Escentric Molecules(エセントリック・モレキュールズ)――化学と芸術が交差する、”アンチフレグランス”の旗手

ブランド創業者

「まるで、森の中で動く動物の気配を一生感じていながら、その姿を一度も目にしたことがないようなものです。そしてある日、その動物が光の中へ姿を現すのです。Iso E Superは、まさにその動物でした。」
— Geza Schoen(ゲザ・ショーン)

まるで一生、森の中で動物の気配を感じながらも、その姿を見ることができなかった人間が、ある日突然、その動物が光の中に踏み出てくるのを目の当たりにしたような衝撃。エセントリック・モレキュールズの誕生は、調香師ゲザ・ショーンのそんな個人的な啓示から始まった。

基本情報

設立年: 2006年
創設者: Geza Schoen(ゲザ・ショーン)—調香師
共同創設者: Paul White(ポール・ホワイト)—クリエイティブ・ディレクター
公式サイト: https://www.escentric.com

創設者・ブランドの成り立ち

ガラス瓶の前に立つ少年

ゲザ・ショーンは、ドイツのカッセルで生まれた。父はアート教師、母は幼稚園教師という家庭に育ち、幼い頃から創造的な環境の中で過ごした。香りへの関心は早くに芽生え、13歳にしてすでに男性用フレグランスを「かなり熱狂的に」収集していたという。

「私は13歳の頃からかなり熱中してメンズフレグランスを収集し始め、16歳になる頃にはドイツの大手香料会社であるハーマン&ライマー社とつながりを持つようになっていました。」
— ゲザ・ショーン

16歳のとき、ショーンはひとり電車に乗り、ハールマン&ライマー(現シムライズ)のオフィスを訪ねた。アポイントメントも伝手もない突撃訪問だったが、「誰かと話がしたい」と申し出た。最初は断られたが、何度か足を運ぶうち、ついに半日間だけ調香師に同行させてもらえる機会を得た。そのとき担当した調香師は彼の本気の関心を見抜き、連絡を続けるよう促した。学校を卒業し、兵役に相当する義務を終えたショーンは、1992年に正式にハールマン&ライマーに入社した。

「(仕事を与えられたのは)まるでキャンディーショップにいる子どものようだった。」— Geza Schoen

森の中の獣との遭遇——1990年秋

社内で自由に素材と向き合う時間を持ったショーンは、分子を単独で嗅ぐという実験を繰り返すようになった。そしてある日、一つの分子の前で足が止まった。Iso E Super(イソ・イー・スーパー)である。

この合成香気分子は、1973年に大手香料会社IFF(インターナショナル・フレーバーズ&フレグランシーズ)の研究室で誕生した、自然界には存在しない分子である。当時、業界では多くのフレグランスにごく少量の”隠し味”として用いられていたものの、その存在はほぼ業界内の秘密に留まっていた。

1990年の秋、ショーンは初めてイソ・イー・スーパーを単独で嗅いだ。その夜、彼は友人にこの分子だけをスプレーさせ、地元のバーへと向かった。するとほどなく、一人の女性が二人のもとに歩み寄ってきて、「ここで素敵な香りがするのは誰?」と尋ねた。ショーンが会話を続ける中で、その女性がとりわけ好きだと語ったフレグランスが浮かび上がってきた。ディオールの「ファーレンハイト」とランコムの「トレゾー」——一見まったく異なるふたつの香水だったが、両方にイソ・イー・スーパーが大量に配合されていた(ファーレンハイト25%、トレゾー20%)。

「すべてが始まった最初の瞬間は1990年の秋でした。ハーマン&ライマーで初めてIso E Superの香りを嗅いだとき、その中に嗅覚的な魔法のようなものがあると気づいたのです。」
— ゲザ・ショーン

ロンドンへ、そして転機

2001年(一部の資料では2002年とも)、ショーンは香料業界の急速な商業化に幻滅し、H&Rの職を辞してロンドンへ移った。フリーランスの調香師として生計を立てようとしたが、「フリーランス調香師」はほぼ絶滅危惧種に近い存在だった。それでもロンドンは、思いがけない出会いをもたらしてくれた。​

ファッション・デザイナーのブライアン・カークビーとゾーイ・ブロアシュが率いるブランド「ブーディカ」と出会い、数年をかけて彼らのフレグランス「ウォード」を共に創り上げた。この時期、ショーンはデザインや現代アートの世界と深く交わり、「香りは芸術である」という確信を育んでいった。

