Jean Claude Ellena
ジャン=クロード・エレナ

ジャン=クロード・エレナ 調香師名鑑

エレナを知るための3つの時代

私は常にジャン=クロード・エレナを、多くの時代に分けることができるピカソのようだと考えていました。

フレデリック・マル

 ジャン=クロード・エレナは、自分の調香師のスタイルを3つの時代に分けています。

1. 最初の時代は、ブランドから与えられた指示を満たす、組織的な仕事をこなす時代です。この時代は、大量の香料を使い、複雑さを生み出そうとしていた若かりし頃になります。これはVan Cleef & Arpelsのファーストがあたります。

 しかし、あるブランドで指示通りに作ったところ、自分が嫌だと感じる、しかも明らかに売れないと思われる香りができました。ブランド担当者はそれでいいんだと言いましたが、結局、全く売れずに終わりました。この経験から、従ってばかりで、自分が良いと思わない香水は作らないでおこうとエレナは決めます。

2. ミニマリズムの時代。限られた香料の中で、香りを生み出す時代です。最初の香水は、ブルガリのオーパフメオーテヴェールでした。そして、フレデリック・マルを経て、エルメスの専属調香師を退任するまで、この時代は続きます。

 エルメスの専属調香師を終えたエレナは、少しの休息を終えて、再び走り出します。それは、エルメスで磨かれ、孵化したエレナが生み出す突き詰めたスタイルの時代です。

3. エルメス退社後の新たな時代。今まで以上にシンプルさを突き詰めたシンプリシティの時代。それは使う香料が少なければ少ないほど、香水が語りかけるようになるという極致の時代です。

The less I use, the more it speaks.

ジャン=クロード・エレナ

エレナの生い立ち

 1947年4月7日フランスのグラースで、調香師の父のもとに生まれます。父親は、母が嫌がるため、仕事の話はほとんどしませんでしたが、常に食事だけでなく本やあらゆるものの匂いを嗅ぐという習慣がありました。それは幼少期からエレナに影響を与え、エレナの娘セリーヌまで続く習慣になります。

私の記憶に刻まれている匂いの多くは、父が行ってきたことを無意識にまねた結果である。父が習慣としていたことは、食べもの飲みものを口にする前に必ず匂いを嗅ぐことである。果物でも、調理したものでも、サラダでも、ドレッシングでも、パンでも、ワインでも、父はなんでも匂いを嗅いでいた。とらえどころのないように思える水でさえ、匂いを嗅いでいた。母はそれを嫌がり、私たち二人のことを行儀が悪いとたしなめ、改めさせようと努めていた。

ジャン=クロード・エレナ

 母はマダム・ロシャス(Madame Rochas、ロシャス、1960、ギ・ロベール)をつけていた女性でした。その記憶はエレナの中にずっと刻まれています。

母がそれ以外の香りをまとうことなど私には考えられなかったし、また、まとってほしくもなかった。この頃の私は、母をひとりの女性として意識するようになっていたのかもしれない。

ジャン=クロード・エレナ

 小さいころは、父方の祖母の隣人の手伝いとして、ジャスミンを摘んで、調香師に売っていました。そのときに腕についたジャスミンの匂いから、エレナは、香水や女性の香りを学びました。また、学校での成績は良くなく、いつも父から「お前は働かなくちゃならない」と言われており、母親も心配していました。

 ティーンエイジャーの年齢になると、母方の叔父が音楽の先生だったので、叔父のところに2ヶ月に1週間くらい行って、ピアノを教えてもらっていました。しかし、ピアノを演奏しても家族は全く興味を持ってくれませんでした。

調香師との出会い

 16歳(1963年)になるとグラースにあるアントワーヌ・シリス工房で夜のシフトで3年間働きます。この会社は20世紀前半にコティに香料を供給しており、世界で最も古いエッセンシャルオイルのメーカーの1つでした。ここで、抽出や蒸留、分析などを経験し、色々な香りを知ることになります。

