香りの原料を使って、人が毎日身につけ、その時々の気分を映すものをつくることができます。
アレクサンドラ・カーラン、当時シムライズの調香師 — Symrise「Fragrances for the world」
新しい分子が生まれても、それだけで香水ができるわけではない。どんな香りの中で、どのくらい使えば、その個性が生きるのか。シムライズの歴史には、香料をつくる化学と、香りを組み立てる調香を近づけてきた仕事がある。
ドイツ・ホルツミンデンのバニリン研究。フランスのde Laireが育てた香水のベース。グラースに根を持つ天然香料の技術。別々に始まった仕事は、2003年に誕生したシムライズへ受け継がれ、現在の原料開発と香水づくりにつながっている。
基本情報と現在のSymrise
- 正式名称:Symrise AG(シムライズ)
- 現在の会社の成立:2003年、Haarmann & ReimerとDragocoの合併
- 本社:ドイツ・ホルツミンデン
- 歴史の起点:1874年のバニリン合成研究。前身企業と、後に加わったde LaireやLautierの歴史を受け継ぐ
- 公式サイト:Symrise
シムライズは、香水や日用品、食品などをつくる企業へ香り・香味・成分を提供する会社である。事業は「Scent & Care」と「Taste, Nutrition & Health」の二つに分かれる。香水との関係が深いScent & Careには、香りの処方をつくる仕事と、香料分子を開発・製造する仕事がある。
2026年1月には、Scent & Care内で「Care & Wellness」が始動し、化粧品成分、健康関連の機能性素材、プロバイオティクスの知識をまとめた。香水から美容・ケアへ、味から栄養へ。香りと味の会社として育ちながら、その周囲の素材も扱う現在の姿である。
主な歩み
- 1874年 — ヴィルヘルム・ハールマンとフェルディナント・ティーマンが、コニフェリンからバニリンを合成。
- 1875–1876年 — ハールマンが1875年に事業を始め、1876年にカール・ルートヴィヒ・ライマーとHaarmann & Reimerへ発展させる。
- 1876年 — フランスでFabriques de Laireが創設される。
- 1889年 — エメ・ゲランがバニリンとクマリンを使って「ジッキー」を創作。新しい合成香料が香水の表現へ入っていく。
- 1891年 — マリー=テレーズ・ド・レールが、新しい合成分子を他の原料と組み合わせたベースの制作を始める。
- 1893年 — ティーマンらのイオノン研究が、スミレの香りを表現する素材の発展につながる。
- 1919年 — カール=ヴィルヘルム・ゲルバーディングとアウグスト・ベルマーがドラゴコを創業。
- 1973–1974年 — Haarmann & Reimerの合成メントールの工業生産が進む。1974年には、純粋な光学異性体を分ける方法を特許出願。
- 1985年 — フローラシンスがde Laireのベースの権利を取得。
- 1995年 — バイエルがフローラシンスを取得。de LaireやLautierの仕事が、Haarmann & Reimerを経て後のシムライズへつながる。
- 2003年 — Haarmann & Reimerとドラゴコの合併によりシムライズが成立。
- 2006年 — フランクフルト証券取引所に上場。
- 2007年 — 調香師養成を、ホルツミンデンでの学習と国際経験を組み合わせる2+2年の形で再始動。
- 2016年 — 現代のde LaireベースのコレクションをWorld Perfumery Congressで発表。
- 2017年 — オレンジジュース製造の副産物を原料にするスズラン調香料リリーベルの販売が始まる。
- 2022年 — Lautierの歴史を受け継ぐ天然香料ブランドMaison Lautier 1795を展開。
- 2023年 — 企業内養成で、ベルリンの森と街の印象を水彩画にし、さらに香りへ移す授業を実施。
- 2026年 — 1月にCare & Wellnessが始動。4月のParis Perfume Weekでは現代のde Laireベースを紹介し、9月にはグラース地域のLautier 1795の新生産拠点を発表。
ホルツミンデンで始まった香料の化学
バニリン研究からHaarmann & Reimerへ
1874年、ハールマンとティーマンは、針葉樹に由来するコニフェリンを使ってバニリンを合成した。バニラを思わせる香りの成分を、バニラの莢そのものとは別の原料からつくる仕事である。高価なバニラに依存していた香りと味に、新しい供給の道ができた。
