「フランスやイタリア、あるいはイギリスには、長い伝統を持つ香水ブランドが存在する。なぜドイツ語圏にはそういったものがないのか、それがずっと謎だった。そしてそれが、私をこの道へ導いた。」
— Lutz Herrmann(ルッツ・ヘルマン)、クリエイティブディレクター
基本情報
設立年: 1856年
創業者: Joachim Friedrich Schwarzlose(ヨアヒム・フリードリヒ・シュヴァルツローゼ)
現在のクリエイティブディレクター: Lutz Herrmann(ルッツ・ヘルマン)
調香師: Véronique Nyberg(ヴェロニク・ナイベルグ)
公式サイト: schwarzloseberlin.com
創設者・ブランドの成り立ち
ピアノ職人から薬局へ——1856年、ベルリンのゲンダルメンマルクト近く
もともとピアノ職人だったヨアヒム・フリードリヒ・シュヴァルツローゼが、1856年、ベルリン中心部のマルクグラーフェン通り29番地に薬局兼植民地商品店「J.F. Schwarzlose Söhne(J.F. シュヴァルツローゼ・ゾーネ)」を開業した。 家族の生計を支えるため、子供たちに確かな職業と将来を与えたいという一心で始めた実業であった。[1][2][3]
開業から間もなく、シュヴァルツローゼは香水製造会社「Treu & Nuglisch(トロイ&ヌグリッシュ)」を買収し、本格的に香水事業へと重心を移した。 同社は宮廷御用達の実績を持つ名門であり、貴族階級の顧客がシュヴァルツローゼの新しい香水店へと自然に流れ込んできた。[4]
皇帝陛下御用達——ベルリンの黄金時代とともに
1880年代以降、シュヴァルツローゼはプロイセン王家の御用達の称号を取得し、その名声はベルリンを越えてヨーロッパ全土に広まっていった。 1897年にはフランツ・ケートナーを共同経営者に迎え、「皇帝陛下の御用達(Purveyor to the Court of His Majesty the Emperor and King)」という称号も冠するに至った。 当時のシュヴァルツローゼのフラコン(香水瓶)が、中国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)のコレクションの中に見つかったことは、そのブランドの国際的な評価を物語っている。[2][5][4]
同時代の1873年、シュヴァルツローゼはある発明で世界に名を刻む。「Crayon Anti-Migraine(クレヨン・アンティ・ミグレーヌ)」と名付けた偏頭痛スティックの特許取得がそれである。 1883年に特許が解放されるまでの10年間、このスティック型製品はヨーロッパ全土でヒットし、後のリップスティックをはじめとするスティック型コスメ製品の源流とも言われている。
さらに1896年には、化学者エルンスト・エルドマンが開発した金属添加物不使用のヘアカラー剤「Aureol(オーロール)」をシュヴァルツローゼが発売。この名前がのちにフランス語化されて「L’Oréal(ロレアル)」になったとルッツ・ヘルマンは語っている。 [6]
世紀の変わり目——「嗅覚的ファンタジー」の時代
1900年代に差しかかると、シュヴァルツローゼの香水はスペイン、アジア、オーストラリア、アメリカへと輸出されるほどの国際ブランドへと成長した。 [3][6]
「1900年代のファッションはまだ、スズランやスミレ、バラ、ライラックなど、花の自然な香りをできるだけ忠実に再現した香水を求めていた。しかし同時に、嗅覚的なファンタジーを組み立てる芸術がますます重要になっていった。」[4]
当時のシュヴァルツローゼは、自然成分と人工の香料分子(アロマ・モレキュール)を組み合わせるという最新の科学的アプローチをいち早く採用した。それは「新しい音符を発明すること」「画家に見たことのない色を与えること」に等しい革命だったとも言われた。 また1920年代には、ハンカチーフに香りを噴霧するための世界初とも言われる「香水自動販売機」を英語圏向けに発売している。[4]
1930年代の厳しいインフレを乗り越えると、1930年9月にはライプチガー通り113番地へ近代化した新店舗を開設した。 ワイマール共和国の激動の20年代、シュヴァルツローゼは「1A-33」「Treffpunkt 8 Uhr(トレフパンクト・アハト・ウーア)」「Trance(トランス)」「Spanisch Leder(スパニッシュ・レーダー)」といった香水を生み出した。これらは後に現代コレクションとして復活を遂げる作品群である。[7][4]
第二次世界大戦と廃業——そして沈黙の36年間
1944年、ベルリン爆撃によりシュヴァルツローゼの工場と店舗は完全に焼失した。 すべての過去の調合記録を含むアーカイブも、1943年の火災で灰燼に帰した。 戦後はマーシャルプランの援助を受けて再建を試みたが、1961年のベルリンの壁建設により、東側の工場と西側の営業所が物理的に分断されるという困難に直面する。 そして1976年、市当局から工場の非住宅エリアへの移転命令を受け、創業から120年以上の歴史に幕を下ろした。[6][3][4]
