「ストーリーテリングこそが、私たちが新しいフレグランスを決める際に最も大切にしていること」
— メルト・ギュゼル(Nishane共同創業者)
基本情報
- 設立年: 2012年
- 創設者: ムラト・カトラン(Murat Katran)、メルト・ギュゼル(Mert Güzel)
- 本拠地: イスタンブール、トルコ
- 公式サイト: nishane.com
※「Nishane」はトルコ語で「ニシャネ」と読み、「印(しるし)」「記号」「象徴」を意味する。
創設者・ブランドの成り立ち
二人のイスタンブール人が出会う前
ニシャネを語るには、まず2人の創業者それぞれの軌跡から始めなければならない。
メルト・ギュゼルは、イスタンブールに生まれた。ガラタサライ大学(Galatasaray University)の社会学部を卒業後、すぐに出版の世界に飛び込んだ。彼が手がけたのは、トルコの高級ホテルを特集したコーヒーテーブルブックだった。
この事業を通じて出版・観光・マーケティングの各分野に深く関わり、2冊の書籍を刊行した。そのホテルたちの内装を取材し、トルコの豪奢な伝統をページに刻む中で、「自分のラグジュアリーブランドを作りたい」という夢が彼の中でゆっくりと育っていった。
ムラト・カトランも同じくイスタンブールに生まれた。子どもの頃から演劇に携わっており、イスタンブール市立劇場(Istanbul City Theaters)で13年間のプロの俳優キャリアを積んだ。
一方で学問の道はボアジチ大学(Boğaziçi University)の国際貿易学科に進み、卒業後はトルコ最大級の製鉄会社の輸出マネージャーとして活躍。やがて自身の鉄鋼輸出会社を設立した。鉄鋼ビジネスで湾岸地域を飛び回る中で、ある日彼はウード(沈香)と出会う。
「それは夢の中にいるようだった。まったく異なる世界だった。香水はずっと好きだったが、こんなに深く心を揺さぶられたのは初めてだった」
— ムラト・カトラン
アラブ世界の薫香文化に魅了されたカトランは、長年磨いてきたアーティスティックなストーリーテリングの感覚と、香りの世界を結びつけることを模索し始めた。
誕生日パーティーでの出会い、そして「いや、それは俺の夢だ」
2010年、共通の友人の誕生日パーティーで2人は出会った。互いに自己紹介も済まぬうちから、話題は香水へと向かった。カトランはギュゼルの香水知識の深さに圧倒された。そしてその夜の終わりにギュゼルが口にしたのは、「イスタンブール初のニッチ香水ブランドを作るのが夢だ」という言葉。
するとカトランは即座に返した。
二人はその場で大笑いした。そしてその瞬間から、深い友情と、やがてブランドへと実を結ぶ熱狂的な対話が始まった。ギュゼルのラグジュアリー知識と、カトランのクリエイティブなストーリーテリング能力——二つの才能が重なる場所に、ニシャネの種が埋められた。
「なぜトルコにニッチブランドが存在しないのか」
2人は約1年間かけて世界のラグジュアリー業界のトレンドを徹底的にリサーチし、イスタンブールで何が必要とされているかを分析した。ニッチ香水市場がグローバルに拡大しているにもかかわらず、トルコのブランドが存在しないという事実は、他でもない「空白」であり「機会」だった。
「ニッチ香水の愛好家として、グローバルにニッチな香りへの関心が高まっていることは知っていた。そしてそのフィールドにトルコのブランドが存在しないことも。これが私たちのブランドを差別化する出発点になった」
— ムラト・カトラン
2012年、2人は外部からの投資を受けず、自己資金でニシャネを設立した。創業者たちは自分たちを「調香師」とは位置づけない。香水の処方を研究室で行うのではなく、「ストーリーをつくり、そのストーリーが生み出す感情から嗅覚的なプロフィールを導き出すクリエイティブ・ディレクター」と自称している。
エクサンス2015:世界への幕開け
設立後3年間、2人はフランスやイギリスの調香師たちと連携しながら、念入りなリサーチと試作を重ねた。その成果として完成したのが、16種の「シグネチャー・コレクション(Signature Collection)」(エキストレ・ドゥ・パルファン形式)だった。
2015年、ミラノで開催されたニッチ香水の国際見本市「エクサンス(Esxence)」への出展で、ニシャネは初めて世界の舞台に登場した。小さなブースから発信されたイスタンブールの香りは、世界中の香水愛好家たちの注目を集め、批評家たちからも絶賛された。各香水には名前と番号が割り振られ、水彩画で描かれた美しいポストカードが同梱されていた。
その後、ブランドはイスタンブールのニシャンタシュ(Nişantaşı)やイスタンブール空港に旗艦店を持ち、ロンドンのハロッズ(Harrods)、パリのコンセプトストアをはじめ、現在では120か国以上で展開されるまでに成長した。
