マチルド・ローラン(Mathilde Laurent)──香りでつくる、目に見えないジュエリー

マチルド・ローランのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「私はカルティエの香水を、目に見えないジュエリーだと捉えています。」

マチルド・ローラン──フェイシズ誌のインタビューより

1970年4月18日、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌ生まれとされています。

大きなダイヤモンドが一粒あれば、周囲に別の宝石をいくつも足さなくてもよい。マチルド・ローランは、カルティエの香水を説明するとき、そんな宝飾の考え方を持ち出します。主役の原料をはっきりと際立たせ、その香りが持つ力で人を動かす。ゲランで伝統を学んだ彼女は、カルティエで自分の美意識を育て、やがて香水瓶の外へも活動を広げていきました。

調香史

写真と香りの間で

ローランは芸術家の両親のもと、パリのモンパルナスで育ちました。アトリエや鉄道のある街の風景と、夏休みに訪れるコルシカ島。その二つが、幼少期の記憶を形づくっています。

出生地についてはヌイイ=シュル=セーヌとする記録の一方、コルシカ出身と紹介する媒体もあります。本人が繰り返し語っているのは、島で過ごした時間が嗅覚に残した強い印象です。飛行機の扉が開いた瞬間に、地中海の低木林、マキの匂いに包まれた経験を、頬を打たれたような感覚として振り返っています。

10代から写真を撮ることが好きで、もともとは写真家を考えていました。一方、友人からは、何でも匂いを嗅ぐのだから調香師になったらどうかと言われます。すぐにその仕事へ飛びついたわけではありませんが、やがて自分の関心をどちらへ向けるかを選ぶ時が来ました。

化学と物理を学び、1992年に調香学校イジプカ(ISIPCA)へ進みます。写真で目に見えるものを捉えることと、香りで目に見えないものを表現すること。その二つの関心は、調香を選んだあとも離れずに残りました。

ジャン=ポール・ゲランのもとで過ごした11年

学生時代、ジャン=ポール・ゲラン(Jean-Paul Guerlain)に自分から働きかけ、研修の機会を得ます。学校で会えたときに直接希望を伝えたとされる、思い切った行動でした。その短い研修は、長い仕事へとつながります。

1994年から2005年まで、ゲラン(Guerlain)で約11年間を過ごしました。高品質の原料を扱い、伝統的な香水がどう組み立てられているかを、現場で学んだ時期です。師からの教えとして、品質について譲らない姿勢を挙げています。

1999年には、アクア アレゴリア(Aqua Allegoria)のパンプルリューヌ(Pamplelune)やハーバ フレスカ(Herba Fresca)に携わりました。柑橘の苦味や、草とミントのような緑の感覚を主題にする、明快な作品です。同年には、後にアトラップ クールとして知られるゲット アパンも発表されます。

2003年のシャリマー オー レジェール(Shalimar Eau Légère)では、ゲランを代表する香りを、軽やかな表情へと読み替えました。伝統のなかにいながら、香りの見せ方を変えていく仕事です。

カルティエを内側から知る

2005年、ローランはカルティエ(Cartier)へ移ります。専属調香師として、まずパリのラ・ペ通り13番地で、顧客に向けたオーダーメイドの香水を担当しました。

カルティエには既にマスト ドゥ カルティエ(Must de Cartier、1981)などの香水がありました。ローランの加入は、香水事業がゼロから始まったということではありません。社内に調香師が入り、宝飾や時計と同じように、ブランドの表現を内側から香りへ組み立てる体制が整う転機でした。

最初は、ゲランで培ったものとは違うカルティエの空気を吸収する必要がありました。宝石、アクセサリー、ジュエリーの部門に囲まれたオフィスで、素材の選び方や形、仕事の進め方に触れていきます。

