1949年、フランスのグラースで、香水業界で働く両親の元に生まれたフレシェは、幼い頃から香水に興味を持っていました。1967年からルール・ベルトラン・デュポン社の調香師学校で1期生として調香師の勉強を始めます。当時、学校にはジャン・カールの息子であるマルセル・カールもおり、ジャン・カールが1961年に生み出したメソッドで勉強をしていました。ルール社のグラース支部とブラジル支部で経験を積んだフレシェは、1977年にジャン・アミック率いるファインフレグランス部門に入ります。
フレデリック・マルが1988年にルール社に入ったときには、すでに時代に最も必要とされている素晴らしい調香師の1人であったとマルは回顧しています。マルが質問をするときには辛抱強く、優しく、香料のレッスンも含めて答えており、何度もマルを感動させています。香料に関する嗅覚が並大抵ではありませんが、それは努力によって培われたものであり、いかに成功しようとも必ず毎朝原料のテイスティングを欠さないそうです。
また、彼の凄さを表すエピソードとして、ほとんどの調香師がデスクを原料のボトルでいっぱいにしているのに対して、どれだけ同時に香水を制作していても数種類しか原料をデスクにおいていなかったということが語り継がれています。
1997年からは、マン社に6年半(-2004)おり、マイケルコースのために香水を作っていました。ちょうどこのとき、ラルフ・シュヴィーガーを弟子として訓練もしています。
2004年11月からは、その能力を認められ、ゲランに所属し、香料の調整や法改正に伴う製品の調整をしていました。というのも、2004年にEUの規制がかかり、オークモスの使用が安全性の面から規制されたため、製品の原料を変えなければならず、ゲランはフレシェに白羽の矢を立てたのでした。
2年かけて、フレシェは1919年にジャック・ゲランが生み出したミツコを、制限に合わせて処方し直しました。「恐らく世界で最も素晴らしい香水」とミツコを評するルカトゥリンは、フレシェバージョンのミツコをこのように評価しています(今はティエリー・ワッサーバージョン)。
フレシェは不可能を成し遂げた。新しいミツコは全ての規制に則っており、オリジナルとはかなり異なる。トップはよりパンのような立ち上がり、底の甘さは少し控えめで、ミドルのアイリスノートはわずかに強くなっている。が、素晴らしい香りである。もし、昔のものと新しいものとで選ばなければならないとしたら、今まで使っていたことを無視して、私は新しいものを選ぶだろう。ブラボー。
『世界香水ガイド』より
また2007年、ゲランのアビルージュ(Habit Rouge、1965、ジャン‐ポール・ゲラン)も手直ししています。
そして、2010年、ゲランを最後として、引退しています。
コメント