ポール・ホワイトとの邂逅

ロンドンで、ショーンはもう一人の重要な人物に出会う。グラフィック・デザイン集団「ミー・カンパニー」出身のポール・ホワイトである。デザイナーとして活動していたホワイトは、若い頃から自身のアートワークに化学式を署名代わりに用いていたという。芸術と化学の交点に立つこの男が、ショーンのアイデアの価値をすぐさま理解した。​​

「ドイツのテクノを感じさせるフレグランスというのは、もともと自分にとって理解しやすいものだったのだと思います。」
— ポール・ホワイト

ショーンが「ジュース(香り)」を担当し、ホワイトが「デザイン」を担当する——こうして、エセントリック・モレキュールズは産声を上げた。

「私たちは、香りにおける無政府主義者の集団でした。」
— ポール・ホワイト

ロンドンのガレージから世界へ——2006年の誕生

2006年3月29日、ハーヴェイ・ニコルズでのプライベートディナーをきっかけに、エセントリック・モレキュールズは正式にローンチした。しかしその舞台裏では、10,000本もの瓶を二人がロンドンのガレージで手作業で充填・クリンプする(ボトルを封じる)という地道な作業が行われていた。

「象徴的な出来事の一つは、ロンドンのガレージで最初の1万本のボトルを手作業で充填し、かしめ作業を行ったことです――翌朝には手の感覚がなくなっていました!」
— ゲザ・ショーン

当初の予想はけっして楽観的ではなかったという。二人の最良のシナリオは「一瞬の輝きを放ち、それでも消えていく」というものだった。しかし現実は正反対だった。エセントリック・モレキュールズはハーヴェイ・ニコルズで同店史上最長のウェイティングリストを記録し、のちにロンドンの老舗百貨店リバティでも単独商品として最高売上を達成するに至った。​

「こんなものはアーティストや変わり者にしか受けないと思っていた」
— Geza Schoen

ショーンの自己評価は、見事に裏切られた。

ブランドのこだわり

「1分子」という哲学

エセントリック・モレキュールズの核心は、「単一の香気分子が、それ自体で独立した香水たりうる」という、当時の業界ではほぼ異端とされた命題にある。

従来の香水は、数十種から百種超の素材を精緻に積み上げたピラミッド構造で語られてきた。トップノート、ミドルノート、ベースノートという「物語」がその価値とされていた。ショーンはその文法を根底から問い直した。

「Molecule 01は、フレグランスのあり方に関する認識を大きく変える上で重要な役割を果たしました。それまでは主に天然由来の原料に焦点が当てられ、香りの説明でもそれらが中心でした。しかし私たちは、単一の香料分子であるIso E Superを主役に据えたのです。Molecule 01は、合成香料を魅力的な存在へと変えました。」— ゲザ・ショーン

2本同時リリースという独自フォーマット

このブランドでは、すべての香水が「ペア」で発表される。

  • モレキュール(Molecule)シリーズ:特定の分子を単独でボトルに詰めたもの。他の添加物は一切ない。
  • エセントリック(Escentric)シリーズ:同じ分子を中心に置きながら、その個性を引き出す素材を組み合わせた複合フレグランス。

ショーンはこの関係をこう説明している。​

「Escentric Moleculesの秘密は、分子そのものがどのようにEscentricを創り出すかを私に教えてくれる点にあります。各Moleculeのフレグランスは単一要素の構成ですが、これらの分子は特別です。多くの分子が単一のノートしか持たないのに対し、これらは音楽のフレーズのように3つから4つのノートを備えています。Escentricのフレグランスは、これら分子的なリフに対する私の即興表現なのです。フレグランスに含まれるすべての要素は、その分子自体と相互作用するために存在しています。」— ゲザ・ショーン

科学的根拠——フェロモン受容体との関係

イソ・イー・スーパーへのショーンの並々ならぬ情熱には、科学的な裏付けも存在する。ドイツの嗅覚研究者ハンス・ハット教授の研究によると、イソ・イー・スーパーはヒトのVN1R1受容体(フェロモン信号と関連する嗅覚受容体)を活性化することが確認されている。ハット教授はこの分子を「柔らかく、人間的。夢が見る香り(soft and human. The scent of which dreams are made)」と評した。

「科学的な観点から見ると、Iso E Superが人間のフェロモン受容体を活性化することが確認されている唯一の香料分子であるという発見は、非常に画期的なものでした。この研究に対して、ハンス・ハット教授に深く感謝しています。」
— ゲザ・ショーン

なお、ここで注意が必要なのは、イソ・イー・スーパー自体はいわゆる「フェロモン」ではなく、あくまでそれと関連する受容体を活性化することが確認された、ということである。