制作の始まりを、ラ・レゼルヴ誌(La Réserve Magazine)では次のように説明しています。

「まずチームと一緒にテーマを見つけます。この段階では、まだ香りは関わりません。香水を作り始めるときには、望む結果と、そこへどう到達するかが分かっています。その後で錬金術が働き、魔法をかけるのです。」

マチルド・ローラン、ラ・レゼルヴ誌のインタビューより

最初に原料を並べるのでなく、何を表す作品にするのかを考える。それから香りの形へ移していく、という順序です。

ロードスターから、時をめぐる香水へ

2008年にはロードスター(Roadster)を発表。2009年からは、時間や感覚を主題にするレ ズール ドゥ パルファン(Les Heures de Parfum)のシリーズを展開します。

その一作、ラ トレジエーム ウール(La Treizième Heure/第十三の時)は、2010年のフランスの香水グランプリで専門家賞と調香師賞を受賞しました。2012年のデクララシオン ダン ソワール(Déclaration d’un Soir)も、翌年発表されたオルファクトラマ2012(Olfactorama 2012)で男性香水部門の賞を受けています。

2011年にはベーゼ ヴォレ、2014年にはラ パンテール、2016年にはレ ザンヴォルを発表。一般に広く届ける香水と、より実験的な高級香水の両方を通して、カルティエの嗅覚の世界を広げました。

創作哲学──親しみのある素材で、驚かせる

ローランは自分の求めるものを、美的な衝撃と説明します。2026年のフォーブス(Forbes)のインタビューでは、奇抜さのための奇抜さではないと、丁寧に区別しています。

「『衝撃』と言っても、ただ驚かせるために、異様で奇妙なものを作るという意味ではありません。心を動かし、どこか親しみのある、肯定的な衝撃です。」

マチルド・ローラン、フォーブスのインタビューより

使うのは、よく知っている原料です。その組み合わせや量、見せ方を変えることで、初めて出会うのに懐かしいような感覚を生みます。誰もが知るカードを使い、配り直すことになぞらえています。

素材の選び方にも、その考えが表れています。

「重要な原料は過剰と言えるところまで使い、その周りには余分なものをできるだけ置きません。感情を生むのはシンプルさです。私は、合唱に囲まれた独唱者のような構成を好みます。」

マチルド・ローラン、フェイシズ誌のインタビューより

周囲を完全な無音にするのではなく、主役がよく聞こえる伴奏を置く。宝石のたとえにも、音楽のたとえにも、中心となる美しさをどう見せるかという共通した発想があります。

好きな原料だけを使うことにも慎重です。偏愛を処方に持ち込めば、違う依頼でも同じ香水を作ってしまうかもしれません。必要なのは、好きな原料より、その作品に必要な原料だと考えています。

野の花やピオニーにも関心を寄せる一方、バラやジャスミンなど、既に多くの香水で表現されてきた花を扱うなら、別の姿に変えたいと語ることもあります。これは花そのものへの価値判断というより、創作で既知の表現を繰り返したくないという姿勢です。

高級香水と、広く届ける香水の違いについては、前者は原料や組み合わせの探究に重点があり、後者はブランドを語る、時代を越えた分かりやすい署名が求められると説明します。どちらの場合も、使い手が感じるものを一つに決めつけることはできません。記憶や経験が違えば、同じ匂いへの反応も変わるからです。

代表作とその背景

ゲット アパン/アトラップ クール──長く記憶されたゲランの仕事

ゲット アパン(Guet-Apens、1999)は、限定作品として発表され、2005年にはアトラップ クール(Attrape-Coeur)の名で再登場しました。バラ、スミレ、アイリス、バニラ、ウッド、アンバーが重なる、豊かで包み込むような香りです。

かつての紹介にはジャン=ポール・ゲランの名前が付されることもありましたが、ローランの作品として、専門媒体で改めて語られてきました。2012年のペルソレーズ(Persolaise)のインタビューでも、本人が自分にとって大切な作品として振り返っています。

