「私にとって、香水には独自の言語があります。私は原料を言葉として捉えています。」
── アレクサンドラ・カルラン(本人インタビューより、日本語訳)
1979〜1980年頃生まれ。2016年の記事にある「36歳」という年齢からの推定で、正確な生年月日は公表資料では確認されていません。
小説家になるつもりだった少女が、ある日ラジオから流れてきた声をきっかけに調香師を目指します。その声の主は、後に自分を香料会社へ迎え入れる師匠でした。
アレクサンドラ・カルランは、アムアージュ(Amouage)の「オナー ウーマン(Honour Woman)」、ビーディーケー パルファム(BDK Parfums)の「ヴェルベット トンカ(Velvet Tonka)」、ラルチザン パフューム(L’Artisan Parfumeur)の「トンカ ブラン(Tonka Blanc)」などを手がけたフランスの調香師です。文学への憧れは、香水の世界に入ってからも消えませんでした。言葉の代わりに原料を選び、誰かの記憶や風景を、肌の上で読める物語へと変えていきます。
調香史
文学少女を変えた、ラジオの向こうの声
カルランはパリに生まれ育ちます。幼い頃の香りの記憶には、母が髪につけてくれたムステラ(Mustela)がありました。自分で初めて買った香水は、ザボディショップ(The Body Shop)の「ホワイトムスク(White Musk)」。初恋の相手を思い出す香りは、ディオール(Dior)の「ファーレンハイト(Fahrenheit)」です。
ただし、香水を仕事にするとは考えていませんでした。文学を学び、小説家やジャーナリストになることを思い描いていたのです。
転機は、文系のバカロレアを控えた18歳頃に訪れます。ラジオ局フランス・アンテール(France Inter)で、ある調香師が自分の仕事を語っていました。香りをつくることの自由と創造性。その話を聞いたカルランは、この職業に進もうと決めます。
しかし、文学の勉強だけでは調香学校には入れません。科学科目を学び直し、大学で化学を修め、ヴェルサイユの調香学校イジプカ(ISIPCA)へ進みます。文学から香水へ移るために、まず化学という別の言語を身につける必要があったのです。
ディオール、ロベルテ、そしてモーリス・ルーセル
イジプカ在学中、カルランはパルファン・クリスチャン・ディオール(Parfums Christian Dior)で研修を受け、香りを評価する仕事に触れます。「ディオール オム(Dior Homme)」や「ピュア プワゾン(Pure Poison)」が生まれる現場を経験したことも、後の所属会社によって紹介されています。
続いて向かったのは、グラースのロベルテ(Robertet)でした。もともとは3か月の研修の予定でしたが、滞在は数年に及びます。天然原料に触れながら、その香りが持つ複数の表情を学んでいく時期です。
最初に採用された香りは、意外にも香水ではなく、ランコム(Lancôme)のリップグロス用のマシュマロの香りでした。イジプカの卒業制作でオレンジブロッサムを研究していた際に生まれた組み合わせを、口に触れる製品に使える処方へ調整したものです。後年、菓子や料理から香水を発想するカルランの仕事に通じる、初期のエピソードといえるでしょう。
そして2007年、モーリス・ルーセル(Maurice Roucel)に採用され、シムライズ(Symrise)に加わります。ルーセルは、原料の扱い方や自由な発想を学ぶ師となりました。
カルランが、かつてラジオで聞いた調香師の正体を知るのは、入社してからさらに約10年後のことです。本人との会話を通じて、あの日の声がルーセルだったと分かります。調香師を志すきっかけを与えた人物と、その後の道を開いた人物が同じだったのです。
原料の名前だけでなく、感情から香りを探す
カルランは、原料を単に花、木、スパイスといった種類で記憶するだけではありません。そこから感じる情景や感情も、言葉として蓄えていきます。
イジプカで教わったイザベル・ドワイヤン(Isabelle Doyen)は、感覚を見出しにして原料を整理する「逆引き辞典」を勧めました。たとえば「苦さ」という言葉の下に、その感覚を生み出す原料を集めます。カルランにとって言葉は、香りを説明した後に添えるものではなく、香りを考え始める入口なのです。
その発想は、原料との出会い方にも表れています。2014年、マダガスカルで生姜のエッセンスを嗅いだとき、カルランの記憶によみがえったのは、インドで飲んでいた蜂蜜入りの生姜レモンの飲み物でした。映画『レミーのおいしいレストラン(Ratatouille)』で、ひと口の料理から記憶が呼び起こされる場面に重ねて、その体験を語っています。
