FUEGUIA 1833
フエギア

ブランド創業者

 「1833年の創業ではないのにややこしい名前」「エディションによって香りが違うの困るから前エディション爆買いした」「どんどん増えギア」「アルゼンチン勝った割引が通販対象外泣く」「店舗が富裕層いるとこにしかない」とSNSで香水沼界隈が度々湧くフエギア。一体全体、ジュリアン・ベデルとは何者なのか?フエギアとは何なのか?まだ香水史には深く刻まれていない、日本の香水好きが熱狂するこのブランドをできるだけ詳しく解説してみようと思います。

「フエギア」は、植物学者が持つ植物へのこだわり、化学者の香りを分子の状態まで分析するアプローチ、芸術家の直感が融合して生まれる。植物学者、化学者、芸術家の各アプローチは切り離せない。自然の香りもそうだが、演奏などを擬似体験できるようなさまざまな香りを提供している。

ジュリアン・ベデル WWD Japan インタビューより

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基本情報

設立:2010年
創設者:ジュリアン・ベデル(Julian Bedel)
公式サイト:英語オフィシャル日本語オフィシャル

創設史

私の人生のことなんて話をするのは退屈だよ。フエギアの主たる側面は植物の研究と我々自身の製造だと考えています。だからそう、私のストーリーというのは製品やどうやって製品を毎日生み出しているかよりも重要ではないと思うんだ。だけど、そうだな、私も父もアーティストで、私はミュージシャンでもある。ギターも弾くし、造ることもある。香水を創るのは、ワークショップみたいなものだと思っている。

ジュリアン・ベデル

 フエギア 1833は、2010年、アルゼンチンアーティストのジュリアン・ベデルと彼のビジネスパートナーであったAmalia Amoedo(現在は会社を辞めている)によって、ブエノスアイレスで創設されました。

 ジュリアン・ベデルとは何者なのか?1978年、ブエノスアイレスに生まれたジュリアンの先祖には、フランス人の昆虫学者ルイ・ベデル(Louis Bedel)、トラベルライターのモーリス・ベデル(Maurice Bedel)やFiliberto Oliveira de Cézarがおり、父親と兄弟はアーティストです。
 彼自身は香水に全く興味が無く、調香師でもありませんでした。ギターを作り、音楽をやり、絵画や彫刻を学んでいたとき、父が送ってきた2004年のノーベル生理学・医学賞の記事が大きな転機でありました。生物学者リンダ・バックと神経科学者リチャード・アクセルがゲノムと嗅覚受容体の研究で、どのようにして香りを特定しているのかの分子遺伝学的解析の研究でありました。この嗅覚の科学に興味を持ったジュリアンは、これこそが自分のアートで生み出すべきものだと感じ、香りの道を進むことを決心します。
 香水業界に関わる家系ではありませんでしたが、香りは常にジュリアンの感情と結びついており、自身で原料の違いや香りのファセットを記憶するのは難しくはなかったようです。

 フエギアというブランド名は、ティエラ・デル・フエゴ(南アメリカ大陸のパタゴニアの南部に位置するフエゴ島のこと。日本語に訳すと「火の土地」。)の先住民であった女性フエギア・バスケットへの賛辞に由来します。彼女は、現地の名前をYokcushlu(ヨクシュル)と言い、1830年にビーグル号の船長であり海軍軍人であったロバート・フィッツロイによって捕らえられた人質の一人でありました。人質と言っても彼女は当時9歳、現地の民族がビーグル号のボートを盗んだため、それを返してもらうまでの間だけのことです。彼女はその幸せそうな笑顔で、捕虜にもかかわらず、ビーグル号の船内で人気者となりました。そして、ビーグル号に戻るため、盗まれたボートの代わりにバスケットの舟を作っていた男たちによって、彼女はFueguia Basket(フエギア・バスケット)と名付けられます。
 結果的に、ヨクシュルは、フィッツロイがフエゴ島を文明化するためにイギリスに連れられ、彼は彼女に教育を受けさせました。この際、国王やダーウィン、様々な科学者などのイギリスの重要人物たちと出会っています。1831年には、彼女を含めた捕虜を自国に帰すべきだと決まり、若かりし頃のダーウィンも乗船したビーグル号の第二回目の航海が始まりました。ダーウィンは自身の日記で彼女のことを「素敵で、控えめで、控えめな若い女の子で、かなり愛想がよく、しかし時々不機嫌な表情をしており、何か、特に言語を学ぶのが非常に早い」だと記しています。
 1832年12月、ついにティエラ・デル・フエゴ(フエゴ島)に到着したビーグル号の船員は、捕虜であり、文明化のために教育を受けさせた4名を現地の民族のもとへ帰します。この彼女が戻った年から、Fueguia 1833の「1833」が由来しています(ここの正確性は何が正しいのかは謎)。その後、ヨクシュルは、1883年まで生き、1991年にエドゥアルド・ローソンの書いた歴史小説『フエギア』では追悼の献辞が記されています。

