偉大な父の元で…
1946年3月9日、ピエール・ブルドンは、香水業界で働く父と母の元、パリで生まれました。
ピエールの父ルネ・ブルドン(René Bourdon)は、フレデリック・マルの祖父のセルジュ・エフトレー・ルイシュの部下で、1960年代、70年代にパルファン・クリスチャン・ディオールの香水開発部門のディレクターでありました。そのため、同じくディオールで働いていたマルの母親とは同僚であったので、ピエールもマルもお互いの存在を知っていました(が、実は会ったことがなかった)。また、ルネは、エドモン・ルドニツカと共著で、『L’Intimité du Parfum(香水とのふれあい)』(日本語訳はない)を執筆した人物でもあります。
また、セルジュ・ルタンスが1968年にディオールでメイクアップに革命を起こす際、それまで人生で色を扱ったことのなかったルタンスを励まし、機会を与えたのもルネでありました。
伝説の調香師の唯一の弟子
ピエールは、最初、香水業界で働くつもりはなく、パリ政治学院シアンスポー(クリスチャン・ディオールも学んだ超有名な学校)で政治学を学び、作家になるつもりでいました。
転機は、25歳のとき、父と仕事をしていたエドモン・ルドニツカに会ったときのことです。偉大なルドニツカから、「香水は芸術である」ということを教えられたピエールは調香師になることを決意します。1971年にルール社に入り、ルドニツカとジャン・カールの元で、フランソワーズ・キャロンやエドゥアール・フレシェと並び勉強を始めます。そして、ルドニツカは彼の師匠となり、ピエールはルドニツカの唯一の弟子になります。
毎週水曜には自転車で、毎週日曜日は走ってルドニツカのところに行き、私の作ったものを手直ししてもらっていました。
ピエール・ブルドン
ルール社で5年間勉強したのち、ピエールは、パリに戻って、トイレタリー製品(シャンプー、デオドラント、石鹸、ボディローションなど)を作る経験を積みます。
名作の調香
11年間ルール社にいた後、1982年からタカサゴヨーロッパの共同創始者兼主任調香師として9年間勤めます(同僚はミシェル・アルメラック!)。ちょうどこのときに、代表作であるダビドフのクールウォーター(1988)を調香しています。
1990年代初頭(恐らく1991-1993)はクエスト社で働いており、1992年にはクリストファー・シェルドレイク(現在、セルジュ・ルタンスで香水を作っており、シャネルの研究所の所長)と共にフェミニテ ドゥ ボワ(Shiseido、2000年以降はセルジュ・ルタンス)を生み出します。当時、モーリス・ルーセルもクエスト社にいました。
また、1992年、クエスト社でオリヴィエ・クレスプが史上初のグルマンと呼ばれるティエリー・ミュグレーのエンジェルをローンチの際のメンターでありました。
1993年、ピエールは、91年の設立時から関わっていたフレグランス・リソース社(現在はIFFが買収)のパリオフィスのCEOになります。ここではディオールのドルチェ・ヴィータ(1994)を調香しました。また、Perfume idという会社で、ラグジュアリーホテルや飛行機などそれぞれにカスタマイズした香水やフレグランスラインを作っています。例えば、Authentic Hotels(世界各国にホテルを持ち、日本には加賀と霧島にある一泊10万を超えるようなホテル)の香りもピエールが作りました 。
1996年、マークバーリーフォーメンでフレデリック・マルとコラボをし、2人は初めての出会いを果たします。
ピエールとマルは育った環境や学んだ環境が似ていたため、同じようなものが好きであり、家族のように感じていました。そして、マルは彼に大きな信頼を寄せていたため、自身のブランドを設立したいというアイデアを最初に話したのは、ピエールであり、最初の香水を作ったのも彼でありました。
2007年に引退を宣言し、引退前にジュリアン・ラスケット(Julien Rasquinet、IFFに所属)とジュリー・マッセ(Julie Masse)を弟子にとり、調香の指導をしていました。
2015年、再び香水業界へと戻ったピエールは、自身の名を冠したブランド、ピエールブルドンで5つの香水を出します。
ちなみに…
・キリアンが2011年にルーヴルノワールのコレクションが完結した際、インタビューで「もし男性の調香師と働けるとしたら、誰と働きたいか?」と聞かれた際、「ピエール・ブルドン」と答えています。2020年に発売されたエンジェルズシェアを調香したのは、ピエールの弟子であるブノワ・ラプーザ(Benoist Lapouza)です。
・フランソワ・キャロンは元嫁です。
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