Annick Goutal
アニック・グタール

アニック・グタール ブランド創業者

私の名は、次のエスティローダーのようになる可能性があります。

アニック・グタール

調香史

多才の三女

 1946年、フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、8人兄弟の3番目として生まれたアニック・グタールは、幼い頃は、父のチョコレートのお店で、チョコレートで一杯にした袋にリボンをひたすら結びながら過ごしていました
 アニックは、音楽に惹かれ始めるとピアノに夢中になり、才能もあったため、16歳の時、ヴェルサイユの音楽院で賞を取り、コンサートでの演奏を許される腕前でありました。ピアノは計5年ほどしており、ロンドンにオーペア(ホームステイ留学の一種)でピアノを学びに行くほどでした。

音楽と香水というのは、とても近しいものです。同じ種類の感性と感情、そして、その表現に関連性があります。

アニック・グタール

 彼女のロンドンでのオーペア先の家族の友人は、著名なファッションフォトグラファーのデイヴィッド・ベイリー(Daivid Bailey)でありました。彼女の美貌にいち早く気づいたベイリーは、すぐに国際モデルとして活躍できるよう手助けをしました。そして、友人にモデルになるべきだと言われて納得したアニックは、ピアノ奏者の夢は捨て、4年以上モデルの会社Paris Planningに所属します。

私の母は、家の中でも外でも魅力的な人でした。部屋に入れば、皆が振り返り、特に男性は感嘆の息をもらしていました。

カミーユ・グタール

転機と邂逅

 モデルが自分のやりたいことではないと感じていたアニックは、計10年間のモデル生活の後、グラースに戻り、Folavrilという名のアンティークの家具屋を開きます。Folavrilは、ボリス・ヴィアンの小説『赤い草(L’Herbe Rouge)』の主人公からとった名です。そして、1975年、彼女と同じ骨董収集をしていた男性と出会い、2人は子供を授かります。それが娘のカミーユ・グタール(Camille Goutal)でした。

 カミーユが生まれて2年後、アニックは病気になり、アンティークショップを閉めることになります。そんな彼女に、離婚した夫の母親のMicheline Perrot(ちなみに彼女はカミーユの名付け親でもあり、彼女もまた離婚していた)が一緒にビューティービジネスをしようと声をかけました。というのも、実は、Michelineは、かつてスイスのジュネーブで化粧品を販売していたSoyer姉妹から高級フェイスクリームを購入しており、片方が亡くなった時に、そのフォーミュラの権利を売ってもらっていたのです。

 アニックは、時代にそぐわないと感じたパッケージとクリームの香りの変更を条件に、スイスのフェイスクリームのお店を自宅で開くことにします。彼女の芸術的センスと小さな頃の父親のチョコレート店でのリボンの経験から、お菓子屋さんのようなパッケージにエレガントなリボンをつけました。実は、これがのちのAnnick Goutalの最初のパッケージだったのです。

 クリームは非常に良かったのですが、少し変な香りが気になった2人は、香りをつけるために、いくつかの香りのサンプルを取り寄せます。その中でロベルテ社のサンプルが彼女の気を惹きました。当時のロベルテ社はまだまだ小さい会社でしたが、ゲランやシャネルに唯一無二の品質の香りを供給していました。アニックは、すぐにロベルテに電話をかけ、アポを取り、パリのオフィスに向かい、1人の調香師と出会います。それがロベルテ社のヘッドパフューマーHenri Sorsana(アンリ・ソルサナ)でありました。

ちなみに…

 ちょうどこの頃、アニックは離婚しており、20年前の演奏会で出会っていたアラン・ムニエール(Alain Meunier)と再び若かりし頃の愛を実らせます。アニック2度目の結婚でありました。そして、アランの連れ子が娘のシャーロットでありました。
 アランは有名なチェロの演奏家で、アニックの何よりの楽しみは、アランが演奏会の練習をしているのを聞きながら、香りのオルガンで調香することでした。ちなみに、アランは、毎週白いお花をアニックに買ってくるロマンチストでした。
 そんなアランのために作った男性用香水がサーブル(Sable)で、2人の家があるレ島(Ile de Ré)のビーチの香りを表現したものです。アランだけでなく、他の音楽家もよく使ってくれたそうです。

ブランド誕生

多くの若い調香師たちは、大きなブランドで働かなければもっとクリエイティブになれるでしょう。大きなブランドは彼らの創造力を壊します。このようなブランドがまず初めにするのは、真似することを教えることになります。なぜなら香水を作りたい顧客が望むのは、すでに知られている何かだからです。

アニック・グタール

 1976年、アンリ・ソルサナに弟子入りしたアニックは、自宅でクリームの販売を行いながら、ロベルテ社で調香の訓練を4年間受けます(その後も3年間くらいは彼と調香をしている)。そして、1980年12月、パリの左岸、Rue de Bellechasseにある古本屋さんで、Michelineと一緒にお店を開きます。これがAnnick Goutalでありました。彼女が最初に創った香水は、かつての自身のアンティークショップの名であったフォラヴリル(Folavril)と名付けられました。そして、1年後の1981年には、今でも販売されている名香オーダドリアン(Eau d’Hadrien)が発売され、徐々に世間にその名を轟かせ始めます。

ちなみに…

アニックの2人の姉は、子供服のブランド「ボンポワン(Bonpoint)」を創業しており、アニックがブランドを創設した当初から資金の援助などをしてくれていました。そのお礼にBonpointという名の子供用香水をアニックは生み出しています。

 1985年、シャンパーニュで有名なテタンジェ(Taittinger)グループに買収され、世界的に(特にアメリカに)名前が知られるようになります。ちょうどこの頃に、Annick Goutalを長く牽引することになる調香師イザベル・ドワイヤンと出会います。
 その後、テタンジェグループは、Starwood Capitalに買収されます。

 1999年、乳がん及び卵巣がんにより、53歳の若さでアニックは逝去し、会社は、娘のカミーユ・グタールと長年アニックとタッグを組んできたイザベル・ドワイヤンに引き継がれました。

香水というのは、記憶の迷宮を通り抜ける方法を手助けしてくれます。

アニック・グタール

私たちの香水は、詩と自然、植物と文化の融合にインスパイアされています。各香水は、肌の上で体験できる物語を語ってくれます。

アニック・グタール

ブランドのこだわり

名前:各香水は、小説のタイトルのようになっており、想像の扉を開けてくれるよう名付けられています。

香り:肌や五感を通して物語を体験できるように調香されています。

香水の色やボトル:初めはお金が無かったアニックは、グラスメーカーに行って、過去のボトルをすべて見せてもらい、女性らしくエレガントなボトルを見つけ、それを元にブランドのボトルを制作したようです。また、香水には色をつけることはしていません。さらに、ブランド創設当初から香水をはじめとした製品にレフィルが用意され、ケースの紙も最小限にしています。

Annick Goutalの香水の秘密は、感情を香りに翻訳する力が卓越しているという点にあります。各香水は、幸せの瞬間、大事な感情、特定の出来事や愛する人と結びついた強い記憶を表現しています。

カミーユ・グタール

ちなみに…

・J.S.バッハが好きで、特に、無伴奏チェロ組曲とゴルトベルク変奏曲を愛していました。シューマン、シューベルト、ショパンのノクターンも好んで聞いていたようです。

・アニックはゲランの香水が大好きで、特にルールブルーが好きだったようです。

この記事を書いた人

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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