ジャン=ポール・ゲラン(Jean-Paul Guerlain)──記憶と愛を香りに変えた、メゾン第四代の調香師

ジャン=ポール・ゲランのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「香水は、記憶のもっとも強烈な形です。」

ジャン=ポール・ゲラン、『エル・カナダ』のインタビュー、ナウ・スメル・ディスに再録

1937年1月9日、パリ16区生まれ。

庭師の服に染み込んだ土とタバコの匂い。馬のそばで感じる革の気配。映画の中の女性と、ある一人の女性が好んだ花と木の香り。ジャン=ポール・ゲランの代表作には、具体的な人や場所の記憶が息づいています。

ヴェティヴェール(Vétiver)、アビ ルージュ(Habit Rouge)、シャマード(Chamade)、ナエマ(Nahéma)、サムサラ(Samsara)。ゲラン(Guerlain)の調香を率いた最後のゲラン家出身者として、祖父から受け継いだ仕事に、自分自身の経験を重ねていった人物です。

調香史

文学を教えたかった少年

ジャン=ポールの父はジャン=ジャック・ゲラン(Jean-Jacques Guerlain)、祖父はシャリマー(Shalimar)などを生んだジャック・ゲラン(Jacques Guerlain)です。1828年にメゾンを創業したピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン(Pierre-François-Pascal Guerlain)は、高祖父にあたります。

もっとも、香水の家に生まれたからといって、最初からその道に進もうとしていたわけではありません。リセ・コンドルセ(Lycée Condorcet)に通っていた少年の夢は、文学を教えることでした。家業の後継者としては、兄のパトリック・ゲラン(Patrick Guerlain)が期待されていたといいます。

香りの記憶は、家業よりも身近なところから始まっています。ワールド・オブ・ファイン・ワイン(World of Fine Wine)のインタビューで回想したのは、第二次世界大戦中、4歳の誕生日に母が作ってくれたイチゴのタルトでした。当時は貴重だった菓子の匂いが、家庭のやさしさと結びついて残っていると語っています。

後年の作品に繰り返し現れる、香りと感情の結びつき。その原点には、こうした生活の中の記憶がありました。

視力の問題が、祖父の仕事場へ導く

進路を変えたのは、視力の問題でした。16歳ごろに視力を大きく失い、学校を離れることになります。家で過ごす孫を仕事場へ連れ出したのが、祖父のジャックでした。視力は後に複数の手術によって回復しますが、その間に始まった嗅覚の訓練が、人生を別の方向へ導いていきます。

祖父のもとで学んだのは、まず原料を嗅ぎ、識別し、記憶することです。本人の回想では、アルファベット順に並ぶ天然香料と合成香料に向き合い、何日も、何か月も訓練を重ねたといいます。約3,000種もの香りを覚える訓練として紹介されるほど、徹底した学びでした。

ただ、匂いがわかることと、新しい香水を作ることは同じではありません。ジャン=ポールは後年、その違いを、ピアノを演奏できることと交響曲を作曲できることになぞらえています。原料の名前を当てる先に、それをどう組み合わせるかという仕事が待っていました。

祖父が課した試験の一つが、ジョンキル(Jonquille)の香りを再現することでした。この課題をこなしたことで、後継者としての実力を認められたと伝えられています。1955年、18歳のジャン=ポールはゲランに入社し、調香師としての歩みを本格的に始めます。

「私たちのスタイルは、品質をごまかさないこと、決して卑俗にならないことです。いつも洗練されていること。祖父が私に教えてくれたのは、品質を見極める感覚でした。」

ジャン=ポール・ゲラン、『ウィメンズ・ウェア・デイリー』1985年9月13日、ナウ・スメル・ディスに再録

受け継いだのは、処方だけではなかったのです。何をよい素材と感じ、どこまで仕上げれば作品として認められるのか。その判断の基準も、祖父から学んでいました。

ヴェティヴェール──庭師の上着に残った匂い

1959年、22歳で発表したヴェティヴェールは、最初期の代表作になります。先行していたカルヴェン(Carven)の同名香水に対し、ゲランとしてどんな香りを示すのか。若いジャン=ポールに、その仕事が託されました。

創作を支えた記憶は、洗練されたサロンではなく、庭仕事の場面にありました。著書『ゲラン香りの世界への旅(Les Routes de mes parfums)』で、こう振り返っています。

「友人の庭造りを手伝っていたとき、素晴らしい老庭師が助けてくれました。彼は粗い黒いサージのジャケットと茶色のベルベットのズボンを着て、ジタンを吸っていました。服に染み込んだタバコと土が混じった香りが、処方を組み立てるときに強く影響したのです。」

