エルネスト・ボー(Ernest Beaux)──北の記憶を、シャネルの香りへ

エルネスト・ボーのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「私にとって調香は芸術であり、真の調香師は芸術家でなければなりません。」

エルネスト・ボー「調香師の思い出」、1946年。オスモテーク協力による英訳掲載

1881年12月7日生まれ、1961年6月9日没。誕生日には12月8日とする資料もあります。

シャネル N°5(CHANEL N°5)をつくった調香師。その一言で、エルネスト・ボーの名前を知った人は多いでしょう。しかし、その仕事の出発点はパリではなく、帝政ロシアのモスクワでした。

石鹸工場で原料に触れ、フランスとロシアの間で戦争を経験し、南仏で再び調香に戻った人です。そして、生涯を通じて香水を芸術として考えながら、その未来を化学者に託した人でもありました。

ボーの作品をつなぐのは、花の豊かさと、それを持ち上げるアルデヒドの明るさです。N°5だけでなく、木の温もり、革の陰影、パリの夜を表した作品にも、その組み合わせが異なる姿で現れます。

調香史

モスクワの石鹸工場で始まった学び

ボーはモスクワのスシェヴォに生まれました。父のエドゥアール・イポリット・ボー(Edouard Hyppolite Beaux)は、香料・化粧品会社ラレー(A. Rallet & Co.)で働くフランス人でした。パフューム・プロジェクツ(Perfume Projects)は、父を主任調香師であり取締役でもあったと紹介しています。母のオーギュスティーヌ・ヴィルヘルミナ・ミスフェルト(Augustine Wilgemina Misfeld)はリール出身でした。

異母兄のエドゥアール・フランソワ(Edouard François)もラレーで経営に携わっています。フランスに由来する家族が、ロシアの香水産業の中に根を下ろしていたのです。

1898年、学校を終えたボーはラレーの石鹸部門で実験室助手として働き始めます。香水から遠回りしたように見えますが、原料の性質と製品の中での働きを知る、実務的な入り口でした。

1900年からフランスで兵役に就き、1902年にモスクワへ戻ると、本格的な調香の訓練が始まります。師となったのは、技術責任者のA・ルメルシエ(A. Lemercier)。新しい香料だけでなく、社会や文化の変化にも目を向けるよう促した人物と伝えられています。

1907年には技術部門を担い、取締役会の一員となりました。ボーは後年の回想でも、最初の創作をこの年に置いています。作品名は分かりませんが、若い調香師が自分の処方で仕事を始めた時期として残っています。

帝政ロシアの記念香水と、アルデヒドへの関心

最初の大きな成功は、1912年のブーケ・ド・ナポレオン(Bouquet de Napoléon)でした。ボロジノの戦いから100年を記念した、ラレーの香水です。ボー自身も回想で、その商業的な成功を振り返っています。

翌1913年には、ロマノフ朝300年に結びつけられるブーケ・ド・カトリーヌ(Bouquet de Catherine)を手がけたとされます。こちらは同じ成功には至りませんでした。カトリーヌ大帝のドイツ系の出自と、戦争前夜の対独感情を理由に挙げる解説もありますが、販売不振の原因を一つに確定することはできません。

この時期に重要なのが、ウビガン(Houbigant)のケルク フルール(Quelques Fleurs、1912年)との出会いです。フランスの調香師ロベール・ビアネメ(Robert Bienaimé)がつくったこの香水に刺激を受け、ボーはアルデヒドを使った表現を研究していきます。

アルデヒドは、ひとつの香料名ではなく、化合物の一群を指す言葉です。ボーの仕事で重要になるのは、花の香りに明るさや拡がりを与える脂肪族アルデヒドでした。N°5がすべての始まりなのではありません。モスクワ時代から続く実験が、その背後にあったのです。

戦争を通り抜け、南仏へ

1914年、第一次世界大戦が始まると、ボーはフランス軍に入ります。従軍は短期間で終わらず、ロシア革命後の北方ロシアへの介入にも及びました。

孫娘ナタリー・ボー(Nathalie Beaux)の著書『ソン・パルファン(Son parfum)』を紹介するブライアン・ブキャナンの記事には、化学兵器工場の事故で入院したこと、キエフで文書の処分や避難の支援にあたったことなどが記されています。こうした細部は後世の家族史を通じた話として読む必要がありますが、ボーの戦時経験が平穏なものではなかったことを伝えています。