ブランドのこだわり
香りづくりの哲学:ストーリーが先にある
ニシャネの香り作りのプロセスは、処方や素材の選定から始まるのではなく、物語から始まる。まずストーリーがあり、それが感情を生み出し、感情が香りの輪郭を決める——この順序がブランドの揺るぎないスタンスだ。
「ストーリーを語ろうとしているとき、それが1本の香水のボトルを通して語れるのなら、それ以上スリリングなことはない」
— メルト・ギュゼル
調香師のラインナップは世界最高峰の顔ぶれが並ぶ。ドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)、ホルヘ・リー(Jorge Lee)、アルベルト・モリアス(Alberto Morillas)、セシル・ザロキアン(Cécile Zarokian)、クリス・モーリス(Chris Maurice)など、それぞれの作品において最適なノーズが起用される。一つのフレグランス開発には最低でも11〜12ヶ月を要するとされている。
また、ニシャネのほぼ全作品はエキストレ・ドゥ・パルファン(Extrait de Parfum)——香料濃度が30%以上という、最も高濃度の香水形式で展開されている。これは単なる品質へのこだわりにとどまらず、1本の香りが皮膚の上で重なり合い変容していく深さと、長時間の持続力を担保するための哲学的決断でもある。
ボトルとパッケージのデザイン
シグネチャー・コレクションでは、各香水に水彩画で描かれたポストカードが付属し、それぞれのフレグランスが喚起する情景や感情を視覚的に表現している。ボトル越しに見えるブランドロゴもデザインの一部として計算されており、細部にまで美学が貫かれている。
また、トルコでは来客に香水(コロン)を振る舞う文化が根付いており、ニシャネはこの「おもてなし」の伝統を継承するかたちで、スプラッシュ・コロン・シリーズ(Splash Cologne)を創り出している。これはトルコ式コーヒーにロクムを添えるような、分かち合いの文化を香りで現代化したものである。
イスタンブールという「東西の橋」
ニシャネにとって、イスタンブールは単なる「出身地」ではなく、創造性の源泉そのものだ。アジアとヨーロッパを文字通りつなぐボスポラス海峡の都市で、東洋と西洋の文化が何世紀にもわたって混ざり合ってきた。その多層的なアイデンティティが、ブランドの香りに反映されている。
「イスタンブールは文明の架け橋だ。私たちはクリエイティブ・ディレクターとして、この文化的多様性を最大限に活かしている」
— ムラト・カトラン
香水ラインナップ
ニシャネのコレクションは、それぞれ明確なテーマと物語を持つシリーズとして構成されている。
シグネチャー・コレクション(Signature Collection)
2015年のエクサンスで発表された、ブランド創設時からの16本の香水群。場所・素材・大陸・国・時代など、それぞれ異なるテーマを持ち、水彩画ポストカードで世界観が表現されている。トルコの「コロンでのおもてなし文化」を現代的に昇華したスプラッシュ・コロン・シリーズもここに含まれる。
シャドウ・プレイ・コレクション(Shadow Play Collection)
2017年のエクサンスで発表された三部作。インスピレーション源は、トルコ伝統の影絵芝居「カラゴズとハジワット(Karagöz & Hacivat)」。2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されたこの演劇芸術は、1枚の白い布の上に光と影で物語を紡ぐ。
- ハジワット(Hacivat): 優雅さ、知性、芸術への愛を象徴するキャラクターをイメージした、パイナップル・グレープフルーツ・ベルガモットで開くシプレ調のエキストレ。コレクション中最大のベストセラーとなり、現在もブランドの顔として認知されている。調香師はホルヘ・リー(Jorge Lee)。
- カラゴズ(Karagöz): 「黒い目」を意味する、陽気で率直なキャラクターに捧げたウード・アンバーを基調とする香り。
- ゼンネ(Zenne): 影絵に登場する美しく艶やかな女性キャラクター。フルーティでセンシュアルなヴァニラ調。
ルーミー・コレクション(Collection Rumi)
13世紀のイスラム神秘主義詩人、ルーミー(Mevlânâ Celâleddîn-i Rûmî)の詩にインスパイアされた2作品。2016年のエクサンスで発表された。
- ファン・ユア・フレイムズ(Fan Your Flames): 「己の炎を燃やせ。炎を扇いでくれる者を求めよ」というルーミーの言葉から生まれた、ラム・ベース+ヤシ+タバコのスモーキーでブージーな一作。カルト的な人気を誇る。