 19歳(1966年)になると兵役のため、シリスを去りますが、自分が将来、どんな職業につくか見当もつかず、考えている間に兵役が終わりました。

 ちょうど、このとき、エレナの父が、ドラゴコ社の出している雑誌「ドラゴコ レポート」をエレナに渡します。それは、調香師エドモン・ルドニツカの総特集号でした。これがルドニツカとエレナの最初の出会いでした。
 『香水と匂いの若き作曲家』というタイトルの記事を読んだエレナは非常に感動し、息子のミシェルと知り合いだったので、数ヶ月後にルドニツカの家で彼と会う約束をし、2人は生涯の盟友になっていきます。

 1967年、20歳のとき、18歳のときに知り合ったSusannah Cusakと結婚をします。彼女はアイリッシュ系の家系で、非常に聡明であり、彼女の影響でエレナは、ボードレールやジャン・ジオノといった本を読むようになります。
 翌年、1968年に娘のセリーヌが生まれます。

調香師への挑戦

 1968年、21歳のとき、ジボダンの新しくなった香水学校の第一期生として入学します。そこでは、毎日、天然香料合成香料を記憶したり、カテゴリー分けしたり、どうやってジャスミンの香りを作るかなどを学んでいました。

 しかし、すぐにそれらすべてにエレナはうんざりしたため、当時、ジボダンのマスターパフューマーであったMaurice Thiboudに実際の仕事をさせてもらえないか尋ねます。そこでThiboudは、まず、既存の香水を作り直すという課題を与え(香りを嗅いでその香りを構築する)、エレナは9か月間、それを完璧にこなしました。
 そして、Thiboudは、特別に学校を辞めさせ(結局、3年コースのはずが9か月しかいなかった)、自分の下でジュニアパフューマーとしてエレナを雇うことにします。エレナはラボラトリーのアシスタントとして、三人の調香師の処方に従い、原料を計量し、香りについてどんどん学んでいきます。ちなみに、ここでエレナが初めて調香した香水は、アフリカマーケット向けの香水で、オレンジやパチュリから成る香水でした

 1972年、Jean Francois Laporte(ジャン・フランソワ・ラポルト、-2011)がRoland de Saint VincentとともにSisley(シスレー)を創始すると、1974年、シスレー最初の香水「オードゥカンパーニュ」を調香します。シスレーは、レタスやアップルの育つノルマンディー地方の香りを依頼し、エレナはそこに自分が育てているトマトの香りを加え、作りました。

1. 大量の香料を使う時代

 1976年、Van Cleef & Arpelsの「ファースト」を調香し、ジボダンを離れます。

 ファーストでのエレナの試みは、No゜5やアルページュに見られるローズジャスミンスズランのとてもフローラルなノートを使いながら、中心はへディオンを使うということでした。

 この香水が、ジャン=クロード・エレナのスタイルにおいて、重要な位置を占めているのは、ファーストは、160の原料を使って(しかもジャスミンは4種類も!)作られた香水だからです。つまり、エレナ史上、たくさんの香料を使って複雑性を持たせる時代が、このファーストの時代だったのです。この時は、考え方も複雑で、フォーミュラも複雑であったと回想しています。

私は、ファーストは、クラシックな方法で作られた20世紀最後の香水であり、マーケティングが使われなかった最後の香水だと考えています。そして、今日、こんなリスクを取る人は誰もいないでしょう。

ジャン=クロード・エレナ

シンプルな香水の探究

 1976年、シスレーで友達となったジャン・ラポルトがラルチザンを創始します(ちなみに、ラポルトは1982年にブランドを売却しています)。ジャン・ラポルトは元々、化学者であり、独学で調香を勉強しました。
 1978年、ラルチザン最初の香水、ミュールエムスク(Mure et Musc)を作る際、エレナがアドバイスをして調香しました。その後、ラポルトと仲の良いエレナは、ラルチザンでボアファリヌやローダンブルといった香水を発表します。

 1977年、調香師としてのキャリアに自信をつけたエレナは、ルドニツカに連絡を取り、対話を繰り返し、ルドニツカの香水に対する考え、ミニマリズムを知ることになります。

ルドニツカから受け継いだものは、そのなかからいかに選りすぐってもきりがないほど、厳選して減らした香料のコレクションをもとに、処方箋をミニマルにすることで簡潔さをめざすこと、そして、フォルムという概念を追求していくことである。私はルドニツカの厳密さよりも、彼の処方のつくり方が好きだった。そのやり方にしても、ルドニツカの気難しさがなくなることはなかったが。私のほうも構成する原料の配合比でハーモニーを表現しようとするのはやめた。そして、匂い同士の関係が重要だと確信するにいたったのである。