伝統的なゲランの厚みを持ちながら、感触を柔らかく広げるこの香りは、後のカルティエ作品とは違う場所から、ローランの感性を知る一本です。

ベーゼ ヴォレ──一本の百合を丸ごと描く

ベーゼ ヴォレ(Baiser Volé、2011)は、百合を主題にしています。ただし、花びらの甘い香りだけを切り取ったものではありません。茎や葉の青さ、花粉の粉っぽさ、花の豊かな広がりまで、一つの植物として組み立てました。

華やかな花を増やして豪華なブーケにするのではなく、一輪へ深く入っていく作品です。主役の原料を際立たせる、独唱者のたとえを思い出させます。同時に、女性向けの香水がいつも同じ甘さや花束を繰り返すことへの、ローランなりの問いかけでもありました。

ラ パンテール──香る豹という神話

ラ パンテール(La Panthère、2014)は、カルティエを象徴する豹に着想した作品です。ここで語られるのは、実際の豹の体臭についての説明ではありません。甘い香りでほかの動物を惹きつける豹、という古代の伝承です。

ガーデニアの花の豊かさと、動物を思わせるムスク、シプレの骨格を組み合わせました。花と野性という、一見遠い二つの感覚を一つにするところに、ローランの好む対比があります。

カルティエが造形としてよく知っている豹へ、調香師は嗅覚の側面から近づきます。この主題は、後に空間作品にも発展していきました。

カラット──七つの花から、一つの光へ

カラット(Carat、2018)は、ダイヤモンドの光の表情を、花の香りで表そうとした作品です。スミレ、アイリス、ヒヤシンス、イランイラン、スイセン、スイカズラ、チューリップ。七つの花のイメージが重なり、自然には存在しない抽象的な花を描きます。

虹の色を一つの光へ戻すように、花束から新しい花を作る。ローランはこれを嗅覚的な光の分解・再構成になぞらえています。写真を愛し、匂いをイメージとして捉える彼女らしく、視覚の発想から香りを構築した作品です。

レ ザンヴォル──香りのなかへ入る

レ ザンヴォル(L’Envol、2016)は、「飛翔」を意味する名前を持ちます。蜂蜜を思わせる柔らかさと、透けるような広がりを通して、空へ浮かぶ感覚を描いた作品です。

この香水は翌年、ガラスの立方体のなかに浮かぶ雲へとつながりました。香水を手首に吹き付けるのではなく、人が香りのある空間へ歩いて入る。まとい方そのものを変える試みです。

オスニ──香水瓶の外に生まれた作品

オスニ(OSNI/Objet Sentant Non Identifié)は、未確認嗅覚物体といった意味を持つ、カルティエの嗅覚表現のシリーズです。第一作、香る雲(Le Nuage Parfumé)は、2017年にパリのパレ・ド・トーキョー前で公開されました。

気候工学のトランスソーラー(Transsolar)と協力し、ガラスの空間に雲を浮かべます。観客は螺旋階段を上り、雲を通り抜けたところで、空気の温度とレ ザンヴォルの香りを体験しました。

ローランは、この作品の意図をアートネット(Artnet)に説明しています。

「これは製品発表ではありません。同時代の嗅覚芸術へ扉を開くためのものです。詩に触発された香水が、音楽や映画のように感情を動かせることを示したかったのです。」

マチルド・ローラン、アートネットの取材より

2019年にはルーヴル・アブダビでも、この香る雲の体験が紹介されました。2022年には第二作、香る神話(Le Mythe Parfumé)をパリのアンヴァリッドで発表。ビューロー・オブ・エクストラオーディナリー・アフェアーズ(Bureau of Extraordinary Affairs)との協働で、光と匂いを重ね、豹の神話的な存在感を表しています。

