Maison Incens(メゾン アンサン)― 父が遺した幻想文明から生まれる香りの物語

メゾン アンサンの世界観と香水「Cuir Erindil Eau de Parfum 100ml」を表現したブランドイメージ ブランド創業者

「Maison Incens(メゾン アンサン)は、私の人生で最も重要な人物――父の手稿の、嗅覚的な翻訳である。」

― フィリップ・コンスタンタン(メゾン アンサン創設者)

基本情報

  • 設立年:2013年
  • 創設者:フィリップ・コンスタンタン(Philippe CONSTANTIN)
  • 本拠地:フランス(グラース)
  • 公式サイト:https://www.maison-incens.com

創設者・ブランドの成り立ち

カメルーンで生まれ、カサブランカで育つ

フィリップ・コンスタンタンは、フランス人の父とモロッコ人の母のもと、カメルーンで生まれた。幼少期はモロッコのカサブランカで過ごし、17年以上をその地で生きた。後に自らの作品について語る中で触れているように、砂漠のスパイス、乾いたバラの香り、石のカップで淹れるお茶の湯気、そして浜辺で偶然見つけるアンバーグリス――そういった感覚的な記憶がカサブランカの日常に根ざしていた。

フランス人の父親は、架空の文明「アルトガニス(ARTGANIS)」を描いた手稿を書き遺した。革のキャンバスに絵画と物語を記したその手稿は、香りを社会秩序の中核とする幻想的な世界を描いている。フィリップはやがてその物語を受け継ぐことになるが、最初から香りの世界に進むつもりではなかった。

経済学から香りへ、転機の出会い

18歳でフランスへ渡ったフィリップは、経済学と国際法を学ぼうとしていた。困っている人々を助けるために国際機関への就職を志していたという。しかし、その道を変えたのは一人の調香師との出会いであった。

ジャン=クロード・ジゴド(Jean-Claude Gigodot)との出会いが、フィリップの人生と仕事を一変させた。この日を境に、香水への情熱が生まれた。グラース出身の調香師であるジゴドは、フランス香水産業の深い伝統を体現する存在だった。以降、フィリップは調香の世界へと深く踏み入っていく。

父の手稿を香りに翻訳する、という決断

調香師との出会いから数年後、フィリップは一つの決断を下す。父が息子に遺した手稿――アルトガニス文明を描いた物語と絵画の集成――に敬意を表し、それを香水という形で具現化することを目指してMaison Incens(メゾン アンサン)を設立したのが2013年である。

ブランド名は、手稿の物語に登場するアルトガニス帝国の支配者一族「Maison Incens(メゾン・アンサン一族)」から取られている。この一族は、香りによって帝国全土を統治し、コミュニケーションの手段も、社会的序列の証しも、すべて香りによって成り立つ世界に生きているという。フィリップの作る香水は、その父の物語の「嗅覚的なサイン」である、と公式サイトには記されている。

アルトガニス文明の宇宙観

公式サイトが明かすアルトガニス文明の設定は、ブランドの世界観を理解するうえで欠かせない。アルトガニス人は宇宙を旅し、訪れた各世界で最も美しい香りを発見して持ち帰るという。父の物語では「地球のサイクル」に焦点が当てられており、それがそのままコレクションの構造になっている。

  • 第一オーパス:アルトガニス固有のエッセンスで作られた香水群。各香水がアルトガニス社会で一定の役割を担う。
  • 第二オーパス:アルトガニス人がモロッコに定住し、その豊かな嗅覚的世界に魅せられた時代。
  • 第三オーパス:彼らが地球上の各地で観察した占術にまつわる香り。
  • 第四オーパス:地球上の伝説的な原料の「核心」だけを探求する。

この構造は、単なるマーケティング上の世界観に留まらず、コレクションの命名規則や各香水の物語設定にまで一貫して反映されている。

ブランドのこだわり

香りづくりの哲学――感情に訴える、唯一無二のアプローチ

Maison Incens(メゾン アンサン)の香水づくりは、「感情によって支配された製品を生み出すことで、ラグジュアリーの概念を再定義する」という思想に貫かれている。各作品は「嗅覚的・感覚的・感情的な旅への招待状」として設計されており、流行のトレンドを追わない姿勢が一貫している。