ティーマンが大学で研究を続ける一方、ハールマンは1875年に会社を設立し、翌年にはライマーとHaarmann & Reimerを築いた。研究室で反応を成功させることに加え、原料を集め、生産し、使う相手へ届ける仕組みが育っていく。
1889年のゲラン「ジッキー」では、エメ・ゲランがバニリンとクマリンを用いた。研究から生まれた成分は、天然香料と組み合わされ、一本の香水の中で働くようになる。こうして、原料の研究は調香師の選択を通して、香水の表現へ届いていった。
1893年には、ティーマンらによるイオノンの研究が進む。イオノン類によって、スミレを思わせる香りは、花からの抽出に頼らず香水の主題にできる素材となった。天然の花を研究することが、その花に似た香りを別の方法でつくる道へつながったのである。
ドラゴコとの合併と、素材を供給する技術
もう一つの前身、ドラゴコもホルツミンデンで生まれた。理容師のゲルバーディングとベルマーが1919年に始めた会社は、香水や石けんの香りを組み立て、香料や化粧品原料へ仕事を広げた。原料の化学から育った会社と、香りの処方から育った会社。その二社が2003年に合併してシムライズとなる。
原料を安定して供給する技術は、前身企業の時代から重要であった。1970年代、Haarmann & Reimerでは、ユルゲン・フライシャー、クルト・バウアー、ルドルフ・ホップらが合成メントールの工業生産を進めた。1974年の特許出願は、同じ分子式でも鏡像の関係にある異性体を分け、清涼感に関わるL-メントールを得る方法を扱う。
メントールは、歯磨きやチューインガムにも使われる素材である。香水の華やかな作品だけでなく、毎日使う製品の香りと感覚を支える原料も、香料会社の仕事を形づくっている。
de Laireのベースが広げた調香の道具
強い分子を、使いやすい香りのまとまりへ
1876年に創設されたFabriques de Laireは、バニリン、クマリン、イソブチルキノリンなどの香料を扱った。新しい合成分子には、天然香料に慣れた調香師にとって、強さや扱い方がつかみにくいものもあった。そこでマリー=テレーズ・ド・レールは、分子を単独で渡すだけでなく、他の原料と調和する形へ組み合わせた。1891年からつくり始めたのが、de Laireのベースである。
ここでいうベースは、香り立ちの時間を表す「ベースノート」ではない。調香師が処方に組み込める、あらかじめ組み立てられた香りのまとまりである。新しい分子の個性を生かしながら、他の素材へつなぐ役割を持っていた。
その仕事は、香水の歴史に残る。ゲランの「ルール ブルー」や「ミツコ」にはイリゼーヌ、シャネルの「ボワ デ ジル」にはアンブル83というベースが関わった。1930–40年代には、エドモン・ルドニツカもde Laireでベースを制作している。香料の組み合わせ自体が、調香師の技術を伝える場でもあった。
アーカイブから現代のベースへ
1985年にフローラシンスがde Laireのベースの権利を取得し、1995年にはバイエルがフローラシンスを取得した。これらの仕事は、バイエル傘下のHaarmann & Reimerを経て、シムライズへ受け継がれる。
シムライズのデイヴィッド・アペルらは、約700のベースを収めたアーカイブを調べ、新しいベースへ知識を移した。パスカル・シヨンも歴史を研究し、2016年には現代のde Laireコレクションが発表される。古い処方を再現することに加え、現在の香料で次の創作の道具をつくる仕事である。
新しいde Laireのベースは、歴史的なベースと同じ考え方に沿っています。
アリエノール・マスネ — Nez、2026年5月26日、Paris Perfume Weekで紹介されたベースについて
シヨンの「アンブル84」は、バニリンを軸としたアンブル83に対し、カラメル化した砂糖を思わせるエチルマルトールで現代の甘さを描く。マスネの「ルージュ グロゼイユ」は果実、「ポワーヴル ピケ」は冷たいスパイスを主題とする。現在の新しいベースには、自社の調香師が創作に用いるキャプティブ香料と、Lautierの天然原料が組み合わされる。
天然原料の加工と、新しい香料分子
Maison Lautier 1795とグラースの仕事
de Laireが香りの組み合わせを伝えてきた一方、Lautierは植物から香りを取り出す技術を育ててきた。現在の「Maison Lautier 1795」は、1795年にグラースで始まったランセ家の香料事業と、のちに結びついたローティエ家の歴史を受け継ぐ天然香料ブランドである。