 そして、フエギアの香水は、南米に自生する植物や先住民の地域社会へのオマージュとして香りが創られています。それはまるで、フィッツロイ船長が考えていた文明化を香りで表現するかのように。

パタゴニアは私たちの原点であり、人間が少なく自然が支配する未開の地です。その環境というのは、私たちが探していた原種をローカルコミュニティがサステナブルなプロジェクトのもとで収穫しており、そこから型にはまらないエッセンスを抽出することができるのです。私は、人気のある香水プロジェクトから大金を得るよりも、持続可能な農作物を購入することで地域社会を支援するその方法のほうがずっと好きです。フエギアは、人気のあるブランドではありませんし、香水をたくさん出しているただの小さなブランドなのです。

ジュリアン・ベデル

 ジュリアンは植物の研究を行い、2016年にウルグアイに50エーカー(東京ドーム4~5個分)のプランテーションを所有し、香料植物を持続可能な方法で栽培し、蒸留を行っています。ちなみに、合成香料は主にフィルメニッヒ社やジボダン社のものを使用しています。
 基本的に使用する素材が自社の農園から採取するため、素材が限定され、毎回の製造は400本となっております。これをエディションと呼んでおり、エディションによって香りは微妙に異なります。主要香料が収穫できなくなったら、廃番となります。
 全行程は、イタリアのミラノにあるフエギアの研究所で行っており、ジュリアンは調香を行っています。

 フエギアの香水の製造は、パタゴニアとインカの大学の設備を借りて作られています(現在はイタリアの自社?)。香水が納まる木のボックスはすべてハンドメイドで、2002年にLloyd Nimetzと設立していた非営利のHelp Argentina Foundationを活用し、パタゴニアの森の木を使用し、パタゴニアの大工学校で作られています。また、決してプラスチックを使わないことを宣言しています。

私たちはあまり早く売れない香水が時間と共により良くなっていることに気づきました。そこで、製造した10%分を保管し、販売せずに、5年間寝かせることにしたのです。(中略)これがヴィンテージケーブ(Vintage Cave)のコンセプトであり、思うに、我々がこれを行った最初の会社です。

ジュリアン・ベデル

 フエギアでは、香水のメインアコードの説明に、香りのピラミッドを用いません。これは伝統的なフランス香水界の手法ですが、香水のバックボーンのないジュリアンは、自分がより分かりやすいと思う「原子」を使った方法を使用しています。最も主要な香料をトニック(主音)と2つのサポートする香料をドミナント、サブドミナントと表現しています。

ピラミッドは販売員やお客様を対象としているが、原子は覚えやすいはずだ。私たちは、たくさんあるすべての香水を紹介するための新しい方法を生み出しているのです。なので、ブロッターも使わないし、空間に香水をスプレーすることもありません。フラスコにスプレーをしておくだけで、他の香りとは混ざらないし、ブティックも香水の香りはしないので、お客様はフラスコの中から本当の香りを嗅ぐことができるのです。実は紙だと肌にのせた時のリアルな香りが分からないのと、分子によってはうまく拡散しないことを私が発見したというのもあります。

ジュリアン・ベデル

 日本では、2015年10月7日にグランドハイアット東京に一号店を出すと、2021年、コロナ禍の中、Ginza Sixに日本二号店をオープン、2023年11月には麻生台ヒルズにオープン予定としています。

 記事を書いてみて感じたのは、人それぞれ好きな香りがあるということを一つのブランドで賄うかのような香水たちであり、ジュリアンの豊かな感受性と自身でマスターベートと例えるほどの熱中さ、そしてアルゼンチンへの常軌を逸したこだわり、がフエギアの魅力を生み出しているのではないか、ということです。にしても、100以上の香水が存在することは個人的にはあまり好きではないですが、それだけ閃きと完成まで導く感性が卓越しているのかもしれません。

この記事を書いた人

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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