ジャック・ゲラン(Jacques Guerlain)──黄昏と物語を香りに変えた、ゲラン三代目

ジャック・ゲランのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「香水作り? それは忍耐の問題です。」

ジャック・ゲラン、マルセル・ビヨによる回想、『Bois de Jasmin』掲載の翻訳、原記事1964年・翻訳公開2014年

生誕:1874年10月7日、フランス・コロンブ。没年:1963年5月2日、パリ。享年88歳。

ロール・ブルー(L’Heure Bleue)、ミツコ(Mitsouko)、シャリマー(Shalimar)。この三つの香水を生み出したのが、ゲラン(Guerlain)三代目の調香師、ジャック・ゲランです。

一方で、作品の知名度に比べると、本人の姿はあまり知られていません。人前で自分を語ることを好まず、創作の内側を詳しく説明する機会も少なかった人物です。残された言葉の多くは、家族や同業者の回想を通じて伝わっています。

そんなジャックが調香について語ったのは、才能を誇る言葉ではなく「忍耐」でした。叔父から受け継いだ香りを少しずつ変え、文学や絵画に心を動かされ、時には数百回の試作を重ねる。その積み重ねから、20世紀の香水を語るうえで欠かせない作品が生まれていきます。

調香史

香りの家に生まれ、人文と化学を学ぶ

ジャックは1874年、パリ北西のコロンブにある一家の邸宅で生まれました。父はガブリエル・ゲラン(Gabriel Guerlain)、母はクラリス(Clarisse)。祖父のピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン(Pierre-François-Pascal Guerlain)が1828年にパリで香水店を開いてから、すでに半世紀近くが過ぎていました。

一家の伝統に従って英国で学び、その後はパリのエコール・モンジュ(École Monge)へ進みます。学んだのは歴史に加え、英語、ドイツ語、ギリシャ語、ラテン語。香りだけに囲まれて育ったのではなく、文学や古典に触れる教育も受けていました。

16歳になると、叔父のエメ・ゲラン(Aimé Guerlain)のもとで調香を学び始めます。エメは、天然香料と合成香料を組み合わせたジッキー(Jicky、1889年)を生み出した人物です。ジャックにとって調香とは、自然を写し取るだけでなく、新しい素材によって自然にはない香りを組み立てる仕事でもありました。

1890年には最初の作品とされるアンブル(Ambre)を制作。その後、パリ大学で化学者シャルル・フリーデル(Charles Friedel)の有機化学研究室に入り、1894年に家業へ正式に加わります。

ちなみに、若いジャックの研究対象は、肌にまとう香水だけではありませんでした。印刷用インクに香りを付ける方法を考案し、香料研究者ジュスタン・デュポン(Justin Dupont)とともに精油の研究も行っています。1897年のローズ油、1898年のバジル油に関する論文は、英国の『ジャーナル・オブ・ザ・ケミカル・ソサエティ(Journal of the Chemical Society)』に掲載されました。

文学を読み、化学を学び、家業の実務を知る。その三つが、後のジャックの仕事を支える土台になっていきます。

1897年には父と兄のピエール・ゲラン(Pierre Guerlain)とともに会社の共同所有者となり、当初は兄弟で経営と調香の役割を交代していました。1899年にジャックが調香の責任を引き受けると、香りを生み出す仕事が、その人生の中心になります。

ベル・エポックの花々と、アプレ ロンデ

1900年のパリ万国博覧会に向けて制作したのが、ヴォワラ・プルコワ・ジェメ・ロジーヌ(Voilà Pourquoi J’Aimais Rosine)です。題名は「だから私はロジーヌを愛した」。ゲラン家と親交のあった女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)の本名、ロジーヌにちなんだ作品でした。

