「調香師ダニエル・モリエールの指導のもと、私は香料を学ぶ長い道のりの、最初の一歩を踏み出していました。」
調香師カリーヌ・シュヴァリエ、グラースでの研修を振り返って
フランスの調香師。
ディプティック(Diptyque)のタム ダオ(Tam Dao)、カルティエ(Cartier)のサントス ドゥ カルティエ(Santos de Cartier)、ジバンシィ(Givenchy)のインサンセ(Insensé)。木の静けさ、スパイスの力強さ、男性用香水のなかに広がる花々。一見すると異なる世界に属する作品を、ダニエル・モリエールは手がけてきました。
その仕事は、ボトルに収まった香りだけではありません。若い調香師に素材を教え、コンクールで次の才能を見守り、過去の香水の処方を守ることにも関わっています。作品と関係者の言葉を辿ると、創作と継承の両方に携わってきた人の姿が見えてきます。
調香史
グラースで、若い調香師に素材を教える
モリエールの仕事の一端を伝えるのが、冒頭に挙げたカリーヌ・シュヴァリエ(Karine Chevallier)の回想です。独立調香師となった彼女は、2023年に香りの専門媒体ネ(Nez)へ寄せた文章で、18歳の夏、グラースのロベルテ(Robertet)で初めて研修した経験を振り返っています。
手元にあったのは、ジャン・カール(Jean Carles)の方法に基づく教材でした。香料を系統ごとに覚え、次には互いの違いを比較する。モリエールの指導のもと、シュヴァリエは原料を一つずつ嗅ぎ、香水を作るための感覚を育てていきました。
なかでも強く心を動かしたのが、ベチバーの精油です。父がまとっていたカルヴェン(Carven)のベチバーの記憶と、原料そのものの香りが結びつきました。一つの素材からどの側面を引き出し、何を組み合わせれば香水になるのか。完成品と原料の間を行き来する経験が、彼女の作り方の土台になったといいます。
この回想に現れるモリエールは、すでに後進を教える立場にあります。本人の幼少期を推し量るよりも、原料の瓶を前に若い人を導いていた姿から、その仕事へ近づくことができます。
マンで重ねたキャリア
モリエールは、グラース周辺に根を持つ香料会社マン(Mane)でも長く働きました。香水情報サイトのアロモ(Aromo)は、同社に30年以上在籍した調香師として紹介しています。
1980年にはオー ドゥ ジバンシィ(Eau de Givenchy)、1981年にはサントス ドゥ カルティエ。続いてレオナール(Léonard)のバラエ(Balahé、1983年)、ギ ラロッシュ(Guy Laroche)のクランデスティン(Clandestine、1986年)と、異なるファッションブランドの香りを手がけました。
1990年代にはインサンセやフルール ダンテルディ(Fleur d’Interdit)、ジャコモ(Jacomo)のパラドックス ブルー(Paradox Blue)などへ仕事が広がります。ブランドごとの人物像や時代の気分に応じて、花、果実、ハーブ、木の表情を変えていったことが、作品の並びから分かります。
2004年のピエール カルダン(Pierre Cardin)、レヴェラシオン(Révélation)の紹介にも、調香師名とともにマン所属と記されています。柑橘やハーブの清涼感に、チークやインセンスを思わせる木質感を重ねた作品です。木を中心にしながら、タム ダオとはまた違う、スパイシーな男性像へ向かっています。
アジュール・フレグランスへ
その後、モリエールはアジュール・フレグランス(Azur Fragrances)へ移ります。少なくとも2012年には、フランス調香師協会(Société Française des Parfumeurs/SFP)の記録に、この会社の所属として名前が登場します。
アジュール・フレグランスは1978年創業。グラース近郊のムアン=サルトゥーに本社を置き、顧客の商品に合わせた香りを作る独立系企業です。ファインフレグランスだけでなく、ボディケアやヘアケア、洗剤、キャンドル、空間の香りなども扱っています。
個別の依頼に応じるといっても、個人客のための特注香水だけを意味するわけではありません。ブランドや製品が求める条件を読み取り、その用途に合う香りを作る仕事です。モリエールの経歴も、そうした香料会社の幅広い創作の現場につながっています。
次の才能を見守る
2012年、モリエールはフランス調香師協会の第28回国際調香師クリエイター賞で、技術審査員を務めました。この賞は1957年に始まり、若い調香師の才能を見いだしてきたものです。
同年の技術審査には、ジャック・ユクリエ(Jacques Huclier)、ジャン・ジャック(Jean Jacques)、ナタリー・ローソン(Nathalie Lorson)らも参加。12か国から集まった82の匿名作品を審査し、芸術審査へ進む5作品を選んでいます。