どちらも、香水の感想を言葉で説明する前に、体で経験する作品です。ローランが美的衝撃と呼ぶものを、香り、光、空間へ広げた活動といえます。

ちなみに…

ローランは仕事へ香水をつけていかず、毎日まとうこともありません。鼻が自分の香水に慣れてしまうと、制作中の香りを客観的に見にくくなるためです。ただし一切使わないわけではなく、2024年の取材では、自分でも月に一度ほど、とりわけ心を動かされた香水を使うと話しています。

茶は、とくに愛着のあるものです。韓国のチュクロ(Jukro)を好むという話もあり、飲み物でありながら香りを味わう行為に惹かれています。

「私にとって、お茶は飲む香水です。」

マチルド・ローラン、ラ・レゼルヴ誌のインタビューより

写真への関心も続いています。白い筋の入った髪型や、コンバース(Converse)のスニーカーを多数持つことも取材で紹介されますが、視覚的な個性と同じくらい、匂いを自分の言葉で考え続ける姿勢が印象に残る人物です。

ラ・レゼルヴ誌では、旅から偶然に着想を拾うより、白い壁の静かな部屋で考えるほうが自分には合うとも語っています。コルシカの強い記憶を持ちながら、実際の創作は、記憶を頭のなかで組み直す時間によって進められているのです。

調香作品

主な作品を年代順にまとめています。発表年と地域ごとの発売年が異なる場合は幅を持たせています。

年 ブランド 作品名 共同調香師・注記
1999 ゲラン アクア アレゴリア パンプルリューヌ ジャン=ポール・ゲラン
1999 ゲラン アクア アレゴリア ハーバ フレスカ ジャン=ポール・ゲランとの共同作としても紹介
1999 ゲラン ゲット アパン 2005年にアトラップ クールとして再登場
2002 ゲラン No.68/コローニュ デュ68(Cologne du 68) 2002年版。ソフィー・ラベ(Sophie Labbé)の2006年版と区別
2003〜2004 ゲラン シャリマー オー レジェール/シャリマー ライト(Shalimar Light) 市場・版による名称と年の差あり
2008 カルティエ ロードスター —
2009 カルティエ ルール プロミーズ(L’Heure Promise)、ルール ブリヤント(L’Heure Brillante)、ルール フォル(L’Heure Folle)、ルール ミステリユーズ(L’Heure Mystérieuse) —
2009〜2010 カルティエ ラ トレジエーム ウール 2009年発表、2010年受賞
2010 カルティエ ルール フーグーズ(L’Heure Fougueuse)、ルール デファンデュ(L’Heure Défendue) —
2010〜2011 カルティエ ルール ディアファン(L’Heure Diaphane) 資料で年の差あり
2011 カルティエ ベーゼ ヴォレ、カルティエ ドゥ リュンヌ(Cartier de Lune)、ルール コンヴォワテ(L’Heure Convoitée) —
2012 カルティエ デクララシオン ダン ソワール —
2012〜2013 カルティエ オー ドゥ カルティエ グット ドゥ ローズ(Eau de Cartier Goutte de Rose) 2012年発表、2013年発売とする資料あり
2014 カルティエ ラ パンテール、ベーゼ ヴォレ リス ローズ(Baiser Volé Lys Rose) —
2014 カルティエ ウード&ムスク(Oud & Musc)、ウード&ウード(Oud & Oud)、ウード&ローズ(Oud & Rose) —
2015 カルティエ マスト ドゥ カルティエ ゴールド(Must de Cartier Gold)、ルール ペルデュ(L’Heure Perdue)、ウード ラディユ(Oud Radieux) —
2016 カルティエ レ ザンヴォル、ウード&サンタル(Oud & Santal)、ウード アブソリュ(Oud Absolu) —
2016 カルティエ ラ パンテール エディション ソワール(La Panthère Édition Soir)、ラ パンテール ノワール アブソリュ(La Panthère Noir Absolu) —
2018 カルティエ カラット、デクララシオン パルファン(Déclaration Parfum) —
2020 カルティエ パシャ ドゥ カルティエ パルファン(Pasha de Cartier Parfum) —

参考文献