ジャックは、その人が愛した芸術や人物を、香水の名前に残していきます。作品名をたどると、彼の本棚や観劇の記憶が少しずつ見えてくるのです。

1901年のフルール・キ・ムール(Fleur Qui Meurt)ではスミレの香りを探究し、1904年にはムシュワール ドゥ ムッシュー(Mouchoir de Monsieur)とヴォワレット ドゥ マダム(Voilette de Madame)を発表。前者には、叔父のジッキーにつながる男性用香水としての性格が見られます。

そして1906年、アプレ ロンデ(Après l’Ondée)が大きな商業的成功を収めます。名前の意味は「にわか雨の後」。雨が過ぎ去った庭に残る、湿り気を帯びた花々を思わせる作品です。

中心にあるのは、スミレとヘリオトロープの柔らかな組み合わせ。そこへアニスを思わせるアニスアルデヒド、スパイシーなオイゲノール、アイリスの粉っぽさを重ねています。合成香料を使っているからこそ、花の姿をそのまま写すのではなく、雨上がりに感じる気分まで表現できたのかもしれません。

同業のエルネスト・ボー(Ernest Beaux)も高く評価したと伝わるこの作品は、ジャックにとって一つの到達点でした。同時に、その後のロール・ブルーへつながる出発点にもなります。

ロール・ブルー──言葉にならない夕暮れ

1912年のロール・ブルーには、具体的な情景が語り継がれています。

香水史家エリザベット・ド・フェドー(Élisabeth de Feydeau)の紹介によると、1911年の夏のある日の夕方、ジャックは息子とセーヌ川の岸辺を歩いていました。昼の明るさが薄れ、パリの物音が柔らかくなり、空が独特の青に染まっていく。その光と闇の間の時間を、彼は香りにしようとしたといいます。

孫のジャン=ポール・ゲラン(Jean-Paul Guerlain)は、祖父がこの香水について、ヨーロッパを襲う災厄の予感とともに語ったことを回想しています。

「言葉にはできなかった。あまりにも強烈に感じたものを、香水でしか表現できなかったんだ。」

ジャック・ゲラン、ジャン=ポール・ゲランの回想として『Wikipedia』英語版に掲載

ここで伝わってくるのは、未来を正確に予知したという話ではありません。言葉にしにくい不安や美しさを、後に家族がどう受け止めたかという記憶です。

ロール・ブルーは、アプレ ロンデから続く粉っぽい花の表現に、より深く甘い陰影を与えた作品でした。ヘリオトロープやアイリスを思わせる柔らかさと、温かいベース。その香りを、ベル・エポックの終わりに重ねて読む人がいるのも、この誕生の物語があるからでしょう。

戦争を挟んで生まれたミツコ

1914年には、シャンゼリゼ通り68番地の新店舗に合わせ、ル・パルファン・デ・シャンゼリゼ(Le Parfum des Champs-Elysées)を発表します。しかし、華やかな仕事のすぐ後に第一次世界大戦が訪れます。

ジャックも動員され、戦地で頭部を負傷し、片目の視力を失いました。帰還後は自分で車を運転することも乗馬も難しくなり、妻が運転を引き受けるようになります。競馬場で馬を眺め、週末は家族や犬たちと郊外で過ごす。それまでの暮らしにも、変化が生まれました。

戦時中の作品として知られるのが、ジャスミラルダ(Jasmiralda、1917年)です。ウッディなジャスミンを描いた香りで、振付家マリウス・プティパ(Marius Petipa)のバレエ『ラ・エスメラルダ(La Esmeralda)』のヒロインにちなんでいます。困難な時代にも、舞台芸術への愛は作品の中に残っていました。

終戦後の1919年、ジャックはミツコを送り出します。題名は、クロード・ファレール(Claude Farrère)の小説『海戦(La Bataille、1909年)』に登場する日本人女性の名前から取られました。日本の海軍将校の妻でありながら英国人将校を愛し、戦いの行方を待つ女性の物語です。