ジャン=ポール・ゲラン、2002年の著書から、ヘウレンフールーのオランダ語訳による紹介

ヴェティヴェールという根の香りに、土やタバコ、身につけた衣服の記憶が重なっています。単一の原料を主役にしながら、一人の人間がそこにいた気配まで感じさせる。その組み立てが、この作品の魅力です。

女性への愛から生まれた香りを多く語るジャン=ポールですが、本人はこの作品の着想を、女性そのものではなく、匂いの混じり合いに見いだしていました。作品ごとに違う出発点があることも、本人の回想から見えてきます。

アビ ルージュ──馬術の世界を、香りの対比にする

1962年のシャン ダローム(Chant d’Arômes)に続き、1965年にはアビ ルージュを発表します。男性用アンバー系香水の先駆けとして知られる作品で、ゲランで創作を担ったシルヴェーヌ・ドゥラクルト(Sylvaine Delacourte)も、男性用オリエンタルの最初の一本として紹介しています。

その名は、赤い上着を意味します。騎乗や狩猟の伝統につながる服装であり、ジャン=ポールが深く愛した馬の世界を象徴するものです。

香りでは、ベルガモットをはじめとする柑橘の明るさと、バニラやアンバーの温かさが向かい合います。革を思わせる感触も加わり、清潔な身なりと動物の気配が同居するような構成です。祖父のシャリマーに通じる甘さを、男性用香水の中で別の表情にしています。

馬術は単なるイメージの借用ではありません。ジャン=ポール自身が競技に打ち込み、1974年にはコペンハーゲンで開催された馬場馬術の世界選手権にフランス代表として出場しています。調香と馬術という二つの仕事が、この香りの中で交わったのです。

シャマード──緑の鮮度から、温かな余韻へ

1969年に発表したシャマードには、フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan)の小説『ラ・シャマード(La Chamade)』の世界が重なります。1965年に刊行され、1968年にはカトリーヌ・ドヌーヴ(Catherine Deneuve)主演で映画化された作品です。

シャマードは、もともと降伏の交渉を求める太鼓やラッパの合図を指す言葉です。心臓が激しく鼓動するという表現にも使われ、恋への抵抗と降伏を思わせます。香水の名やハートを思わせるボトルにも、その物語が重なっています。

香りの始まりには、ガルバナムやヒヤシンスを思わせる緑の鮮度があります。カシスの芽の個性も取り込みながら、ローズやジャスミンなどの花を通り、温かくバルサミックな余韻へ移っていく。ひんやりした始まりと、肌になじむ甘さの距離が、大きな魅力です。

カシスの芽を使った初期の重要作としても語られています。新しい効果を、ゲランらしい奥行きへどう結びつけたかに、この作品の個性があります。

1974年にはオー デ ゲラン(Eau de Guerlain)も登場します。濃密な香りだけでなく、コロンの清々しさにも取り組んだことは、ジャン=ポールの幅広い仕事を物語っています。

アンヌ=マリー・サジェとの協働

1975年、ゲランの研究室にアンヌ=マリー・サジェ(Anne-Marie Saget)が加わります。理工学を学び、人工知能と香りの構成を結びつける可能性にも関心を持っていた、異色の経歴の調香師です。

きっかけは、ジャン=ポールへ送った手紙でした。面接と試験を経て、ジュネーブのアルトゥーロ・ジョルディ=ペイ(Arturo Jordi-Pey)のもとで訓練を受け、グラースでは天然素材の専門家モニーク・レミー(Monique Rémy)から学びます。

その後、シャルトルの研究室で約14年にわたり、ジャン=ポールと仕事を重ねました。パリュール(Parure、1975年)、ナエマ、ジャルダン ド バガテール(Jardins de Bagatelle、1983年)、ダービー(Derby、1985年)、サムサラ。ジャン=ポールの名で知られる作品の中にも、こうした協働の歴史があります。

パリュールへのサジェの参加については、香水史家マイケル・エドワーズ(Michael Edwards)の著書を参照したサ・フルール・ボン(ÇaFleureBon)の記事にも記されています。ゲラン家の継承を語ることと、家族の外から加わった才能を語ることは、切り離せません。

ナエマ──映画の中の女性を、薔薇に変える

1979年のナエマは、ジャン=ポールの大胆さがよく表れた作品です。着想の一つとなったのは、映画『ベンジャマン(Benjamin ou les Mémoires d’un puceau)』で見たドヌーヴでした。

