「私たちは心で香りを嗅いでいます。気分によって、香りの感じ方は変わります。フランス語の『嗅ぐ』という動詞は、『感じる』という意味も持っています。香りは私たちの気分を変えるのです。疲れていてはうまくいきません。頭を新鮮な状態にしておかなければなりません。」
ベルナール・シャン、ボワ・ド・ジャスマンが紹介する本人の言葉
1927年頃生まれとされ、1987年没。
カボシャール(Cabochard)、アラミス(Aramis)、アロマティクス エリクシール(Aromatics Elixir)。一見すると、異なるブランドの異なる個性を持つ香水です。しかし、これらの作品を辿ると、同じ調香師の仕事に行き着きます。
ベルナール・シャンは、フランスに生まれ、ニューヨークを拠点に活躍した調香師です。インターナショナル・フレーバー&フレグランス(International Flavors & Fragrances、以下アイ・エフ・エフ)のチーフ・パフューマーとして、アメリカの香水史に数多くの作品を残しました。
苔やパチュリ、革の深さに、明るい緑や花を重ねる。複雑な香りでありながら、全体では一つのはっきりした人物像が見えてくる。その組み立て方を知ると、シャンの作品は、少し違った聞こえ方をし始めます。
調香史
フランスから、ニューヨークの調香室へ
シャンの幼少期や修業時代には、詳しく伝わっていないことが多くあります。1927年頃のフランス生まれと紹介されますが、生年月日や出生した町の詳細は、広く一致する記録が残っているわけではありません。
一方、職業人としての輪郭は、作品と同僚たちの証言から見えてきます。キャリアの中心はアイ・エフ・エフのニューヨーク拠点。1950年代末から1980年代にかけて、フランスのクチュリエや、米国の化粧品・ファッションブランドのために香水を作りました。
アイ・エフ・エフは1958年、米国のファン・アメリンゲン=ヘブラーと、オランダのポラック・アンド・シュワルツが合併して生まれた会社です。そのニューヨークの調香文化には、エルネスト・シフタン(Ernest Shiftan)やジョゼフィン・カタパノ(Josephine Catapano)といった先達がいました。
シャンは、そうした環境の中でチーフ・パフューマーを務め、後輩の育成にも関わります。カルロス・ベナイム(Carlos Benaïm)は、シフタンに続く自分の二人目の師としてシャンを挙げ、処方を徹底して練り、整然と、正確に創作する方法を学んだと語っています。
エスティ ローダーとともに育った仕事
シャンの経歴では、エスティ ローダー(Estée Lauder)との関係が大きな位置を占めています。同社とアイ・エフ・エフの協力は、創業者アーノルド・ファン・アメリンゲン(Arnold van Ameringen)の時代から育まれてきました。
シャンは、エスティ ローダーのほか、同グループのアラミスやクリニーク(Clinique)へ作品を提供します。ブランドごとの性格は異なっても、香りの構造には一貫した探究がありました。
企業史には、1982年のシャンが40人のスタッフを統括し、基本給23万ドルに加えて賞与を受け取っていたと記されています。経営側がコスト削減を進める時期にも、調香師の創造性を重要な資産として扱っていたことを伝える記録です。
作品を生み出す一人の調香師であると同時に、組織の中で技術と美意識を受け継ぐ立場でもあったのです。
最初に、相手の世界を知る
シャンの仕事の進め方を具体的に知ることができるのが、1975年発売のハルストン(Halston)の制作記録です。香水史家マイケル・エドワーズ(Michael Edwards)が、関係者への取材をまとめています。
依頼主は、デザイナーのロイ・ハルストン・フロウィック(Roy Halston Frowick)。シャンは香りを考える前に、まず彼が作る服を見ました。
「ふさわしいテーマを考える前に、彼の服、スタイル、イメージを研究しました。」
ベルナール・シャン、ハルストンの制作について
自分の得意なアコードを、そのまま差し出すのではありません。着る人にどのような姿を与える服なのか、ブランドが何を大切にしているのかを見て、香りの方向を探しています。
当初の開発では、白い花を中心とした方向と、木の香りを中心とした方向が検討されました。シャンは、緑を含むウッディなシプレへと作品を導いていきます。
