基本情報
販売事業者:株式会社naught
創業者:海老原光宏
創業年:2021年
公式サイト:こちら
ブランド史
僕は趣味がピアノ演奏で、クラシック音楽は人類の優れた遺産だと思っている。しかし、クラシック音楽で飯が食えている人はそんなに多くない。もっと多くの人にクラシック音楽のすばらしさを知ってほしいが、現状の音楽業界のようにクラシック音楽をクラシック音楽好きに向けて訴求していては、市場は広がらない。そこで、クラシック音楽をライフスタイルアイテムと組み合わせて打ち出せば裾野が広がるんじゃないかと考えた。
海老原氏(WWDJapan2022年4月号より
クラシック音楽を香り化するプロジェクト「ラニュイ(La Nuit)」は、慶応義塾大学理工学部を卒業し、雑誌やメディアの編集者を経験後、ラグジュアリーブランドのSNSを運営する海老原光宏氏によって、自費で立ち上げられました。海老原氏は、創業者やクリエイティブディレクターではなく、コンダクター(指揮者)と名乗り、「クラシックピアノ+文学、アート、ファッションetc クラシック音楽から広がるカルチャーとスタイルを発信」しています。興味深いのは、クラシック音楽を香りで表現しただけではないという点です。つまり、クラシック音楽の魅力を他の芸術・文化を通して伝えようとしているのです。
ブランド名であるLa Nuitは、オーケストレーション(音楽をオーケストラで表現するための方法論)の天才、「管弦楽の魔術師」とも呼ばれるモーリス・ラヴェルの「夜のガスパール(Gaspard de la Nuit)」に由来します。ブランドとして、この曲を「ピアノ音楽の極致であり、ラヴェルの最高傑作」と考えています。
肌で聴く音楽の第一章
私の恋愛は、音楽とだけであった。
モーリス・ラヴェル
ラニュイのクラシック音楽を香り化するプロジェクト第1弾は、ブランド名の由来にもなっているモーリス・ラヴェルの「夜のガスパール」(1908年)をイメージした香水のセットです。この作品は、ボードレールにも大きな影響を与えたというフランスの詩人ルイ・ベルトラン(アロイジウス・ベルトラン)の書いた詩「夜のガスパール」に収められた3篇の詩を題材としています。この詩は散文詩というジャンルを確立した作品であり、このベルトランの世界に敬意を表し、ラヴェルは情熱的に曲を作りました。
詩と音楽と香り
芸術は常に対照的な二つの面を持っている。言ってみれば、片面はポール・レンブラントの、もう片面はジャック・カロ―の風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである。
ルイ・ベルトラン
さて、ベルトランの詩は、正式には、Gaspard de la Nuit – Fantaisies a la memoire de Rembrandt et de Carrot(夜のガスパール~レンブラントあるいはカロの印象にもとづく幻想曲~)という題名になります。つまり、詩でありながら幻想曲(音楽)というのがこの詩集になります。この標題には、詩人ではなく、バロック画家であるレンブラントとエッチング技術で有名な版画家ジャック・カロの名が入っています。違う芸術を突き詰めたこの2人の与える印象を元に、幻想曲のような音楽性を持つ詩を紡ぎ出したのが恐らくベルトランの詩なのでしょう。そして、ラヴェルは彼の詩をさらに音楽という芸術で表現し、La Nuitにより現代に香りという芸術で描写されるに至ったのです。
ラヴェルはベルトランの詩集から3篇の詩を選び、ピアノソナタを意識し、3曲のピアノ独奏曲から成ります(ちなみに超絶技巧作品!)。選ばれた詩は、第1曲「オンディーヌ(Ondine)」、第2曲「絞首台(Le gibet)」、第3曲「スカルボ(Scarbo)」です。これらをそれぞれオーデトワレで表現し、3種で1つの香水セットとしたのがブランド最初の香水になります。
香りの監修はリーガロイヤルホテルのルームフレグランスも作っている和泉侃(Izumi Kan)氏が行っています(和泉侃氏の作品はこちら)。
クラシック音楽と香水の邂逅
そしてオンディーヌは指輪を差し出した
この私に彼女の夫となるべく 水の宮殿で湖の王となるべくしかし私は 限りある命の乙女を 愛していることを告げた
『夜のガスパール』(訳:庄野健)
オンディーヌは 恨みがましく涙を流したかと思うと 嘲笑を私に浴びせかけた
そして水の中へと 帰っていった
