなら彼らのストーリーのほうが業界が伝えていることよりもはるかに面白いからだ。

フレデリック・マル

 パッケージは、シンプルな赤と黒の文字でカバーしていることで有名なフランスにEditions de Gallimardの本を参考にしています。「香りの出版社」という名前の通り、香水の入ったフレデリックマルのパッケージは、本のようであり、表面と背表紙には「題名(香水名)と著者名(調香師名)」、裏面には「著者の略歴と本(香水)の概要」が書いています。

 ちなみに、このブランドの色については、マルの香水業界への情熱を表現する赤とか、友人であるルブタンと同じ赤にした、などという噂も出ていますが、Gallimard社のオマージュが最も大きな理由です。

Gallimardのやったことは当時の最高の著者たちに出版してもらったということだけでなく、その本の見た目は他の何でも見たことがないものでした。だから、Editions de Gallimardのように、私もEditions de Parfumsで同じようなことをやろうと思ったのです。

フレデリック・マル

ブティック・店舗

 ブティックは、マルの自宅にきたような安心感を持ってほしいとデザインされ、マル自身やマル家の私物も置いています。これは、ジャン・アミックのラボに入ったときに、家にいるような感覚を感じたことに影響を受けています。家のように見える内装やデザインにし、来客に自分の友達の作品を見せているような雰囲気にしたのです。マルのブティックは、キリアンの統一されたブティックと異なり、各ブティックが別荘のように、1つ1つデザイン・内装・装飾が異なります。

 ブティックや店舗の上部に掲げられている写真は、フレデリックマルの香水を調香している調香師の肖像画であり、Guillaume LuisettiとBrigitte Lacombeによるものです。これもまた出版社が著者の肖像画をかけていたことからインスピレーションを得ています。

 マルのブティックや一部の店舗で導入されている香りのコラム(smelling column)は、別名セント・チェンバー(scent chamber)とも呼ばれるものです。これはフレデリックマルが生み出した最新の機器になります。ドアを開け、その中に香水をスプレーし、顔を入れると、自分がその香水を纏っているときに周りの人がどのように感じるかを知ることができるのです。つまり、シヤージュが分かるということです。

コラボレーション

 フレデリック・マルがコラボレーションをする人物たちは、フレデリック・マルの美学を反映させることができる人たちであります。コラボからもフレデリック・マルの芸術へのこだわりや嗜好が分かります。

建築:Dominique JakobとBrendan MacFarlane(パリブティック)、スティーブン・ホール(Steven Hall、ニューヨークブティック)

写真家:ブリジット・ラコンブ(Brigitte Lacombe)、Guillaume Luisetti

グラフィックデザイナー:Patrick Li

アーティスト:コンスタンティン・カカニアス(Konstantin Kakanias)

香水ボトルケース:ヴァレクストラ(Valextra)

トラベルケース(2012年):ピエール・アーディ(Pierre Hardy)

香水:ドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)、アルベール・エルバス(Alber Elbaz)

ブランドの現在地

 今でもフレデリック・マルは、一切広告費をかけず、香水を売るのにセレブリティを雇いません。自身の香水を使っている有名人については、顧客情報だからと口を閉ざし、一切発言しません。香り1つでその名を世界に轟かせているのです。

 フレデリック・マルの革命により、調香師の存在は全世界で重要視されるようになり、今では当たり前のように調香師の名が香水とセットで発表されています。マルが成し遂げたことをシャネルの前専属調香師ジャック・ポルジュは讃えて、このように言っています。

彼は、村の真ん中に教会を戻したのだ!

ジャック・ポルジュ

彼の言葉を言い換えれば、物事の順序を戻した、ということです。

フレデリック・マル

 2015年1月、エスティローダーの傘下に入り、世界の香水愛好家たちが驚きと落胆にのまれます。そんなことをものともせず、ニッチではなく大きなブランドにしたいとマルは、エスティローダーの三顧の礼に頷き、自身の信念は変えずにブランドの経営面を任せることになります。

 2018年、フレグランス・ファウンデーション・アワード(以前のFiFi賞で、フレグランス界のアカデミー賞)で「ゲームチェンジャー賞」を受賞。

 インタビューでは、今後一緒に働きたい調香師として、アニック・メナードミシェル・アルメラックを出しています。

フレデリックは自身は調香師ではありませんが、彼は香水業界のことを知り、愛しています。彼は偉大な芸術に感謝の念を持っている美的感覚のある人なのです。

ドミニク・ロピオン

フレデリックマルの香水概論

 香水を作るときは、調香師が自分だけで作ることもあれば、マルにアイデアを尋ねてきたり、作品の香りを聞いてきたりすることもあります。調香師たちが新しい高みに登れるように手助けすることで、調香師たちを自由にするのがマルの役割になります。

