ドーラ・バグリッシュ(Dora Baghriche)──記憶と言葉から、香りの物語を編む

ドーラ・バグリッシュ(Dora Baghriche)の鉛筆スケッチと代表作品 調香師名鑑

出身:アルジェリア・アルジェ
表記:Dora Baghriche/Dora Baghriche-Arnaud
所属:LUZI(2025年にマスターパフューマーとして入社)

祖母たちのお菓子、旅先の風景、読みかけの本。ドーラ・バグリッシュの創作は、日々の暮らしの中で出会うものと深く結びついています。『モン パリ』の華やかな果実と花、『グロッシアー ユー』の肌に寄り添うムスク。ずいぶん違う表情を持つ作品の向こうには、人生の細部をすくい上げ、香りへと置き換える調香師の姿があります。

若い頃に憧れたのは、世界を旅して物語を伝える記者でした。調香師になった今も、その好奇心は変わりません。香水をつくること、本を編むこと。二つの仕事を通して、匂いが私たちの記憶や感情をどれほど豊かにしているかを伝えています。

調香史

生い立ち

ドーラはアルジェリアの首都アルジェに生まれ、フランスのグラースで育ちました。家族の中には、菓子づくりを仕事とする二人の祖母がいました。日本でイッセイ ミヤケの香水が紹介された際にも、アルジェとグラース、そして祖母たちの存在は、彼女の感性を形づくった背景として語られています。[1]

松の実のクリーム、シナモン、アーモンド。子どもの頃の香りの記憶として、ドーラが挙げるのは、まず食卓や台所にあるものです。香水瓶の中に閉じ込められた特別な香りに出会うより前に、人と時間を共有する場所で、匂いと親しんでいたのでしょう。オレンジブロッサムも、その記憶につながる大切な香りの一つです。

この生い立ちを知ると、後年の作品に登場する果実や花にも、少し違う目を向けたくなります。たとえば、柑橘は爽快感を添えるためだけのものなのか。花の甘さには、食べものを思わせる親しさも含まれているのか。すべての作品を幼少期の再現と決めつける必要はありませんが、食と花が近いところにある彼女の感覚は、作品を読み解く一つの入口になります。

一方で、ドーラの創作の世界は、故郷の思い出だけにとどまりません。地中海の風景、アジア、ニューヨーク、イタリアへの関心も、かつてのフィルメニッヒのプロフィールに描かれています。親しい記憶を大切にしながら、まだ知らないものへ向かうこと。その両方が、彼女の香りの世界を広げてきました。[2]

調香師への道

最初から調香師を目指していたわけではありません。ドーラが強く惹かれていたのは、書くことでした。作家や国際報道の記者になりたいと考えていたという彼女は、出来事の向こう側にある人や物語を知ろうとする好奇心の持ち主です。香りの仕事に進んでも、観察して、考え、形にして伝えるという関心は途切れませんでした。[3]

調香を学んだのは、ヴェルサイユにあるISIPCAです。『You』を一緒につくったフランク・フォルクルも同校の出身。二人へのインタビューでは、学校で知識を得ることと、独自の香りをつくれるようになることの間にある距離が語られています。素材の名前を覚えただけでは、創作は始まりません。匂いを記憶し、その性質を理解し、組み合わせの可能性を少しずつ自分のものにしていく時間が必要でした。[4]

興味深いのは、経験を重ねた後も、彼女が嗅覚の基礎練習を続けていたことです。同じインタビューでドーラは、名前を見ずに毎日10種類の香料を嗅ぐ習慣を紹介しています。知っているはずの素材を、いったん先入観から離して受け止め直す。その姿勢は、よく使われる素材から新しい表情を引き出そうとする、彼女の創作にも通じます。

物語への感受性と、繰り返し素材に向き合う地道な訓練。ドーラの仕事を考えるとき、この二つは切り離せません。自由な着想を実際の香りにするためには、言葉のイメージを支える具体的な技術が要ります。反対に、技術だけでも、誰かの記憶に残る物語は生まれません。彼女の経歴には、その間を行き来しながら表現を探す面白さがあります。