また、香水名の命名法も独特だ。「ムスク(Musc)」「ウード(Oud)」といった素材の名称を前置きに、そこに架空のアルトガニス語と思われる独自の接尾辞(”Kalirii(カリリ)” “Deneii(デネイ)” “Aoudii(アウディ)”のような、語末に”ii”を重ねる形)を組み合わせることで、現実の香料と虚構の言語が交差する固有名詞を生み出している。この”ii”の繰り返しはブランド全体に統一感を与えると同時に、架空文明の世界観を名前の中に封じ込める役割を果たしている。

調香師との協業――グラースの伝統を軸に

Maison Incens(メゾン アンサン)の香水のほぼ全作品は、グラース出身の調香師ジャン=クロード・ジゴドが手がけている。ジゴドは1947年、世界の香水の首都とも呼ばれるグラースに生まれ、協業ブランドの公式略歴によればパリのド・レール(De Laire)で調香を学んだ後、スイスのジボダン(Givaudan)でキャリアを積んだ人物だ。その人脈にはジャン=クロード・エレナやルシアン・フェレーロといった現代香水史を代表する調香師も含まれる。90年代には自らの調香会社「Sentaromatique(サントアロマティーク)」を設立し、カロン(Caron)、ラルチザン パフューム(L’Artisan Parfumeur)、シスレー(Sisley)など多くの名門ブランドで実績を積んできた。

また、一部の作品ではジャン=クロードの息子エリック・ジゴド(Éric Gigodot)が調香を担当している。1976年グラース生まれのエリックは父の背中を見ながら育ち、マネ(Mane)やフィルメニッヒ(Firmenich)などで腕を磨いた調香師だ。親子二代にわたるグラースの調香師が、Maison Incens(メゾン アンサン)の創作を支えている。

ボトルとパッケージ――ミニマルの中に、唯一無二の贅沢を

パッケージデザインの基本コンセプトは「ミニマル、シンプル、クリーンなフォント」である。ボトルは透明ガラスで、キャップはブラックまたはゴールド。過剰な装飾を排し、香りそのものを前景に立てる潔さがある。

ただし、最上位コレクション「レ・アンサンセ(Les Incensées)」に限っては様相が一変する。ボトル全体が本物の石で覆われ、レーザー彫刻が施されたこの特別仕様は、ひとつひとつが異なる表情を持つ唯一無二の仕上がりになっている。同じ製品が二本と存在しないという意味で、”極度のラグジュアリー”を体現したデザインである。すべての製品に共通するグレーのボックスは、ブランドのトーンを落ち着きのある統一感でまとめている。

香水ラインナップ

Maison Incens(メゾン アンサン)のコレクションは、父の手稿に描かれたアルトガニス文明の時代区分に沿って構成された「オーパス(Opus=作品)」と呼ばれるシリーズで展開されている。

The Black Opus Collection(ブラック・オーパス コレクション)

ブランドの最初のコレクション(第一オーパス)であり、アルトガニスの固有のエッセンスから生み出された香水群。各作品はアルトガニス一族の特定のメンバーに捧げられており、それぞれが人物の個性や役割を香りで表現している。

代表作のひとつ「ムスク・カリリ(Musc Kalirii)」は”権力の香り”と位置づけられ、カリリ女王(Kalirii)に捧げられた香水である。ベルガモットやオレンジブロッサム、ジャスミン、ローズを重ねた官能的なムスク香で、2014年リリース。同年発売の「クイール・エリンディル(Cuir Erindil)」は”二元性の香り”として知られ、シトラスとレザー、アニマリック(獣を思わせる官能的なムスク)が対峙する複雑な構成が特徴だ。

また「フィグ・エレイ(Fig Eleii)」は明るいグリーン系のフィグとチューベローズを軸にした”調和の香り”、「フィグ・アウディ(Fig Aoudii)」は”誘惑の香り”として、同じイチジクの素材を対照的なアプローチで表現している。

The Moroccan Tales Collection(モロッカン・テールズ コレクション)

