デイヴィッド・アペル(David Apel)──太い線で香りを描く「洞窟画家」

デイヴィッド・アペルのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「いちばん面白いことは、まだ誰もやっていないことを発見したときに起こります。そのためには、ルールの外に出てみるしかありません。」

デイヴィッド・アペル

アメリカ・ニュージャージー州出身。

環境化学を学ぶためのアルバイトが、香水を作る仕事につながりました。デイヴィッド・アペルは、調香師の家に生まれたわけでも、最初から香水学校を目指していたわけでもありません。分析室で出会った原料に惹かれ、そこから自分の道を見つけた人物です。

サンフラワーやブラック オーキッドのような広く知られる香りを作りながら、自分を「洞窟画家」にたとえます。細部を飾り込むより、数本の大きな線で印象を伝えたい。その率直な言葉には、アペルの香水の捉え方がよく表れています。

調香史

学費を稼ぐために入った、香料会社

アペルはニュージャージー州で育ち、自然の中で過ごすことを好む少年でした。森や海岸の風景は、後年の作品にも繰り返し現れます。本人はニューイングランドの荒々しい海岸も、幼いころの大切な記憶として語っています。ニュージャージーとニューイングランドは別の地域ですが、その両方の土地の記憶がプロフィールに登場するのです。

学校を出た後は、夜間の授業で環境化学を学んでいました。1980年、学費の足しにしようと応募したのが、ジボダン(Givaudan)の初歩的な職種です。エー・エヌ・アザー(A.N. Other)の取材で、入口をこう説明しています。

「香水の世界をほとんど、というより、まったく知らないニュージャージー育ちのアメリカ人の子どもでした。環境化学の夜間授業に通いながら、学費を払うために香料会社の仕事に就いたのです。」

デイヴィッド・アペル、エー・エヌ・アザーのインタビューより

最初に経験したのは、原料を扱う仕事やガスクロマトグラフィーによる分析でした。市販の香水を成分の側から調べる作業を通じて、複雑な香りが材料の組み合わせで生まれていることを知っていきます。

しかし、彼を引きつけたのは、分析結果の数字だけではありませんでした。

「原料に恋をしました。エキゾチックで、奇妙なガムや樹脂が、驚くほど神秘的な名前を持っていました。すっかり引き込まれたのです。なぜかそれらは親しみがあり、自分の感覚と結びつけることができました。」

デイヴィッド・アペル、エー・エヌ・アザーのインタビューより

未知の材料なのに、どこかで知っている。香りと記憶のつながりを、自分の仕事として扱えることに気づいた瞬間でした。社内で学びながら、興味を持ってくれた調香師の指導も受け、やがて正式な調香師になっていきます。

実務で学び、パリへ向かう

1990年にはアメリカ調香師協会(American Society of Perfumers)の見習いプログラムに参加します。仕事の中で身につけた知識を体系的に学び直し、翌1991年には同協会の若手調香師賞を受賞しました。

初期の代表作には、カルバン・クライン(Calvin Klein)のエスケープ フォー メン(Escape for Men、1993年)と、エリザベス・アーデン(Elizabeth Arden)のサンフラワー(Sunflowers、1993年)があります。前者はスティーブ・デメルカード(Steve DeMercado)との共作です。自然の明るさや広がりを感じさせる作品で、アペルの名が知られるようになります。

1993年から1997年までは、パリでファインフレグランスの制作に携わります。この時期にフレグランス・リソーシズ(Fragrance Resources)に加わり、帰国後には同社のニューヨークの創作拠点を立ち上げました。

アメリカで実務から学んだ人物が、フランスの調香師たちと働く。そこで自分の立場を弱みにせず、外から来た人の自由さとして受け止めたことが、その後の仕事につながります。

「ほかの人との違いがあるとすれば、若い調香師だったころの素朴さを、年を重ねた今も持っていることかもしれません。」

デイヴィッド・アペル、ホワット・ウィー・ドゥ・イズ・シークレット掲載の発言より

この発言は、自分の方法を完成したものと見なさない態度でもあります。知らないことが残っているから、まだ試せることがある。アペルはその余地を大切にしてきました。

ジボダンへの帰還と、シムライズでの仕事

2001年、アペルはジボダンに戻り、ファインフレグランスのエグゼクティブ調香師となります。トム・フォード(Tom Ford)、ボンド ナンバーナイン(Bond No.9)、ラルフ・ローレン(Ralph Lauren)、ショーン・ジョン(Sean John)などとの仕事が、この時期の幅を示しています。