ジャン=クロード・エレナ

Simplicityというアクセントを与えて、最初に”知的な”香水を生み出したのはルドニツカでした。

ジャン=クロード・エレナ

 1983年、チーフパフューマーとして再びジボダンで働き、その後、ハーマン&ライマー(シムライズ)に移ります。そして、1989年、エレナは「香水業界に何か言うべき時がきた」と強く感じます。

香水は、たまたま原料を混ぜたらできてしまったというものではなく、じつにさまざまな思考を重ねて誕生する結晶であり、精魂を注いだ作品であるということを広く世に知らしめたいのです。

ジャン=クロード・エレナ

 1990年、4月26日世界で最も大きい香水の図書館Osmothèque(オスモテック)Jean Kerléo(ジャン・ケルレオ)、エレナ、Guy Robert(ギロベール)を含めた10名によって設立されます(現在はベルサイユにある)。
 このとき、エレナはマーケットを分析して香水を作るのは止めることを決心します。

2. ミニマリズムの時代

私は自然をコピーするのではなく、トランスフォームするのです。

ジャン=クロード・エレナ

 1993年、ミニマリズムに目覚めたエレナは、ブルガリからオーパフメオーテヴェール(20種前後の香料で生み出した!)を発表します。この時、数十年に渡り、素晴らしい香水をフレデリック・マルと出会っています。

 1998年、バレンシアガでRumba、イヴ・サンローランでインラブアゲイン(In Love Again)、カルティエでデクラレーション(Declaration)を発表し、着実にその名を歴史に刻んでいきます。
 Declaration(デクラレーション)を作る際に関わったのが、後にエルメスの専属調香師になるきっかけとなるVeronique Gautier(ベロニク・ゴティエ)でした。
 彼女は当時、カルティエの香水部門の責任者でありました。カルティエが何か素晴らしいクオリティを持ち、トレンドに流されない香水を考えているときに、エレナは元々作っていたユニークな香水をベロニクに見せ、採用されたのでした。

ブランドの創設

 2000年、ティエリー・ドゥ・バシュマコフと自身の会社ザディファレントカンパニー(The Different Company)を設立しました。Thierry De Baschmakoff (ティエリー・ドゥ・バシュマコフ)は、元々、エンジニアでしたが、香水の世界に魅せられて、1992年にブルガリのオーパフメオーテヴェールのボトルデザインをした人物です。

ちなみに

ティエリーは、ゲランや100BON、ジミーチュウといった香水のボトルデザインだけでなく、1997年DiorのAddictのリップスティックや2006年ゲランのオーキデアンペリアルといった化粧品のデザインしています。

 また、同時期に、フレデリック・マルとコラボし、2000年~2004年まで4つの香りを作っています。

彼と話しているとき、彼は絶対に大声では話しません。それは彼の作る香水も同じです。

フレデリック・マル

香水界の革命始まる

匂いは言葉であり、香水は文学である。

ジャン=クロード・エレナ

 1978年からエルメスを所有していたJean-Louis Dumas(ジャン・ルイ・デュマ)は、シャネルの香水がインハウスパフューマーのジャック・ポルジュの下で成功しているのを見て、エルメスもシャネルの戦略を見習おうと決めました。当時、エルメスの香水の売り上げは、5400万ユーロ。シャネルはNo゜5だけで、1億8000万ユーロでした。

エルメスの問題はシンプルでした。世界中の顧客はエルメスの香水を手に取る前に、シャネルやアルマーニ、ディオールのボトルを手に取っているのでした。ラグジュアリーハウスにとって、香水の問題は、単なるイメージの問題ではありません。それはビジネスの中心の問題になることは避けられません。なぜなら、香水は大きな利益につながり、ほとんどのハイエンドなブランドにとって決定的な収益の素になっているからです(例えば、当時、YSLは83.5%が香水であった)。

