調香史
生い立ち
1966年4月9日、フランスのブルゴーニュ(Boulogne)に生まれたオリビア・ジャコベッティは、両親が香水業界にいたわけではありませんでした。
父親のフランシス・ジャコベッティ(Francis Giacobetti、1939年7月1日~)は写真家であり、フランス映画のディレクターでもありました。写真家としては、彼が18歳のとき、ピエール・バルマン、エルザ・スキャパレリ、マダム・グレといったデザイナーのファッションページを担当する写真スタジオのトップであったモーリス・タバールにアシスタントとして雇われていました。また、ディレクターとしては、Emmanuelle2(続・エマニエル夫人、1975)のディレクター兼脚本家、Emmanuelle4(エマニュエル、1984)の監督を務めています。
母親も香水業界には関係ありませんでしたが、ユースデュー(エスティローダー、1953、ジョセフィン・カタパノ)をつけており、ジンジャーブレッドの匂いがしたそうです。それがオリビアの最初の香りの記憶でありました。
調香師への憧れ。そして出会い。
子供のころから香りに対して興味を持ち、小さな動物のように色んなところに鼻を押し当てていたオリビアが、初めて夢中になった香水は、6歳のとき、父親がニューヨークから持って帰ってきたキールズのMusk(恐らく1963年の作品)でありました。後に夢中になる香水はフェミニテドゥボワ(1992、セルジュルタンス、ピエール・ブルドン)であったと回想しています。
香水業界に興味を持ったきっかけは、9歳のときに見たジャン・ポール・ラプノーの『Le Sauvage』(『うず潮』、1975年)という映画でした。この映画の中で、イヴ・モンタンが演じた調香師を見て、調香師という職業に憧れを抱くのです。
そして、1982年、オリビア16歳の時に、アニック・グタール(1946-1999)に出会い、彼女に雇われることになります。ちなみに、ちょうどそのときグタールは、娘のカミーユ(1975-)に捧げる香水オードゥカミーユ(Eau de Camille、1983)を制作中でありました。
1年後、17歳になると、グタールの紹介で、ロベルテ社で訓練を受けることになります。
7年間(1983-1990)のアシスタントを勤めている最中、23歳の時に、オリビアは、ジャン=ポール・ゲランと子供用香水プチゲランを一緒に作ったと言われています。(1992年ジャン=ポールが子供用香水を思いつき、そのとき一緒に調香したという説もある。)
ひたすらと自分の道を
ロベルテ社を出ると、1990年にIskiaという自身の会社を24歳で設立します(現在はもうない)。そして、1993年、オリビアのラルチザンでの最初の仕事、L’eau de Artisanを発表します(その後、2007年までラルチザンで調香をします)。
特に知っておきたい香水は、世界で初めてフィグの香りとなったプリミエ・フィグエ(Primier Figuier、英語でfirst fig tree、1994、L’Artisan)と2年後に出したフィロシコス(1996、Diptyque)、そしてその違い、です。なぜなら、この2つがオリビアの名声を一段と高め、次のステージに導いたからです。
プリミエフィグエでは、方向性について少しだけ言葉を受け取ったのみで、ほとんどクリエイションの自由が与えられていました。私は、最初のフィグのオーデトワレを作ろうと考えていました。というのも、イチジクの木は私の子供のころの記憶にある木だからです。
オリビア・ジャコベッティ
自然のフィグのエッセンスは存在しません。だから、私は木全体の香りを捕らえなければなりませんでした。太陽に照らされた樹皮の暖かさ、葉のグリーンさ、実から滴るミルク、すべてです。
フィグは、葉の香りから熟した果実、幹から出る樹液に至るまで、彼女の地中海での最初の記憶、幸せの味、を思い出させるものとして残っていました。そして、オリビアは、プリミエ・フィグエのローンチのためにイチジクの木をもらい、1996年に娘ルイーズが生まれるのに合わせてもう1本を家に植え、毎年イチジクを食べているそうです。
ちなみに、フィグの香りを生み出す際に使われているのは、ステモン(Stemone)という合成香料で、ここに熟したイチジクのミルキー感を付け足すのがラクトンであります。プリミエ・フィグエのエクストリームでは、このラクトンの割合がより増えているようです。
かつて、子供が庭で私の隣に座り、私にこう言いました。『サンシャインみたいな香りがする』と。私はちょうどそのときプリミエ・フィグエを纏っていました。プリミエ・フィグエが感情的な連想を持ったことは、商業的に成功した以上に、何よりも素晴らしい褒め言葉でありました。
オリビア・ジャコベッティ