ジャック自身はアジアを訪れたことがなかったとされます。それでも、小説や美術を通じて日本に関心を抱いていました。ミツコが映すのは、実際の日本をそのまま再現した風景というより、当時のフランス人調香師の想像力を通した日本です。

香りの構造では、オークモスの深みと、桃を思わせるガンマ・ウンデカラクトンの組み合わせが重要です。この素材は香料の世界で「C14」と呼ばれてきました。果実の甘さを前面に押し出すのではなく、シプレの骨格の中に織り込む。その均衡にたどり着くまで、数百回の試作を重ねたと伝えられています。

調香師マルセル・ビヨ(Marcel Billot)は、ミツコを、完成度の高い初期のフルーティ・シプレとして評価しました。後のベルトラン・ドゥショフール(Bertrand Duchaufour)も、シプレを考える際の基準としてこの作品を挙げています。

ロール・ブルーとミツコは、同じ系統のボトルに収められました。フェドーはその姿を、第一次世界大戦の前後を囲む二つの括弧に重ねています。香りは異なっていても、ジャックが経験した時代を挟んで向かい合う作品なのです。

シャリマー──バニラを香水に変える技術

1925年、50歳のジャックは、パリの現代装飾美術・産業美術国際博覧会でシャリマーを発表します。数年をかけて取り組んだこの香水は、彼の名をさらに広く知らしめることになりました。

ゲランが伝える着想源は、ムガル帝国の皇帝シャー・ジャハーン(Shah Jahan)と妃ムムターズ・マハル(Mumtaz Mahal)の愛の物語です。庭園とタージ・マハルに結びつくその物語を、ジャックは濃厚な甘さと奥行きを持つ香りへと移し替えました。

制作をめぐっては、友人のデュポンから得たエチルバニリンを、エメのジッキーに加えたことが出発点になったという逸話があります。ゲラン側の周年紹介にも登場する話ですが、ひと瓶に素材を注いだ瞬間だけで、完成作のすべてが決まったと受け取る必要はありません。ジャックは、その着想を香水として成立させるために試作を重ねています。

香料会社ルール・ベルトラン(Roure-Bertrand)との交流や、新規素材の使用に関する取り決めも、彼の仕事を支えていました。家族の技法を受け継ぐ一方で、ジャックは新しい合成香料にも目を向けていたのです。

バニラの甘さを使いながら、菓子の香りでは終わらせない。その仕事をよく伝えるのが、ボーの言葉です。弟子のオメル・アリフ(Omer Arif)を通じて伝えられています。

「あれほどの量のバニリンがあったら、私たちにはせいぜいシャーベットしか作れなかったでしょう。ゲランは、それで驚くべきものを作ったのです!」

エルネスト・ボー、オメル・アリフに語った言葉として『Wikipedia』英語版に掲載

ベルガモットの明るさ、花々、バニラを軸にした温かいベース。その間にある対比が、シャリマーを単なる甘い香りとは違うものにしています。

ボトルも作品の一部でした。レイモン・ゲラン(Raymond Guerlain)とバカラ(Baccarat)に結びつく、脚のあるクリスタルの器。扇形の青い栓は、香りの物語を視覚でも伝えます。

2025年には誕生100周年を迎えました。世代が変わってもゲランを代表する香水として残っていることに、その持続力が表れています。

甘い香りだけではない──ジェディと、緑の風

シャリマーの翌年に発表したジェディ(Djédi、1926年)は、ジャックの別の顔を見せる作品です。名前は古代エジプトの『ウェストカー・パピルス(Westcar Papyrus)』に登場する魔術師に由来します。

甘く包み込む香りとは対照的に、乾いたレザーやベチバー、動物的な陰影を感じさせる作品として知られます。批評家ルカ・トゥリン(Luca Turin)がアニマリックなベチバーの作品として取り上げたように、ジャックの表現は、柔らかい花とバニラだけに収まるものではありませんでした。