キャリアの変遷

ドーラはフィルメニッヒで調香師としてのキャリアを築きました。ジュネーヴでの研修を経てニューヨークへ渡り、ハリー・フレモントのもとでも経験を積んでいます。その後はパリを拠点に、さまざまなブランドのファインフレグランスを手がけるようになりました。学びの場がスイス、ニューヨーク、パリへと移っていく経歴には、異なる文化や仕事の進め方に触れてきた歩みが見えます。[5]

2010年代前半の作品には、ヴェルサーチ『ヴァニタス』、オルファクティヴ・ストゥディオ『スティル ライフ』、ラルチザン パフューム『カリーニャ』などがあります。大きなファッションブランドの香水と、写真や土地の風景を手がかりにした香水。早い段階から、異なる性格の依頼に応えながら創作の幅を広げていました。

2014年には、オリヴィエ・クレスプとカシャレル『アナイス アナイス プルミエ デリス』を、ダフネ・ブジェとオリフレーム『ポゼス』を制作しています。共同制作は、キャリアの途中から加わった例外的な仕事ではありません。ドーラの作品歴をたどると、単独で署名する香水と、ほかの調香師と一つの香りを仕上げる仕事が、並行して続いていることがわかります。

2016年には、イヴ・サンローラン『モン パリ』をオリヴィエ・クレスプ、ハリー・フレモントと共同調香。翌2017年には、フランク・フォルクルとの『グロッシアー ユー』が登場しました。果実と花を大きく描く『モン パリ』と、肌との近さを重視した『You』。現在の彼女を代表する二作が続けて発表されたことは、その仕事を一つの香調だけで説明できないことも示しています。

2018年から2019年にかけては、ショパールの「Happy Chopard」シリーズを担当しました。『Lemon Dulci』『Felicia Roses』『Bigaradia』は、柑橘や花を通して、明るい気分や生きる喜びを表現するコレクションです。宝飾ブランドの世界観を、日常で身につけられる香りへどうつなげるか。ここでも、依頼主のイメージと素材の表情を結びつける仕事が見られます。

2019年のイッセイ ミヤケ『ローズ&ローズ』『ウッド&ウッド』は、いずれもマリー・サラマーニュとの共同制作です。花と木という対になる主題を、二人でそれぞれの香水に展開しました。続く2020年には、アルベルト・モリヤスと『フラワー バイ ケンゾー ポピー ブーケ』のオードパルファムを発表。既存のブランドを受け継ぎながら、新しい表情を加える仕事も重なっていきます。[1]

2021年には、ファッションや化粧品とは異なる領域へ。マスターカードの『Priceless Passion』『Priceless Optimism』を、マリー・サラマーニュとつくりました。視覚や音だけでなく、香りからもブランドを感じてもらう取り組みです。ドーラがマリーを共同制作に誘い、情熱と楽観という二つのイメージを香りにしたことが、同社のインタビューで紹介されています。[6]

2022年には、パコ ラバンヌ『フェイム』が登場します。調香はドーラ、マリー・サラマーニュ、アルベルト・モリヤス、ファブリス・ペレグランの4名。2023年には、ダフネ・ブジェとのナルシソ ロドリゲス『オール オブ ミー』が続きました。さらに2024年の「Infiniment Coty Paris」では『Or de Moi』などを手がけ、ブランドをまたぐ創作を続けています。

社内での役割も変わっていきました。2024年1月、dsm-firmenichはドーラを含む5名をプリンシパル・パフューマーに任命しています。そして2025年、彼女は長く在籍した同社を離れ、スイスの香料会社LUZIへ。マスターパフューマーとしての入社は、LUZIと本人の双方から発表されました。現在の所属につながる、大きな節目です。[7] [8]