- ハンドレッド・サイレント・ウェイズ(Hundred Silent Ways): 「私は口を閉じ、百の無言の方法で貴方に語りかけた」というルーミーの詩に基づく、チューベローズ・ピーチを軸にしたフローラル・グルマン。2016年発表。
ノー・バウンダリーズ・コレクション(No Boundaries Collection)
「感情の境界をすべて取り払う」をテーマに掲げた意欲的なシリーズ。
- アニ(Ani): 2019年発表。かつてアルメニア王国の首都として栄え、モンゴルやオスマン朝など幾多の帝国に征服され、今は廃墟として残るアナトリアの古都アニ(現トルコ・アルメニア国境付近)からインスパイアされた作品。調香師はフランス・アルメニア系のセシル・ザロキアン(Cécile Zarokian)。アルメニアとトルコ、かつて確執を抱えた二つの民族を香りで癒やすという願いが込められている。加えてアニとは「記憶」を意味するトルコ語でもあり、制作中に急逝したブランドの親友チェム・カラバジャク(Cem Karabacak)の追悼にも捧げられている。バニラを中心としたオリエンタルなエキストレは、発売直後からニッチ香水界を代表するバニラ香水として世界的な評価を得た。
- エゲ/アイガイオ(Ege / Αιγαίο): トルコ語(Ege)とギリシャ語(Αιγαίο)の両方を同時に冠することで、エーゲ海の両岸に生きるトルコ人とギリシャ人が共に持つ文化と風景への敬意を表した一作。ユズ・バジル・リキュールを中心にした、爽快な海洋系エキストレ。
コレクション・イマジナティヴ(Collection Imaginative)
サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』からインスパイアされたシリーズ。
- B-612(B-612): 『星の王子さま』が住む小惑星の番号から名付けられた。「想像力、オープンマインド、世界の神秘と美しさへの感受性」をテーマにしたアロマティック・フゼア調。
- ヴェイン・アンド・ナイーヴ(Vain & Naïve): フルーティ・フローラルの甘美な一作。
タイム・カプセル・コレクション(Time Capsule Collection)
「行動(Action)」「時間(Time)」「場所(Place)」「信念(Belief)」という4つのテーマを軸に構成されたシリーズ。エスペラント語(世界共通語として作られた人工言語)の単語をタイトルに使用するなど、普遍性へのこだわりが随所に見られる。
- テロ(Tero): エスペラント語で「大地(Earth)」。スパイシー・カラメル調。
- パピレフィコ(Papilefiko): 「バタフライ効果」に着想を得たスパイシー・バルサミック。
- テンプフルオ(Tempfluo): エスペラント語で「時の流れ(Time Flow)」。
- クレード(Kredo): エスペラント語で「信念(Belief)」。調香師はジャン=ルイ・シュザック(Jean-Louis Sieuzac)。
ちなみに…
- ブランド名「ニシャネ(Nishane)」の語源は、トルコ語の「ニシャン(nişane)」——「印」「記号」「象徴」を意味する言葉だ。2人の創業者にとって、この「象徴」はイスタンブールそのものを指している。
- ムラト・カトランがウードと出会ったのは、鉄鋼輸出ビジネスで訪れた湾岸地域だった。彼が後にニシャネで体現するアート的なストーリーテリングは、俳優としての13年間のキャリアと、その偶然の嗅覚体験が交わる場所に生まれたものである。
- ブランドを代表する香水「ハジワット(Hacivat)」の名は、トルコ伝統影絵芝居の主人公に由来する。この芸居は、「ハジ・イヴァズ(Hacı İvaz)」が時を経て短縮されたもので、ブルサのオルハン・ガーズィー・モスク建設現場で働いていた実在の人物に由来するという伝説がある。
- アニ(Ani)の調香師、セシル・ザロキアン(Cécile Zarokian)はフランス・アルメニア系の調香師であり、アルメニア人とトルコ人の歴史的な複雑な関係を知りつつこの香水を作った。トルコのブランドが、アルメニア系調香師と手を結び、かつての「境界の都市」をテーマに香水を生み出したという事実は、ノー・バウンダリーズ(境界なき)というコレクション名以上に雄弁な「声明」となっている。
- Beauty Matter – Nishane’s Global Ascent(2025年6月)– https://beautymatter.com/articles/nishanes-global-ascent