1929年のリウ(Liú)は、ジャコモ・プッチーニ(Giacomo Puccini)のオペラ『トゥーランドット(Turandot)』に登場する少女へのオマージュです。こちらでは、アルデヒドによる明るいフローラルの表現に向かっています。

さらに1930年代には、緑の香りが重要になります。

ヴォル ドゥ ニュイ(Vol de Nuit、1933年)は、日本語で「夜間飛行」。友人でもあったアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry)の同名小説に着想を得た作品です。1931年刊行の小説が描くのは、夜の空を飛ぶ郵便航空の世界でした。

ガルバナムの鋭い緑、ナルシスを思わせる花、アンバーやモスの暗い奥行き。そこにアルデヒドの要素が重なります。ビヨは、この作品でゲランらしい質感と当時のアルデヒドの傾向が結びついたことを評価しました。

続くスー ル ヴァン(Sous le Vent、1934年)は、歌手・舞踊家のジョセフィン・ベーカー(Josephine Baker)のために作られたと伝わる香水です。ビヨはその香りを、朝の野原や、秋の葉と森の土が混じり合う自然の匂いに重ねています。

二つの作品に見られるグリーンノートは、ジャックを保守的な調香師とだけ捉えると見落としてしまう部分です。家の伝統を守りながらも、新しい素材の使い方や、当時として新鮮な香りの方向へ手を伸ばしていました。

香りの質感をつくる、目立たない素材

ジャックのパレットには、ベルガモットやシトロン、マンダリン、オレンジといった良質な柑橘がありました。ローズ、ジャスミン、オレンジブロッサム、イランイランの花々に、クマリン、アイリス、スミレを思わせるイオノン、そしてバニラ。

その一方で、カルダモンやシナモン、クローブ、ナツメグなどのスパイス、バジルやタラゴン、コリアンダーといったハーブも使っています。甘さは、それだけで置かれているのではなく、苦さや青さ、辛さとの関係で形作られていました。

ベンゾインやラブダナムなどの樹脂も重要です。なかでもオポポナックスは、多くの処方に、ごく少量だけ使われたと紹介されています。単体では気づかれなくても、全体の質感に関わる素材でした。

アンバーグリスについても、原料の供給業者に語ったという言葉が残っています。

「あなたはこの素材を、あきれるほど高い値段で売っている。ほとんど何も匂わないのに、これを入れないと、お客は私の香水を気に入らなくなるんだ。」

ジャック・ゲラン、供給業者の証言として『Wikipedia』英語版に掲載、ギー・ロベールの著書を参照

これは、アンバーグリスに実際の匂いがないという説明ではありません。素材を単独で嗅いだ印象と、処方全体に加えたときの働きは違う。その違いに、ジャックが注意を払っていたことを伝える言葉です。

また、香料を一つずつ積み上げるだけでなく、以前の作品を、新しい作品の一部として使うこともありました。キュイール ドゥ ルシー(Cuir de Russie、1935年)には、シプレ ドゥ パリ(Chypre de Paris、1909年)やミツコを組み込んだと伝わります。

こうした方法は、フランス語で「引き出し式の処方」と呼ばれます。過去の作品は完成して終わりなのではなく、後の創作に使える、もう一つのパレットでもあったのです。

ゲルリナードと、過去を更新する仕事

ゲランの香水には、作品ごとの違いを越えて感じられる共通の表情があります。それを示す言葉が、ゲルリナード(Guerlinade)です。

その前史にはエメのジッキーがありますが、ゲランの公式な創作者紹介では、1921年以降の香りのシグネチャーを築いた人物としてジャックが挙げられています。代表的に語られるのは、ベルガモット、ローズ、ジャスミン、アイリス、トンカビーン、バニラの組み合わせです。

ただし、すべての香水へ同じ比率のベースを加えれば完成する、という意味ではありません。作品によって濃淡が変わりながらも、家族のような似た面差しが残る。ジャン=ポールは、それをワインと音楽に例えています。