若い人に原料を教えることと、出来上がった作品を評価すること。形は違っても、次の世代の創作に向き合う仕事です。シュヴァリエの回想と並べると、モリエールが作品の作者としてだけでなく、業界の技術を支える側にもいたことが伝わってきます。
調香スタイル──水を含んだ花と、木の深さ
モリエールの作品を、一つの得意な香調だけで説明するのは難しいところです。
サントス ドゥ カルティエには、乾いたハーブやスパイス、深い木の印象があります。一方、オー ドゥ ジバンシィやジャルダン クロ(Jardin Clos)には、水を含んだ花のようなみずみずしさが現れます。タム ダオでは、サンダルウッドとシダーの質感が中心です。
香水批評ブログ、ザ ブラック ナルシサス(The Black Narcissus)の書き手は、オリジナルのオー ドゥ ジバンシィについて、こう述べています。
「私にはいつも、マリンというカテゴリーができる前から、マリンの香りのように感じられました。」
ザ ブラック ナルシサス、オー ドゥ ジバンシィのレビュー、2022年
これは、後年の評者が感じた印象です。発売時からマリン香水として分類されていた、という意味ではありません。花やハーブ、苔の組み合わせのなかに、水辺を思わせる湿り気を感じ取っているのです。
同じ評者は、モリエールが対照的に暗く、力強いサントス ドゥ カルティエも作ったことに注目しています。特定の素材を毎回同じように見せるのではなく、作品ごとに重さ、明るさ、湿度の感覚を変える。その幅の広さが、モリエールを知る一つの手がかりになります。
代表作とその背景
タム ダオ──創設者の記憶を、木の香りへ
2003年のタム ダオ オードトワレは、モリエールの名と結びつけて語られる代表作です。出発点にあるのは、ディプティックの共同創設者イヴ・クエロン(Yves Coueslant)が、ベトナムで過ごした幼少期の記憶でした。
森や寺院、燃やされるサンダルウッド。遠い土地で覚えた感覚を、今いる場所で呼び戻すための香りです。ディプティックは、オードトワレを次のように紹介しています。
「少しスパイシーなサンダルウッドの香り。ベトナムの森と、神聖な寺院。」
ディプティック公式、タム ダオ オードトワレの商品説明より
サンダルウッドの柔らかさにシダーの乾いた輪郭が重なり、サイプレスやマートルが清涼感をもたらします。木の香りをただ重く積み上げるのでなく、肌の上で静かに続く、なめらかな質感にまとめた作品です。
香水ブログ、アイ メイク センツ(I Make Scents)は、その印象をクリーミーな鉛筆にたとえています。木を削ったような乾きと、乳白色を思わせる柔らかさ。その二つが同時に感じられることを、身近なものに置き換えた表現です。
後にモリエールは、同じ主題のオードパルファムも手がけました。一般に2013年の作品として紹介されますが、データベースには2012年の記録もあります。ディプティックの現在の説明では、アジアのスパイスがサンダルウッドのクリーミーな側面を際立たせています。単純に濃度の高低だけでなく、同じ記憶をどの角度から見せるかという違いもあるのです。
インサンセ──男性用香水に広がる花々
1993年、ジバンシィから発表されたインサンセは、男性用香水でありながら、花の表情が豊かな作品です。
黒スグリやバジルの鮮やかさから、スズラン、マグノリア、アイリスなどを思わせるフローラルへ。その下を、バルサムや木の深さが支えます。清潔な石鹸を思わせる部分と、暗く煙るような部分が、一つの香りのなかで響き合います。
イー オールド シベット キャット(Ye Olde Civet Cat)のレビューでは、香水評論家ルカ・トゥリン(Luca Turin)が用いた言葉として、哀愁と謎という表現が紹介されています。単に華やかな花の香水ではなく、どこか懐かしく、正体をつかみきれない印象を持つ作品として読まれてきたのです。
モリエールの花の扱い方は、甘さや軽やかさだけに向かいません。花の豊かさを残したまま、木やアルデヒドによって輪郭を変える。タム ダオとは異なる角度から、素材を組み合わせる幅を感じられる香水です。
サントス ドゥ カルティエ──ハーブとスパイスの力強さ
1981年のサントス ドゥ カルティエは、カルティエ初の男性用香水として知られています。名前は、飛行家アルベルト・サントス=デュモン(Alberto Santos-Dumont)と、彼に由来するメゾンの時計につながっています。
ラベンダーやバジル、ベルガモットなどのアロマティックな立ち上がり。そこへナツメグやペッパーの辛さが加わり、サンダルウッド、パチョリ、アンバーを思わせる温かさへ進みます。
花のみずみずしさを見せる仕事とは対照的に、ここではハーブとスパイスが香りの輪郭をはっきりさせます。乾いた部分と温かな部分を重ねた構成に、1980年代の男性用香水らしい存在感があります。
オー ドゥ ジバンシィ──花の間に流れる冷たい空気