ラヴェルの夜のガスパールはまず、水の精オンディーヌ(ウンディーネ)が人間の男に恋をし、断られ、涙を流しながら水の中へと消えていくというベルトランの詩を、アルペジオ(和音を順に連続的に演奏)とトレモロ(単一の高さの音を連続して小刻みに演奏)によって表現しています。それはまるで水の中から精霊オンディーヌが現れ、語りかけるかのような水の滑らかさと美しさを感じさせます。この水の精が男を誘惑する部分をスズランとバイオレットにより表現したのが、第1曲になります。
かなたの城壁から鐘をうつ音が響き
『夜のガスパール』(訳:庄野健)
罪びとの亡がらは 夕日のなかで ゆらりと揺れた
「絞首台」へと展開すると、前半の流れるような曲調とは一転、ゆっくりしたテンポで退廃的、この世のすべてが色褪せ、世界が滅びているかと思わせる様相が終始なり続ける変ロ音の鐘で表現されます。それは絞首台へと一歩また一歩と進む心情なのか、それともすでに絞首台でぶら下がったあとの世界なのか。何とも不気味で暗いこの第2曲は、レザー、エレミ、シダーの重厚感あふれる香りで重く暗く描かれます。
幾度となく私は見た、やつ、スカルボを
金の蜜蜂を縫いとった瀝青色(れきせいいろ)の旗印の
銀色の紋章のように月が輝く夜に幾度となく聞いた
壁の暗がりでやつが漏らすあざけりの声を
ベッドのカーテンに爪をたてる音を私は見た やつが天井からするすると降りてきては
『夜のガスパール』(訳:庄野健)
魔女の糸巻きさながら
一本足でくるくると部屋の中を踊りまわるのを
そして突如現れる悪戯好きの妖精スカルボ。世界で最も難しいとされる超絶技巧の難曲として生まれたスカルボは、まるで捕まえることのできない妖精が周囲を駆け回り悪戯をたくさんしかけるかのよう。純粋で美しい曲調のウンディーネとは打って変わり、小刻みに激しく動く様は軽快ですが気持ちがざわめきます。この真夜中に暴れ狂う第3曲をクローバー、ネロリ、オークモスにより表現しています。
マーケティング
ケースはピアノの鍵盤をイメージしており、瓶の下部を押すと跳ね上がる仕様になっています。さらブックレットが付属しており、ベルトランの詩やラヴェルの楽譜、解説記事、インタビューなど視覚を刺激する読み物になっています。つまり、嗅覚・聴覚・視覚の3つの感覚を楽しむことができる香水セットになっているのです。
コラボレーションもクラシック音楽を聞かない層にアプローチすることが考えられており、京都のホテルMOGANAではバーで各曲をイメージしたカクテルを提供、写真家の野村佐紀子氏や大森克己氏に香りをイメージした写真を撮影してもらう、ピアニスト長富彩氏のコンサートで夜のガスパールを聞きながら香りを楽しむ、など様々なコラボを行っています。
実際のところ、クラシック音楽好き以外に香水を通してクラシック音楽の素晴らしさが伝わっている、というよりは、クラシック音楽好きに香水の素晴らしさを伝えているような印象をSNS等からは受けました。というのも、ラヴェルと言えばボレロの方が思い浮かび、聞き馴染みがあるのですが、夜のガスパールはあまり聞き馴染みが無い部類に入るからです。夜のガスパールが好きだから香水を試してみようとなった人も多いのではないかと思います。
しかし、造詣の深くない人が知らない音楽だからこそラニュイの作った香水は価値があるとも言えます。つまり、音楽を知っているからそれを題材にした香りに興味を持つということではなく、香りの素晴らしさからその題材となった音楽に興味を持つという流れにしているのです。これは香りに相当自信があるという裏返しでもあると考えます。
肌で聴く音楽の第二章
さて、2022年4月に、肌で聴く音楽の第二章は、20歳の時に右手首を痛めるほど超絶技巧を弾き過ぎ、ニーチェの哲学に心酔していたロシアの作曲家スクリャービンの曲の香りであることが判明しました。どれを香りにしたのかは明確に書いていませんが、伊勢丹サロンドパルファン中に行われるイベントからソナタ7番白ミサ・9番黒ミサ・10番昆虫を題材にしたのだろうと推察します。一体、どのような香りで表現したのか。いや、香りを嗅いでから音楽を想像してみるというのも面白いのではないでしょうか。
・asahi-net.or.jp
・Alexander Scriabin: His chronic right-hand pain and its impact on his piano compositions
・WWDJapan
・『ラヴェルの<夜のガスパール>より<オンディーヌ>の和声分析
・モーリス・ラヴェルのピアノ作品<夜のガスパール>に関する一考察:詩との関わりからみた演奏解釈、<スカルボ>を中心に