- Nez Magazine – Murat Katran and Mert Guzel: “Istanbul is literally a bridge between civilizations” – https://mag.bynez.com/en/reports/niches-confidences/murat-katran-and-mert-guzel-nishane-istanbul-is-literally-a-bridge-between-c
- New Heroes & Pioneers – Nishane: The Turkish Sultans of Scent(2014年11月)– https://thenewheroesandpioneers.com/magazine/2014/11/nishane-sultans-scents/
- The Perfume Society – Nishane – https://perfumesociety.org/perfume-house/nishane/
- The Scent City – Nishane Brand & Founder Profiles – https://www.thescentcity.com/collections/nishane/rhubarb
- CaFleureBon – Esxence 2015 Report: Nishane Istanbul(2015年)– https://cafleurebon.com/esxence-2015-report-new-perfume-discoveries-nishane-istanbul-bogazici-draw/
- CaFleureBon – Nishane Shadow Play Trilogy: Karagöz, Hacivat & Zenne(2017年)– https://cafleurebon.com/nishane-istanbul-launches-shadow-play-perfume-trilogy-karagoz-zenne-and-hacivat-mert-guzel-murat-katran-/
- CaFleureBon – Nishane ANI review & draw(2019年)– https://www.cafleurebon.com/esxence-2019-nishane-ani-review-cecile-zarokian-no-boundaries-draw/
- CaFleureBon – Nishane Nanshe and Ege/Αιγαίο Reviews(2021年)– https://cafleurebon.com/nishane-nanshe-cecile-zarokian-and-ege-%CE%B1%CE%B9%CE%B3%CE%B1%CE%B9%CE%BF-ilias-ermenidis-review-c/
- Libertine Parfumerie – Nishane History & Deziro launch(2024年)– https://www.libertineparfumerie.com.au/blogs/new-launches/new-nishane-launch-aromatic-masterpiece-deziro
- Parfinity.com – Nishane Perfumes brand page – https://www.parfinity.com/en/brand/nishane
- Nishane公式サイト – About – https://nishane.com/about/
- UNESCO – Decision on Karagöz inscription – https://ich.unesco.org/en/Decisions/4.COM/13.73
- Aus Liebe zum Duft – B-612 and Vain & Naive by Nishane(2022年)– https://www.alzd.de/en/2022/09/22/b-612-and-vain-naive-by-nishane-olfactory-little-prince/
- Amaris Beauty – Nishane’s Time Capsule Collection(2024年)– https://amarisbeauty.com/blogs/magazine/introducing-nishane-s-time-capsule-collection-a-journey-through-kredo-tero-tempfluo-and-papilefiko/


