バレンシアガ(Balenciaga)―15年かけて蘇らせた真のクチュリエの香水

ブランド創業者

「仕立て師たる者は、デザインにおいて建築家であり、形状においては彫刻家であり、色において画家であり、調和において音楽家であり、節度においては哲学者でなければならない」

― クリストバル・バレンシアガ

基本情報

  • 設立年:1917年(スペイン・サン・セバスティアン)
  • 創設者:クリストバル・バレンシアガ・エイサギレ(Cristóbal Balenciaga Eizaguirre)
  • 公式サイトbalenciaga.com

創設者・ブランドの成り立ち

バスク海岸の漁村に生まれた少年

1895年1月21日、スペイン北部バスク地方の小さな漁村ゲタリア(Getaria)。クリストバル・バレンシアガ・エイサギレは、漁師の父と仕立て師の母を持つ労働者階級の家庭に生まれた。父は幼いクリストバルが11歳のときに他界し、母マルティナ・エイサギレ(Martina Eizaguirre)がその後の一家の柱となった。母は地域の名家、カサ・トーレス侯爵家のために仕立てを請け負っており、クリストバルは幼い頃から母の傍らで針と布に親しんで育った。

こうした環境が彼の才能を育む土壌となった。ゲタリアを訪れる夏の避暑客たちが纏う上質な衣服、母が手がける精緻な仕立て――少年クリストバルにとって、それらはすべて生きた教材であった。

侯爵夫人との出会い、そして第一歩

転機は12歳頃に訪れた。カサ・トーレス侯爵夫人が身に纏うパリの衣装に魅了されたクリストバルは、直接その夫人に「同じものを仕立てさせてほしい」と申し出た。夫人はその仕上がりの完成度に驚き、以後、彼の最初の庇護者(パトロン)となった。侯爵夫人は彼をマドリードへ送り出し、正式な仕立て職人としての修行を積む機会を与えた。

1917年、当時22歳のクリストバルはサン・セバスティアンに自らのアトリエを開いた。店名は「C. Balenciaga」。1927年に設立した2店舗目は「エイサ(EISA)」――母の旧姓エイサギレから取った名前であった。この命名ひとつにも、母への深い敬愛が滲む。

その後、マドリードとバルセロナへの展開を経て、スペイン王室や貴族階級を顧客に持つ高級仕立て師としての地位を確立した。

スペイン内戦、そしてパリへ

1936年のスペイン内戦の勃発がすべてを変えた。翌年にクリストバルはスペインのアトリエを閉鎖し、パリへと活動の場を移す。同年8月、パリ8区のジョルジュ・サンク通り10番地(10 Avenue George V)に新たなメゾンを開き、スペイン・ルネサンスに着想を得たコレクションで初のランウェイショーを開催した。

パリでは、ガブリエル・シャネルやエルザ・スキャパレッリらと肩を並べることになる。1939年にはフランスの批評家から「ファッションに革命をもたらす力」として称賛されるようになり、その名声は急速に広まった。

沈黙の帝王

クリストバル・バレンシアガは、当時のファッション界において際立って謎めいた存在であった。彼はほとんど報道機関のインタビューに応じなかった。調査研究者によれば、彼が生涯で受けたインタビューはわずか2回にすぎなかったとされる。ただし近年の研究では、彼のメディア嫌いが語られるときに用いられる「50年間一度もインタビューに応じなかった」という言説は正確ではなく、1956年1月にプレスへの対応を打ち切った(ビジネス上の判断)以降に形成されたイメージが、遡及的に彼の全キャリアに投影されたとする見解もある。

ココ・シャネルはかつてこう言った。

「バレンシアガだけが、真の意味でのクチュリエだ。彼だけが、素材を自分でカットし、組み立て、一人でドレスを縫い上げることができる。」

クリスチャン・ディオールは彼を「私たちすべてのマスター」と呼び、ユベール・ド・ジバンシーはアシスタントとして彼の薫陶を受けた。ファッション界の頂点に立ちながら、クリストバルは決してスポットライトの中心に立とうとはしなかった。そのストイックな姿勢が、今日のバレンシアガの香水「ノー・コメント(No Comment)」の着想源ともなっている。

引退と孤高の幕引き

1968年5月、73歳のクリストバルは突然の引退を表明し、パリのメゾンを閉鎖した。当時のニューヨーク・タイムズの報道によれば、彼は「もはや真のオートクチュールを作ることは不可能だ」という認識に至っていたとされる。メゾンの閉鎖を告げる電話に、スタッフが泣き崩れる声が受話器越しに聞こえた、というエピソードはよく知られている。