「偉大なワインの産地がわかるように、あるいは交響曲の作曲家がわかるように、今も続くゲランの印を感じ取ることができるのです。」

ジャン=ポール・ゲラン、『The Perfume Society』による紹介

トゥリンも、ゲランの創作を白紙からの出発ではなく、過去のすべての作品が薄く重なったところから始まる仕事として論じました。その重なりから古い要素を取り除き、新しい要素を加え、時代に合わせて輪郭を整えていくという見方です。

ジャックは、自分の家の作品だけを見ていたわけではありません。同時代のフランソワ・コティ(François Coty)の仕事にも目を向けていました。コティのロリガン(L’Origan、1905年)とロール・ブルー、シプレ(Chypre、1917年)とミツコ、エメロード(Émeraude、1921年)とシャリマーの関係は、香水批評で繰り返し論じられています。

これは、単純にどちらが上かを決める話ではありません。新しい香りの方向を別の調香師が受け止め、自分の感性と技術で異なる作品へ育てていく。香水の歴史は、そうした応答からも作られています。

なお、ゲルリナードは共通する香りの特徴の名称であると同時に、ジャックが制作した香水の名前でもあります。同名香水の年代は1921年と1924年の記録があり、関連するローションの発売年を区別して説明する資料もあります。香りのシグネチャーと、特定の一製品とは分けて考える必要があります。

ちなみに…芸術と家族、そして厳しいひと言

ジャックの暮らしには、香水以外の芸術も数多くありました。パルク・モンソー近くの住まいには、青磁や白磁、フランスの陶器、古い家具や絵画が置かれていました。

とりわけ絵画では、フランシスコ・ゴヤ(Francisco Goya)、エドゥアール・マネ(Édouard Manet)、クロード・モネ(Claude Monet)などの作品を集めています。モネの『かささぎ(La Pie)』も、かつてジャックが所有していた絵の一つです。印象派への関心と、光の移ろいを捉えたロール・ブルーには、確かに響き合うものがあります。

観劇や読書も好きでした。1937年のコック ドール(Coque d’Or)は、ニコライ・リムスキー=コルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov)の『金鶏(The Golden Cockerel)』を、セルゲイ・ディアギレフ(Sergei Diaghilev)が舞台化した作品に着想を得ています。推理小説の愛読者でもありましたが、その趣味は香水の名前にはあまり表れていません。

親しい隣人には、ジャック・ルシェ(Jacques Rouché)がいました。香水会社エル・テ・ピヴェール(L.T. Piver)の経営に携わり、パリ・オペラ座の運営でも知られる人物です。二人は舞台芸術への関心を共有し、香料業界の利益を守る活動でも交流しました。

そして、ジャックにとって身近なミューズだったのが、1905年に結婚した妻アンドレ・ブッフェ(Andrée Bouffet)です。リリという愛称で呼ばれていました。孫に向けた次の言葉は、香水の完成像を、抽象的な市場ではなく具体的な人の姿に結びつけています。

「一つ覚えておきなさい。人はいつも、ともに暮らし、愛している女性のために香水を作るのだ。」

ジャック・ゲラン、ジャン=ポール・ゲランに語った言葉として『Wikipedia』英語版に掲載

一方で、香りへの判断は厳しいものでした。若い調香師ルネ・バシャラック(René Bacharach)は、自信作をジャン=ピエール・ゲラン(Jean-Pierre Guerlain)に渡し、ジャックの意見を尋ねてもらったことを回想しています。戻ってきたジャン=ピエールが伝えた答えは、短いものでした。

「匂いがしない。」

ジャック・ゲラン、ジャン=ピエールを介してルネ・バシャラックに伝わった評言、1948年の回想を『Wikipedia』英語版が紹介

バシャラックは、ジャック本人に会ったわけではないにもかかわらず、この言葉を大きな教訓として記しています。何を欠いていると判断したのか、その詳しい説明までは残されていません。それでも、香料を組み合わせただけでは足りないと突きつけられた経験だったことが伝わります。