また、北方ロシアで情報・尋問業務に関わったことを記す資料もあります。香水史では、この従軍が美しい「北の香り」の逸話として語られがちです。しかし、その背景には戦争と革命がありました。

本人の回想に残るのは、白夜の湖と川が放つ、鮮烈な清涼感です。

「私は北極圏を越えた北ヨーロッパでの戦役に参加しました。白夜の季節、湖や川はきわめて清々しい香りを放っていました。私はその香りを記憶にとどめ、再現しました。最初に手に入ったアルデヒドは不安定で、品質にもばらつきがあったため、簡単なことではありませんでした。」

エルネスト・ボー「調香師の思い出」、1946年。ボワ・ド・ジャスマン掲載の英訳

1919年、軍務を終えたボーはフランスへ生活の拠点を移します。ラレーの同僚たちもロシアを離れ、カンヌ近郊のラ・ボッカに集まっていました。ラレーは1898年からグラースの香料会社シリス(Chiris)の傘下にあり、ボーはそこで再び研究室に戻ります。

ガブリエル・シャネルが選んだ「5」

1920年頃、ボーとガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel)が出会います。仲介役として伝えられているのは、シャネルと親しかったドミトリー・パヴロヴィチ大公(Dmitri Pavlovich)です。ラスプーチン暗殺に関与したロマノフ家の大公で、革命後には西欧で暮らしていました。

シャネルが求めたのは、自然の花をそのまま写しただけの香水ではありませんでした。服を仕立てるように、人の手で組み立てられた香りです。

ボーの回想によると、持参した試作品は「1から5」と「20から24」の二つの系列でした。シャネルが選んだものの一つが、5番です。名前を尋ねられたシャネルは、5という数字をそのまま残すことにしました。

N°5は1921年に発表・発売されます。初期に限られた顧客へ贈られたという話もありますが、発売を1922年まで遅らせる説明は、シャネル公式の年表とは一致しません。

1922年、ボーは友人ウジェーヌ・シャラボ(Eugène Charabot)のパリでの代理店業に移ります。しかし1924年、パルファン シャネル(Société des Parfums CHANEL)の設立に伴い、メゾン最初の専属調香師となりました。以後、シャネルとブルジョワ(Bourjois)のために創作を重ねます。

N°5──花をほどき、ひとつの香りにする

N°5の革新を、アルデヒドの量だけで説明することはできません。ローズやジャスミン、イランイランなどの豊かな花の香りを、特定の一輪とは違う印象へまとめたところに、ボーの構成力があります。

花の厚みがありながら、立ち上がりは明るく、どこか冷たい。アルデヒドの存在が、フローラルを単純な花束では終わらせません。ボーの北の記憶を、そのまま写した風景として嗅ぐ必要はないでしょう。大切なのは、本人が記憶した清涼感を、具体的な素材の組み合わせへ変えたことです。

後年の製品説明にはグラース産ジャスミンやメイローズが登場しますが、現行品の原料情報を、そのまま1921年の処方と同一視することはできません。また、アルデヒドの配合率として流通する数値にも、試作品、分析対象、再現処方の違いがあります。ボーの仕事の特徴は、特定の数字ではなく、当時として大胆な使い方にありました。

N°5の成功は、アルデヒド・フローラルという表現を広く知らしめました。後のランバン(Lanvin)のアルページュ(Arpège)などを考えるうえでも欠かせません。ただし、後続作品をすべてN°5の派生と見るより、それぞれの調香師がこの新しい表現をどう展開したかに注目したいところです。

N°22、ガーデニア、ボワ デ ジル──異なる素材に現れる署名

シャネル N°22(CHANEL N°22、1922年)は、N°5と近い出発点から、チュベローズを中心とするパウダリーな花の表情へ進んだ作品です。シャネル公式は、その名を1922年の創作に結びつけています。白い花の存在感が、ボーのもう一つの顔を見せてくれます。

続くガーデニア(Gardénia、1925年)では、シャネルの象徴でもある白い花の世界を扱いました。身近な花をただ瓶に閉じ込めるのではなく、その印象を調香によって組み立てる。ここにも、自然と創作の距離があります。

1926年のボワ デ ジル(Bois des Îles)では、サンダルウッドが大きな役割を担います。木の温かさに花やスパイス、アルデヒドが重なり、華やかさと包み込むような柔らかさが両立します。女性向けのウッディ香水を語るうえで、先駆的な作品の一つです。

チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)の歌劇『スペードの女王』に着想したという話も専門媒体で紹介されています。ただし、ボーの1946年の回想が、この作品と歌劇の関係を直接説明しているわけではありません。作品の伝説と、本人が確かに語った芸術への関心は、分けて読む必要があります。