クリストバルは1972年3月23日、スペイン・ハベア(Jávea)にて77歳で生涯を閉じた。故郷のゲタリアには、2011年に彼の名を冠した博物館「クリストバル・バレンシアガ・ミュゼオア(Cristóbal Balenciaga Museoa)」が開館し、その遺産が今も受け継がれている。

ブランドの復活と現代

1986年、フランスのフレグランス・グループ「ジャック・ボガール(Jacques Bogart)」がブランドを取得し、復活を遂げた。1992年以降はヨゼフス・ティムスター、1997年からはニコラ・ジェスキエールが創造的ディレクターを務め、特にジェスキエール時代に「ル・シティ・バッグ」のヒットなどでブランドは現代的な輝きを取り戻した。2001年にケリング(Kering)グループが買収。その後はデムナ(Demna、旧称Demna Gvasalia)が長年クリエイティブ・ディレクターを務め、2025年よりピエルパオロ・ピッチョーリ(Pierpaolo Piccioli)が後任となっている。

ブランドのこだわり

香りづくりの哲学:対比と二項対立

2025年にリリースされた現行フレグランス・コレクションは、「伝統と革新の衝突」という理念を核に持つ。ケリング・ボーテ(Kering Beauté)の担当者はその方針をこう説明した。

「これまでバレンシアガのフレグランスは外部ライセンス下で運営されていた。過去の取り組みを尊重しつつも、私たちはゼロから完全に作り直し、1950〜60年代のようにバレンシアガのファッションの精神に真に沿った香水のレガシーを再構築したかった。」

各香水は「フランスの伝統的な調香技術と最新の嗅覚シグネチャー」の融合として設計されており、天然原料とハイテクな抽出技術、精度と詩情、といった二項対立(デュアリティ)がコレクション全体の美学的基軸となっている。また原材料の調達においても、環境負荷と天然素材のリスクを評価するプロセスが取り入れられた。

香水コレクションは、各香水師(パフューマー)がバレンシアガのアーカイブに実際にアクセスし、布を手に取り、カットを観察し、写真・スケッチ・資料を精読するという「感覚的なイマージョン(没入体験)」を経て制作された。ル・モンド紙はこのプロセスを「視覚的・触覚的なハウスのDNAを吸収し、そこから目に見えない素材――香りの様式――を引き出すこと」と表現している。

ボトルデザイン:時を超えた容器

現行コレクション全10種のボトルは、1947年当時のル・ディス(Le Dix)の原型を忠実に再現した設計になっている。ボトルの形状は、創設者自身によるスケッチに基づく「球形のガラスキャップ、手結びのリボン、長方形のガラスベース」という構成で、そのデザインは高精度3Dスキャン技術によって原瓶のディテールをほぼ完全に再現した。さらに、ラベルは意図的に経年劣化のパティナ(風合い)を施した仕上がりとなっており、「時の流れ」を物質として可視化するという美学的な試みでもある。

箱のパッケージには「バレンシアガのシグネチャーであるインダストリアル・グレー」が採用され、復刻された「ル・ディス」の原ロゴタイプが添えられている。全ボトルはフランス国内で製造・封印・梱包されており、詰め替え可能(リフィラブル)な仕様でサステナビリティへの配慮も組み込まれている。

パリ8区のジョルジュ・サンク通り10番地には、2025年にブランド初の専門香水ブティックがオープンした。クチュールブティックと同じ建物の入口を挟んで向かい合う場所に設けられたこの店舗は、「ベルベット、スエード、コンクリート、スチール、ミラー」を組み合わせたインテリアで構成され、隣接するクチュールストアの建築コードを踏襲している。

香水ラインナップ

ル・ディス(Le Dix)の誕生と喪失、そして再生

バレンシアガが初めて香水を手がけたのは1947年のことだった。「ル・ディス(Le Dix)」という名は、パリのアトリエが構えるジョルジュ・サンク通り10番地(”10″)を意味する。

調香師フランシス・ファブロン(Francis Fabron)によって生み出された当初のル・ディスは、ベルガモット、レモン、イランイラン、ローズ、アイリス、ライラック、ジャスマン、ムスクなどを組み合わせたアルデヒド系フローラルで、その洗練された香りは戦後パリの上流社会に熱狂的に受け入れられた。ファブロンはジバンシーの「ランテルディ(L’Interdit)」原版やニナ・リッチの「レール・デュ・タン(L’Air du Temps)」も手がけた調香師であり、ル・ディスはその繊細な技量が余すところなく発揮された傑作とみなされている。