二度目の戦争と、孫への継承

第二次世界大戦では、ジャックは末子のピエールを失います。21歳で動員された息子の死に深く傷つき、約2年間、香水の創作を止めたと伝えられています。

1942年にクリス(Kriss)で仕事へ戻り、この作品は1945年にダワメスク(Dawamesk)と改名されました。しかし、以前のような速さで次々に作品を送り出すことは少なくなります。

晩年のジャックは、レ・メニュル(Les Mesnuls)の邸宅で、花壇や果樹園、日本庭園の手入れに時間をかけました。戦時中には、そこで育てた果物や野菜を工場の従業員へ届けていたとも伝わります。

それでも、創作の火が消えたわけではありません。フルール ドゥ フー(Fleur de Feu、1948年)、そして画家ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の終焉の地、アトゥオナにちなんだアトゥアナ(Atuana、1952年)を制作します。

1955年のオード(Ode)は、孫のジャン=ポールと手がけた、ジャックの最後の主要作とされます。花々を中心にしたこの香りは、庭を愛した祖父から、次の世代へ手渡された仕事でもありました。

1956年には、写真家ウィリー・ロニス(Willy Ronis)が、実験室と郊外の邸宅にいるジャックを撮影しています。『エールフランス・ルヴュ(Air France Revue)』のための写真で、公の場に出ることの少なかった彼の仕事と暮らしを伝える貴重な記録です。

1962年発売のシャン ダローム(Chant d’Arômes)の制作過程にも、祖父と孫のやり取りが伝わっています。ただし、ゲランが作品の調香師として紹介するのはジャン=ポールです。ジャックの晩年の関与と、完成作の作者名は分けて捉える必要があります。

その時期に、ジャックは孫へこう語ったといいます。

「残念ながら、私にはもう、年配の女性のための香水しか作れない。」

ジャック・ゲラン、ジャン=ポール・ゲランの回想として『Wikipedia』英語版に掲載、『La route de mes parfums』を参照

年配の人の香水が劣るという意味で読むより、自分の感性と、新しい世代の求めるものとの距離を認めた言葉と受け止めたいところです。伝統を長く担った調香師も、次の世代に仕事を委ねる時を迎えていました。

ジャックは転倒による大腿骨の骨折後に衰弱し、1963年5月2日、パリで亡くなります。葬儀はサン=フィリップ=デュ=ルール教会で行われ、父と息子の眠るパッシー墓地に埋葬されました。

残された香りが語り続ける

ジャックはレジオンドヌール勲章のシュヴァリエを受章し、香水の仕事以外では、1932年にフランス銀行の監査に携わる立場にも就いています。その後およそ20年、委員または顧問として関わりました。

しかし、後世へ最も明確に残ったのは、やはり香水です。知られている作品は80以上。試作や限られた用途のものまで含める推計では、300作から400作に及ぶと紹介されることもあります。

2014年には、ティエリー・ワッサー(Thierry Wasser)がゲランを代表して、歴史的な作品の原型を香水保存館オスモテーク(Osmothèque)へ寄贈しました。ワッサーとフレデリック・サコーヌ(Frédéric Sacone)が約50のヴィンテージ作品を再調し、シャンゼリゼの店舗で紹介する取り組みも行われています。

同時代の調香師ビヨは、その仕事の特徴をこうまとめました。

「伝統に沿って生きながら、それでも自分の時代に応えることを知っていた天才。」

マルセル・ビヨ、『Bois de Jasmin』掲載の翻訳、原記事1964年・翻訳公開2014年

昔の香りを、そのまま守った人ではありません。受け継いだ素材と技法を使いながら、自分が見た夕暮れ、読んだ小説、経験した時代を加えていった人です。ジャックが多くを語らなかった分、その作品を嗅ぐことが、彼を知るための大切な入口になっています。