調香哲学・スタイル

ドーラの創作を考えるとき、まず浮かぶのは「記憶」と「言葉」です。旅先や日々の暮らしで感じたことをノートに書き留め、印象を自分の中で育てていく。香りそのものだけでなく、そのときの気分や風景も、表現の手がかりになります。記者になりたかった少女の好奇心は、調香師の仕事の中に形を変えて残っているようです。

ただし、それを「いつも同じ香りをつくる作家性」と結びつけると、彼女の仕事は見えにくくなります。ドーラ自身はインタビューで、一つのスタイルに収まることを望まない姿勢を示しています。依頼の内容やブランドによって、必要な答えは違う。よく知る素材であっても、別の素材と出会わせれば、違う感情を引き出せる。その柔軟さも大切な特徴です。

作品を並べてみると、果実、花、ムスク、柔らかな木の香りが何度も現れます。しかし、その役割は一定ではありません。『モン パリ』では果実と花の華やかさをパチュリが支え、『You』ではムスクやアンバー系の感触が中心にあります。『フェイム』ではマンゴーとジャスミンにインセンスを重ねる。同じ調香師の作品を比べる面白さは、素材の共通点以上に、何を前に出し、何を奥に置くかという違いにあります。

彼女が好きな素材として挙げるのは、ローズ、オレンジブロッサム、アイリス。親しみのある花ばかりですが、それぞれに違う記憶や表現の可能性があります。マスターカードの香水づくりでは、モロッコのローズやシチリアのオレンジをめぐる旅を想像したと話しています。身近な記憶と、想像上の旅。その往復から香りを組み立てる様子が伝わります。

また、ドーラが文学に見いだす匂いは、心地よいものだけではありません。食べもの、身体、暮らし、仕事の場に漂う匂いにも、人の生き方が刻まれています。Nezのインタビューでは、匂いを「exhausteurs de vie」と表現しました。人生の味わいを濃くしてくれるもの、と受け取れる言葉です。香水の魅力を語りながら、その外側にある匂いの世界にも目を向けています。[9]

共同制作の多さも、彼女のスタイルを考える大切な手がかりです。『You』も『モン パリ』も、一人だけの署名ではありません。相手が選ぶ素材や、同じ課題への別の答えに触れることで、香りの行き先が変わることもあります。ドーラの作品を味わうときは、彼女らしさを探すだけでなく、どの調香師と、どんなブランドのためにつくったのかにも目を向けると、作品同士の距離がより立体的に見えてきます。

代表作とその背景

ここからは、ドーラの表現の幅を感じられる作品をたどっていきます。以下の香りの説明は、公表されたノートや制作者の言葉を手がかりにしたものです。作品間の比較は、実際の処方や調香上の分担を断定するものではありません。

Versace Vanitas(2010–2011)

『ヴァニタス』は、ドーラの初期の作品歴を知るうえで欠かせない一作です。ライムに、ティアレとフリージア。ベースにはトンカビーンズとシダーが示されています。柑橘から白い花へ、そして柔らかな木の余韻へとつながる、見通しのよいフローラルの構成です。発表年は資料によって2010年と2011年の記載があります。[10]

このノートの組み合わせから注目したいのは、明るさと包容力の両方をどう持たせるかという点です。ライムの輪郭と、花やトンカのふくらみは、同じ方向の質感ではありません。軽やかな入口から、より丸みのある余韻へ。そうした対比を手がかりにすると、単に「白い花の香水」と分類するだけでは見えない構成の面白さがあります。

後の『スティル ライフ』にも柑橘と木は登場しますが、そちらではペッパーやラムが重要になります。共通する素材群があっても、描こうとする場面は違う。二作を直接の発展関係とみなすより、同じ調香師が異なる題材にどう答えているかを比べると、初期からの表現の幅が見えてきます。

Olfactive Studio Still Life / Still Life in Rio(2011 / 2016)

オルファクティヴ・ストゥディオは、写真と香水を出会わせるブランドです。ドーラの『スティル ライフ』は、フレデリック・ルバンの写真を出発点に、祝祭的なイメージを香りへ展開しています。ユズ、エレミ、3種類のペッパーに、スターアニスとガルバナム。さらにラム、シダー、アンブロクサンが重なります。[11]