代表作とその背景
カボシャール──後の作品にも流れる、革と苔のアコード
1959年、パルファム グレ(Parfums Grès)から発表されたカボシャールは、シャンを代表するレザー・シプレです。名前はフランス語で「強情な人」を思わせるもの。緑の鋭さ、苔、パチュリ、革の陰影を持っています。
制作の背景には、マダム・グレ(Madame Grès)のインド旅行があります。軽やかなチュベルーズ系の試作が先行し、最終的にシャンのシプレが採用されたという話が、香水史や評論の中で伝えられています。
完成した香りは、マダム・グレ個人の当初の好みと完全には一致しなかったともいわれます。それでも、メゾンの香水として大きな成功を収めました。作り手の私的な好みと、ブランドとして残る作品が必ずしも同じではないことを示す逸話です。
革や苔を使う香水は、それ以前にもありました。カボシャールでは、それらを強い輪郭として残しながら、花や緑を通して洗練された姿へまとめています。後年ベナイムは、このアコードがシャンの多くの仕事に影響したと振り返っています。
アラミス──同じ構造から、違う人物像を作る
アラミスは1964年、資料によっては1965年発売と記される男性向け香水です。米国の百貨店で展開された、プレステージ男性用フレグランスの重要な先駆けとして知られています。
カボシャールと同様に、革、苔、木の印象があります。しかし、アルテミシアなどのハーブの乾いた輪郭が加わり、より引き締まった表情へ向かいます。共通する構造を持ちながら、同じ香りには聞こえません。
カボシャールを男性向けに発展させた作品、と説明する評論家もいます。性別ごとに全く別の素材の世界があるのではなく、バランスや質感を変えることで、異なる身のこなしを与えられる。シャンの作品を並べてみると、そのことがよく分かります。
アロマティクス エリクシール──清潔なブランドに、深い香りを
1971年、クリニークからアロマティクス エリクシールが登場しました。スキンケアの清潔なイメージを持つブランドが、最初の香水として選んだのは、ローズ、パチュリ、苔、ハーブなどの複雑な深みを持つ作品でした。
ローズの華やかさを、パチュリと苔が暗く包みます。その下には木の乾いた感触があり、上にはハーブの明るさが残ります。花の甘さだけでも、重い木質感だけでもありません。
冒頭の「心で嗅ぐ」というシャンの言葉は、この香水にもよく響きます。体調や気分によって、薬草のように感じたり、古い木の家具や花束を思い出したりする。明確な個性を持ちながら、受け取る側の記憶が入り込む余地のある香りです。
1970年代の作品でありながら、後世の調香師や批評家に繰り返し参照されてきました。シャンの香水を知るために欠かせない、もう一つの軸になる作品です。
ハルストン──新しい素材を、誰よりも印象深く
ハルストンの制作では、パリのアイ・エフ・エフにいたマックス・ガヴァリー(Max Gavarry)が、マダム(Madame)という試作処方をシャンに見せました。アルデハイド、ゼラニウム、ローズ、緑の印象、桃のアクセントに、新しいウッディ素材を組み込んだものです。
その素材は、イソ・シクレモンE(Iso Cyclemone E)。後に改良されたイソ・イー・スーパー(Iso E Super)へつながるものでした。シダーを思わせる軽い木質感を持ちながら、花や全体の香りを押し広げる効果があります。
マーケティング担当のジョー・フォーキッシュ(Joe Forkish)は、シャンがこの素材を嗅がせたときのやり取りを覚えていました。彼が素晴らしい香りだと答えると、シャンはこう言ったそうです。
「ところが、誰もこれを使おうとしないのです。」
ベルナール・シャン。ジョー・フォーキッシュの回想より
新しい素材は、存在するだけでは香水史を変えません。どの作品に、どれだけ使い、他の素材とどう釣り合わせるか。その判断が必要です。
シャンとガヴァリーは、新素材の特徴を印象深く示すフルーティなシプレを組み立てました。カボシャールから続く苔や木のアコードを背景に残しながら、マリーゴールドやカモミールを思わせる明るさと、豊かな花の中心部を加えます。
フォーキッシュは、シャンと直接やり取りし、ときには週末にも彼の家へ通ったと回想しています。完成までには7〜8カ月ほどかかりました。開発が思うように進まず、経営側との調整が必要になった局面もあり、成功作が一直線に出来上がったわけではありません。