2007年にはシムライズ(Symrise)に移籍しました。英国フレグランス・ファウンデーションのプロフィールでは、副社長兼シニア調香師として紹介されています。ニューヨークを拠点に、新興ブランドや大きな商業ブランドの両方に香りを提供してきました。

1980年に始まったキャリアは、40年以上に及びます。2025年にはマインド ゲームズ(Mind Games)のキングサイド(Kingside)を発表。経験を重ねても、素材や制作の条件が変わるたびに、新しい香りを考え続けています。

洞窟画家のように、太い線で描く

アペルが自分の創作を説明するときに使うのが、洞窟画家というたとえです。ホワット・ウィー・ドゥ・イズ・シークレット(What We Do Is Secret)のプロフィールに掲載された本人の言葉には、方法がはっきりと表れています。

「私は自分を、洞窟画家のようなものだと思っています。大まかな輪郭を探るのです。細部に入り込むより、二、三本の太く大きな線で語りたい。少し素朴ですが、そんなふうに香水を作るのが好きです。」

デイヴィッド・アペル、ホワット・ウィー・ドゥ・イズ・シークレット掲載の発言より

複雑な材料を知らないから単純にするのではありません。分析室で成分を見続けた経験がありながら、最終的には何を強く感じさせるかを選ぶ。その判断を、絵の筆触にたとえているのです。

また、同じプロフィールでは、香水はいつも制作の途中にあるものとして紹介されています。一度発売した作品があっても、その素材の組み合わせを考える仕事に、完全な終点が来るわけではありません。

サンフラワー──成功しても、まだ先が見える

サンフラワーは、果実のみずみずしさと明るい花の香りを結びつけた、初期の代表作です。メロンや桃、シトラスの印象から、シクラメンやローズ、ジャスミンへとつながり、ムスクや木の温かさが残ります。

当時のアペルは、海や空気を思わせる透明な香りに強く惹かれていました。その象徴が、水やメロンを思わせる香料カロン(Calone)です。ところが、自分の作品に満足した後、別の調香師の香りに大きな衝撃を受けます。

「サンフラワーを作り終えたときは満足していました。でもロー ドゥ イッセイを嗅いで、『しまった、私がやるべきだったのはこれだ』と、本当にそう言ったのです。」

デイヴィッド・アペル、ホワット・ウィー・ドゥ・イズ・シークレット掲載の発言より

比較したのは、イッセイ ミヤケ(Issey Miyake)のロー ドゥ イッセイ(L’Eau d’Issey、1992年)でした。自分の作品の価値を否定するというより、追いかけていた表現の可能性を他者の仕事に見つけたのでしょう。成功作を語る場でも、悔しさを隠さないところに、アペルの率直さがあります。

ブラック オーキッド──暗さと豊かさの輪郭

ブラック オーキッド(Black Orchid、2006年)は、トム・フォードが自身のブランドで発表した最初の香水です。ピエール・ネグラン(Pierre Negrin)との共同制作で、アペルのキャリアを代表する一本となりました。

黒い蘭をめぐる幻想的なイメージを、トリュフ、イランイラン、暗い果実、パチョリ、バニラなどで組み立てています。花の華やかさの中に土や湿り気を感じさせる部分があり、甘さだけで終わらない濃密さが特徴です。

この香りを、すべての材料が前例のない発明だったと説明する必要はありません。むしろ、大きく暗い花の印象を一つの作品として成立させたところに、アペルの太い輪郭を描く感覚が見えてきます。

2022年には米国フレグランス・ファウンデーションのフレグランス・ホール・オブ・フェイムに選ばれました。発売時の話題性だけでなく、長く愛用されてきた作品として評価されたのです。

アンフォーギヴァブル──四人で作る香り

ショーン・ジョンのアンフォーギヴァブル(Unforgivable、2006年)は、アペル、ネグラン、オーレリアン・ギシャール(Aurélien Guichard)、キャロリン・サバス(Caroline Sabas)の共同制作として記録されています。

シトラスやハーブから、落ち着いた木の香りへと進む構成です。2005年末には紹介やレビューが出ており、発売年には2005年と2006年の両記録がありますが、一般的には2006年の作品として扱われています。2007年にはフィフィ賞のメンズ・ラグジュアリー部門を受賞しました。