柑橘の爽やかさだけで終わらせず、スパイスと酒を思わせるノートを置く構成。公表された香りの輪郭からは、弾けるような明るさと、少し温かな余韻を結びつけようとする意図が読み取れます。写真の被写体を一つずつ匂いに置き換えるというより、そこに感じる空気や気分を、別の感覚で表す作品と考えるとわかりやすいでしょう。

『スティル ライフ イン リオ』の写真家は、フラヴィオ・ヴェローゾ。ブランドが語るのは、目覚めていくリオの街です。ユズ、ジンジャー、ミント、レモン、マンダリンに、ペッパーとココナッツウォーター。ラムやコパイバ、レザーを思わせるノートが余韻を支えます。最初の作品とユズやラムを共有しながら、別の風景へ向かう続編です。[12]

同じ題名を引き継いでいても、二作は同じ場面の描き直しではありません。静止した写真から、時間や気温、街の気配まで想像すること。言葉にならない印象を受け止めて香りへ移す、ドーラの仕事の一面をよく伝える組み合わせです。

Yves Saint Laurent Mon Paris(2016)

『モン パリ』は、オリヴィエ・クレスプ、ハリー・フレモント、ドーラの3名による共同作品です。ストロベリーやラズベリー、ベルガモットの果実感に、ピオニー、ジャスミン、ダチュラを思わせる花のアコード。ベースにはパチュリ、ホワイトムスク、アンブロックスが置かれています。[13]

ここで見落としたくないのは、パチュリの存在です。果実と花だけを取り出すと、甘く華やかなフルーティ・フローラルに見えますが、その下には香りの輪郭を支える要素があります。華やかな上部と、シプレを思わせる奥行き。その両方を捉えることで、この作品の構造が理解しやすくなります。

ドーラは後年のインタビューで、クレスプとの制作に約2年をかけ、太陽のような花のイメージを現代的に表現しようとした過程を振り返っています。共同調香は、得意な素材を持ち寄ればすぐに完成するものではありません。一つの像へ向けて調整を重ねる時間も含めて、作品が生まれています。[14]

後には『Mon Paris Couture』『Mon Paris Intensément』『Mon Paris Lumière』なども登場しました。一つの成功作から、濃度や花の表情、明るさの異なる展開が生まれることも、ブランド香水の面白さです。ただし、シリーズ名が同じでも、すべてを同じ調香師一人の作品と見ることはできません。最初の『モン パリ』は、あくまで3名の共同署名を持つ作品です。

Glossier You(2017)

『グロッシアー ユー』は、フランク・フォルクルとの共同制作。花束や旅先の風景よりも、「その人の肌」に近いところを目指した香水です。ピンクペッパーとアイリス、アンブレット、アンブロックスという核になるノートが、ブランドから示されています。香水の名前も、着ける人を指す「You」です。[15]

その成り立ちを伝えるインタビューでは、ウッディでムスキーな、親密さや心地よさを感じさせる方向から制作が始まったことが語られています。一方、フォルクルは、調和しすぎるだけでは面白さが足りず、質感や動きも必要だと話しています。肌になじむことと、何も起こらないことは同じではない。その違いを考えると、『You』の狙いがよりはっきりしてきます。

ここで登場するアンブロックスは、アンバーグリスを思わせる性格を持つ合成香料です。『You』の親しみやすさや自然な肌の印象は、植物性の素材だけを集めて生まれたものではありません。由来や性格の異なる素材をどう組み合わせて、肌に近い印象をつくるのか。そこに、この作品の調香上の面白さがあります。[4]

『モン パリ』と比べると、香りの主役の置き方が大きく変わっています。前者では果実と花が場面をつくり、後者では着ける人が中心に来る。同じ調香師が関わっていても、ブランドが求める距離感に応じて、香水の語り方そのものを変えているのです。

Chopard Happy Chopard シリーズ(2018–2019)