こうして「J.F. Schwarzlose Söhne」は廃業し、ブランドは36年間の眠りについた。
2012年——ルッツ・ヘルマンによる復活
ブランドの復活を主導したのは、1980年代からJoop!(ジュープ)、Hugo Boss(ヒューゴ・ボス)といった世界的ブランドの香水瓶デザインを手がけてきたパッケージデザイナー、ルッツ・ヘルマンである。[8][9]
彼はこう回顧している。
「ドイツには歴史的な香水ブランドがほとんど存在しない。フランスやイタリアにはマリー・ド・メディシスのために働いた調香師の系譜さえ今も続いているのに。それがずっと謎だった。そしてシュヴァルツローゼの歴史を断片的に調べていくうちに、この壮大な物語に完全に引き込まれた。」[6]
ヘルマンは国立公文書館でのリサーチを行い、ビンテージのフラコンや文書を収集。コミュニケーション・エキスパートのタマス・タグシェラー(Tamas Tagscherer)とともに「J.F. Schwarzlose Berlin(J.F. シュヴァルツローゼ・ベルリン)」としてブランドを復活させた。 二人はシュヴァルツローゼ家最後の後継者であるユッタ・ヤンク=トラバント(Jutta Jank-Trabant)と深い縁を結び、彼女は現在も復活したブランドのオフィスに大切なゲストとして訪れている。[7][4]
2018年には、ルッツ・ヘルマンが長年の知人でもあるルネ・ドミニク(René Dominik)が経営パートナーとして参加。ドミニクはこう語っている。
「ドイツには長い歴史を持つ香水ブランドがほとんど残っていない。J.F. シュヴァルツローゼのような鑑定家向けのブランドは、私にとって非常に貴重な存在だ。」[3]
現在は、ヘルマン、ドミニク、フランク・ホフマン(Frank Hoffmann)、ラース・ベルゲル(Lars Börgel)らがパートナーとして名を連ねる体制となっている。 オフィスはベルリンのモアビット地区——旧工場跡地のすぐそばにある古い工場内のロフトに置かれている。[2][3]
ブランドのこだわり
「香りが主役」——バウハウスの美学が宿るフラコン
フラコンのデザインは徹底してミニマルである。デザインコンセプトについてルッツ・ヘルマンはこう述べている。
「フラコンのデザインは、意図的に控えめに留めている。香りが静かにその世界を広げ、いかなる形でも過剰な装飾の裏に押し込められることのないように、という信条がそこにある。」[10]
重厚なガラス底、ブランドロゴのエンボス加工、手作業で取り付けられた真鍮製の蓋——これらすべてが、1900年代のオリジナル・フラコンへのオマージュである。 ロゴタイプは旧来のロゴをベースにしており、蓋のデザインにはバウハウス建築家でMies van der Rohe(ミース・ファン・デル・ローエ)の門下生であるEduard Ludwig(エドゥアルト・ルートヴィヒ)の仕事が息づいている。彼は1948年以降、シュヴァルツローゼのブランド全体のデザインを刷新した人物である。 また、過去の歴史的なフラコンの一部はバウハウス出身デザイナーのWilhelm Wagenfeld(ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルト)によって手がけられていた。[11][5][9][10]
視覚的なアイデンティティについてルッツ・ヘルマンはこう説明する。
「グラフィックのアプローチとして、ブランドとパッケージはシンプルかつクリアに保っている。ベルリンの遺産は装飾よりも、初期バウハウスの精神に根ざしているからだ。」[2]
過去のレシピなき再解釈——クロマトグラフィー分析という挑戦
1943年の火災ですべての調合記録が消滅しているため、現代の調香師ヴェロニク・ナイベルグは古いフラコンを「精巧なクロマトグラフィー分析(クロマトグラフィー:混合物の成分を分離・特定する化学分析法)」にかけることで元の処方を推定し、そこから現代的な再解釈を行った。[12][7]
ヘルマンはこの難しさをこう語っている。
「昔の処方はもう存在しない。すべてのアーカイブは1943年に炎上し、1976年の廃業の際にも誰も何も保管しなかった。だからヴェロニクには、古い香りのベースを守りながら、彼女自身のものを加えるという仕事が与えられた。それは常にバランスの綱渡りだが、彼女は見事にこなしている。」[6]
なお、EU規制により当時使用されていた成分の多くが現在は使用できないという制約もあり、完全な復元ではなく「現代の精神を通じた再創造」という性格を持つ。[6]
サステナビリティと「Made in Germany」
2012年の復活当初から、シュヴァルツローゼ・ベルリンはすべての成分とパッケージをヨーロッパ産で調達するという方針を貫いている。 香油はナイベルグが拠点を置くパリのMANEから供給され、最終的な組み立てはフランクフルト近郊の工場でEUおよびドイツの品質基準のもとで行われている。 ヘルマンはこう述べている。[3][2]
