「庭を歩くとき、どんな気持ちになるだろう?ある感情、ある情感をどうやって言葉にすれば良いのか」
— ドリス ヴァン ノッテン
基本情報
- 香水ライン設立: 2022年3月(ファッションブランドとしての設立は1986年)
- 創設者: ドリス ヴァン ノッテン(Dries Van Noten)
- 公式サイト: https://www.driesvannoten.com
創設者・ブランドの成り立ち
仕立て職人の家系に生まれた少年
1958年、ベルギーのアントワープで、ドリス ヴァン ノッテンは生まれた。その生い立ちからして、ファッションとは切り離せない宿命にあった。祖父は仕立て職人であり、父親はベルギーで最も革新的なプレタポルテ(高級既製服)小売業者のひとりとして知られていた。「家業の血」を受け継いだ少年は、いわば生まれながらにして服と布とともに育った。
その後、ヴァン ノッテンはアントワープのロイヤル・アカデミー・オブ・ファインアーツ(王立美術大学)のファッションデザイン科へ進学する。入学したのは1977年のことだった。そこで出会ったのが、後に「アントワープ・シックス」として世界に名を轟かせる仲間たちである。ウォルター・ヴァン ベイレンドンク、マリーナ・イー、ディルク・ビッケンバーグス、ディルク・ヴァン・サーン、そしてアン・ドゥムルメステール——6人は1981年に卒業した。
ロンドン、1986年:神話の幕開け
卒業後、ヴァン ノッテンはフリーランスのコンサルタントデザイナーとして様々なファッションスタジオやブティックで経験を積んだ。そして1986年、6人の仲間とともに小さなバンに乗り込み、ロンドンへと向かう。目的地はブリティッシュ・デザイナー・ショー——いわゆる業界の見本市だった。
無名のベルギー人たちが乗り込んだこの展示会で、わずか3日間の出来事は業界の伝説となった。ニューヨークのバーニーズ、ロンドンのウィッスルズ——大手セレクトショップからの発注が即座に舞い込んだのだ。英語で発音しにくい名前を持つ6人は、メディアによって「アントワープ・シックス」として広められた。それは「ベルギー発」という概念が国際ファッションシーンにとって既成概念の外にあった時代に、ひとつの革命を起こした瞬間だった。
ヴァン ノッテン自身は同年、最初のメンズコレクションを自身の名のもとで発表し、翌1987年にはウィメンズラインを追加する。1989年にはアントワープの歴史的な建物「ヘット・モデパレイス(Het Modepaleis)」内に旗艦店をオープン。この店舗は現在も5フロアを擁するブランドの聖地として機能している。
パリへ、そして不変の哲学へ
1993年、ヴァン ノッテンはパリ・ファッション・ウィークに初参加し、以降は毎シーズン、ウィメンズとメンズの両コレクションをパリで発表し続けた。業界では長く「デザイナーのためのデザイナー」と評されてきた彼は、広告に一切費用をかけず、セレブリティを使ったプロモーションも行わないという孤高の姿勢を貫いた。
「私はいつも、真摯さへのコミットメントに駆られ、オーガニックに仕事をしてきた。一時的なものやセレブリティの支持に頼るのではなく、製品のクオリティと職人技そのものが語りかけてくれると信じている」
— ドリス ヴァン ノッテン(Grazia誌インタビューより)
2018年、スペインの美容・ファッション複合グループであるプイグ(Puig)がブランドの過半数株式を取得した。この資本参加によって、ヴァン ノッテンはブランドの成長を維持しながら独自の方向性を保てるようになったと、後のレターで述べている。
2024年:ファッションから香水・庭へ
2024年3月、ドリス ヴァン ノッテンは自身のレーベルのクリエイティブ・ディレクターを退くことを発表した。ファッションとの別れは感情的なものでもあったが、彼にとっては準備のできた転換点でもあった。最後のコレクションとなったS/S 2025メンズウェアショーは、2024年6月のパリで、銀の葉が舞い散る演出のなかで幕を閉じた。
38年にわたるファッションキャリアの後、ヴァン ノッテンが選んだ次のステージは「庭仕事」と「香水」であった。
「最初、庭はある種の逃げ場として見ていた。そしてその逃避こそが、自分の一部であると気づき始めた。庭は人間としての私のバランスを保ってくれる。ファッションではあらゆることをコントロールしようとする。でも庭では、自然に従わなければならない。それが謙虚さを保つ助けになる。そして何より、庭は私に忍耐を教えてくれた」
— ドリス ヴァン ノッテン(Wallpaper誌インタビューより)
退任後も、ヴァン ノッテンはビューティーラインに対してアドバイザーとして関与し続けることを表明している。
香水ラインの誕生
フレデリック・マル コラボレーション(2013年)
ドリス ヴァン ノッテンと香水の縁は、実は香水ラインの立ち上げよりずっと前に始まっていた。2002年頃から、彼のブティックではエディション・ドゥ・パルファン フレデリック・マル(Editions de Parfums Frédéric Malle)の香水が販売されていた。
2013年、フレデリック・マルはヴァン ノッテンを「嗅覚的肖像」の対象として選び、調香師ブルーノ・ジョヴァノヴィッチ(Bruno Jovanovic)がその香りを手掛けた。テーマは「フランドルの冬」——雨のアントワープから温かな室内へと踏み込む感覚、すなわちベルギーの伝統菓子スペキュロスや砂糖タルトの甘い香りを纏ったインテリアが発想の源となった。サンダルウッド、バニラ、サフラン、ジャスミン、ホワイトムスクなどを骨格に持つこのフレグランス「ドリス ヴァン ノッテン パー フレデリック・マル」は、マルが語ったように「クチュールの冬コートのように仕立てられた」一作となった。ヴァン ノッテンはこの香水を、以後自身の定番として愛用したとされている。