Lautier Filsは1981年にフローラシンスへ加わり、1995年のバイエルによる取得後、Haarmann & Reimerへ統合された。2022年に展開されたMaison Lautier 1795は、産地の原料、職人的な加工、新しい技術を一つの天然香料のパレットへ結びつけている。
原料の確保には、加工より前の仕事もある。マダガスカルでは、栽培から製造までの上流工程に関わることで、原料の安定した供給と農家との関係を築いてきた。天然香料の品質は、蒸留や抽出の装置だけで決まるものではない。植物を育てる人、収穫する人、加工する人がつながって、調香師の使う素材になる。
2026年9月、シムライズはグラース地域にLautier 1795の新しい生産拠点を開設したと発表した。Floral Conceptの天然原料の専門性も加わり、調達、加工、研究、調香を近づける体制が整えられている。de Laireの新しいベースにLautierの原料が入るように、原料と処方の仕事はここでも交わっている。
オレンジの副産物からスズラン調のリリーベルへ
香りの技術は、どの原料から分子をつくるかという選択にも現れる。スズラン調香料「リリーベル(Lilybelle)」の原料となるD-リモネンは、オレンジジュースをつくる際の果皮から得られる。オレンジの香りをそのまま足すのではなく、その成分を出発点に、別の香りを持つ分子へ変えるのである。
シムライズは2009年から代替素材を探すなかで、長年蓄積してきた分子のデータベースへ戻った。以前試したものの、五段階の合成工程が大規模生産に向かなかった素材について、工程と原料を見直す。Renessenzの取得による原料調達の基盤も、その開発を支えた。
リリーベルは2017年から販売され、2021年の発表では、原料の83%が再生可能な資源に由来すると説明された。香りの特徴は、スズランを思わせる花に、緑や水のような透明感を添えるもの。新しい香りを探す仕事と、その香りを実際につくり続ける工程を考える仕事が、一つの素材に重なる。
調香師の経験が作品になる
アレクサンドラ・カーランと「ベルベット トンカ」
アレクサンドラ・カーランは、18歳の頃に文学を学び、作家かジャーナリストを目指していた。ラジオで調香師の話を聞いたことから科学を学び直し、ISIPCAを経て香りの仕事へ進んだ。のちにシムライズでモーリス・ルーセルと働き、あの日ラジオで心を動かされた声の主が、ルーセルだったと知る。
カーランがシムライズにいた時代の制作には、BDK Parfumsの「ベルベット トンカ」がある。創設者ダヴィッド・ベネデックは、祖母がつくっていたモロッコの菓子の香りを、彼女とともに探った。
トンカ豆の香りは、私にとっていつもプルーストのマドレーヌを思い起こさせます。
アレクサンドラ・カーラン — BDK Parfums「Velvet Tonka」公式作品紹介
トンカ豆の柔らかな粉感と木の側面に、アーモンドとオレンジの花を合わせ、バニラや蜂蜜を思わせるアコードへ広げた。アコードとは、複数の素材でつくる一つの香りのまとまりである。植物や分子の名前は、ここで記憶の中の菓子を表す道具になる。ベースづくりにも、一本の香水にも、素材の関係を設計する仕事がある。
企業内で調香師を育てる仕組み
シムライズのPerfumery Schoolは、同社の調香師を育てる企業内養成である。入口は会社の採用選考であり、募集職種は公式の採用ページ、教育と職種の道筋はGraduatesで案内される。学費を納めて一般入学する学校とは仕組みが異なる。
養成の形は、時代や募集地域に応じて変わってきた。2007年にはホルツミンデンで二年、国外の経験を二年という形で再始動した。2021年に発表された北米・中南米の大学卒業者向け募集では、2022年4月からホルツミンデンで三年、その後に世界のクリエイティブセンターで二年の訓練を行う、計五年の課程が示された。
原料を覚え、処方を学ぶだけではない。2023年には、研修生がベルリンの森と街を歩き、その印象を水彩画へ、さらに香りへ移す授業を行った。森の植物と、街の音や人の動き。違う感覚で受け取ったものを、香りの構成へ変えていく訓練である。
私たちの養成プログラムは、科学、職人の技、そして着想を組み合わせています。
マルク・フォム・エンデ、調香師養成責任者 — Symrise、2025年6月27日の修了試験発表
2025年の試験では、原料の規制への対応や、洗剤での香りの性能、南アフリカの植物ブチュの創作への可能性などが題材となった。香水だけでなく、原料がどんな製品で、どんな条件のもとに働くかを学ぶ。修了時のパフューマーやジュニアパフューマーという認定は、同社の養成・職務の中に位置づけられる。