チャンドラー・バール

 デュマはまず、シャネルやカルティエで香水のオペレーションをしていたベテランのVeronique Gautier(ベロニク・ゴティエ)を責任者として雇いました。そして、2人の前に立ちふさがったのは、なぜChanel No゜5が80年以上の時を経ても、世界的なベストセラーのトップに未だ君臨し続けるのか、という疑問でした。

 2人は業界の謎からスタートしました。それは、ダナキャランやラルフローレンの香水は決して彼らが作った香水ではないし、彼らは方法も知らなければ、触れることすらもしていないということです。ほとんどの香水は、調香師という名の専門家ゴースト集団で、デザイナーの影に隠れています。彼らは、コンセプトを伝えられ、作るだけでした。では、彼らは、そのブランドの美的価値観やテイスト、スタイルを知っているのでしょうか。ほとんどの調香師は何も知りません。

 エルメスは1837年、ティエリー・エルメスがバス=デュ=ルンパール通りに開いた馬具工房です。1879年にフォーブル・サントノーレ通り24番地に移転し、1892年からバッグを制作し始めています。クラフツマンシップはエルメスの代名詞であり、サドルの品質はレザーにも反映されていました。ただ1つ香水を除いては。

 伝統や記憶、美的価値観を香水にも反映させていたブランドが1つだけありました。それが専属調香師を1921年以来、雇っているシャネルだったのです。エルメスはシャネルの成した商業的な成功ももちろん欲しかったのですが、もっと重要なことに目を向けていました。それは、彼らのレザーバッグやシルクのタイが持つエレガンスや一貫性が表現されている香水のコレクションが欲しいということでした。つまり、エルメスを純粋に抽出した香水であり、フランス人のプライドを満たす香水が欲しかったのです。

 その答えが、ジャン=クロード・エレナという名の男を専属調香師として迎え入れるということでした。カルティエで共に香水を作ったヴェロニクがエレナを推薦したのでした。

ファッションは私に何の興味も湧かせません。私はラグジュアリーが好きですが、ステータスの象徴としては使いません。私はラグジュアリーに興味がないのです。しかし、ラグジュアリーに興味がある人たちによってもたらされる人生の質には興味があります。

ジャン=クロード・エレナ

 ヴェロニクは、エレナに調香師の立場として望むならどんな方向にでも向かえる権利があることをエレナに伝え、エレナは、香水がどういうものなのかを説きます。

香水は完全に考え抜かれたものでなければなりません。全ての角度から考えないとだめなんです。それから作り始めます。完璧な原料を使って。コストは問題ではありません。その考えを最も素晴らしい原料に当てはめていくのです。

ジャン=クロード・エレナ

 1年間ヴェロニクやデュマと何度も意見をかわし、インハウスパフューマーにブランドは何ができるか、などを話し合いました。そして、2つの条件の元、2004年4月に契約が結ばれました。

契約条件

①マーケティングテストは一切しないこと。
②最終決定は、香水部門のトップと調香師の間で決めること。

 これにより、マーケットテストもなく、自分のワークスペース(カブリ)も持つことができ、自由のもと、エレナは香水を作ることができるようになります。

エルメスは彼よりもいい選択はなかったでしょう。彼は自身の職業、そして原料に対して妥協しないということに情熱を捧げている調香師ですから。

カリス・ベッカー

彼のキャリアにとって、これは本当に彼の作品が認められたことです。ジャン=クロード・エレナは、フランソワ・コティのようにエルメスのために真の美を生み出すことができるでしょう。香りを通して、彼らの歴史を知り、彼らのストーリを伝えるために。

フランシス・クルジャン

 そして、エレナはエルメス専属調香師としてのデビュー作「ナイルの庭」で、その名を轟かすことになります。

香水界で自由に羽ばたく唯一の男

私は自分の好きな香料で、自分の調香パレットをより広げるために、化学エンジニアのところに買い物に行っていました。しかし、すぐに100種類のムスクの中で、自然に見つかるのは10種であり、その違いはわずかだということに気づきました。しかも、それらがあってもよりクリエイティブになるわけではないし、単に市場にわずかな潤いを与えるだけにすぎないということが分かりました。

ジャン=クロード・エレナ

 エルメスに作ってもらった専用のラボには、ベッドルームと220の香料があります。多くの調香師が1000近くの原料をオルガンに持ち、たくさんの香料を使うのに対し、エレナが220のうち使用しているのは100ぐらいになります。そして、香水になると少ないもので、20の原料、多くても40から60しか使いません。