香水を作るときのプロセス

調香師たちと何を達成するかを正確に決める。スタートはすでに存在しているアコード(例えば、花や物の香り)や今までにないアコードを生み出すための原料から始める。

いくつかの試作をし、自分たちのアイデアを評価し、続けるかどうかを決める。

続けることに決めたら、どの試作が目的に達するのにベストなのかを選定していく。その時、「もう少し○○を足した方がいい、減らした方がいい」といったかなりテクニカルな部分をマルがアドバイスをして、詰めていく。

肌にのせてテストをする。腕の内側の様々な位置に各サンプルをつけ、8時間見る。その間、定期的にノートをつける。また、ニューヨークやパリなど、自身の旅行先でつけて香りがどのように香るか見る。

ちなみに…

フレデリック・マルは、シナスタジア(共感覚)を持っており、これが調香師にイメージや香りの修正を伝える際に役立っています。各香水がどのような色で見えているのか、共感覚の世界をサイト内で、実際の色を使い表現もしています。

 フレデリックマルにおける香水の創作は、非常に知的なやり方で、キリアンとは真逆をいきます。キリアンが設計図から作るのに対し、マルの場合はゲランなどのクラシックな香水の構造から始めたり、チュベローズパチョリなどの原料から始めて、今までにない、もしくは、予算や技術の問題でできなかった革新的な香りを生み出していきます。

 また、キリアンが香りのストーリーに重点をおけば、マルは香りの学術的な側面に重点をおき、まるで研究のように香水を創っていきます。マルにとって、香水のストーリーとは、自ら作り出すのではなく、制作過程で生まれるクリエイティブの物語になります。したがって、マルの香水の名は、キリアンが最初につけるのとは反対で、最後につけられます

 マルが生み出そうとしているのは、今売れる香水ではありません。次の偉大なクラシックを生み出そうとしているのです。

つまらない人は、たいていつまらない香水をつけています。この香水をつければ、誰でもセックスシンボルになれるという広告がありますが、このようなマーケティングはつまらないし、つまらない香水を買うつまらない人たちへのアピールにしかなりません。

フレデリック・マル

私たちの香水創作のやり方はある意味古風で、香水市場の99.9%の人たちとは異なった手順を踏んでいます。普通はコンセプトやパーソナリティーから創作を始めますが、私たちは、香水を中心に添えて、香水のために香水の言語を使って調香師たちとアイデアを話し合い、道筋を決めていきます。
その作品が発展して形になると、キャラクターが出てきます。自分が販売員だとしてみると、その香りをまとえる人がどんな人かを考えるようなものかな。ドミニクとつくるときは、共通の友人がたくさんいるため、その人達を思い描いて「あの人にはすごくマッチするがが、あの人には仰々しい」と言って、考えてみる。ただ、創作過程で香水がキャラクターを持ち始めるとゴールがよりはっきりするため、道を誤りません。実際に思い描かれる人物たちは、創作過程の最後に香水が導き出してくれます。

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香料

 フレデリック・マルが自身のブランドで香水を作る際に調香師にする約束の1つが予算は無制限であるということです。今では多くのニッチブランドが似たようなことを言いますが、恐らくマルほどそれが実現できているブランドは少ないのではないかと考えます。なぜなら、フレデリックマルの香水で使用される香料の中には、世界最高峰の天然香料を扱うレミー社の香料というだけでなく、レミー社に特別に(マルのためだけに)調整してもらった香料が存在するからです。

 また、IFRAによる香料の規制でフォーミュラを変えなければならない場合、以下の2点が取り決められています。
1. 法規制により必要となる再調香は、調香師自らが行う。
2. 当初の作品アイデアを再現できなくなった場合は、廃盤。

 一般的なブランドであれば、他の調香師がガイドラインに沿って再調香しますが、フレデリックマルでは、調香師自らが修正できます。また、香水は、作品のもとになるアイデアが大切であると考えているため、そのアイデアを再調香で満たせない場合は、廃盤とすることにしています。

香水というのはかなり技術的なものでもありますが、やはり芸術活動であります。芸術として捉えなくてはいけません。香料が変わったりすることで「昔の方がよかった」と言う懐古主義的な人がよくいますが、法規制によって無くなってしまった香料があっても、それを超えるようなものを科学者たちが作ってくれています。私はこれからも出てくる新しい発見、新しいものの良さを信じています。

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マルのコレクションに共通する3つの性質

①時間が経っても、ずっと拡散している。(=ロングラスティング)

②香水自身の特性がずっと続き、他の香水の真似になっていない。(=この香水に似ている、があまりない)

③肌になじみ、つけている人の香りになる。(=肌なじみが良く、シヤージュテストもしている)

 そして、大事なことは、完璧に作らないという点です。どこかに香りをつける人が考える余白があるのです。

香水というのは人間と少し似ています。完璧すぎたら一緒にディナーに行きたくないでしょ?