第二オーパス。アルトガニス人がモロッコに定住し、その嗅覚的豊かさに魅了された時代の物語を表現するコレクションで、公式サイトに転載された2017年の記事では、同年のエクサンス(Esxence)にてローンチされたと紹介されている。

コレクションの核心は、モロッコに実在するふたつの湖、ティスリット(Tislit)とイスリ(Isli)にまつわる悲しい伝説から着想されている。呪われた二人の恋人が流した涙がこの二つの湖になったとされる伝説を、「サンタル・ティスリット(Santal Tislit)」と「シプレ・イスリ(Chypre Isli)」というふたつの作品で表現した。「ネロリ・アニマリス(Neroli Animalis)」もこのコレクションに属し、グリーンなネロリとアニマリックな香調が交差する個性的な一作だ。

The Divinatory Waters Collection(ディヴィナトリー・ウォーターズ コレクション)

第三オーパス。アルトガニス人が地球上の各地で観察した「占術の水(Les Eaux Divinatoires/レ・ゾー・ディヴィナトワール)」をテーマにする。

「アンサン・カプノス(Encens Kapnos)」(2020年)は、エリック・ジゴド調香による一作。カプノスはギリシャ語で「煙」を意味し、煙の形や灰を観察して未来を読む占術「カプノマンシー(Kapnomancy)」がモチーフだ。赤い果実、グリーンハーブ、スモーキーなフランキンセンスが重なる複雑な構成である。「アンサン・ピューロ(Encens Pyro)」は”火”そのものを香りにした一作で、強い煙の印象が特徴とされる。

Les Incensées / Black Opus Extraits(レ・アンサンセ/ブラック・オーパス・エクストレ)

第四オーパス。高濃度のエキストレ・ドゥ・パルファムで展開される最上位ライン。ウード(Oud)、ムスク(Musc)、ローズ(Rose)の”核心”だけを探求するというコンセプトを持ち、石で覆われた特別ボトルに収められる。「クール・ドゥ・ウード(Coeur de Oud)」はジャン=クロード・ジゴド調香で、シダーウッドとミルラの豊かなトップから始まり、レザーとジャスミン、サンダルウッド、パチョリのアニマリックなベースへと続く。

日本限定コラボ作品:ローズ ビヨリ(Rose Biyori)

2024年11月の日本上陸に際して、ノーズショップ(NOSE SHOP)との共同制作による日本限定香水「ローズ ビヨリ」が誕生した。コンセプトメイクは世界で活躍する日本人調香師・稲葉智夫氏が担当し、グラースの専属調香師エリック・ジゴドが調香を行った。

テーマは鎌倉の旧前田侯爵別荘(現・鎌倉文学館)のバラ園と、1624年に前田家へ届けられたとされる希少な沈香木「初音(はつね)」の嗅覚的な翻訳。フランス発の架空文明の物語と日本の歴史的記憶が交差するという、ブランドにとっても初のエクスクルーシブ作品となった。

ちなみに…

香水名のなかに棲む、架空の語

Maison Incens(メゾン アンサン)の香水名に繰り返し現れる語末の「ii」(例:Kalirii〈カリリ〉、Deneii〈デネイ〉、Aoudii〈アウディ〉)は、アルトガニス文明の架空の言語から来ていると思われる。しかし実際には、ブランドはその命名規則の詳細を公開しておらず、調査を行ったレビュアーによれば一部はアラビア語やアフリカの言語、ベルベル語(タマジット語)など実在する言語に由来するものも混在しているようだ。語の出所が謎に包まれたままであることも、このブランドの独特な磁力のひとつかもしれない。

「父の本」か「祖父の本」か?

ドイツのYouTube(ユーチューブ)のフレグランスチャンネルが2025年に公開した紹介動画では、「フィリップの祖父が書いた本」という紹介がなされている。一方、公式サイトや日本の正式プレスリリースでは一貫して「父(father)の手稿」と記されており、公式情報が「父」である点は明確だ。このような細部の混乱が生じるほど、創設者の個人的な物語がブランドの中核に深く埋め込まれているといえるだろう。

参考文献