『Lemon Dulci』『Felicia Roses』『Bigaradia』は、「生きる喜び」を香りにしたコレクションです。ショパールのカロリーヌ・シュフレルのイメージを形にする調香師として、ドーラが選ばれました。ブランド側のインタビューでは、明るい感情を伝えることと、原料の調達に目を向ける姿勢が、ともに紹介されています。[16]

三作の入口になるのは、レモン、ローズ、ビターオレンジ。共通するのは明るい方向性ですが、それぞれが違う素材に焦点を当てています。レモンの爽快さ、ローズの華やかさ、オレンジの花と果実をめぐる豊かさ。同じ「喜び」という言葉にも、軽快さやときめき、ゆったりした充足感など、さまざまな表情があることを想像させます。

『Bigaradia』では、ビターオレンジやグリーンマンダリンに、オレンジブロッサム、ジャスミン、蜂蜜を思わせるノートを組み合わせています。さらにシダー、ラブダナム、ブラックセサミ、パチュリ。柑橘だけを主役にした単純な爽やかさではなく、花の甘さや、少し意外な香ばしいイメージまで含む構成です。[17]

ドーラの幼少期にある菓子やオレンジブロッサムの記憶を知ると、ここでも食と花の近さが気になります。ただし、記憶をそのまま再現したと決めつけるより、彼女にとって身近な素材が、ブランドの世界観の中でどう装いを変えるかに注目すると、三作をより自由に楽しめそうです。

Paco Rabanne Fame(2022)

『フェイム』は、2022年に発表された、ドーラ、マリー・サラマーニュ、アルベルト・モリヤス、ファブリス・ペレグランの共同作品です。ブランド名は発売当時のパコ ラバンヌ。マンゴー、ジャスミン、インセンスの取り合わせが、香りの中心に据えられています。[18]

公表された構成から読み取れるのは、親しみやすい果実感と、インセンスの存在感を出会わせる発想です。マンゴーとジャスミンだけなら、明るいフルーティ・フローラルとして説明できるかもしれません。そこへ別の方向の質感を置くことで、香りの印象に対比を生む。サンダルウッドやバニラの温かさも、その間をつなぐ要素として語られています。

『You』の肌との近さとは違い、こちらはファッションブランドの強い個性を引き受ける仕事です。どちらもドーラの代表作ですが、一人の調香師の好みだけからは説明しきれません。『フェイム』を通して見えてくるのは、ブランドの大胆さと、4人の調香師の共同制作が、一つの香りの輪郭へと集約される過程です。

Narciso Rodriguez All of Me(2023)

『オール オブ ミー』は、ドーラとダフネ・ブジェによる共同調香です。ナルシソ ロドリゲスの香水を象徴するムスクに、ローズ・センティフォリアとゼラニウム・ブルボンを組み合わせています。ブランドは、異なる個性が共存する女性像を、この香りの背景に置いています。[19]

公式の説明では、6種類のムスクを用いた、クリーミーで肌に溶け込むようなアコードが重要な役割を担います。その周りにはローズやゼラニウムを中心とした花の表現があり、サンダルウッドも重なります。ムスクをただ花の後ろに敷くのではなく、花と肌のイメージを一緒に形づくる中心として扱っている点に注目したい作品です。[20]

『You』と共通するのは、ムスクと肌の関係への関心。ただし、『オール オブ ミー』では、よりはっきりと花の存在を前に出しています。両作を比べるなら、「どちらがムスクの香水らしいか」ではなく、ムスクを使って何を見せたいのかを考えると面白そうです。花を包むのか、肌を引き立てるのか。その違いが、香水ごとの個性につながります。

文学と香り──『Le goût des senteurs』『Le goût du luxe』

ドーラの「書くこと」への関心は、調香の発想源であるだけでなく、本を編む仕事にもつながりました。2021年、メルキュール・ド・フランスの「Le goût de…」シリーズから刊行されたのが『Le goût des senteurs』です。匂いをめぐる文学作品の一節を集め、ドーラが紹介するアンソロジー。香水の専門書とは、少し違う入口を持つ一冊です。[21]