独自ラインの立ち上げ(2022年)
2022年3月2日、ドリス ヴァン ノッテン ビューティーとして初の香水コレクションが正式にローンチされた。10種類のジェンダーレスなオードパルファンと30色のリップスティックを核としたこのコレクションは、プイグ・グループとの共同開発による。
香水ラインを立ち上げるにあたり、ヴァン ノッテンは3年間の構想期間を設けた。10名の国際的な調香師を自身のアントワープ郊外の庭に招待し、庭を歩きながらそのスピリットを直接体感させたという。各調香師には、完全な創作の自由が与えられた。
ブランドのこだわり
「不可能な組み合わせ」という哲学
ドリス ヴァン ノッテンの香水ラインを貫くキーワードは「impossible combinations(不可能な組み合わせ)」である。これはファッションにおけるヴァン ノッテンの設計思想——相反するものを並べることで、意外なハーモニーを生み出す——の香水版にほかならない。
「完璧に美しいものは、退屈にもなり得る。だから私は対比を好む。私の美学には奇妙さが宿っていて欲しい」
— ドリス ヴァン ノッテン(Wallpaper誌インタビューより)
たとえば、キャナビス パチュリ(Cannabis Patchouli)は、よく知られたパチュリの重みにクラリセージの青々とした緑を衝突させることで成立する。ヴァニーユ カムフラージュ(Vanille Camouflage)では、甘いバニラにガルバナムという樹脂の鋭くグリーンな香りをぶつけ、予想を裏切る。ヴァン ノッテン自身が調香師たちに課したのは「意外性」であり、彼はそれを「クリエイティブ・ピンポン」と呼ぶ。
「私が香りに取り組む姿勢は、ファッションに向き合う姿勢と同じだ。ノーズからのインプットは非常に興味深く、とても勉強になる。私はそれをクリエイティブ・ピンポンと呼んでいる——アイデアが自由に流れ、夢が共有され、最もワイルドなコンセプトでさえも好奇心をもって受け入れられる。非常に豊かな旅だった」
— ドリス ヴァン ノッテン(Wallpaper誌インタビューより)
庭が生んだ香り
ヴァン ノッテンがアントワープ近郊のリール(Lier)に所有する邸宅は、19世紀建築のネオクラシカル様式の建物で、その敷地面積は約55エーカー(約22ヘクタール)に及ぶ。数百種に及ぶ植物が育つこの庭は、香水コレクションの「生きた実験室」とも言える存在だ。
ミスティック・モス(Mystic Moss)の発想は、キャナビス パチュリへの愛着から始まった。調香師ニコラ・ボヌヴィル(Nicolas Bonneville)がヴァン ノッテンの庭にパチュリの鉢植えを贈ったことがきっかけとなり、より清涼感のある解釈を模索した結果生まれた香水である。マケドニア産のオークモス、カラブリア産のマンダリン、インドネシア産のパチュリなど、世界各地から倫理的に調達された素材が使われている。
ボトルのデザイン:薬瓶からインスパイアされた造形美
香水ボトルのデザインコンセプトは「アポセカリー(apothecary)ヴァイアル」——つまり、昔の薬局で使われていた薬瓶——からの着想である。すべてのボトルは補充(リフィル)可能で、使い終わったフラコンはインテリアとして飾るか、専用の詰め替えボトルで再利用できる。
ガラス製造は、ストエルツレ・マスニエール パルフュメリー(Stoelzle Masnières Parfumerie)が担当し、各フレグランスそれぞれに異なる装飾が施されている。8本のボトルはラッカー仕上げ、2本は同社独自のクアリ・グラス・コート 2.0という技術で仕上げられた。ボトルの台座部分には、磁器、木材、金属、樹脂といった素材が組み合わされており、ビン本体と台座の組み合わせが各フレグランスの「二面性」を視覚的に表現している。
たとえば、ヴードゥー・チリ(Voodoo Chile)はセルリアンブルーのガラスに、ハーブの葉をエングレーブした銀の台座を持ち、ソワ・マラケ(Soie Malaquais)はダークバーガンディのボトルとデルフト焼き(オランダの伝統陶器)の青を組み合わせる。
サステナビリティへの姿勢
すべての香水は85%以上の天然由来成分で構成されており、動物由来成分を含まないヴィーガン処方が採用されている。外装のパッケージには、FSC認証森林から調達した再生可能な木材繊維を使ったパルプモールドが採用されており、輸送中にボトルを保護しながら廃棄物を最小限に抑える設計となっている。
香水ラインナップ
ローンチコレクション(2022年:10種)
2022年3月に発表された最初の10作品は、それぞれ独立した調香師が手掛けており、単一の「ブランドの香り」を持つのではなく、各作品がひとつの視点として独立している。主な作品と担当調香師は以下の通りである。
- キャナビス パチュリ(Cannabis Patchouli) / 調香師:ニコラ・ボヌヴィル(Nicolas Bonneville)。フレッシュなクラリセージとウッディなパチュリの明暗対比。
- フルール・デュ・マル(Fleur du Mal) / 調香師:カンタン・ビッシュ(Quentin Bisch)。オスマンサスの無邪気さと官能性を同居させたフルーティ・フローラル・レザー。
- ジャルダン・ドゥ・ロランジュリー(Jardin de l’Orangerie) / 調香師:ダニエラ・アンドリエ(Daniela Andrier)。オレンジブロッサムの甘熟した二面性を描くウッディ・グルマン。
- ネオン・ガーデン(Neon Garden) / 調香師:ファニー・バル(Fanny Bal)。オリスとミントの「古典を揺るがす」アロマティック・フローラル。