キュイール ドゥ ルシー──ロシアを思わせる革の陰影

キュイール ドゥ ルシー(Cuir de Russie)は、シャネルの公式年表では1927年発売です。1924年とする二次資料もありますが、ここでは公式の年を基準にします。

名前は「ロシアの革」。ロシアの兵士がブーツの防水に用いた白樺のタールが、香りと名前の背景にあります。革の乾いた陰影を、ジャスミンやローズなどの花が包みます。強さとしなやかさのどちらか一方に偏らないところが、ボーらしい作品です。

ロシア生まれの調香師と、ロシア文化に親しんだシャネル。その接点を思わせる香水ですが、伝記上の恋愛をそのまま処方の説明に置き換える必要はありません。香りの中にある革と花の対比だけでも、十分にその複雑さが伝わります。

ソワール ド パリ──青い瓶に収めた、もう一つの華やかさ

ブルジョワのソワール ド パリ(Soir de Paris/Evening in Paris、1929年)は、コバルトブルーの瓶でも親しまれた作品です。シャネルとは異なる価格帯で、パリの華やかなイメージを多くの人に届けました。

評論家のヴィクトリア・フロロヴァ(Victoria Frolova)は、この作品の変化を次のように描いています。

「ソワール ド パリは、ひとつのノートから別のノートへ、ただ飛び移るのではありません。きらめきながら、ある瞬間には胡椒を思わせる柑橘と緑の葉を、次の瞬間にはビロードのようなローズと木の削りくずを見せるのです。」

ヴィクトリア・フロロヴァ、ボワ・ド・ジャスマン「Perfumers on Perfume: Ernest Beaux on Fragrance Masterpieces」、2013年

ボーの作風は、アルデヒドという一つの素材名だけでは捉えきれません。素材の表情が移り変わる中で、作品全体の優雅さを保つことにも、その技術は現れています。

香水は芸術、だからこそ素材を学ぶ

ボーにとって「香水は芸術」という言葉は、感性だけでつくればよいという意味ではありませんでした。むしろ、芸術として成立させるためには、原料を深く知る必要がありました。

「音楽家がまず音符と音階を学び、画家がまずデッサンと色彩を学ぶように、調香師は原料を知らなければなりません。香りを分析し、嗅ぎ分ける訓練をし、これまで嗅いだあらゆる物質を記憶に刻み込むのです。その中からいくつかの素材を選び、自分のパレットをつくり上げます。」

エルネスト・ボー「調香師の思い出」、1946年。オスモテーク協力による英訳掲載

そして、そのパレットから、自分だけの組み合わせが生まれます。

「画家が作風を変えても自分のパレットを保つように、調香師も、好んで使う素材の組み合わせによって際立つことができます。調香師は自分のための『基本となるアコード』をつくり、特定の場合に使うことで、創作を進めやすくするのです。」

エルネスト・ボー「調香師の思い出」、1946年。オスモテーク協力による英訳掲載

花とアルデヒドの関係を、作品ごとに変奏していく。その仕事を考えると、この言葉は抽象的な美学ではなく、具体的な制作方法として聞こえてきます。

1953年のタイム誌の取材を引用した資料では、さらに音楽の比喩が登場します。

「音楽を書くようなものです。各成分には、決まった音の価値があります。ワルツも、葬送行進曲も書けるのです。」

エルネスト・ボー、タイム誌の取材、1953年。英語版Wikipediaに再録された発言

同じ取材では、単体では心地よくない香りの働きを、料理の塩や胡椒になぞらえています。記事には、ボーが処方を紙に書き、その結果を頭の中で思い描く姿も記されています。実際の試作や評価が不要という教えではなく、素材の記憶がどれほど身についていたかを伝える逸話です。

そして、芸術家の未来を支えるのは、新しい素材を生み出す化学者でした。

「香水の未来は化学者の手にあります。新しい独創的なアコードをつくるには、新しい化学物質を見つけてくれる化学者に頼らなければなりません。」

エルネスト・ボーの発言として、英語版Wikipedia「Ernest Beaux」に掲載

ラレー N°1という、作品の記憶

N°5の系譜を調べた研究として、フィリップ・クラフト(Philip Kraft)、クリスティーヌ・レダール(Christine Ledard)、フィリップ・グーテル(Philip Goutell)が2007年に発表した論文があります。ラレー N°1(Rallet N°1)などの古い香水を分析し、再現を試みたものです。