収められたのは30のテキスト。プルーストやボードレールのような作家から、現代の書き手や表現者まで、時代も立場も異なる声が並びます。調香師のドミニク・ロピオンも登場しますが、中心にあるのは香水業界の内輪の言葉ではありません。人は匂いによって、何を思い出し、何に気づき、どのように世界と関わるのか。その問いを文学からたどる本です。

よく知られた「香りと記憶」の美しい場面だけを集めているわけではない点も、ドーラらしいところ。Nezのインタビューでは、選文を通して、暮らしや身体、働く場所にある匂いへ目を向けたことが語られています。甘い花の香りと同じように、心地よいとは限らない匂いにも、人生を伝える力がある。香水の説明文ではこぼれ落ちてしまう経験にも、ここでは居場所があります。

読者は必ずしも、香料の名前を知っている必要はありません。本の中の言葉から、自分が知っている場所や人の匂いを思い出すことができるからです。記憶を持つ人なら、誰でも嗅覚について語れる。そう考えると、このアンソロジーは、香りを難しい専門領域から暮らしの中へ連れ戻す仕事でもあります。

同じシリーズでドーラは『Le goût du luxe』も編んでいます。こちらの主題はラグジュアリー。豪華な品物だけでなく、時間や自由、自然、人との関係などへと視線を広げ、文学の中から「豊かさ」のさまざまな姿を拾い上げています。時代や立場によって変わる価値観を、一つの定義に押し込めず並べてみせる本です。[22]

この二冊を並べると、調香と編集の共通点が見えてきます。すでに世界にある素材や言葉を選び、隣り合わせにし、新しい感じ方を生むこと。もちろん本と香水は別の表現ですが、何を選び、どう組み合わせるかという仕事には、通じるものがあります。ドーラにとって文学は、香水に添える飾りではなく、世界を観察するもう一つの方法なのでしょう。

ちなみに…

作品の外側にも、ドーラの感性が見える小さなエピソードがあります。

  • 普段は香水をつけないことも。 マスターカードのインタビューでは、発想を開いておくために、自分では普段あまり香水をまとわないと話しています。多くの香りを生み出す人が、いつも一つの香りを身につけているとは限らないのです。
  • 旅の時間を大切にしています。 地中海だけでなく、アジアやニューヨーク、イタリアにも関心を向けています。一人で旅をしながら印象を受け止める時間も、創作の背景にあります。
  • 周囲には、ほかの分野の表現者たち。 音楽家、映画に関わる人、俳優など、異なる表現の仕事をする友人との関わりが、公式プロフィールで紹介されています。香水以外の作品や会話も、感性を動かすきっかけです。
  • 誰かのために香水をつくるなら。 Feminaの取材では、俳優ホアキン・フェニックスへの関心を語り、ベチバーやキャロット、ジンジャーを使うアイデアを挙げています。実際に発売された作品ではなく、人物像から香りを想像する問答の中での話です。
  • 香水選びにも、まず心が動くこと。 同じ取材では、香水との出会いを恋愛になぞらえています。分析や知識は楽しみを深めますが、最初に惹かれる気持ちも大切。その距離感は、文学から香りへ読者を誘う彼女の仕事にも通じているようです。[14]

さらに2025年には、Nezの「1+1」シリーズで、俳優・映画監督のアイッサ・マイガと『Ansongo』を制作しました。調香師と、別の分野の表現者が出会うプロジェクトです。ここでのマイガは共同調香師ではなく、香りの着想をともに育てた制作パートナー。言葉や記憶を聞き取り、それを香りへつなげるドーラの仕事は、こうした対話にも広がっています。[23]

調香作品

代表的な作品を年代順にまとめました。「共同調香・補足」欄はドーラ以外のクレジットを示し、「—」は参照した作品情報に共同調香者の記載がないものです。同名でも異なる濃度・版は、必要に応じて分けています。全作品を網羅した一覧ではありません。