搾りたての根のように鮮やかで、レモンやバーベナを思わせる生姜。その素材は、後にジュース(J.U.S)の「ジンジャーリズ(Gingerlise)」や、ダビドフ(Davidoff)の「ラン ワイルド(Run Wild)」へとつながっていきます。
シムライズでの経験を、新しい場所へ
シムライズでは、ニッチブランドから広く流通するブランドまで、さまざまな依頼を手がけます。作品ごとの条件は違っていても、何を伝える香りなのかを考えるところから始める姿勢は変わりません。
2019年には、サントル・デュ・リュクス・エ・ドゥ・ラ・クレアシオン(Centre du Luxe et de la Création)が主催する賞で、セデュクシオン部門(Talent de la Séduction)を同時受賞します。受賞者紹介では、ジバンシィ(Givenchy)の「イモーテル トライバル(Immortelle Tribal)」や「オナー ウーマン」が挙げられ、文学と香水を結びつける創作姿勢が紹介されました。
2024年11月には、アイ・エフ・エフ(IFF/International Flavors & Fragrances)のパリのチームに、シニア調香師として加わります。新しい会社への移籍について、カルランは新しい原料のパレットを通して別の言語を学ぶようなものと説明しています。長く培った自分の書き方を持ちながら、使える言葉はまだ増えていく。その姿勢は、文学から香水へ進んだ頃と変わらないのかもしれません。
代表作とその背景
オナー ウーマン(2011)──白い花で語る『蝶々夫人』
「オナー ウーマン」は、ヴィオレーヌ・コラス(Violaine Collas)との共同作品です。オペラ『蝶々夫人』の悲劇に着想を得て、白い花々と樹脂を組み合わせています。
ルバーブ、ペッパー、コリアンダーが導入をつくり、チューベローズ、ジャスミン、ガーデニア、スズラン、カーネーションが重なります。その下には乳香、オポポナックス、ベチバー、レザーなどが置かれ、花の明るさだけでは終わらない陰影を与えています。
物語を説明文に添えるだけでなく、花と樹脂の対照で感情を組み立てる。カルランの人物像を知るうえで、初期から欠かせない作品です。
2021年には、同作を高濃度で再解釈した「オナー 43 ウーマン(Honour 43 Woman)」にも携わっています。こちらは香水データベースではカルランの名前で登録されており、2011年の共同制作と区別して扱う必要があります。
チャイ ムスク(2016)とジンジャーリズ(2018)──生姜が開く風景
ボンベイ パフューマリー(Bombay Perfumery)の「チャイ ムスク(Chai Musk)」では、お茶の香りにレモングラスや生姜、温かなミルク、サンダルウッドの印象を重ねました。旅と飲み物の記憶を、身につける香りへと移した作品です。
一方、「ジンジャーリズ」は、生姜を柑橘のように働かせた香水です。2017年に新しい組み合わせを求められて提案した処方が、2018年に発売されます。ベルガモットやマンダリンの鮮やかさを生姜が押し広げ、アンジェリカ、ミント、カブリューバの木などが青緑色の景色をつくります。
同じ生姜でも、温かな飲み物へ向かうことも、清々しいコロンのような方向へ向かうこともできます。原料を一つの役割に閉じ込めないところに、カルランの素材への好奇心が見えます。
ヴェルベット トンカ(2021)──モロッコの菓子から始まった香り
ビーディーケー パルファムの創業者、デヴィッド・ベネデック(David Benedek)は、自身のモロッコのルーツに捧げる香りを求めていました。そこでカルランが差し出したのは、アーモンドを使った菓子「ガゼルの角(corne de gazelle)」を思わせる香りの組み合わせです。本人の回想によれば、それを嗅いだベネデックの表情が明るくなり、幼い頃の記憶が呼び起こされたといいます。
中心に置かれたのは、アーモンド、バニラ、干し草のような表情を持つトンカビーンでした。オレンジブロッサムとローズが柔らかさを添え、タバコ、バニラ、アミリスウッド、アンバーウッドが深みをつくります。
公式サイトで、カルランはこの素材について次のように語っています。
「トンカビーンの香りは、私にとっていつもプルーストのマドレーヌを思い起こさせます。」
甘いお菓子の再現だけで終わらず、その向こうにある記憶や懐かしさまで描こうとした作品なのです。
キョウト(2021)──花だけでは描かない京都
ディプティック(Diptyque)の「キョウト(Kyoto)」は、京都に着想を得た限定作品です。香りの中心は、ローズ、ビーツ、ベチバー、乳香という組み合わせにあります。