アイスクリームの蓋を開ける、最後のひと手間
ハルストンの仕上げには、少し意外な場面があります。フォーキッシュが求めたのは、甘いバニラそのものではなく、大きな容器のアイスクリームの蓋を開けたときに感じる、冷たくなめらかな香りでした。
二人は実際にアイスクリームを買って嗅いでみます。そのとき、シャンは短く答えました。
「いま嗅いでいるのは、バニリンです。」
ベルナール・シャン。ジョー・フォーキッシュの回想より
シャンはバニリンを少しずつ加え、記録では処方中2.2%まで調整しました。香り全体がまろやかになり、ハルストンにアンバー系のような温かさを感じる人がいるのは、この仕上げにも関係すると、フォーキッシュは述べています。
日常の食べ物から受け取った感覚を、香料の言葉へ置き換える。そして、その素材を全体の中で釣り合わせる。調香師の仕事が、経験と知識を往復するものであることを伝えるエピソードです。
ハルストンは発売後、大きな商業的成功を収めました。新しい素材の使い方が広く知られるきっかけとなり、のちのウッディ香水にも影響を与えています。
アントニアズ・フラワーズ──生きた花の香りに近づく
1980年代のシャンは、重厚なシプレだけを作っていたわけではありません。アントニアズ・フラワーズ(Antonia’s Flowers)では、花屋に漂うフリージアの印象に取り組みました。
きっかけを作ったのは、ニューヨーク州イーストハンプトンで花屋を営んでいたアントニア・ベランカ(Antonia Bellanca)です。彼女が求めた花の香りと、アイ・エフ・エフの分析技術が出会いました。
花の周囲の空気に放たれる香気を調べるヘッドスペース技術と、それを香水として組み立てる技術。マイケル・エドワーズの著書を紹介した資料では、シャンとジョゼフィン・カタパノの共同制作として、同社のリビング・フラワー技術を用いた先駆的な作品に位置づけられています。
発売年は1984年と1985年の記録があります。素材を蒸留して得られる香りだけでなく、生きた花が空間へ放つ匂いへ関心を向けたことは、シャンの仕事のもう一つの広がりを示しています。
調香スタイル──一つのアコードを、何度も問い直す
シャンの作品には、互いに呼応する香りがあります。カボシャールからアラミスへ。アジュレ(Azurée)では柑橘や緑の明るさを増し、アロマティクス エリクシールではローズとパチュリの深みを広げる。アラミス900(Aramis 900)にも、そうした花と木の関係が見えてきます。
これは、すべて同じ処方だったという意味ではありません。複数の評論家が、素材の配置や香りの展開から読み取ってきた作品間のつながりです。同じテーマを繰り返すうちに、別の表情や可能性が現れる。シャンはその探究を、異なるブランドの依頼の中で続けました。
パチュリや苔の暗さは、花や緑を引き立てる背景にもなります。革の動物的な気配は、磨き方によって粗野にも、静かな官能性にも変わります。素材そのものだけではなく、どのような関係を作るかが、彼の香水の個性でした。
その一方で、ハルストンでは新しい合成素材を採り入れ、アントニアズ・フラワーズでは分析技術を生かします。伝統的なシプレを得意とすることと、新技術に開かれていることは、シャンの中で矛盾していませんでした。
ちなみに…
後輩に残した、精密な仕事の進め方
ベナイムがシャンから学んだと語るのは、徹底した処方と、整然とした創作の進め方です。華やかなひらめきだけを真似するのではなく、試作を積み重ね、構造を確かめる方法が伝わっていました。
後のアイ・エフ・エフ会長ユージン・グリサンティ(Eugene Grisanti)も、シャンには最後の仕上げでよい香水を芸術的な作品へ変える力があったと回想しています。アイスクリームから見つけたバニリンの場面は、その評価を具体的に理解させてくれます。
ビューティフルと晩年
1985年、エスティ ローダーのビューティフル(Beautiful)が発売されました。シャン、ソフィア・グロスマン(Sophia Grojsman)、マックス・ガヴァリーによる共同制作として紹介される、大きな花束のようなフローラルです。