調香作品

主な作品を年代順にまとめています。年は初期作品の発表年を基本とし、後年の濃度違い・復刻版とは区別しています。シャン ダロームはジャックが制作過程に関わったと伝わるため掲載していますが、公式の作者名はジャン=ポール・ゲランです。

ブランド 作品名 共同調香師
1890 ゲラン アンブル 記録なし
1895 ゲラン ル・ジャルダン・ド・モン・キュレ(Le Jardin de Mon Curé) 記録なし
1898 ゲラン ア・トラヴェール・シャン(À Travers Champs) 記録なし
1898 ゲラン ツァオ・コ(Tsao Ko) 記録なし
1899 ゲラン ディ・ペタル・ド・ローズ(Dix Pétales de Rose) 記録なし
1900 ゲラン ヴォワラ・プルコワ・ジェメ・ロジーヌ 記録なし
1901 ゲラン フルール・キ・ムール 記録なし
1902 ゲラン ボン・ヴュー・タン(Bon Vieux Temps) 記録なし
1904 ゲラン ムシュワール ドゥ ムッシュー 記録なし
1904 ゲラン ヴォワレット ドゥ マダム 記録なし
1906 ゲラン アプレ ロンデ 記録なし
1907 ゲラン シヤージュ(Sillage) 記録なし
1908 ゲラン ミュゲ(Muguet) 記録なし
1909 ゲラン シプレ ドゥ パリ 記録なし
1910 ゲラン カン・ヴィアン・レテ(Quand Vient l’Été) 記録なし
1911 ゲラン カディーヌ(Kadine) 記録なし
1911 ゲラン プール・トルブレ(Pour Troubler) 記録なし
1912 ゲラン フォル・アローム(Fol Arôme) 記録なし
1912 ゲラン ロール・ブルー 記録なし
1912 ゲラン ヴァーグ・スヴニール(Vague Souvenir) 記録なし
1914 ゲラン ル・パルファン・デ・シャンゼリゼ 記録なし
1917 ゲラン ジャスミラルダ──『ラ・エスメラルダ』に着想を得たウッディ・ジャスミン 記録なし
1919 ゲラン ミツコ 記録なし
1920 ゲラン オー ド フルール ド セドラ(Eau de Fleurs de Cédrat) 記録なし
1922 ゲラン ブーケ・ド・フォーヌ(Bouquet de Faunes) 記録なし
1922 ゲラン カンディード・エフリューヴ(Candide Effluve) 記録なし
1924年頃 ゲラン ゲルリナード──1921年とする資料もあり 記録なし
1924 ゲラン ジャスマン(Jasmin) 記録なし
1925 ゲラン シャリマー 記録なし
1926 ゲラン ジェディ 記録なし
1929 ゲラン リウ 記録なし
1933 ゲラン ヴォル ドゥ ニュイ 記録なし
1934 ゲラン スー ル ヴァン 記録なし
1935 ゲラン キュイール ドゥ ルシー──19世紀の同名作品とは区別 記録なし
1936 ゲラン ヴェガ(Véga) 記録なし
1937 ゲラン カシェ・ジョーヌ(Cachet Jaune) 記録なし
1937 ゲラン コック ドール──リムスキー=コルサコフ『金鶏』のディアギレフによる舞台化に着想 記録なし
1942 ゲラン クリス──1945年にダワメスクへ改名 記録なし
1948 ゲラン フルール ドゥ フー 記録なし
1952 ゲラン アトゥアナ 記録なし
1953 ゲラン シプレ53(Chypre 53) 記録なし
1955 ゲラン オード ジャン=ポール・ゲラン
1962 ゲラン シャン ダローム ジャン=ポール・ゲランの作品。ジャックの関与は伝記に記載

参考文献