調香史
私が仕事を始めたとき、会社の偉い上司は私の祖母の兄弟でした。彼は調香師ではありませんでしたが、偉い立場でありました。彼は芸術的な人でもありませんでした。まず彼が口にしたのは、「君は女性だ」です。続けて、「マスターパフューマー(凄腕の調香師)になるには、長期間の訓練と師匠の元での学びを何年もしなければならない。君は結婚もするだろうし、子供も持つだろう。一時的に仕事を止めることもあるだろう。」と彼は言いました。
多くの職業で、ファッション業界でさえもある、典型的なストーリーなのですが、神話やクリエイティブなミューズは女性なのです!ゲランにおいては、彼らは非常に男性優位な社会でした。ブランドで働く”ファミリー”は、男性だけで、女性は1人もいませんでした。そして、彼らは自分たちのラブストーリーで脚色するのが好きなのです。
パトリシア・ド・ニコライ
生い立ち
1957年12月5日、パリ、ゲラン家に生を受けたパトリシア・ド・ニコライは、ゲランの創設者ピエール・ゲランのひ孫の孫(来孫)、ジャン=ポール・ゲランの姪(実際には、はとこの子=再従姪)にあたります。17区にあるオテル・パルティキュリエ(l’hôtel particulier)で育ったパトリシアは、4世代にわたるゲランの一族と同じ屋根の下で過ごしていました。
子供の頃は、シャリマー(ジャック・ゲラン、1925)にとてつもなく衝撃を受け、母親が使っていたシャマード(ジャン=ポール・ゲラン、1969)が記憶に残っているそうです。母はシャリマーもつけており、その香りで毎朝目を覚ましていたと言います。また、常にジャン=ポール・ゲランの新作を最初に試すのはパトリシアの母でした。そして、父はオーソバージュ(エドモン・ルドニツカ、1966)を、祖母はアプレロンデ(ジャック・ゲラン、1906)を愛していました。
1976年にバカロレアを卒業したあとは、化学を追求したいと考えていたパトリシアは、パリの学生サービスセンターに向かいます。そこで紹介してもらった学校の中で「香水とリンクした化学」が学べる学校のページが目に留まります。それが1970年にジャック・ゲランによって設立されたイジプカ(ISIPCA)でありました。すぐさまイジプカに入学し、調香師になるための訓練を3年間受け、休みの間にはインターンシップをたくさん受けます。1981年、イジプカを卒業し、調香師になることを決意します。ゲランで働こうとは思わなかったパトリシアは、ジュニアパフューマーとしてこの後いくつかの香料会社で働くことになります。
イジプカ卒業後、私は女性のジュニアパフューマーとしての仕事を探していましたが、容易なことではありませんでした。今でも覚えているのは、インターン生のとき、常にエバリュエーションやセールスのインターンのオファーはもらっていたのに、クリエイションは一度もこなかったのです。
パトリシア・ド・ニコライ
今では状況は変わりました。クリエイションにも多くの女性が今ではいますし、調香師として認識されています。実は、イジプカに入学を希望する80%は女性なのです。なので、現代の香水ビジネスのクリエイティブチームは、女性が大半を占めているのです。
まず、1982年~1984年はFlorasynth社で働き、1984年~1989年はクエスト社で働きます。ちょうどこの頃、クエスト社には、モーリス・ルーセルやクリストファー・シェルドレイクといった有名調香師に囲まれ、アシスタントをします。1989年前後にはソフィア・グロスマンがトレゾア(ランコム)を調香する手伝いをしたと言われていますが、ソフィアはIFFに所属していたため、真偽のほどは不明です。
1988年、自身の香水Number Oneが、フランス調香師協会(SFP)から女性初の若手調香師国際賞を受賞されます。これは女性としても初でした。自身の選んだ道が間違っていなかったと確信を得たパトリシアは、満を持して同年、自身のブランドを発表します。
夫はジュニアパフューマー時代に結婚していたJean-Louis Michau。子供は、娘が1人(Edwige)、息子が3人(長男:Jean-Baptiste、次男:Axel、三男:Felix)います。
ジャン=ポール・ゲランは私のコーチであり、彼のおかげで、調香師になるための仕事を本当に学べる会社や場所の中でも最も素晴らしいところで訓練を受けることができました。
パトリシア・ド・ニコライ
私の叔父(ジャン=ポール・ゲラン)は、かつて私にこう言いました。「訓練してきなさい。いつかお前はゲランにくるのだから」と。でも結局そのときはきませんでした。1980年代、ゲランはまだ100%家族経営で、特にゲランの血筋の男性によって運営されていました。とりわけ、私の祖母の兄弟は女性や家族の女性がビジネスに介入することは全く考えておらず、そのようなことが以前にあったこともなかったのです。
パトリシア・ド・ニコライ
1980年代初めは、女性の調香師はほんのわずかでした。その後、急に状況は変わるのですが、私は一握りのパイオニアのうちの1人だと言ってもいいでしょう。
香水博物館オスモテックの館長
2008年、イジプカの向かい側にある香水博物館オスモテック(Osmothèque)の2代目館長に選ばれます。初代館長ジャン=ケルレオと、ジャン=クロード・エレナなどの数名の調香師、フランス調香師協会などのいくつかの団体が尽力して非営利団体として1990年に立ち上げられたオスモテックは、「香水の収集・目録化・消えた処方の再現」を目的としており、その館長は唯一過去のアーカイブを香水として甦らせる権利を持ちます。その数はゆうに4000を超えます。
2020年7月、オスモテックの3代目館長を調香師Thomas Fontaineに譲ります。館長をやめたとしても貢献はし続けたいと言っていたため、今もチームに残っている可能性が高いです。