ブラック オーキッドとは異なる明るく整った香りを作れることも、アペルの幅です。一人の調香師の作風は、濃い、軽いといった印象だけでは決まらず、依頼や共同制作者との対話によって形を変えます。

オーアール18──制約のない仕事にも、課題はある

エー・エヌ・アザーのオーアール18(OR/18、2018年)では、細かな制作条件を与えられないことが出発点となりました。普段なら気にする原料費の制限からも解放され、自分の記憶や好みを率直に表せる機会だったと話しています。

「この香りを『カナビス・カップケーキ』と呼んでいます。本当に私自身と私の経験を反映したものです。豊かな木々と土を思わせる苔に、少しの甘さ。バニラ、温かさのためのウイスキー、そしてカナビスのアコードです。」

デイヴィッド・アペル、エー・エヌ・アザーのインタビューより

ここでいうカナビスは香りのアコードです。青くハーバルな印象を、木や苔、甘い温かさと結びつけています。本人によれば、その青さには強いルバーブを連想させるところもあります。

ブラッドオレンジやアニスの明るさから、樹脂や夜の花、バニラと流木の印象へ。荒々しい海岸の記憶と、食べ物を思わせる甘さが同居する作品になりました。

自由を喜びながら、アペルは最後にこう付け加えています。

「ブリーフがないときの本当の制約は、素晴らしいものを作らなければならない、ということです。」

デイヴィッド・アペル、エー・エヌ・アザーのインタビューより

何でもできるからこそ、何を作るかを自分で決めなければならない。冗談めいた呼び名の奥に、作者としての責任が見えます。

ポピー ソーマ──毒の花を、二人で描く

パルファム・クァルタナ(Parfums Quartana)のポピー ソーマ(Poppy Soma、2016年)は、エミリー・コッパーマン(Emilie Coppermann)との共作です。シムライズの発表によれば、二人は約2年をかけてこの香りを作りました。

コレクションの主題は、有毒な花にまつわる美しさと危うさ。ポピー ソーマでは、胡椒やカレーリーフの刺激、白い花やローズ、インセンスと樹脂の煙るような温かさを重ねています。

2017年にはフレグランス・ファウンデーションのパルファム・エクストラオルディネール賞を受賞しました。作品の発売年と受賞年は別であり、調香もコッパーマン一人、あるいはアペル一人の仕事としては扱えません。

人工知能という、新しい相棒

アペルの仕事でもう一つ興味深いのが、シムライズとアイビーエム・リサーチ(IBM Research)が開発した人工知能フィリュラ(Philyra)との協働です。

フィリュラは、膨大な既存処方や原料の関係、消費者に関するデータを手がかりに、新しい組み合わせを提案するシステムです。アペルはその案を実際に嗅ぎ、調整し、製品として仕上げる役割を担いました。

2019年には、ブラジルのオ・ボチカリオ(O Boticário)向けの香水として商業化されます。人間が思いつきにくい組み合わせを、機械が提案する。その経験を、ドイチェ・ヴェレの取材でこう語りました。

「私が彼女を訓練したのに、今度は彼女が私を訓練しているのです。」

デイヴィッド・アペル、ドイチェ・ヴェレの取材より

アペルはフィリュラを、人間と同じ意味で匂いを感じる存在として説明しているわけではありません。自分とは違う方法で材料を結びつける相手と働くことが、新しい可能性を教えてくれるのです。原料に驚いた若いころから、その好奇心は続いています。

ちなみに…

妻のサバスも調香師です。フランス南部で育ち、アメリカへ渡った彼女は、インタビューでアペルを自分の大切な師の一人として挙げています。仕事では共同制作者、生活では料理や絵画、旅、人をもてなすことを分かち合う相手です。英国フレグランス・ファウンデーションの紹介では、アペルには5人の子どもがいるとされています。

父から受け継いだ人生の考え方も、独特です。

「私のモットーは『皿洗いはいつでもできる』です。父は仕事を失っても、店が閉まっても、皿洗いからやり直し、またシェフになるまで進んでいきました。それはいい世界の見方だと、ずっと思っていました。」

デイヴィッド・アペル、ホワット・ウィー・ドゥ・イズ・シークレット掲載の発言より

新しいことを試すには、失敗してもやり直せるという感覚が必要です。香りのルールの外へ出ていこうとする姿勢を、この父の話から見ると、単なる大胆さとは少し違って感じられます。