ローズの花の印象に、ビーツやベチバーの土を思わせる表情、乳香の静かな響きが重なります。花だけを取り出すのではなく、その周囲の植物や地面も含めて風景をつくる。野菜を香水の表現へ取り入れるカルランの一面は、「トンカ ブラン」に先立つこの作品にも見つけられます。
同じ2021年には、メゾン マルジェラ(Maison Margiela)の「レプリカ マッチャメディテーション(Replica Matcha Meditation)」も手がけています。場所やひとときの印象を香りへ置き換える仕事は、カルランの活動の大切な柱です。
トンカ ブラン(2022)──カリフラワーを香水の主役に
ラルチザン パフュームの「菜園(Le Potager)」コレクションから登場した「トンカ ブラン」は、カリフラワーとトンカビーンを組み合わせた作品です。
発想のもとになったのは、料理家ジェニファー・ハート=スミス(Jennifer Hart-Smith)がつくるカリフラワー入りのチーズケーキでした。カリフラワーが、バニラやココナッツ、トンカビーンのような甘い素材と自然になじむ。そのおいしさを、カルランは香りの構成へ持ち込もうとします。
使用したのは、シムライズのシムトラップ(SymTrap)技術によるカリフラワー抽出物です。食品産業の副産物から得られるこの素材には、クリーミーな面だけでなく、硫黄を思わせる癖や、焼いた野菜のような表情もあります。
ベルガモットとマンダリンの明るさから、オレンジブロッサムや木々、トンカビーンへ。カルランはカリフラワーの個性を隠すのではなく、アミリスウッドなどと結びつけて、甘さと香ばしさに居場所をつくりました。
発売時には天然の野菜抽出物を用いた先駆的な香水として紹介されています。ただし、それ以前に野菜を思わせる香りが存在しなかったという意味ではありません。新しさは、野菜という着想と、実際に得られる新しい抽出原料が結びついた点にあります。
ディア 40 ウーマン(2023)──受け継いだ香りに奥行きを加える
アムアージュの「ディア 40 ウーマン(Dia 40 Woman)」では、既存の「ディア ウーマン(Dia Woman)」を、香料濃度40%のエクストレとして再解釈しています。
アルデヒドとムスクの明るい導入に、ローズ、オレンジブロッサム、カーネーション、イランイランが続きます。終盤ではオリス、サンダルウッド、アミリスウッドなどが花々を支えます。元の香りの優雅さを受け継ぎながら、ベースにより深い表情を持たせた作品です。
同年には、ブランド40周年を記念する「クリスタル&ゴールド ウーマン(Cristal & Gold Woman)」も発表されています。カルランは新しい素材の意外性だけでなく、古典的なアルデヒド・フローラルの構造にも取り組んでいるのです。
ちなみに…
- インド舞踊や旅、菓子づくりも、カルランの発想を支えるものとして紹介されています。読むことと嗅ぐことだけでなく、身体で感じる経験も大切にしています。
- 2020年のインタビューでは、天然か合成かで原料を分け隔てせず、新しい素材の役割を探ることが好きだと説明しています。アンブロキサン(Ambroxan)も、よく使う素材の一つです。
- 原料の香りだけでなく、その背景にも関心を持っています。マダガスカルの生産者と直接会い、名前で呼び合える関係があることも、本人が語っています。
- 2020年には、人工知能によって従来にない組み合わせを生み出し、香水の創造性を広げられるという期待も示していました。文学を愛する調香師であることと、新しい技術への関心は、彼女の中では自然につながっています。
調香作品
主な作品を年代順にまとめました。共同調香師欄の「—」は、参照した資料で追加の調香師名を確認できなかったことを示し、非公表の協力者がいないことまで断定するものではありません。
| 年 | ブランド | 作品名 | 共同調香師 |
|---|---|---|---|
| 2011 | アムアージュ | オナー ウーマン | ヴィオレーヌ・コラス |
| 2013 | アムアージュ | ビラヴド マン(Beloved Man) | — |
| 2015 | ジバンシィ | イモーテル トライバル | — |
| 2016 | ボンベイ パフューマリー | チャイ ムスク | — |
| 2018 | ジュース | ジンジャーリズ | — |
| 2018 | モーブッサン(Mauboussin) | モーブッサン プライベート クラブ(Mauboussin Private Club) | — |
| 2019 | ダビドフ | ラン ワイルド | ピエール・ゲロス(Pierre Guéros) |