 そして、エレナのエルメスでの香水は大きく3つに分けて、制作されていました。

原料のポエム・俳句…エルメッセンスコレクション
ショートストーリー…庭コレクション
小説…テールドゥエルメスやメルヴェイユなどの他の香水

 そして、時は過ぎ、2013年12月、2代目専属調香師候補にChristine Nagel(クリスティーヌ・ナジル)が選ばれました。ナジェルは、2014年3月からエルメスに参加し、2016年に専属調香師として雇われますが、彼女を選んだのはエレナでした。当時、エレナ66歳、ナジル54歳でした。

次の専属調香師は、女性にしたかったのです。なぜなら、比較や争いを避けたかったからです。また、香水業界にスポットをあてたとき、製品を製造全体を見渡すことができ、自分のシグネチャーを持っている人物がよかった。クリスティーヌは、情熱的で、学校のフォーマットではなく、我慢強く、自らリスクを取り、知的なアプローチを香水のコンポジションにすることができます。そして、何より、香水へのアプローチの仕方が自分と同じだったのです。

ジャン=クロード・エレナ

3. 香水界で悟りを開いた男

 エルメスとの契約を終えたエレナは、娘セリーヌ・エレナ(Celine Ellena)の香水制作の手伝いをしながら、執筆作業にも取り組みました。それが自分の知識をシェアする方法だと考えていたのです。

率直に言えば、私は教えの悪い先生なんです。自分の弟子にコピーはされたくありません。それは自分の技術をシェアしたくないのではなく、全ての人はそれぞれのやり方を見つける必要があると考えているからです。私のやり方は非常に長いし、全く面白くありません。

ジャン=クロード・エレナ

 そして、娘のセリーヌに刺激され、もう一度香水を作りたいと再び香水業界に戻ったエレナは、新しい時代に突入するのです。つまり、エルメスでの香りの探究を経て、自身の歴史上、最も少ない香料で香水を作り始めることになります。それはシンプリシティを追い求めた先にありました。そう、彼こそ香水界で悟りを開いた男であり、ルドニツカですら成し得なかった香水の極致にたどり着いた最初で最後の男なのです。
 そして、エレナは自身の目指す俳句のような香水を生み出す調香師、俳句パフューマーとしてフレデリックマルを皮切りに、ニッチブランドで香水の創造をしていきます。

ミニマリズムは、私の作品の誤認だ。シンプリシティは、ミニマリズムではない。

ジャン=クロード・エレナ

もっとエレナを知りたい!

香水というのはアートだ。テクニックは重要だが、アート性の欠けたテクニックは何の意味もない。そして、テクニックの欠けたアートも意味を成さない。

ジャン=クロード・エレナ

・エレナの兄弟ベルナール・エレナ(Bernard Ellena)も調香師(ハナエモリの香水を調香)であり、息子Herveは建築家になっています。

・特に強く影響を受けた香水は、ディオリッシモ、フィジー(ギラロッシュ)、Aliage(エスティローダー)、フェミニテドゥボワ(セルジュルタンス)、Bois Noir(シャネル)

・カルティエの専属調香師マティルデ・ローランが尊敬している調香師

・特に香水に入れるのが好きな香料は、へディオン。それはサポートをする香料で、水彩画のようなタッチの香り。そして、すべてのフォーミュラには、ピラジン(Pyrazine)を入れている。自分で「シグネチャーエレナ」と呼ぶくらい使っている。

・好きな作家…ジャン・ジオノ、アルベール・カミュ

・心が困惑しているときは、モーツァルトを。創造が必要なときはジャズを聞く。

・仏教の禅の思想や道教に興味がある。

・好きなアートは、Soulages。彼と同じようにパレットを制限し、同じパレットの中で新しいシェードを見つけようとしている。

エレナの著作

『香水』(2010年)

『調香師日記』(2011年)

『L’Ecrivain D’Odeurs』(2017年)(仏語のみ。購入はこちら

『Atlas of Perfumed Botany』(2021年)(仏語の購入はこちら。英語版の予約はこちら

この記事を書いた人

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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