- ラヴィング・ローズ(Raving Rose) / 調香師:ルイーズ・ターナー(Louise Turner)。「ローズであってローズでない」スパイシー・グリーン・フローラル。
- ロック・ザ・マー(Rock the Myrrh) / 調香師:アメリ・ジャカン(Amélie Jacquin)。ミルラ(没薬)を主役に据えたスエード・レザー。
- ローザ・カルニヴォラ(Rosa Carnivora) / 調香師:ダフネ・ビュジェ(Daphné Bugey)。ダマスクローズとパチュリが織りなすクリーミーなローズ。
- サンタル・グリーナリー(Santal Greenery) / 調香師:ニスリーヌ・ブアザウイ・グリル&アメリ・ジャカン(Nisrine Bouazzaoui Grille, Amélie Jacquin)。サンダルウッドとグリーンの清潔な組み合わせ。
- ソワ・マラケ(Soie Malaquais) / 調香師:マリー・サラマーニュ(Marie Salamagne)。チェスナットとシルクアコードのグルマン・フローラル。
- ヴードゥー・チリ(Voodoo Chile) / 調香師:ニコラ・ボー(Nicolas Beaulieu)。ローズマリーとパチュリ、キャンナビスを組み合わせた独特のアロマティック。
なお、ヴァン ノッテンが個人的に特に気に入っていると公言しているのはキャナビス パチュリである。
ミスティック・モスとその後(2024年〜)
2024年には新たに4作品が追加された。ヴァニーユ カムフラージュ(Vanille Camouflage)、クレイジー・バジル(Crazy Basil)、カモミール・サタン(Camomille Satin)、そしてビター・スプラッシュ(Bitter Splash)である。いずれも既存のコレクションと同様に「不可能な組み合わせ」の哲学に基づいており、重ね付け(レイヤリング)も想定されてデザインされている。
ヴァン ノッテン自身が薦めるレイヤリングの組み合わせとして、「ビター・スプラッシュ + ミスティック・モス」「ビター・スプラッシュ + クレイジー・バジル」「クレイジー・バジル + ジャルダン・ドゥ・ロランジュリー」が挙げられている。
ちなみに…
- 「ヴードゥー・チリ」の名はジミ・ヘンドリックスから
ヴードゥー・チリ(Voodoo Chile)という香水の名は、ジミ・ヘンドリックスの楽曲「Voodoo Chile」から着想を得ている。ローズマリー、パチュリ、シダーウッドという植物性の素材を組み合わせながら、そこにロックの精神を注ぎ込んだ作品と言える。 - コレクション名「Modepaleis」とは
ブランドのディスカバリーセット(お試しセット)の名称「コレクション モデパレイス(Collection Modepaleis)」は、アントワープの旗艦店がある歴史的建造物「ヘット・モデパレイス(Het Modepaleis)」に由来する。かつての百貨店を改装したこの建物は、ブランドのルーツそのものとも言える場所だ。 - 写真撮影された庭の花が布地になった
ヴァン ノッテンの庭へのこだわりは、香水以前からコレクションに影響を与えていた。2019年秋冬コレクションでは、自分の庭で育てたバラ、サルビア、ダリア、デルフィニウムなどを写真に撮り、それを布のプリントに転用した。「ファッションは急いで走る。でも庭は待つことを教えてくれる」と彼は語っている。
- Dries Van Noten – Facts about the Perfume Brand – https://www.parfumo.com/PerfumeBrand/dries-van-noten
- The Story of Dries Van Noten Beauty | MECCA Memo – https://www.mecca.com/en-nz/mecca-memo/fragrance/dries-van-noten-brand-story/
- Dries Van Noten launches a perfume and cosmetics line – https://se.fashionnetwork.com/news/Dries-van-noten-launches-a-perfume-and-cosmetics-line,1383003.html
- Timeline: Dries van Noten’s career in a nutshell – FashionUnited – https://fashionunited.com/news/fashion/timeline-dries-van-noten-s-career-in-a-nutshell/2024031958985
- Dries Van Noten BEAUTY LAUNCH – Andreas Murkudis – https://andreasmurkudis.com/project/dries-van-noten-beauty-launch-at-store-81
- Dries Van Noten On His New ‘Scents’ Of Direction – Grazia – https://graziamagazine.com/articles/dries-van-noten-beauty-interview/
- Introducing Fragrances | Dries Van Noten(公式サイト) – https://www.driesvannoten.com/pages/stories-introducing-fragrance