「彼女は白い絹のドレスをまとい、ほどけた髪は、乱れた金色の光輪のようでした。まったく、息を呑むほどの美しさでした。」

ジャン=ポール・ゲラン、『エル』のインタビュー、ボワ・ドゥ・ジャスマンに再録、2005年掲載

薔薇を散らした金色の檻にいる女性。その映像の印象が、官能的で大きなローズの香りへとつながります。新しい香料だったダマスコン類を使い、花の豊かさにプラムや桃を思わせる果実の厚みを重ねた構成でした。

天然の薔薇をそのまま再現するだけでは、この香りにはなりません。水気を帯びた花の気配、甘く熟した果実、木やバニラの暗い奥行きを一つにして、薔薇の存在感を広げていきます。天然素材を大切にした人でありながら、新しい合成香料の表現力にも積極的だったことがわかります。

しかし、発売当初の商業的な成績は振るいませんでした。ボワ・ドゥ・ジャスマンは大きな損失を伝え、ペルソレーズ(Persolaise)は、その穴埋めに不動産の一部を売却したという話もあったと紹介しています。売却と損失の具体的な関係まで確定した記録ではないため、逸話として受け止める必要があります。

それでもジャン=ポールは、ナエマを自分のもっとも独創的な作品の一つとして挙げ続けました。売れることと、本人が到達したかった香りであること。その二つが、必ずしも重ならなかった作品です。

サムサラ──一人のための香りが、世界へ出る

サムサラの出発点は、1985年にあるイギリス人女性のために作った、私的な香りだったといいます。彼女が好きだったのはジャスミンとサンダルウッド。その二つを中心に作った香りが、後にゲランの大きな転機になります。

エドワーズの著書『パフューム・レジェンズ(Perfume Legends)』を紹介したナウ・スメル・ディス(Now Smell This)によれば、当時のゲランは香水の作り方と売り出し方を見直し、社外の調香師も参加する競作を行いました。ジャン=ポールの案は、2年、約300回の試作を経て選ばれています。

サジェも協働した香りの中心には、クリーミーなサンダルウッドと、豊かに広がるジャスミンがあります。花が木の重さを持ち上げ、木が花の輪郭をやわらげる。バニラやトンカの温かさも加わり、ゲランらしい余韻へとつながります。

その制作は、原料の産地とも結びついていました。インドのジャスミンやサンダルウッドを求め、求める品質を確保するために、現地の生産にも関与していきます。サムサラは、調香台の前だけで完結した仕事ではなかったのです。

名前は、輪廻を表すサンスクリット語に由来します。赤いボトルはロベール・グラネ(Robert Granai)のデザインで、東洋美術から着想を得た造形として知られています。個人的な愛の記憶が、香り、名前、ボトルを備えた作品へと育っていきました。

発売は1989年10月。当時の業界誌は、ゲランが広告に5,000万ドルを投じる計画だと報じています。この規模の広告計画からも、ブランドがこの香りに寄せた大きな期待が伝わります。

原料を求めて旅する調香師

ジャン=ポールは、原料を注文するだけでなく、その土地へ足を運ぶ人でもありました。インドのジャスミン、グラースの薔薇、マダガスカルのゼラニウムやパルマロサ。香りを生む植物と、生産に携わる人々との関係が、作品の背景にあります。

マヨット島ではイランイランの農園に関わり、チュニジアのナブール(Nabeul)ではオレンジブロッサムの蒸留にも携わったと紹介されています。マヨットの記憶は、後のマオラ(Mahora、2000年)という作品にもつながりました。この香りは、2006年にマヨット(Mayotte)の名で再登場しています。

こうした旅をまとめたのが、2002年の『ゲラン香りの世界への旅』です。日本語版は田中樹里訳で、2004年にフレグランスジャーナル社から刊行されました。作品の完成形からだけでは見えない、原料を探す過程を知ることのできる一冊です。ほかに、愛と香りを主題にした『パルファン・ダムール(Parfums d’amour)』も著しています。

メゾンの変化と、ゲルリナードの継承

1994年、家族経営だったゲランは、エル・ヴイ・エム・エイチ(LVMH)傘下に入ります。ジャン=ポールは調香だけでなく経営にも関わってきましたが、メゾンの運営と創作の環境は変化していきます。

1996年のシャンゼリゼ(Champs-Élysées)について、香水ジャーナリストのステファン・マシューズ(Stephan Matthews)は、競作でオリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)の案が選ばれたと記しています。ジャン=ポールの作品として扱う資料もあり、作者の記録には注意が必要です。