発表年 ブランド 作品 共同調香・補足
2010–2011 ヴェルサーチ ヴァニタス(Vanitas)
2011 オルファクティヴ・ストゥディオ スティル ライフ(Still Life)
2013 ラルチザン パフューム カリーニャ(Caligna)
2014 カシャレル アナイス アナイス プルミエ デリス(Anaïs Anaïs Premier Délice) オリヴィエ・クレスプ
2014 オリフレーム ポゼス(Possess) ダフネ・ブジェ
2015 グロリア・ヴァンダービルト ミニュイ ア ニューヨーク(Minuit à New York)
2015 ジューシー クチュール アイ アム ジューシー クチュール(I Am Juicy Couture)
2016 イヴ・サンローラン モン パリ(Mon Paris) オリヴィエ・クレスプ、ハリー・フレモント
2016 オルファクティヴ・ストゥディオ スティル ライフ イン リオ(Still Life in Rio)
2016 ケンゾー ロー パー ケンゾー エレクトリック ウェーブ プールファム/プールオム(L’Eau par Kenzo Electric Wave pour Femme / pour Homme)
2017 グロッシアー グロッシアー ユー(You) フランク・フォルクル
2017 ヴィクター&ロルフ マジック リキッド ダイアモンズ(Magic Liquid Diamonds)
2018 ショパール ハッピー ショパール レモン ドゥルシ(Happy Chopard Lemon Dulci)
2018 ショパール ハッピー ショパール フェリシア ローゼズ(Happy Chopard Felicia Roses)
2018–2019 エリック・ブタボー・フローラルズ ウード ガーデニア(Oud Gardenia)
2018–2019 ショパール ハッピー ショパール ビガラディア(Happy Chopard Bigaradia)
2019 イッセイ ミヤケ ロー ドゥ イッセイ ローズ&ローズ(L’Eau d’Issey Rose & Rose) マリー・サラマーニュ
2019 イッセイ ミヤケ ロー ドゥ イッセイ プールオム ウッド&ウッド(L’Eau d’Issey pour Homme Wood & Wood) マリー・サラマーニュ
2019 ライオネル・リッチー ハロー(Hello、女性用/男性用)
2020 ジョルジオ アルマーニ アルマーニ プリヴェ ガルデニア アンティグア(Gardénia Antigua)
2020 ケンゾー フラワー バイ ケンゾー ポピー ブーケ オードパルファム(Flower by Kenzo Poppy Bouquet Eau de Parfum Florale) アルベルト・モリヤス
2021 ヴィクトリノックス フォーゲット ミー ノット(Forget Me Not) ジュリアン・プロス
2021 マスターカード プライスレス パッション/プライスレス オプティミズム(Priceless Passion / Priceless Optimism) マリー・サラマーニュ
2022 ケンゾー フラワー バイ ケンゾー ポピー ブーケ オードトワレ(Flower by Kenzo Poppy Bouquet Eau de Toilette) アルベルト・モリヤス
2022 パコ ラバンヌ フェイム(Fame Eau de Parfum) マリー・サラマーニュ、アルベルト・モリヤス、ファブリス・ペレグラン
2023 ナルシソ ロドリゲス オール オブ ミー(All of Me Eau de Parfum) ダフネ・ブジェ
2024 アンフィニマン コティ パリ オール ドゥ モワ(Or de Moi)
2024 ショパール レザー マラキ(Leather Malaki)
2025 Nez 1+1 アンソンゴ(Ansongo) 制作パートナー:アイッサ・マイガ(俳優・映画監督)
2025 ジョルジオ アルマーニ アルマーニ プリヴェ イリス ブルー(Iris Bleu)

年次に幅を持たせた作品は、作品データベース間で発表年の記載が異なるものです。マスターカードの二作は、ブランドによる2021年の発表を採用しています。作品情報は、各ブランドの発表に加え、Fragranticaのドーラ・バグリッシュ作品一覧と、下記の個別作品資料を参照しました。

参考文献

プロフィール・インタビュー・所属

代表作・共同制作

文学・書籍