香りを学ぶ道には、企業の採用を入口にする養成と、一般募集の専門教育や講座がある。学び方の違いは、香水・調香師の資格と教育の解説にもまとめている。
シムライズの歴史をたどると、新しい分子、植物から取り出す香り、ベースを組む知識、調香師を育てる時間がつながって見える。素材が増えることに加え、それをどう使うかという知識も受け継がれる。その両方が、次の香水の表現を支えている。
参考文献
- Fragrances for the world — Symrise、カーランとアペルの発言・創作とベースのアーカイブ
- Consolidated Financial Statements 2025 — Symrise、事業区分と事業内容
- Transformation with Impact — Symrise Corporate Report 2025、2026年のCare & Wellness
- Grundstein für eine Erfolgsgeschichte — Symrise、1874年の研究と1875–1876年の事業・社名
- De Laire bases: a 150-year revolution — Sarah Bouasse、Nez、2026年5月26日、シヨンとマスネの講演・発言。Symriseとの提携記事
- Jicky Eau de Parfum — Guerlain公式、1889年の創作とバニリン・クマリン
- Scent and Chemistry: The Molecular World of Odors、第2版、Historical Aspects — Günther Ohloffほか、Wiley-VCH、2022年、イオノンの研究史
- Our History — Symrise、ドラゴコの創業、2003年合併、2006年上場
- Pioneering a legacy in Menthol innovation — Symrise、Haarmann & Reimerの工業生産と1974年の特許
- Excellence in Perfumery — Symrise、1985年のde Laireベースの権利取得と2007年の養成再編
- Investor Presentation、2022年9月 — Symrise、1995年のFlorasynth取得(PDF2頁)
- Rebirth of a longstanding brand — Symrise、Lautierの沿革と天然原料の調達・加工
- The New Face of the Legendary de Laire Company — Sergey Borisov、Fragrantica、2017年のPierre-Constantine Guerosへの直接取材
- Symrise strengthens natural fragrance ecosystem with new Lautier 1795 site in Grasse — 公式発表、2026年9月22日
- Lilybelle – the magic muguet — Symrise、再開発の工程・原料と2017年の販売開始
- Lilybelle by Symrise: Lily of the valley fragrance ingredient from renewable sources — 公式発表、2021年7月15日
- David Benedekの受賞時の発言 — BDK創設者、カーランの当時の所属とモロッコの菓子の着想
- Velvet Tonka Eau de Parfum — BDK Parfums公式、カーランの発言と作品の構成
- Search and apply — Symrise公式の採用窓口
- Graduates — Symrise公式、職種と養成
- Symrise Perfumery School is recruiting the next generation of fragrance professionals — 公式発表、2021年8月3日、2022年開始の北米・中南米向け課程
- Symrise Perfumery School: Learning inspiration with art — 公式発表、2023年9月12日
- Eight young talents unveil creative masterpieces at Symrise perfumery exams — 公式発表、2025年6月27日



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