「2012年当時、サステナビリティはまだ香水業界の一般的な話題ではなかった。当時の常識は『多ければ多いほど良い』だった。しかしデザイナーとして、ものを作るとは同時に廃棄物を生むことだと、私はずっと意識していた。」[10]
ジェンダーフリーの香り哲学
シュヴァルツローゼ・ベルリンのフレグランスはすべてユニセックスとして位置づけられている。ヘルマンはその理由をこう説明する。
「香りの文化に性別は存在しない。女性であれ、男性であれ、トランスジェンダーであれ、その他であれ——香りは魂を揺さぶり、響かせるものでなければならない。ジェンダーが消えてしまうほどに。」[6]
香水ラインナップ
現在のコレクションは大きく二つの柱から成っている。一つは旧シュヴァルツローゼのアーカイブから再解釈した「ヘリテージ・ライン」、もう一つは現代のベルリンからインスピレーションを受けた「コンテンポラリー・ライン」である。[12][3]
ヘリテージ・ライン(アーカイブからの復刻)
- 1A-33(ワンエー・サーティスリー) — ブランドの看板香水の一つ。リンデン(椴の木)の花、マグノリア、ジャスミン、マンダリン、レッドペッパー。名前は1906年に導入されたベルリンの旧ナンバープレート制度に由来し、「I」はプロイセン、「A」はベルリン、「33」は工場のあったモアビット地区の番号を指す。ベルリンの大通り「ウンター・デン・リンデン(菩提樹の下で)」のリンデンの花の香りがベルリンの空気を体現している。[13][3]
- トレフパンクト 8 Uhr(Treffpunkt 8 Uhr) — ドイツ語で「8時の待ち合わせ」を意味する。マンゴーの花、ジンジャー、セージ、ベチバー。期待と緊張感に満ちたランデブーの予感を表現した香り。ルッツ・ヘルマンがコレクションの中で個人的に最も気に入っている作品の一つとして挙げている。[14][10]
- トランス(Trance) — トルコ産ローズを中心に、アブサン、シスタス・アブソリュート(ロックローズ由来の香料)、スパイス。パウダリーかつ神秘的な質感。[15]
- レーダー 6(Leder 6) — 旧コレクションの「スパニッシュ・レーダー」を現代的に再解釈。「ダーク・レザー」「サフラン」「バニラ」「ダバナ」「パチョリ」「ウード」「インセンス」。René Dominikが冬の定番として挙げる一作。[16][3]
- 20|20(トゥエンティ・トゥエンティ) — 1920年代の「Chic(シック)」に着想を得た作品。アンバー、ムスク、レザーウッド。名前の由来について、ヘルマンはこう説明している。「過去の『シック』という概念を現代に引き寄せるにはどんな名前がふさわしいか、長く考えた。2020年はコロナで特別な年になってしまったが、それとは無関係にシンプルで直感的なこの名前を選んだ」。[10]
- ロサ・ケンティフォリア(Rosa Centifolia) — 1912年のオリジナルの現代的再解釈。ブランドのアイコン的存在で、再解釈には実に10年の歳月を要した。ローズ、ベンゾイン、パチョリ、アンバーウッド、ピンクペッパー、ゼラニウム。ヘルマンはこう述べている。「このフラコンのオリジナルは、今でも強烈で独特の香りを放っている。それを捉えながら、同時に現代化するのは難しかった」。[17][10]
コンテンポラリー・ライン(現代ベルリンからの着想)
- ラウシュ(Rausch) — ドイツ語で「陶酔」「恍惚」を意味する。レッドペッパー、サンダルウッド、パチョリ、バニラビーンズ、アンバー、ウード。ベルリンの伝説的なナイトライフをイメージした官能的な一作。[18]
- ツァイトガイスト(Zeitgeist) — ドイツ語で「時代精神」の意。「官能とフレッシュさの融合、多面的な現在の体現」と公式に説明されている。[19]
- アルトルーイスト(Altruist) — ベルリンのアーティスト、Paul DeFlorian(ポール・デ・フロリアン)とのコラボ作品。ベルガモット、レモン、ジンジャー、ローズ、オレンジブロッサム、ナツメグ、ブラックペッパー、シダー、ベチバー、パチョリ。2017年のアート・アンド・オルファクション・アワード(独立部門)受賞作。[20][21]
- フジェール(Fougair) — ファーン(シダ)・アコード、ベルガモット、ボックスウッド、アルテミシア、シプレス。フジェール(仏語で「シダ」を意味し、香水の伝統的な分類名でもある)の現代的な解釈。[22][16]
- エトランゴ(Etrango) — レッドペッパー、ダバナ、ネクタリン・リキュール、ベンゾイン、タバコ、バルサムファー、ベチバー、グアイアック・ウッド。[16]
- レーダー 6.9(Leder 6.9) — レーダー6のより濃厚で温かい再解釈版。[16]
加えて、ルームフレグランス(LEDER、BERLINER LINDE、ZEITGEIST)や、3種の香りを自由に組み合わせるトラベルサイズの「Captives(キャプティブ)シリーズ」も展開している。[23][3]
ちなみに…
- ニューヨークの博物館と北京の故宮博物院(紫禁城)には、旧シュヴァルツローゼのフラコンが現在も収蔵されている。紫禁城の所蔵品は、中国最後の皇帝・溥儀のコレクションの一部である。[5][9]