重厚なシプレから花々の広がりまで、シャンの作品は一つの香調だけには収まりません。1987年に亡くなった後も、その香水と、彼のもとで学んだ調香師たちの仕事が残りました。
目の前の素材を嗅ぐことと、頭の中で全体を組み立てること。冒頭の「心で香りを嗅ぐ」という言葉は、感情だけでなく、想像力を新鮮に保つための仕事の心得でもあったのでしょう。
調香作品
| 年 | ブランド | 作品名 | 共同調香師・備考 |
|---|---|---|---|
| 1959 | パルファム グレ | カボシャール | — |
| 1964/1965 | アラミス | アラミス | 発売年に資料差があります |
| 1965 | コティ(Coty) | アンプレヴュ(Imprévu) | — |
| 1968 | エスティ ローダー | エスティ(Estée) | — |
| 1969 | エスティ ローダー | アジュレ | — |
| 1971 | クリニーク | アロマティクス エリクシール | — |
| 1972 | エスティ ローダー | アリアージュ(Aliage/Alliage) | フランシス・カマイユ(Francis Camail)との共同表記あり。カマイユ単独とする資料もあります |
| 1973 | アラミス | アラミス900 | — |
| 1975 | ハルストン | ハルストン | マックス・ガヴァリー |
| 1978 | アラミス | デヴィン(Devin) | 1978年のフィフィ賞受賞作として紹介されています |
| 1978 | エスティ ローダー | シナバー(Cinnabar) | ジョゼフィン・カタパノとの共同表記があります |
| 1978 | ラルフ ローレン(Ralph Lauren) | ローレン(Lauren) | — |
| 1984/1985 | アントニアズ・フラワーズ | アントニアズ・フラワーズ | ジョゼフィン・カタパノ。資料により年・共同作者の記載が異なります |
| 1985 | エスティ ローダー | ビューティフル | ソフィア・グロスマン、マックス・ガヴァリー |
参考文献
- Bois de Jasmin — Bernard Chant Archives
- Michael Edwards — American Legends, Halston chapter excerpt
- ÇaFleureBon — American Legends by Michael Edwards
- Encyclopedia.com — International Flavors & Fragrances Inc.
- Maison d’Etto — Carlos Benaïm Perfumer Spotlight
- IFF — IFF and Master Perfumer Carlos Benaim Celebrate 50 Years Together
- Now Smell This — Perfumers A to E
- Bois de Jasmin — Parfums Grès Cabochard New and Vintage
- The Black Narcissus — Master of Chypre: Imprévu by Coty
- Perfume Shrine — Aromatics Elixir by Clinique
- Persolaise — Aromatics In White from Clinique
- Parfumo — Bernard Chant and the Cabochard Family Tree
- Town & Country — The Real Story Behind the Making of Halston Perfume
- Australian Perfume Junkies — Antonia’s Flowers
- Skins — Antonia’s Flowers
- Basenotes — Devin by Aramis
- Basenotes — Cinnabar by Estée Lauder
- Parfumo — Bernard Chant
- Fragrantica — Bernard Chant
- Scents Memory — Bernard Chant