フレデリック・マル

マルの香水の選び方

 マルは、ブティックのオープン以来、時には自身が店頭に立ち、お客様への香りを紹介しています。そして、販売員にはパーソナリティに応じた香水の選択を教育しています。なぜなら、香水はその人を別の誰かに変身させる魔法の液体ではなく、個人のパーソナリティを教えてくれるものだからと考えているからです。
 最近では、ファッションや好きなものから香りをオススメするというやり方も行っていたり、COVID19前からオンラインでのカウンセリングを進めたりと、次世代の販売の仕方も積極的に行っています。

そのためには(パーソナリティに応じた香水をすすめるには)、聞くことと観察することに、基本的に基づきます。香水というのは、その人の美を反映させるサイレントランゲージのようなものなのです。

フレデリック・マル

香水を選ぶ際、こんなシンプルな質問をしてみるといい。私自身もお店で香水を売っていた時は、これらをお客さんに質問していました。

どこにまとっていくか?
スマートな印象でオフィスでまとう?
人生を変えるため?恋人を変えるため?
印象付けるため?落ち着くため?恋のため?
運動の後に?リフレッシュのため?

まとう瞬間・場面を描いて、その場で自分がどんな人物でありたいかに基づいて選ぶことをお勧めします。その場面を描くことで、香水を香る際、より具体的にイメージしやすくなるからです。例えばイブニングドレスを買う時も、ジーンズを履いていく場面とは違うシーンを想像すると思いますが、香水もまさにそれと同じなのです。

しかし、大切なことは、纏っていて心地よいものを選ぶことです。

フレデリック・マル

フレデリックマルの香水解説

フレデリックマルの香水の解説一覧はこちら。

フレデリック・マル様のお言葉

私が20年前からやってきたことは、このビジネスをそのルーツに戻すことでありました。

フレデリック・マル

ユニセックスの香水というのはセクシーというよりも中性的で、とてもクリーンな香水を指します。私たちの香水は確実にユニセックスではなく、完全にセクシーな香水になります。

フレデリック・マル

創っている香水が上手過ぎたら、完璧すぎたなら、私はちょっとしたいやらしい香りがないかを探し、時には付け足したすこともあります。完璧すぎる人とは、一緒に寝たいと思わない、ということに似ていると思います。だって、朝起きたら、完璧なままの人が横にいるのは嫌でしょう?そもそも、完璧というのは、相手に対して醜く感じさせたり、恐ろしく感じさせたりするのです。だから完璧というのは、つまらないのです。少しユーモアがなければならないのです。

フレデリック・マル

私は何が香水をセクシーにするかという感覚を持っています。だから調香師たちは私と働きたいと思うんだ。

フレデリック・マル

私が思うに、たぶん人は自分がどのような人なのかを伝えたいのだと思います。自分が自分をどのようだと考えているのか、どのように見てもらいたいのかというのは、現実よりも良く考えています。フェラーリやオートクチュールの洋服は、お金持ちでなければ買えませんが、オートクチュールの香水は購入できます。もっと余裕があるのです。つまり、あなたは私たちと一緒に夢を実現させることが可能なのです。

フレデリック・マル

人生において、誇りに思っている2つのことは、まず、このクレイジーな冒険に賛同してくれた世界で最も偉大な調香師たちの支援を得たこと。そして、調香師たちを話題の中心に持ってくることに成功したこと。

フレデリック・マル

マルのイロハ

よく聞いて過ごす音楽:バッハ、モーツァルト、ローリングストーンズ

他社製品で勧めている香水:シャネルのレ ゼクスクルジフ、トムフォードのプライベートブレンド、セルジュ・ルタンス、アニック・グタール、エルメス、コムデギャルソン、ルラボ

スーツ:アンダーソン&シェパードで仕立てたもの。

時計:1960年モデルのロレックス サブマリーナ

ドレスシューズ:クリスチャン・ルブタン

週末の靴:ジョンロブ

愛用している香水:ゼラニウムプールムッシュー(海外のみのシャワージェルも愛用)

家族構成

祖父:セルジュ・エフトレー・ルイシュ(Serge Heftler-Louiche、1905/5/26-1959/10/8)

 クリスチャン・ディオールと生後2か月からの幼馴染でノルマンディーで一緒に育っています。母方の祖父であり、父の弟ルイ・マルの名付け親でもある。もともとはフランソワ・コティのパーソナル&ファイナンシャルの秘書で、マネージングディレクター(つまり、コティの右腕)でありました。