1998年には、以前から温めていた構想を形にしたコリオラン(Coriolan)を発表します。会社の環境が変わるなかでも、自らの香りを探す仕事は続いていました。

同じ1998年、創業170周年を記念して発表したのが、ゲルリナード(Guerlinade)という限定香水でした。

ゲルリナードはもともと、ベルガモット、ローズ、ジャスミン、トンカ、アイリス、バニラなどに象徴される、ゲランの香りの署名を指す言葉です。ジャン=ポールは、それと同じ名を持つ一つの香水を作りました。

「完成までに1年以上かかりました。200年を蒸留しようとしていたのです。」

ジャン=ポール・ゲラン、『ウィメンズ・ウェア・デイリー』1998年6月19日、ナウ・スメル・ディスに再録

170周年の作品を「200年」と表現したのは、本人の言葉です。正確な創業年数ではなく、長い歴史を一瓶へ凝縮しようとした気持ちが表れています。

なお、この香りの発表が行われた1998年6月には、自宅で武装強盗に襲われ、ジャン=ポールと屋敷の管理人が負傷する事件も起きています。香水の記念年は、私生活にとって穏やかな年ばかりではありませんでした。

次の世代とともに作る香り

1999年に始まったアクア アレゴリア(Aqua Allegoria)は、ジャン=ポール一人の仕事として見るべきシリーズではありません。マチルド・ローラン(Mathilde Laurent)の貢献も、初期の作品を語るうえで重要です。

パンプルリューヌ(Pamplelune)、ハーバ フレスカ(Herba Fresca)、ローザ マニフィカ(Rosa Magnifica)、ラヴァンド ヴルール(Lavande Velours)などは、データベースでは両者の名で紹介されています。一方、ローランを中心的な作者として扱う批評もあります。花や果実、ハーブを身近に感じさせる軽快な香りが、メゾンに新しい入口を作っていきました。

ジャン=ポールは2002年に正式に引退しますが、その後も一定期間、顧問や創作の形でゲランに関わりました。2007年のスピリテューズ ドゥーブル ヴァニーユ(Spiritueuse Double Vanille)や、2010年のアルセーヌ ルパン(Arsène Lupin)シリーズなど、引退後に発表された作品もあります。

2008年にはティエリー・ワッサー(Thierry Wasser)がメゾンの調香を担う立場に就き、ゲラン家による継承から、家族の外へと続く継承へ移っていきました。ジャン=ポール自身は同年、レジオン・ドヌール勲章のオフィシエ(Légion d’honneur, officier)に昇進しています。官報には、それ以前のシュヴァリエ叙任日が1991年5月12日と記されています。

後年の問題と、作品に残るもの

一方で、その後の経歴には、明確に記しておくべき問題があります。2010年10月15日、フランス2(France 2)の番組でサムサラの制作を語った際、黒人に対する人種差別的な発言を行いました。ゲラン社は発言を非難し、本人との関係を終了しています。2002年の引退と、2010年の関係終了は別の出来事です。

2012年3月29日、パリの裁判所は人種差別的侮辱について有罪とし、6,000ユーロの罰金に加え、三つの反差別団体にそれぞれ2,000ユーロの支払いを命じました。会社側は当時、本人は1996年以来株主ではなく、2002年以来社員でもないと説明しています。

晩年には、成年後見や介護、財産管理をめぐる家族とパートナーの対立も報じられています。ただし、当事者による告発と、裁判などで認定された事実は分けて読む必要があります。

作品への評価と、本人の言動の責任は、混同することのできないものです。その両方を踏まえたうえで、残された香りと発言から、調香師として何を大切にしたかをたどることができます。

「古典的な香水は、使われた原料の品質、エレガンス、品格、独創性によって決まります。何より、記憶に残るものでなければなりません。」

ジャン=ポール・ゲラン、ロイター、2001年3月27日、ボワ・ドゥ・ジャスマンに再録

好きな古典として挙げたのは、ランバン(Lanvin)のアルページュ(Arpège)のオリジナル処方、ディオール(Dior)のファーレンハイト(Fahrenheit)とオー ソバージュ(Eau Sauvage)、シャネル(Chanel)のナンバーファイブ(N°5)、ニナ・リッチ(Nina Ricci)のレール デュ タン(L’Air du Temps)、エスティ ローダー(Estée Lauder)のプレジャーズ(Pleasures)でした。自分のメゾンの外にも、美しさの基準となる香りを見いだしていたのです。

ちなみに…料理とワイン、そして後進への影響

ジャン=ポールは、料理とワインの愛好家としても知られています。ワールド・オブ・ファイン・ワインのインタビューでは、結婚後に自分で料理を学んだことや、ブルゴーニュの白ワインへの愛着を語っています。コルドン・ブルー(Le Cordon Bleu)での学びや、約3,000本のワインを収めたセラーも紹介されています。