一方、ディプティックのフィロシコスは、 ギリシャでディプティックの創業者であるデスモンドとイヴ・クエロンが滞在したときの記憶に由来します。山と海の間にイチジクの木が生えており、海に行くには、そこを通らなければなりませんでした。燃えるような暑さの中、2人が通ったイチジクの木の果実からは液が滴り落ち、樹液は流れ、葉からは香りが立ち上っていました。また、デスモンドがギリシャから戻る際に、もう1人の創業者であるクリスチャンヌに小さな贈物をしました。開けてみると、そこに入っていたのは、乾燥したイチジクの葉。開けた瞬間に、部屋中にその香りが立ち込めたのです。
ギリシャ語で「イチジクの木の友人」を意味するフィロシコス。この2つの記憶を描き出したフィロシコスは、ガルバナムを使うことで、フィグのよりグリーンな側面に焦点を当て作られ、プリミエ・フィグエに比べ、ステモンをより減らすことで、透明感を出しています。
次世代の俳句パフューマー
私のゴールはシンプルなフォームを見つけることです。それは過度にシンプルなものではなく、シンプルさというイリュージョンを与える複雑なフォームです。
オリビア・ジャコベッティ
さて、2000年以降の彼女の活躍を年代順に見ていきましょう。
2000年、フレデリック マルでEn Passantを発売。
2003年、資生堂と協力し、Inux(イアンクス)という自身の香水、キャンドル、ボディ製品のラインを始めます。そして、父と一緒にパリの48–50,rue de l’Universitéに大きなブティックを作りました(内装に展示されているものは父のフランシスがプライベートコレクションから選んでいる)。
2年後にはクローズしますが、2006年再び、パリのHotel Costesの中のブティックで利用できるようになります。そして、なんとそのホテルは1995年にオリビアがホテルのシグネチャーセントを作っていたホテルでありました。現在は、13 rue de Tournonにブティックがあるようです。
Inuxは完全に自由なブランドでマーケティングの縛りがありません。すべての香水のテーマはオリビアの個人的なストーリーに基づいています。例えば、TALCという香水は、彼女が日本にきたときの体験にインスピレーションを得ています。ただし、最近は動きがないので、ブランドは終了している可能性が高いです。
2008年、クリスチャン・デイヴィッドとともに、100%天然香料でエコサート認定された香水ブランド「オノレ・デ・プレ(Honore des Pres)」を立ち上げます。ちなみに香料はロベルテ社のものを使っているようです。
2008年、ベン・ゴーラム(Ben Gorham)がバイレード(Byredo)を立ち上げ、そこでジェローム・エピネット(Jerome Epinette)と一緒に香水をつくる手助けをします。しかし、実際に調香したと明かされているのは、2014年のFlowerheadのみです。
2017年、Comédie-Française(コメディ・フランセーズ、国立の劇団)とコラボして5つのキャンドルラインを制作。
2019年、NarsでクリエイティブディレクターFabien Baronとコラボして25周年記念の香水Audacious(オーディシャス)を調香。
ちなみに…
何かウッドを使わなければ私は香水を作れません。ウッドはすべてをより洗練させ、構造を与え、ミステリーさも与えるのです。
オリビア・ジャコベッティ
・パレットは普通あまり使わないものであふれている。ウィート(小麦)、ソーダスト(おがくず)、キャロット。
・ジャン=クロード・エレナと並ぶ俳句パフューマーと呼ばれる。
・自身の名前が出ることがあまり好きではなく、影で働きたいと思っている。そのため、どこかのブランドの専属ではなく、常に独立して、自由でありたいと言っている。
・少しだけメイクする。シャネルのファンデーションを使い、キールズのリップバームかエリザベスアーデンのバームを使う。
・好きな食べ物→Apricot Tagine(アプリコットのタジン)
・モットー→レオナル ド ダヴィンチの言葉「シンプルさは究極の洗練である」
・好きな成分→すべてのウッド。原始的な香りがするから。
・3つの大事な映画→『うず潮』、『ジプシーのとき』(1988年、監督はエミール・クストリッツァ)、『ピアノ・レッスン』(1993年、監督はジェーン・カンピオン。)
・好きな作品→Anish Kapoor(彫刻家)、吉岡徳仁(2020年の東京オリンピックの聖火リレートーチのデザインやカルティエ、ヴィトン、エルメスなど多くのブランドとコラボしているデザイナー)
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