1980年のオリジナルは、ダニエル・オフマン(Daniel Hoffmann)との共同調香です。同名の後年の作品と区別して、二人が手がけた当時の香りを見ていく必要があります。
グレープフルーツやミントの清涼感に、ナルシスやシクラメンを思わせる春の花々。そこへ苔や木、ムスクの印象が重なります。明るく外へ開いた部分と、少し湿り気を帯びた陰影が同居する香りです。
ザ ブラック ナルシサスが感じたマリンの気配も、この対照のなかにあります。後の水の香りをそのまま先取りした、と単純に言い切るより、当時のフローラルの中にあった冷たさや湿度として捉えると、その独自性が見えてきます。
ジャルダン クロ──壁に囲まれた庭の湿度
2003年のディプティック、ジャルダン クロは、閉ざされた庭を意味する名前の香水です。同年のタム ダオとは違い、中心になるのは花と水の感覚でした。
ウォーターメロンやライラックの印象から、ヒヤシンスの濃密な花の香りへ。苔、ベンゾイン、シダーが、そのみずみずしさを静かに支えます。乾いた花束というより、湿った空気の中で咲く花を思わせる作品です。
ヒヤシンスの強さと水の軽さを組み合わせることで、花を濃厚に感じさせながら、空気の流れる余地も残します。評者によって持続性への印象は異なりますが、水を含んだグリーン・フローラルとして、モリエールの作風を語る際に挙げられる一本です。
バラエ──華やかさの奥にある動物的な表情
1983年、レオナールから発表されたバラエは、豊かな花と温かな余韻を持つ女性用香水です。アルデヒドの明るさ、チュベローズなどの花、アンバーや動物的な印象が重なります。
香水愛好家のレビューでは、熟れた果実や肌、革を思わせる側面にも言及されています。甘く整った花だけではなく、その奥に少し生々しい部分が残る。それが、この時代の濃密なフローラルを好む人々から評価される理由の一つです。
ちなみに…
バラの育種家との仕事
1993年のクラブツリー&イヴリン(Crabtree & Evelyn)、イヴリン(Evelyn)は、バラの育種家デヴィッド・オースチン(David Austin)との協働から生まれた作品として紹介されています。題材になったのは、オースチンのバラの香りでした。
タム ダオでは創設者の記憶、イヴリンでは実際の花。それぞれ違う出発点を、香水として感じられる形へ移す仕事です。作品の幅は香調の違いだけでなく、誰と、何を手がかりに作ったかという違いにもあります。
作るだけでなく、香水を残す
香水保存機関オスモテーク(Osmothèque)の2017年の憲章には、歴史的な香水の処方を託された人々の一人として、モリエールの名前が記されています。ジャン・ケルレオ(Jean Kerléo)、イヴ・タンギー(Yves Tanguy)、パトリシア・ド・ニコライ(Patricia de Nicolaï)らとともに挙げられた名前です。
処方は一般に公開されるものではなく、保護のもとで保管され、権利者から指定された人が忠実に量り直します。昔の香りを未来へ残すためには、作品を知る人と、その処方を適切に扱う人の両方が必要です。
原料を若い人に教え、時代の違うブランドへ香水を作り、過去の処方を守る。モリエールの仕事を辿ることは、香水が一人の作者から生まれ、次の人へ渡っていく過程を知ることでもあります。
調香作品
主な作品を年代順にまとめています。同じ名前の異なる濃度や再発売版は区別しています。
| 年 | ブランド | 作品名 | 共同調香師・備考 |
|---|---|---|---|
| 1980 | ジバンシィ | オー ドゥ ジバンシィ | ダニエル・オフマン |
| 1981 | カルティエ | サントス ドゥ カルティエ | ブランド初の男性用香水 |
| 1983 | レオナール | バラエ | — |
| 1986 | ギ ラロッシュ | クランデスティン | — |
| 1993 | クラブツリー&イヴリン | イヴリン | デヴィッド・オースチンのバラを題材に制作 |
| 1993 | ジバンシィ | インサンセ | — |
| 1994 | ジバンシィ | フルール ダンテルディ | — |
| 1998 | ジャコモ | パラドックス ブルー | — |
| 2000 | ジャン リュック アムスラー(Jean Luc Amsler) | ジャン リュック アムスラー ファム(Jean Luc Amsler Femme) | — |
| 2003 | ディプティック | ジャルダン クロ | — |
| 2003 | ディプティック | タム ダオ オードトワレ | — |
| 2003/2004 | チュッパチャプス(Chupa Chups) | アイ ラブ ミー ナイト フィーバー(I Love Me Night Fever) | データベースに発売年の差があります |
| 2004 | ピエール カルダン | レヴェラシオン | — |