なお、1947年と同年にディオールの「ミス・ディオール」やバルマンの「バン・ベール(Vent Vert)」も誕生しており、ル・ディスはその黄金時代の香水史に確かな足跡を刻んでいる。

1949年から1962年にかけて、創設者の指揮下でさらに3作が発表された。「ラ・フュイット・デ・ウール(La Fuite des Heures)」「オー・ド・バレンシアガ(Eau de Balenciaga、1954年)」「カドリーユ(Quadrille)」の3本である。ところが、クリストバルの引退後にメゾンが閉鎖されると、これらの香水は次第に棚から姿を消した。ル・ディスは2000年代初頭まで流通していたが、その後廃番となり、原瓶はバレンシアガのアーカイブからすら行方知れずとなった。

15年の探索と再発見

2025年のコレクション誕生の端緒は、ケリング・ボーテのアーキビストたちが始めた「失われたル・ディスの原瓶を求める15年にわたる探索」である。この探索の過程で、創設者自身のスケッチが発見され、当初広く知られていたリッジ入りのフラコンとは異なる「真のオリジナルデザイン」が明らかになった。

さらに時を経て、1947年付の原瓶がアメリカの個人コレクターのもとで発見された。ボトル内の液体は変色・蒸発が進んでいたが、それでも当時のシプレー系・アニマル系の香気成分は残留しており、現代の分析技術によってその原形が解明された。

この「探偵的な発見」が2025年コレクション全体の礎となった。

2025年コレクション:10の香水が語る歴史

2025年9月10日に発表された10本のコレクションは、ブランド初の本格的なオート・パルファムへの回帰として位置づけられ、各香水がバレンシアガのヘリテージ(遺産)の異なる側面を体現している。

以下に全10本とその特徴を記す。

ル・ディス(Le Dix)
1947年の原作を再解釈した、コレクションの礎。アイリス・アブソリュートと独自抽出のアイリス・アルデヒド、バイオレット・リーフ・アブソリュート、フランキンセンス(乳香)精油を組み合わせ、端正でアンドロジナスな優雅さを表現する。

ノー・コメント(No Comment)
創設者の「沈黙の哲学」へのオマージュ。スペイン産サイプレス精油とシンセティック・グリーン・モレキュールによる、静謐で力強いウッディ・フゼアの香り。「物は語らずして語る」というバレンシアガの姿勢を嗅覚で体現する。

ゲタリア(Getaria)
創設者の生誕地、バスク海岸の漁村ゲタリアへのオマージュ。塩気を帯びたシトラス、ピンクペッパー、クリスタライズド・シーウィード・アブソリュートが、大西洋の潮風と太陽の温かさを想起させる。

トゥエンティ・フォー・セブン(Twenty Four Seven)
ヴァニラ・アブソリュート、アンバー、ムスクによる、時間を溶かすような多幸感のある香り。繁忙な現代生活から切り離される「繭のような包容感」をコンセプトとする。

トゥ・ビー・コンファームド(To Be Confirmed)
1958年のオートクチュール傑作「チューリップ・ドレス」に着想を得た、抽象的なフローラル。キモノ・チューリップ・アコードとシルバーニードル・ティー・エキス、ジャスマン、イランイランなどが溶け合う。

ムスカラ(Muscara)
1960年代のバレンシアガのランウェイを歩いたモデルたちのコール・リムのアイラインに着想を得た香り。アンブレット・シード・アブソリュートとアイリスが、ワニス的な緊張感と化学的精度を醸し出す。

100%
2025年3月9日、デムナ最後のレディ・トゥ・ウェアショーでモデルたちが会場に纏わせた「秘密の香り」がその正体。劇的でオペラ的なローズを核とする、フローラル・メタリックな構成。

エクストラ(Extra)
活気溢れる、情熱的な印象の香り。ブランド公式の表現では「永遠の輝き」と形容され、神話的なモチーフが織り込まれている。(成分についての詳細な一次情報は現時点では確認できなかった。)

クリストバル(Cristóbal)
創設者の名を冠した、コレクション中最も重厚な香水。希少なアッサフィ・ウード(Assafi Oud)エッセンス、パチョリ、オークモスを重ね合わせた深遠な構成。バレンシアガ公式は「創設者の二面性――謎めいて控えめでありながら、重厚な存在感を放つ」を体現した香りと説明している。