調香作品

主な作品を年代順にまとめました。発売年が資料によって異なるものには注記しています。

ブランド 作品名 共同調香師・注記
1993 カルバン・クライン エスケープ フォー メン スティーブ・デメルカード
1993 エリザベス・アーデン サンフラワー
1994 ルチアーノ・パヴァロッティ(Luciano Pavarotti) フォー メン(For Men)
1994 ルチアーノ・パヴァロッティ ドンナ(Donna)
1995 ヒューゴ・ボス(Hugo Boss) ヒューゴ(Hugo)
1996 ニナ・リッチ(Nina Ricci) レ ベル ドゥ リッチ(Les Belles de Ricci) ナタリー・フェイステュアー(Nathalie Feisthauer)、ジャン・ギシャール(Jean Guichard)
2002 アルフレッド・サン(Alfred Sung) ヘイ(Hei)
2003 アルフレッド・サン パラダイス(Paradise)、男女各版
2003/2005 ラルフ・ローレン ブルー フォー ウィメン(Blue for Women) ピエール・ネグラン。資料間に年の差あり
2004 ボンド ナンバーナイン ウォール ストリート(Wall Street)
2004 ラルフ・ローレン ラルフ クール(Ralph Cool) ピエール・ネグラン
2005 ボンド ナンバーナイン ブリーカー ストリート(Bleecker Street)
2006 トム・フォード ブラック オーキッド ピエール・ネグラン
2006 ショーン・ジョン アンフォーギヴァブル ピエール・ネグラン、オーレリアン・ギシャール、キャロリン・サバス。2005年発表資料もあり
2007 トム・フォード ブラック オーキッド ヴォワル ドゥ フルール(Black Orchid Voile de Fleur) ピエール・ネグラン
2007 トム・フォード ボワ ルージュ(Bois Rouge)
2007 トム・フォード パープル パチョリ(Purple Patchouli)
2007 トム・フォード ヴェルヴェット ガーデニア(Velvet Gardenia)
2007 ショーン・ジョン アンフォーギヴァブル ウーマン(Unforgivable Woman) オーレリアン・ギシャール
2007 ショーン・ジョン アンフォーギヴァブル マルチ プラチナム(Unforgivable Multi Platinum)
2007 ジョー マローン ロンドン(Jo Malone London) ホワイト ジャスミン&ミント(White Jasmine & Mint)
2009 バス&ボディワークス(Bath & Body Works) ピーエス アイ ラブ ユー(P.S. I Love You)
2011 キャロライナ・ヘレラ(Carolina Herrera) 212 ビップ メン(212 VIP Men) エミリー・コッパーマン
2011 シックス センツ(Six Scents) インセンス バイ ザ シー(Incense by the Sea)
2011 シックス センツ ヴェルデ(Verde)
2013 トラサルディ(Trussardi) レーヴ(Rêve)
2013 エイボン(Avon) パッション(Passion)
2013 アルフレッド・サン インタラクト(Interact)
2013 ギャップ(Gap) エキゾチック ジャスミン(Exotic Jasmine)
2013 オ・ボチカリオ リンダ インスピラサン(Linda Inspiração)
2014 トラサルディ ア ウェイ フォー ハー(A Way for Her) ルカ・シュザック(Lucas Sieuzac)
2014 エイボン ラック フォー ヒム(Luck for Him)
2014 ジョー マローン ロンドン ロンドン レイン ホワイト ジャスミン&ミント(London Rain White Jasmine & Mint) ピエール・ネグラン
2014 ピンローズ(Pinrose) キャンプファイア レベル(Campfire Rebel)
2014 ピンローズ カドル パンク(Cuddle Punk)
2016 ピンローズ ギルデッド フォックス(Gilded Fox) 2015年とする記録もあり
2016 フラー(Phlur) グレイロック(Greylocke)
2016 フラー シアノ(Siano)
2016 パルファム・クァルタナ ジギタリス(Digitalis)
2016 パルファム・クァルタナ ポピー ソーマ エミリー・コッパーマン。2017年受賞
2017 フォリ ア プリュジュー(Folie à Plusieurs) トーク トゥ ハー ワン(Talk to Her I)
2018 エー・エヌ・アザー オーアール18
2019 オ・ボチカリオ フィリュラとの協働による香水 人工知能の提案処方をアペルが調整
2022 マインド ゲームズ カイッサ(Caïssa)
2022 マインド ゲームズ チェックメイト(Checkmate)
2025 マインド ゲームズ キングサイド

参考文献