- Dries Van Noten x 10 ~ new perfumes – Now Smell This – https://nstperfume.com/2022/02/28/dries-van-noten-x-10-new-perfumes/
- Floral Alchemy: The Unique Fragrance Collection of Dries Van Noten – A Shaded View on Fashion – https://ashadedviewonfashion.com/2024/08/19/floral-alchemy-the-unique-fragrance-collection-of-dries-van-noten/
- Post-Retirement, Dries Van Noten Is Still Working on Fragrance & Beauty – Highsnobiety – https://www.highsnobiety.com/p/dries-van-noten-fragrance-collection-2024/
- Why Dries Van Noten decided to grow his burgeoning beauty line – Wallpaper* – https://www.wallpaper.com/fashion-beauty/dries-van-noten-on-his-beauty-line
- Exclusive interview: Dries Van Noten on launching his new beauty line – Wallpaper* – https://www.wallpaper.com/beauty-grooming/dries-van-noten-beauty-interview
- Dries Van Noten Is Stepping Down From Namesake Brand – Fashionista – https://fashionista.com/2024/03/dries-van-noten-stepping-down
- Dries Van Noten on designing Mystic Moss, a salty fragrance for spring – Wallpaper* – https://www.wallpaper.com/fashion-beauty/dries-van-noten-new-fragrance
- Dries Van Noten x 4 ~ new fragrances – Now Smell This – https://nstperfume.com/2024/08/29/dries-van-noten-x-4-new-fragrances/
- One very fashionable fragrance – ELLE Australia – https://www.elle.com.au/beauty/fragrance/one-very-fashionable-fragrance-2896/
- Dries Van Noten par Frederic Malle : Fragrance Review – Bois de Jasmin – https://boisdejasmin.com/2013/02/dries-van-noten-par-frederic-malle-fragrance-review.html
- How the Antwerp Six Achieved Fashion Infamy – AnOther Magazine – https://www.anothermag.com/fashion-beauty/8881/how-the-antwerp-six-achieved-fashion-infamy
- Stoelzle Masnières produces glass bottles for Dries Van Noten – Premium Beauty News – https://www.premiumbeautynews.com/en/stoelzle-masnieres-produces-glass,20041
- Dries Van Noten enters beauty market – The Industry Beauty – https://theindustry.beauty/dries-van-noten-enters-beauty-market/
- Dries Van Noten Ventures Into Beauty – Hypebae – https://hypebae.com/2022/3/dries-van-noten-beauty-lipsticks-perfumes-release-price
- Dries Van Noten’s Mystic Moss Embraces the Unexpected – Hypebae – https://hypebae.com/2024/7/dries-van-noten-mystic-moss-fragrance-launch-interview
- Dries Van Noten on How His Garden Inspires Him – AnOther Magazine – https://www.anothermag.com/fashion-beauty/11829/dries-van-noten-garden-antwerp-autumn-winter-2019-collection-show-interview


