生い立ちと邂逅
1955年にフランスのパリに生まれたドミニクは、父と祖父がパリの北西Argenteuil(アルジャントゥイユ)のルール社で働いていました。父は化学者、祖父は経理部の責任者。2人の影響から、香りを通して世界を見るということを幼いころから知っていましたが、自分がその業界で働くとはまだ考えていませんでした。ちなみに、最初の香水の記憶は、母親のつけていたカランドル(パコ・ラバンヌ、1969、ミシェル・ハイ)でした。
私は数学や科学が好きでした。しかし、世界の審美的な側面はもっと好きだったのです。
ドミニク・ロピオン
バカロレア試験に通ったドミニクは、初めは物理を勉強し、エンジニアになろうと思っていました。転機は、1971年16歳の夏、ルール社でラボのアシスタントとしてインターンを受ける機会をもらったときでありました。クロマトグラフィー部門でのトレーニングが終わった後、当時、社長であったジャン・アミックに、会社の運営する調香師の学校に来てみないかと誘われたのです。そこで若きピエール・ブルドン(1971年に入社)と当時ヘッドパフューマーであったジャン・ルイ・シュザック(Jean-Louis Sieuzac、1977年YSLのオピウムの調香師)と出会い、「調香師とは、我慢と学ぶ職業である」ということを教えられます。それが自分に合っていると感じ、調香の過程に魅了されたドミニクは、エンジニアになることをやめて、調香師になることを志します。
弟子入りと才能の開花
グラースで3年間のトレーニングの後、1976年にルール社のジュニアパフューマーとして仕事を始めることになります。このとき、調香師になるきっかけとなった後の師であるジャン・ルイ・シュザックはルール社におらず、Florasynth(後のシムライズ)で主任をつとめていました。パリに戻ったドミニクはホームフレグランスやヘアスプレー、シャンプーで自身の才能を証明しました。
難しいテクニックもほとんどなく、原料も多く使わない。トイレタリー製品の調香はとても面白く、かなり勉強になりました。私は有名な女性フレグランスをベースにしたトイレットクリーナーすら作っていました。
ドミニク・ロピオン
そして、1984年、ジバンシィでのコンペティションで18か月かけて制作した香水を提出し、見事選ばれます。それがブランドの名香として名を刻むYsatis(イザティス)です。ここからドミニク・ロピオンの名が業界内で有名になり始めます。
私は、彫刻家や建築家のように香水を生み出すという考え方が好きです。天然香料で構築することを科学的に研究し、その核心に向かっていくと、突然その美しさに誘惑され、とても満足するのです。
ドミニク・ロピオン
ルール社では約12年(1976年~1989年)勤めていました。ちょうどフレデリック・マルは1988年にルール社に入社しており、そのとき、後のパートナーとなるドミニクと出会っています。この頃すでに、ファインフレグランス部門の調香師たちは、ドミニクが将来のスターになると考えていたくらい力をつけていました。
1989年、ジャン・ルイ・シュザックとともに働きたかったドミニクは、 Florasynth社に向かいます。当時、ジャンはこの会社の研究所のヘッドパフューマーで、ミシェル・アルメラックとファーレンハイト(ディオール、Fahrenheit、1988)を作っていました。成長したドミニクは、師であるジャンとタッグを組み、デューン(ディオール、Dune、1991)やアマリージュ(ジバンシィ、Amarige、1991)といった素晴らしい香りを続々と生み出していきます。天才的なジャンから吸収し、自身でも様々な名香(No゜5やシャリマーなど)からテクニックを学んだドミニクは世界最高の調香師への道を着実に進んでいました。
調香師は、クラフトマンでなければなりません。私たちはとても多くの様々な香料と絶え間なく出会います。どこからインスピレーションを得るかって?私は1つの原料の周りにある中心的なテーマからよく見つけます。それから輪郭、ボリューム、コントラストを描いていくのです。音楽と香水のボキャブラリーはよくとても似ていると言われるが、私は調香師という仕事は、もっと触れることのできるものだと考えています。
ドミニク・ロピオン
師から離れ我が道を歩む
1998年からドラゴコ社で勤めはじめると、ルール社でのマルとの仲を再び温め、フレデリック・マルでの最初の香水ユヌフルールドゥカッシーの調香に取り組みます。ドラゴコ社はドミニクにとってはあまり幸せなところではなかったため、マルでの香水を生み出す時間が自分のバッテリーをチャージしたと回顧しています。
2000年からIFFのパリ支部に入社します。IFFでは、彼が学生のころ、フォーミュラの計量をアシスタントしていたジャック・ポルジュの息子であるオリヴィエ・ポルジュ(IFFに1998年‐2014年まで在籍)とも働きます。
2008年にフランソワ・コティ賞を受賞。
2018年にカルロス・ベナイムに次いで、IFF二人目のマスターパフューマーになる。ちなみに、この年に10年ぶりに復活したフランソワ・コティ賞を受賞したのは、彼がメンターをつとめていたエミリー・コッパーマンでありました。
彼は現在、最もスキルのある調香師だろう。そして、ドミニクはいつも新しい考えに対してオープンだ。他のトップパフューマーたちは、常に柔軟な考えとは限りません。
フレデリック・マル
ちなみに…
調香師にとって、花の香りというのは、ジュエラーにとっての宝石と同じくらい価値のあるものです。
ドミニク・ロピオン
・調香師界で「Master of Flowers」と呼ばれています
・好きな原料は、flowerとcashmeran(カシュメラン)と答えている。
・調香師学校ISIPCAでファニー・バルのメンターになり、卒業後、彼女をIFFで正式に弟子にしました。その後、マルに彼女を紹介し、バルは2017年フレデリック マル最初の子供に向けた香水「サル ゴス」を調香しました(この時、まだ29歳だった)。
また、ISIPCAでは、ブルーノ・ジョヴァノヴィックにも教えていました。。
・ラルチザンで多くの作品を残すベルトラン・ドゥショフールは自身の大きなメンターにジャン・ルイ・シュザック、ドミニク・ロピオン、ミシェル・アルメラックを挙げている。
香水というのは多様な感覚を呼び起こす力と果てしないつながりを持っています。なぜなら、つねにそれを纏う人の夢が表現されているからです。
ドミニク・ロピオン
・2018年、「Aphorismes d’un Parfumeur(Aphorisms of a perfumer)」(『調香師の格言』日本語訳はない)を執筆。ドミニクが自身の長いキャリアの中で、ノートに書き留めていたことを出版したもの。ちなみに、序文はフレデリック・マルが書いている。
・常に詩の本を持ち歩き、制限を課しながら素晴らしいものを書くということを自身の調香と重ね合わせている。特に好きなのは、ジョルジュ・ペレック(Georges Perec)である。
香水とは、美に関する一種のメッセージです。香水によってとても深く、とても感情的に感動することができるし、つけている香水で自身を表現することもできる。自身のアイデンティティやパーソナリティの一部にもなる。香水を纏おうと思ったなら、それは自分の一部になることであり、それを纏っているとき、それは他の人に何かを言おうとしているということなのです。
ドミニク・ロピオン
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