| 2007 | ジョヴォイ(Jovoy) | エスペリデ(Hespéridé) | 旧レ セット パルファン カピトーの一作 |
| 2007 | コントワール シュド パシフィック(Comptoir Sud Pacifique) | オー ドゥ ナフェ(Eau de Naphé) | — |
| 2012/2013 | ディプティック | タム ダオ オードパルファム | 2013年の紹介が多く、パルフモには2012年と記録 |
参考文献
- The Black Narcissus, “FOR THE PALLID :: EAU DE GIVENCHY (1980)”, 2022年12月5日
- I Make Scents, “Tam Dao (Diptyque, 2003)” review
- Ye Olde Civet Cat, “Insensé by Givenchy (1993)”, 2015年5月
- Kioku Scent, Daniel Moliere perfumer profile
- Osmoz, “REVELATION – Pierre Cardin”
- SFP (Société Française des Parfumeurs), “2012 International Perfumer-Creator Award”
- Nez, la revue olfactive / Karine Chevallier
- Stephan Matthews, “EVELYN ROSE by Crabtree & Evelyn”, 2017年10月
- Diptyque Paris, Tam Dao collection
- Arabian Aroma, “The Story Behind the Iconic Tam Dao Perfume”
- Fragview, “Jardin Clos by Diptyque”
- ScentAdvice, “Santos EDT (1981) – CARTIER”
- Basenotes, “Santos by Cartier”
- Parfumo, “Jardin Clos by Diptyque”
- Azur Fragrances 公式
- Ensun, “AZUR FRAGRANCES company profile”
- spellsmell.ru, Daniel Moliere biography (ロシア語)
- Robertet SA | Encyclopedia.com
- [PDF] INNOVATION BY ESSENCE 150 YEARS OF HISTORY – MANE
- Azur Fragrances France – Xerfi
- Insensé by Givenchy
- diptyque | Dallo Spazio
- [Part 2] Origins of Fragrance Names: Diptyque’s Do Son & Tam Dao
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- Clandestine by Guy Laroche (Parfum) » Reviews & Perfume Facts
- Clandestine (Eau de Toilette) by Guy Laroche – Parfumo
- Evelyn by Crabtree & Evelyn – Basenotes
- Paradox Blue Perfume for Women by Jacomo 1998
- Jean Luc Amsler Femme купить в Минске и Беларуси, цена
- Jean Luc Amsler Femme – Fragplace
- Jardin Clos (2003) • DIPTYQUE – ScentAdvice
- I Love Me Night Fever by Chupa Chups | FragView
- I Love Me – Night Fever by Chupa Chups » Reviews & Perfume Facts
- Revelation
- Aromo — Daniel Molière
- Parfumo — Daniel Molière
- Fragrantica — Daniel Moliere
- Diptyque — Tam Dao collection
- Diptyque — Tam Dao Eau de toilette
- Diptyque — Tam Dao Eau de parfum
- Fragrantica — Tam Dao Eau de Parfum
- Osmothèque — Accès à la collection, Charte et déontologie