論文は、ラレー N°1とN°5の間に、アルデヒド、花、ウッディな余韻からなる近い構想を見いだしています。ただし、それは二つが同じ処方であるという意味ではありません。戦前のモスクワでの探究が、戦後のフランスで別の作品へ発展した、と読むことができます。

この研究は、1946年頃のマドモワゼル シャネル N°1(Mademoiselle Chanel N°1)にも注目しています。分析した構成にボーとの共通性を見いだし、作者ではないかと推測していますが、ボーが制作を認めたという確証はありません。研究者の仮説と、確定した作品クレジットを混同しないことが大切です。

晩年と、芸術を愛した素顔

1954年、シャネルの主任調香師はアンリ・ロベール(Henri Robert)へ引き継がれます。ボーがその後どこまで関与したか、実際の退任がいつだったかには、資料間で違いがあります。1960年までの関与と解雇を記す回顧資料もありますが、最期を「失意の死」とだけ描くのは慎重であるべきでしょう。

ボーは1961年、パリで亡くなりました。葬儀の教会がバラで飾られたという逸話が伝えられています。

その人柄を知る手がかりは、1946年の回想の末尾にもあります。創作に影響したものとして、フランスとロシアの文学、音楽、美術、演劇を挙げているのです。プーシキン(Alexander Pushkin)、トゥルゲーネフ(Ivan Turgenev)、ドストエフスキー(Fyodor Dostoevsky)。音楽ではベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、ドビュッシー(Claude Debussy)、ボロディン(Alexander Borodin)、ムソルグスキー(Modest Mussorgsky)でした。

帝国劇場のバレエ、モスクワ芸術座、セロフ(Valentin Serov)、レヴィタン(Isaac Levitan)、レーピン(Ilya Repin)の絵画も登場します。香水の外にある多くの芸術を、ボーは自分のパレットの背景に置いていたのでしょう。

香水でも、先人の作品への敬意を率直に語っています。ゲラン(Guerlain)のジッキー(Jicky)、アプレ ロンデ(Après l’Ondée)、ルール ブルー(L’Heure Bleue)。コティ(Coty)のラ ローズ ジャックミノー(La Rose Jacqueminot)とロリガン(L’Origan)。カロン(Caron)のナルシス ノワール(Narcisse Noir)、ランバンのスキャンダル(Scandal)とアルページュなどです。

これに加えて、バイリー(Bayley)のエッセンス ブーケ(Ess. Bouquet)、リュバン(Lubin)のシプレ(Chypre)、ピヴェール(Piver)のトレフル アンカルナ(Le Trèfle Incarnat)、ロジェ・ガレ(Roger & Gallet)のヴェラ ヴィオレッタ(Vera Violetta)も回想に残っています。

自分の創作を誇りながら、他者の作品を記憶し、素材を学び続ける。ボーのいう芸術家とは、そんな調香師だったのです。

調香作品

発売年と創作年、後年の再発売を混同しないよう、シャネル作品は公式年表を優先しています。共同調香師の「記録なし」は、助手の関与まで否定する意味ではありません。

年 ブランド 作品名 共同調香師・帰属の注記
1912 ラレー ブーケ・ド・ナポレオン 記録なし
1913頃 ラレー ブーケ・ド・カトリーヌ 年・系譜に資料差あり
1910年代 ラレー ラレー N°1 正確な初出年は未確定
1920頃 ラレー ル ガーデニア(Le Gardénia) 記録なし
1921 シャネル シャネル N°5 記録なし
1922 シャネル シャネル N°22 公式の創作・発表年
1925 シャネル ガーデニア 記録なし
1926 シャネル ボワ デ ジル 記録なし
1927 シャネル キュイール ドゥ ルシー 公式発売年。1924年説もあり
1929 ブルジョワ ソワール ド パリ 1928年とする資料もあり
1932/1935 ブルジョワ フラム(Flamme) 年・作者帰属に資料差あり
1936 ブルジョワ コバコ(Kobako) ボーの回想で自身の作品と確認
1946頃 ガブリエル・シャネル マドモワゼル シャネル N°1 ボーへの帰属は研究者の仮説
1955 ブルジョワ プルミエ ミュゲ(Premier Muguet) ボー作とする作品資料あり

コンスタンティン・ヴェリギン(Constantin Weriguine)はボーと働いた調香師ですが、助手としての関与と、コバコの共同作者としての明示的なクレジットは区別しています。

参考文献