| 2021 | アムアージュ | オナー 43 ウーマン | — |
| 2021 | メゾン マルジェラ | レプリカ マッチャメディテーション | — |
| 2021 | ビーディーケー パルファム | ヴェルベット トンカ | — |
| 2021 | ジル・サンダー(Jil Sander) | サン パルファム(Sun Parfum) | ピエール・ゲロス |
| 2021 | ディプティック | キョウト | — |
| 2022 | マインドゲームズ(Mind Games) | グランド マスター(Grand Master) | — |
| 2022 | ビーディーケー パルファム | ヴィラ ネロリ(Villa Néroli) | — |
| 2022 | ラルチザン パフューム | トンカ ブラン | — |
| 2023 | カルバン・クライン(Calvin Klein) | シーケー ワン リフレクションズ(CK One Reflections) | クリステル・ラプラード(Christelle Laprade) |
| 2023 | アムアージュ | ディア 40 ウーマン | — |
| 2023 | アムアージュ | クリスタル&ゴールド ウーマン | — |
| 2024 | ビーディーケー パルファム | 312 サントノーレ(312 Saint-Honoré) | — |
| 2024 | ディプティック | コライユ オスクロ(Corail Oscuro) | — |
| 2024 | アクア ディ パルマ(Acqua di Parma) | ルーチェ ディ ローザ(Luce di Rosa) | — |
| 2025 | ビーディーケー パルファム | ヴァニーユ キャヴィア(Vanille Caviar) | — |
| 2025 | ドルチェ&ガッバーナ(Dolce & Gabbana) | ライトブルー プールオム カプリ イン ラブ(Light Blue pour Homme Capri in Love) | — |
参考文献
- ALL-I-C — Alexandra Carlin, perfume and literature(冒頭引用、学びと文学との関係)
- The Fragrance Foundation France — Rencontre avec Alexandra Carlin, parfumeur(幼少期、初作品、師、共同制作)
- Symrise — Fragrances for the world(進路変更、創作姿勢)
- Centre du Luxe et de la Création — Revue TALENT 2019(経歴、受賞。冊子17ページ)
- Porsche Newsroom — With the Porsche 911 Targa SC on the Garden Route(2016年の年齢表記)
- IFF — IFF Appoints Two New Fine Fragrance Perfumers(2024年11月4日発表、Nasdaq掲載)
- On the Scent — Alexandra Carlin
- La Voix du Parfum — Alexandra Carlin : Inspirations d’un Talent
- Nez — Alexandra Carlin: “This ginger smells of freshly grated root”
- BDK Parfums — Velvet Tonka(調香師の言葉と香調)
- Fashion Art Parfum — L’histoire de Velvet Tonka par Alexandra Carlin
- Antonym — Tonka Blanc, au cœur du potager
- Bombay Perfumery — Chai Musk
- Fragrantica — Honour Woman
- Fragrantica — Dia 40 Woman
- Parfumo — Alexandra Carlin(作品一覧)
- Parfumo — Beloved Man
- Parfumo — Immortelle Tribal
- Parfumo — Kyoto
- Parfumo — Honour 43
- Parfumo — Sun Parfum
- Parfumo — CK One Reflections
- Parfumo — Cristal & Gold Woman