- 「アルトルーイスト」がアート・アンド・オルファクション・アワードの第4回(2017年)独立部門賞を受賞した式典は、ベルリンのSilent Green Kulturquartier(サイレント・グリーン・クルトゥアクァルティエ)で開催された。[20]
- シュヴァルツローゼ・ベルリンは、ドイツデザイン評議会(Rat für Formgebung)の出版物「The Major German Brands(ドイツの主要ブランド)」に掲載された唯一の香水ブランドであるとされる。この出版物はドイツ政府とその在外公館によって国際的に配布され、ドイツのデザイン文化を紹介するものである。[8][3]
- ヘルマンはブランドを「ニッチ香水」ではなく「アーティスティック(芸術的)な香水ブランド」と位置づけている。「私たちは競合他社やトレンドを見ない。自分たちのルーツを見る」というのが、そのスタンスである。[2]
- The Perfume Society「Schwarzlose Berlin – the heritage fragrance house that survived war by being one step ahead」 – https://perfumesociety.org/schwarzlose-berlin-the-heritage-fragrance-house-that-survived-war-by-being-one-step-ahead/
- Elevated Classics Magazine「J.F. Schwarzlose Berlin: The Revival of a German Perfume Legend」(Lutz Herrmannインタビュー) – https://elevated-classics.com/j-f-schwarzlose-berlin-the-revival-of-a-german-perfume-legend/
- Aus Liebe zum Duft「Interview with J.F. Schwarzlose’s founder Lutz Herrmann – How it all began(Part I)」 – https://www.alzd.de/en/2022/11/28/interview-with-j-f-schwarzloses-founder-lutz-herrmann-how-it-all-began/
- Aus Liebe zum Duft「In the interview: J.F. Schwarzlose’s founder Lutz Herrmann(Part II)」 – https://www.alzd.de/en/2022/11/29/in-the-interview-j-f-schwarzloses-founder-lutz-herrmann-part-ii/
- Essencional.com「Schwarzlose Berlin, Surviving through History and Reviving a Sleeping Beauty」(René Dominikインタビュー) – https://www.essencional.com/en/posts/schwarzlose-berlin-surviving-through-history-and-reviving-a-sleeping-beauty/
- MANE公式「Altruist by J.F. Schwarzlose was rewarded by the Art and Olfaction Awards」 – https://www.mane.com/media/altruist-jf-schwarzlose-was-rewarded-art-and-olfaction-awards
- Art and Olfaction Awards公式(受賞リスト) – https://artandolfaction.com/awards/
- J.F. Schwarzlose Berlin公式「The Creators」 – https://schwarzloseberlin.com/en/world-of-schwarzlose/the-creators/
- J.F. Schwarzlose Berlin公式「Short Introduction」 – https://schwarzloseberlin.com/en/short-introduction/
- Wikipedia「J. F. Schwarzlose Söhne」 – https://en.wikipedia.org/wiki/J._F._Schwarzlose_S%C3%B6hne
- J.F. Schwarzlose Berlin公式「1A-33 Eau de Parfum」商品ページ – https://schwarzloseberlin.com/shop/eau-de-parfum/1a-33/