ボトル・パッケージのデザイン哲学

「中身を体現するパッケージ」——これがポール・ホワイトのデザインの絶対原則だ。

ブランドが参考にしたのは、インディペンデント音楽のアルバムジャケットのあり方だった。マーケティング予算もなく、店頭の棚だけが唯一の広告媒体という状況で、パッケージ自体が語りかけなければならなかった。

「バイナリーという概念を取り入れ、それに応答することで、コーディングはブランドの重要な要素となりました。言葉やブランド表現をバイナリー形式に分解し、そのバイナリーをパッケージの中に埋め込むことで、メッセージをパッケージに組み込んだのです。」
— ポール・ホワイト(クリエイティブ・ディレクター)

ボトルのラベルは2進数(バイナリコード)で印字されている。たとえばポータブルケースの蓋には、「e」のバイナリコード「01100101」と対応する番号が刻印されている。キャップはない。ボトル名称も「香水っぽくない」。そのすべてが、既存のフレグランス業界への静かな反抗だ。

素材によってパッケージの色や質感は変わる。たとえばモレキュール04(ジャバノール、サンダルウッド系)は、インドとのつながりからピンクとゴールドが採用され、そのボトルのデザインはCERN(欧州原子核研究機構)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)の粒子衝突画像からインスピレーションを受けている。

「Molecule 04は、おそらく大型ハドロン衝突型加速器(LHC)に着想を得た初めてのフレグランスボトルです。」
— ポール・ホワイト

香水ラインナップ

モレキュール・シリーズ

「純粋かつ単体(pure and singular)」を旗印とする5本。それぞれが、単独で香水として成立する分子の個性を探求する。

名称中心分子香調の特徴
モレキュール01Iso E Superベルベットのようなウッディ、コクーニング(包み込むような)。着けた本人より周囲が気づく”幻のような”香り
モレキュール02Ambroxan(アンブロキサン)皮膚に当たる陽光、海の塩気とミネラル感
モレキュール03Vetiveryl Acetate(ベチベリルアセテート)草の根のような青々しいウッディ。天然ベチバーよりも洗練されたグリーン
モレキュール04Javanol(ジャバノール)シアーで透明感のあるサンダルウッド。天然白檀の輝きと耐久性を持ちながら、より軽やか
モレキュール05Cashmeran(カシュメラン)ムスキーでウッディ、かつスパイシーで樹脂感を持つ複雑な単一分子。松のレジンを含んだコットンのような

エセントリック・シリーズ

各分子のキャラクターを引き立てる素材を組み合わせた、いわば「分子への愛の手紙」。

  • エセントリック01:イソ・イー・スーパーを65%という前代未聞の濃度で使用し、ライムピール、グリーンジャスミンバッド、オリス、バルサミックノート、フレッシュムスクを加えた。「静かに磁力的で、決して押しつけがましくない」
  • エセントリック02:アンブロキサン13.5%を核に、ジントニックのスパークリングなアコードと「新品のアップル製ラップトップを開封したときの香り」をブレンドした遊び心ある一本
  • エセントリック03:ベチバー、ジンジャー、オリスという「香水における三つの根」に捧げる構成
  • エセントリック04:ジャバノールを中心に、ピンクグレープフルーツ、ライム、ジュニパーが弾ける。「アワードを受賞した一本」
  • エセントリック05:カシュメランを軸に、地中海の夏を抽象化した。「コジーなカシミアのセーターが地中海に浸かったような」

モレキュール+(M+)シリーズ

モレキュール01のイソ・イー・スーパーに、ただひとつの天然素材を加えるというミニマリズムの実験。現在、以下8種が展開されている:
M+ パチュリー、M+ アイリス、M+ マンダリン、M+ グアイアックウッド、M+ ブラックティー、M+ ジンジャー、M+ シスタス、M+ チャンパカ