インセンス・パルファム(Incense Perfumum)
創設者が好んだ色「黒」と、彼が敬愛したスペイン絵画(ベラスケスなど)の沈黙感を体現する香り。三種のインセンス(乳香)精油を核に、シダーウッドとスペイン産ラブダナム(labdanum)レジンが琥珀のような深みを与える。ウォールペーパー誌はこの香りを「まるでベラスケスの絵画の中に足を踏み入れるような体験」と表現している。

ちなみに…

  • 香水がブランドを「生かし続けた」
    クリストバルの引退(1968年)からブランドがジャック・ボガールによって復活される1986年まで、バレンシアガは事実上の活動停止状態にあった。だがこの約18年間、唯一その名前を世に繋ぎ止めていたのがフレグランスのライセンスビジネスであった。ル・モンド紙はこの事実を「ブランドが香水というただひとつのベクターで継続性・生存・アイデンティティを保った期間」と描写している。
  • 「目に見えない衝撃」の演出
    2025年3月9日、クリエイティブ・ディレクターのデムナが手がけた最後のレディ・トゥ・ウェア・ショー。パリ8区のアンヴァリッド広場に設営された巨大な構造物の中を、モデルたちが歩くたびに会場に漂う謎めいたフローラル・メタリックの香気。観客たちはその正体を知らないまま、皮膚感覚で体験した。4ヶ月後、その香りが「100%」という名の新作香水であったことが明かされた。
  • 探偵さながらのアーカイブ調査
    アーキビストたちが15年かけて追い求めたル・ディスの原瓶は、最終的にアメリカの個人コレクターが所有していた唯一の1947年ボトルとして発見された。さらに調査の過程で、これまでバレンシアガのシンボルとして知られていたリッジ形状のフラコンが「本当のオリジナルではなかった」ことが創設者自身のスケッチによって判明する、という探偵小説のような展開があった。
  1. Balenciaga公式サイト:フレグランス・コレクション説明ページ – https://www.balenciaga.com/en-it/fragrances-2
  2. Le Monde:「Balenciaga returns to haute perfumery 75 years on」– https://www.lemonde.fr/en/lifestyle/article/2025/09/12/balenciaga-returns-to-haute-perfumery-75-years-on_6745331_37.html
  3. Wallpaper*:「Balenciaga’s return to fragrance features 10 new perfumes」– https://www.wallpaper.com/fashion-beauty/balenciaga-fragrance-collection-2025
  4. Kering公式:「The Balenciaga fragrance collection」– https://www.kering.com/en/group/kering-highlights/the-balenciaga-fragrance-collection-honoring-and-reinventing-the-house-s-olfac
  5. Cristóbal Balenciaga Museoa公式:創設者プロフィール – https://www.cristobalbalenciagamuseoa.com/en/discover/cristobal-balenciaga/
  6. Metropolitan Museum of Art:「Cristóbal Balenciaga (1895–1972)」– https://www.metmuseum.org/essays/cristobal-balenciaga-1895-1972
  7. Balenciaga公式:クリストバルの名言ページ – https://www.balenciaga.com/en-us/cristóbal
  8. Bois de Jasmin:「Balenciaga Le Dix: Fragrance Review」(Francis Fabronに関する情報含む)– https://boisdejasmin.com/2005/09/perfume_review__15.html
  9. Harper’s Bazaar Australia:「A New Generation Balenciaga Perfume Is Here」– https://harpersbazaar.com.au/balenciaga-fragrance-launch/
  10. Beauty Scene:「Balenciaga Presents Collection of 10 Distinct Fragrances」– https://www.beautyscene.net/brands/balenciaga/balenciaga-fragrances-collection/
  11. Fashion Network:「Balenciaga relaunches fragrance line with ten perfumes and boutique」– https://au.fashionnetwork.com/news/Balenciaga-relaunches-fragrance-line-with-ten-perfumes-and-boutique,1762963.html
  12. Meer.com:「Undressing the Silhouette of Balenciaga」(クリストバルの名言・沈黙の哲学) – https://www.meer.com/en/40425-undressing-the-silhouette-of-balenciaga
  13. Scentadvice.com:「Cristóbal (2025) – Balenciaga」– https://scentadvice.com/cristobal-2025-balenciaga/
  14. Premium Beauty News:「Kering Beauté revives Balenciaga perfumes with ten new creations」– https://www.premiumbeautynews.com/en/kering-beaute-revives-balenciaga,26287
この記事を書いた人
Root

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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