オスモテックの代表として、私は歴史を作ってきた昔の香水たちを嗅ぐことができ、時に、これらの昔の香水たちは私が新たな現代の香水を生み出すインスピレーションのもとになります。なぜなら、現在は常に過去にインスパイアされているからです。
パトリシア・ド・ニコライ
IFRAの制限のせいで、偉大な香水の中には、今日では2度と販売できなくなったものもあります。だからオスモテックでは、私たちはこのような宝物を失わないように努めているのです。しかしながら、オスモテックは元々、「禁じられた」香水を嗅ぐことができる場所として作られたわけではありません。最初の目的は、コティやMillotの香水のようなブランドたちの中でも、パーソナルな歴史があるために完全に廃番となってしまった偉大な香水を運んでくることにありました。さらには、制限や希少性、高価な香料によって今日では販売できなくなったハイスタンダードな香水も保管することにしました。例えば、天然のムスクをした香水やもはや栽培ができなくなった地方で作られていたベチバーブルボンを使用した香水などです。
パトリシア・ド・ニコライ
香水ブランド「ニコライ」
公式サイト:英語、日本代理店(NOSE SHOP)
ニコライの20年前にラルチザンパフュームが、10年前にはアニックグタールが設立されていたので、小規模な香水会社を立ち上げたのは彼女が初めてというわけではない。しかしパリに調香のラボを解説し、そこでビジネスを始め、ドアに職業名の書かれたサインを掲げることで職人としての専門性を公に示したのは、彼女が最初だった。
『フォトグラフィー レアパフューム-21世紀の香水-』
ブランド創設史
もしもゲランにいくらかでもセンスがあったなら、パルファムドニコライの香水を購入し、パルファムドニコライの知識を加え、自社の時代遅れのフレグランスを15品ほどと、パルファムドニコライのものをいくつか処分し、社内の調香師として、オーナー兼クリエイターのパトリシア・ド・ニコライを雇い入れるだろう。
ルカ・トゥリン『世界香水ガイド』より
ブランドを立ち上げるきっかけとなったのは、パトリシアが香料会社でヤングパフューマーとして働き、2人の子供をもうけ、3人目を妊娠したときでした。さすがのパトリシアも休みを取りたいと感じたのですが、夫のジャン-ルイが断固として反対したのです。その理由が、一度休みを取ったら、パトリシアの調香師としてのキャリアが終わってしまうと考えたからでした。そのとき、彼が自分たちでビジネスを始めるというアイデアを思い付いたのです。そうすれば私生活とプロの調香師としての仕事のバランスを取ることができるようになると。
1988年、クエスト社を退社したパトリシアは夫のジャン=ルイ・ミショーとともに自身のブランド「ニコライ(NICOLAÏ PARFUMEUR-CREATEUR)」を創設し、1989年11月パリ16区レイモン=ポアンカレ通り69番地にお店をオープンします。お店では、実際に使われた香料や秤、オルガン台など、香水業界の裏側を前面に開示し、「裏側では何が起こっているのか」を見れるようにしています。
その後、路面店を世界に拡大していき、2007年には、自身のブランドを創り、調香師として成し遂げてきたことを評価され、フランスよりレジオンドヌールのシュヴァリエ賞の栄誉を受けます。
2014年、パトリシアの次男Axel de Nicolaïがジェネラルマネージャーとしてニコライに参加します。Axelはロレアルの化粧品ブランドLascadやLVMHのジバンシィやケンゾー、フェンディの香水部門働き、その後、コーチやヴァンクリーフ&アーペルの香水を取り扱うインターパルファム(Interparfums)の中東支部で活躍していた経歴を持ちます。父から会社のバトンを受け継いだAxelは、ブランドマネージャーとしてだけではなく、母の創る香水部門にも深く関わっているようです。
実のところ、私たちのブランドの成功は、本当の香水好きたちが私たちの作品の品質と独創性に感謝をしてくれているから、存在し得るのです。ブロガーや香水のサイトは、一般人の香りの文化が発展することに大きく影響を与えており、彼らはかつてのクラシックな香水だけではなく様々な香水たちを紹介することによって知識を本当に高めているのです。だから、これらすべては私がハイレベルな香水を生み出すモチベーションになっているのです。それが人々の求めるものなんです。この情熱があるので、私は”つけやすい”香水や市場にある他の香水と似ている香水を生み出すことに抵抗があるのです。
パトリシア・ド・ニコライ
ブランドのこだわり
私は家系に影響を受けています。ゲランを成長させるのは常に素晴らしい香水だけでした。はるか遠くからでも認識できるそのシヤージュ、それがゲランなのです。私も同じアプローチを持ちたかったのです。
パトリシア・ド・ニコライ
- Patricia de Nicolaï’s Parisian laboratory(自社ラボ)で製造
- 99.9%のアルコールが天然由来(フランス産のビートルート)
- 保存料不使用
- すべての香水に含まれる天然香料の割合は、81.3%~99.1%
- 香水の中身(ジュース)は、2週間のマセラシオンの後、アルコールが加えられ、さらに1~4週間のマセラシオンが行われる。最後に不純物を取り除く、アイシングとフィルターが行われる。
- 香水瓶は50%がリサイクル可能
- 100%メイドインフランスで、すべての素材はラ・フェルテ=サン=トーバンのニコライの工場で、職人によって制作。100mlボトルにはリボンと調香師のイニシャルの入ったワックスが手作業でつけられている。キャップはZamak(亜鉛合金)で作られ、サステナブルな素材に。
- ボトルが納まるボックスはリユースやリサイクル可能なPETと板紙で作られている。箱は、カスタマー自身の香水の物語を書いてほしいという想いから本のように開くことができる。
- 消費者テストやマーケティングはゼロ。「一時の流行は私たちの店では居場所が無いのです」
- キャンドルもすべて手作業で作られている