各バリエーションはイソ・イー・スーパーを軸に、それぞれの素材が演じる「第二の主役」との対話として構成されている。

ちなみに…

  • ゲザ・ショーンの受賞歴:アウトスタンディング・アーティスト・アワード(学際部門)を2016年および2017年に受賞。また2017年には、アーティストのヴォルフガング・ゲオルクスドルフとの共同プロジェクト「オズモドラマ/スメラー2.0」でサダキチ・アワード(実験的嗅覚作品部門)も受賞している。スメラーとは、観客がピアノのように演奏できる「嗅覚オルガン」で、ショーンはそのために64種の香りを創った。
  • 「紙の香り」を瓶に詰めた男:2012年には出版社シュタイドル、デザイナーのカール・ラガーフェルド、雑誌ウォールペーパー誌とのコラボレーションで「ペーパー・パッション」を発表。本の香り——印刷用紙とインクが混ざり合う独特の芳香——を香水として昇華させた異色作である。ショーンは最終的にわずか4〜5種類の素材でこの香りを完成させた(一般的な香水は20〜100種類の素材を使う)。ラガーフェルドはこの香りを「沈黙の紙の香り(the silent smell of paper)」と評した。
  • スクロールを止めるその香り:モレキュール01には、「着けた本人は気づかないが、周囲にはわかる」という不思議な特性がある。これはイソ・イー・スーパーがヒトの嗅覚受容体と結合するメカニズムによるもので、嗅覚が慣れることで自分では気づきにくくなるとされる。”見えないオーラ”とも表現されるこの性質が、ブランドをめぐる数々の伝説的エピソードを生んだ。「見知らぬ人に路上で追いかけられて『何の香りですか?』と聞かれた」という報告は、ショーン自身が最も誇りに思う顧客体験のひとつだという。
  1. Escentric Molecules 公式サイト「About Escentric Molecules」 – https://www.escentric.com/pages/about-escentric-molecules
  2. Escentric Molecules 公式ブログ「20 Years of Radical Perfumery: The Escentric Formula」 – https://www.escentric.com/blogs/news/20-years-of-radical-perfumery-the-escentric-formula
  3. Escentric Molecules 公式ブログ「20 Years of Breaking Rules」(Geza SchoenおよびPaul Whiteへのインタビュー)– https://www.escentric.com/blogs/news/20-years-of-breaking-rules
  4. Escentric Molecules 公式ブログ「The Line-Up」 – https://www.escentric.com/blogs/news/the-line-up
  5. Escentric Molecules 公式ブログ「Atomic-Smitten: Meet Escentric Molecules Creative Director」 – https://www.escentric.com/blogs/news/atomic-smitten
  6. ÇaFleureBon「Escentric Molecules Molecule 01 M + Ginger, Black Tea and Guaiac Wood」(Geza Schoenの直接発言を含むインタビュー記事)– https://cafleurebon.com/escentric-molecules-molecule-01-m-ginger-black-tea-and-guaiac-wood-geza-schoen-2023-plus-pick-your-phero
  7. The Perfume Society「We just went nose to nose with fascinating perfumer Geza Schoen」 – https://perfumesociety.org/just-went-nose-nose-perfumer-geza-schoen-eccentric-molecules/
  8. The Perfume Society「Escentric Molecules」ブランドページ – https://perfumesociety.org/perfume-house/escentric-molecules/
  9. The Standard(ロンドン)「This 20-year-old cult fragrance is still ahead of the curve」 – https://www.standard.co.uk/lifestyle/beauty/cult-fragrance-brand-escentric-molecules-b1258822.html
  10. Escentric Molecules 公式ブログ「A microscopic look at our new Escentric packaging」 – https://www.escentric.com/blogs/news/a-microscopic-look-at-our-new-escentric-packaging
  11. Escentric Molecules 公式ブログ「Project Renegades Perfume」 – https://www.escentric.com/blogs/news/rebel-smell
  12. House of Pheromones「ISO E Super: Invisible, Magnetic Aura Amplifier」 – https://houseofpheromones.com/iso-e-super-molecule/
  13. The Gloss(Ireland)「The New Minimalists」 – https://thegloss.ie/the-new-minimalists-discover-the-new-launches-from-cult-fragrance-brand-escentric-molecules/
  14. Steidl Publishers「Paper Passion Perfume」 – https://steidl.de/Books/Paper-Passion-Perfume-0008152458.html
  15. Wallpaper*「Paper Passion by Geza Schoen, Steidl, Karl Lagerfeld and Wallpaper*」 – https://www.wallpaper.com/lifestyle/paper-passion-by-geza-schoen-steidl-wallpaper-and-karl-lagerfeld
  16. ScentGrail「Escentric Molecules Molecule 01 Review」 – https://scentgrail.com/holy-grail-scents/molecule-01-review/
  17. parfumsstaaltjes.be「Geza Schoen」 – https://parfumstaaltjes.be/en/pages/geza-schoen
  18. Escentric Molecules 公式ポータブルケースページ – https://row.escentric.com/collections/portables
  19. YouTube「Meet a Nose: Geza Schoen and Paul White」(Institute for Art and Olfaction)– https://www.youtube.com/watch?v=mUzFWxNjmmQ
この記事を書いた人
Root

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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