原料の違いを嗅ぎ分ける調香師の仕事は、食卓の香りを楽しむことともつながっていたのでしょう。同じインタビューに登場する、若いころにコニャックの試飲会で香りを評価した逸話も、その広い関心を伝えるものです。

また、ジャン=ポールについて読んだ記事が、一人の若者を調香師の道へ導いたこともありました。アルベルト・モリヤス(Alberto Morillas)は、そのきっかけをこう話しています。

「ヴォーグ誌で、ジャン=ポール・ゲランが香水の作り方を説明している記事を読みました。それは私にとって啓示でした。」

アルベルト・モリヤス、ザ・パフューム・ソサエティのインタビュー

香水の背後には、それを作る人がいる。ジャン=ポールの言葉は、その仕事をまだ知らなかった人に、調香師という職業の存在を伝えていました。

土とタバコの匂いをとどめたヴェティヴェール、映画の印象を広げたナエマ、ジャスミンとサンダルウッドを結びつけたサムサラ。記憶に形を与えるという仕事は、それぞれ異なる香りとなって、今もこの調香師を語っています。

調香作品

主要作品を年代順にまとめています。すべてゲランの作品です。共同制作や作者の記録に違いがあるものは併記しました。濃度違い・復刻版は、原作と区別しています。

ブランド 作品名 共同調香師・注記
1959年 ゲラン ヴェティヴェール
1962年 ゲラン シャン ダローム
1965年 ゲラン アビ ルージュ
1969年 ゲラン シャマード
1974年 ゲラン オー デ ゲラン
1975年 ゲラン パリュール アンヌ=マリー・サジェ
1979年 ゲラン ナエマ アンヌ=マリー・サジェ
1983年 ゲラン ジャルダン ド バガテール アンヌ=マリー・サジェ
1985年 ゲラン ダービー アンヌ=マリー・サジェ
1989年 ゲラン サムサラ アンヌ=マリー・サジェ
1992年 ゲラン エリタージュ(Héritage)オードトワレ
1994年 ゲラン プティ ゲラン(Petit Guerlain)
1996年 ゲラン シャンゼリゼ オリヴィエ・クレスプの案が競作で採用されたとする資料があります
1998年 ゲラン コリオラン
1998年 ゲラン ゲルリナード、創業170周年限定版 メゾンの署名となるアコードと、同名の香水は区別されます
1999年 ゲラン ベル エポック(Belle Epoque)
1999年 ゲラン シャマード プール オム(Chamade Pour Homme)
1999年 ゲラン アクア アレゴリア パンプルリューヌ マチルド・ローラン
1999年 ゲラン アクア アレゴリア ハーバ フレスカ マチルド・ローラン
1999年 ゲラン アクア アレゴリア ローザ マニフィカ マチルド・ローラン
1999年 ゲラン アクア アレゴリア ラヴァンド ヴルール マチルド・ローラン
1999年 ゲラン アクア アレゴリア イラン&ヴァニーユ(Ylang & Vanille) 初期シリーズの関連作品。ローランに帰属させる紹介もあり、ジャン=ポールの単独作とはしていません
1999〜2000年 ゲラン テラコッタ ヴォワール デテ(Terracotta Voile d’Été) マチルド・ローラン。ナウ・スメル・ディスはテラコッタを2000年と記載
2000年 ゲラン マオラ 2006年にマヨットの名で再登場
2003年 ゲラン エリタージュ オードパルファン 1992年の原作とは濃度を区別
2004年 ゲラン ヴェティヴェール プール エル(Vétiver pour Elle)
2005年 ゲラン アクア アレゴリア オランジュ マニフィカ(Orange Magnifica)
2005年 ゲラン プリュ ク ジャメ(Plus Que Jamais)
2006年 ゲラン マヨット マオラの再登場
2006年 ゲラン アクア アレゴリア トゥッティ キウィ(Tutti Kiwi)
2006年 ゲラン ニュイ ダムール(Nuit d’Amour)
2007年 ゲラン アクア アレゴリア アンジェリーク リラ(Angélique Lilas)
2007年 ゲラン スピリテューズ ドゥーブル ヴァニーユ
2008年 ゲラン オー ドゥ シャリマー(Eau de Shalimar)
2009年 ゲラン レ スクレ ドゥ ソフィー(Les Secrets de Sophie)
2010年 ゲラン アルセーヌ ルパン ダンディ(Arsène Lupin Dandy)
2010年 ゲラン アルセーヌ ルパン ヴォワイユー(Arsène Lupin Voyou)

参考文献