 クリスチャン・ディオールが1946年に会社を設立した際、「ファッションを彩る最後のものは、香水である」と香水を作ることをすすめ、パルファン・クリスチャン・ディオールのCEOとなります。そして、ムッシュ・ディオール(1905-1957)は、1947年2月12日に自身の初めてのコレクションを発表しており、同年に初の香水ミス・ディオール(現在とは処方が異なる)を発売します。
 セルジュは、コティのシプレ(1917)やガルバナムがオーバードーズされたジャーマン・セリエのVent Vert(1947)を愛用していたため、ミス・ディオールはグリーンシプレになったという逸話も残っています。

父:Jean-François Malle

 砂糖の会社で働く親の元に生まれたフランソワ・マルは、頭が良く、ハーバード大学を卒業します。ディレクターとして、兄弟のルイ・マルと共に映画を撮影していた時期もありましたが、最終的にはヨーロッパのリーマンブラザーズのトップへとのぼりつめます。かなりのイケメンで、競走馬のオーナーでもありました。スーパーモデルであったキャンディス・バーゲンがルイ・マルとの結婚式の際、母親にニューヨークで一緒にご飯に行ける相手として紹介した際、母親がメロメロになって、関係を持ったという話もあります。

叔父:ルイ・マル(Louis Marie Malle、1932/10/30-1995/11/23)

 父フランソワの弟で、7人兄弟の5番目に生まれます。1956年にNouvelles Editions de Filmsという映画会社を設立します。最初の代表作は、1958年「Ascenseur pour l’echafaud(死刑台のエレベーター)」であり、若きジャンヌ・モローとモーリス・ロネをキャスティングしています。

 1980年に女優のキャンディス・バーゲンと結婚し、娘(クロエ・マル、現在はVogueの編集者)が1人いる。キャンディス・バーゲンはVogueなどの雑誌を飾ったスーパーモデルであり、そこから女優業に入っていった女性です。カーナルフラワーのイメージは彼女だとマルは公言しています。

母:マリー・クリスティーヌ・エフトレー・ルイシュ( 、1938‐)

 18歳からディオールで47年間アートディレクター・クリエイティブディレクターとして働き、ディオールをよりクリエイティブなブランドに押し上げた立役者です。

 1967年には、セルジュ・ルタンスと一緒にメイクアップを作っており、彼女はルタンスの最大の支持者でありました。オートクチュールブランドとしては初のメイクアップ製品で、その後、シャネルやエスティローダーが参入してきたと言われています。

 マリーは、エドモン・ルドニツカとも何度も一緒に香水を作っています。また、デューン(1991)やミスディオールの千鳥格子のボトルデザインは彼女がデザインしたものになります。

 旦那であったフランソワとは、1979年1月29日に離婚し、同年11月29日にドイツの貴族ザイン・ヴィトゲンシュタイン・ベルレブルク候ロビンと結婚しています。この家系は、元はルートヴィヒ1世やその次男ヴィルヘルム3世の血を引く家系になります。ロビンは、第6王子リチャード(リヒャルト)の弟であります。

兄弟

 1歳差の兄弟(兄か弟かは分かっていない)Guillaume(ギヨーム)がいます。

妻:Marie Malle

 彼女の親の叔父は、シャルル・ド・ベイステギ(Charles de Beistegui)というスペイン人で、1938年にグルッセー城(Chateau de Groussay、かつてはマリーアントワネットの長女が住んでいた)を買い、マリーが子供のころ週末にそこで過ごしていたというお嬢様です。

 マリーは、臨床心理学者であり、ソーシャルワーカーの資格も持っています。ちなみに、ポートレイトオブアレディを愛用しています。

子供

長女:Jeanne(29歳くらい)
長男:Paul(27歳くらい)
次男:Lucien(23歳くらい)
次女:Louise(18歳くらい)

書籍等

 ここまで到達した方は、相当フレデリック・マルのことが気になっているのではないでしょうか?本当は、様々な写真を載せて、もっと分かりやすくしたかったのですが、著作権の問題から現在は、マルの世界観を写真で見れるサイトや書籍をオススメするにとどめておきます。

20周年記念特設サイト

10周年記念の本『On Perfume Making』

20周年記念の本『The First Twenty Years』

20周年記念特設サイト
『On Perfume Making』
『The First Twenty Years』
・aeworld
・Bergamotto e benzoino
・Bois de Jasmine
・document journal
・elle
・Fragrantica
・Los Angeles Times
・New York Times
・permanent style
・Haute so fabulous
・Lampoon magazine
・Lufthansa magazin
・nose paris
・Persolaise
・sleek mag
・The Cut
・The Talks
・the sunday morning herald
・Vanity Fair
・Violet Grey
・Vogue paris
・Wall Street of Jarnal
・Wmagazine
・WSJ

この記事を書いた人

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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