モスアンドラビット(MOTH and RABBIT PERFUMES) — 映画と香りが交わる瞬間

ブランド創業者

「香りの物語は、映画のシーン、その瞬間に感じた感情を嗅覚に変換したものだ。」
— モス・アンド・ラビット公式サイトより

基本情報

  • 設立年:2016年
  • 創設者:Elke Filpes(エルケ・フィルペス)、Seong Nam Christian Choi Chevalier(ソン・ナム・クリスチャン・チョイ・シュヴァリエ)
  • 本拠地:ベルリン&パリ
  • 公式サイトhttps://www.moth-rabbit.com
  • 調香師:Mark Buxton(マーク・バクストン)
  • 展開国数:世界15カ国のハイエンド・エクスクルーシブネットワーク

創設者・ブランドの成り立ち

Seong Nam Christian Choi Chevalier(ソン・ナム・クリスチャン・チョイ・シュヴァリエ)

モス・アンド・ラビットの共同創設者であり、アーティストとしての肩書きを持つソン・ナム・クリスチャン・チョイは、「東洋と西洋を架橋するアーティスト」として現代的なナラティブを探求していると自身のインスタグラムで紹介している。

彼の個人サイトには、より深い自己開示が綴られている。

「私は双極性障害という診断ではなく、大気の状態として世界を見ている。その状態が色、感覚、そして記憶が身体を通して動く方法を変える。私の作品はこの変化する気候の中から生まれる。」
— Seong Nam Christian Choi、個人サイトより

このような個人の経験が、ブランドの根底にある「変容と感情」というテーマと深く結びついていることがわかる。彼は絵画、映像、そして香りを通じて、「解決されることを拒む感情状態」を探求するアーティストであり、その感性がモス・アンド・ラビットの実験的な方向性に色濃く反映されている。

「モスとラビット——光と闇、感受性と持久力という象徴的な二元性に導かれ、このハウスは香水がいかに知覚を変え、現代的な生活のより深い層を明らかにするかを探求する。」
— Seong Nam Christian Choi、個人サイトより

フォリー・ア・プリュジュールとの分かちがたい過去

モス・アンド・ラビットの物語は、2016年のベルリンから始まる。だがその根を辿ろうとする者は、もう少し時計の針を戻さなければならない──2013年、同じベルリンの街で産声を上げた、もうひとつの異端のパフューマリーへと。

フォリー・ア・プリュジュール(Folie à Plusieurs)。「複数人の狂気」を意味するそのフランス語のブランド名は、19世紀フランスの精神科医シャルル・ラゼーグとジャン=ピエール・ファルレが1877年に記述した「フォリー・ア・ドゥ(Folie à Deux)」──妄想が一人の患者から他者へと伝染し、共有されるという精神医学上の概念──に着想を得ている。

創設者カヤ・ソライーンド(Kaya Sorhaindo)は、カリブ海のアンティグア島に生まれ、ニューヨークのクリエイティブ・エージェンシー「ザ・メタ・プロジェクト」で数々の国際ニッチ誌やルイ・ヴィトンとのアート・コラボレーションを手がけた後、香りの世界へ足を踏み入れた人物だ。

“I came across Folie à Plusieurs, the idea of sharing a madness, and I thought – that’s it. Shared madness. Sharing a madness for perfumery.”
(フォリー・ア・プリュジュールという概念に出会ったとき、これだと思った。狂気を分かち合うこと。香水への狂気を共有すること。)
── カヤ・ソライーンド

ソライーンドが描いた世界はシンプルかつ大胆だった。映画の上映中に、その場面に呼応する香りを空間に漂わせ、観客の五感を一つに溶かし合う──ル・シネマ・オルファクティフ(Le Cinéma Olfactif)と名づけられたこの映画×香水プログラムは、2014年からソーホー・ハウスのベルリン、ロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴの各拠点で展開された。

ミシェル・ゴンドリーの『ムード・インディゴ うたかたの日々』、園子温の『愛のむきだし』、マチュー・カソヴィッツの『憎しみ(La Haine)』、ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』──いずれもアートハウス映画の金字塔に対し、マーク・バクストンが嗅覚的な「応答」を調香した。バクストンはコム デ ギャルソンの初代EDP(1994年)やル ラボのVétiver 46を手がけた反骨の調香師であり、この企てにおける理想的な共犯者だった。

“We never do any revisions. There’s no feedback from our side, so it’s the purest iteration.”
(私たちは一切のリヴィジョンをしない。こちらからのフィードバックもない。だからこそ、最も純粋な反応になる。)
── カヤ・ソライーンド

注目すべきは、この映画シリーズの香りが「映画のための香り」でありながら、同時に「肌にまとえる香水」としても提供されたことだ。12mlのミニボトルとセラミックのアプリケーターを収めた小さな黒い箱──それは上映体験の「記憶箱」として設計され、観る者が映画館を出た後も、あの暗闇の中の感覚を肌の上に呼び戻すための装置だった。

ブランドの誕生と哲学

しかし、2016年前後に転機が訪れる。フォリー・ア・プリュジュールの映画シリーズに携わっていたエルケ・フィルペス(Elke Filpes)とソンナム・クリスチャン・チョイ(Seongnam Christian Choi)──アーティストであり、ベルリンのクリエイティブ・シーンに深く根ざした二人──が、「物語と感情を嗅覚的な製品と体験へと変換する」という大きな野望を抱き、独自のパフューマリーを立ち上げる。それがモス・アンド・ラビット(Moth and Rabbit)だった。

ル・シネマ・オルファクティフで生まれた映画香水の一部──『ムード・インディゴ』、『愛のむきだし』、『ヴァージン・スーサイズ』、『憎しみ』、『エンター・ザ・ボイド』、『ブロウ・アップ』、『ロブスター』など──は、モス・アンド・ラビットのコレクションとして新たな生を受けることになる。調香は変わらずマーク・バクストン。映画を嗅覚に翻訳するという根本の哲学も受け継がれた。

一方のフォリー・ア・プリュジュールは、ソライーンドのもとで消滅するどころか、むしろ拡張を遂げている。映画という一つのメディアに留まらず、村上春樹の文学(『海辺のカフカ』)、サシャ・ワルツのダンス、リー・コロンボの写真、ニューヨーク・ニューミュージアムの建築空間──あらゆる芸術表現に対する嗅覚的応答へとプログラムを広げ、2026年現在、62種を超えるフレグランスを擁するインターメディア・パフューマリーとして活動を続けている。拠点もベルリンからニューヨークへ移した。

しばしば「フォリー・ア・プリュジュールがモス・アンド・ラビットにリブランディングされた」と語られるが、正確ではない。実態は、ひとつの創造的な磁場から二つの独立した星が生まれた、というべきだろう。共有された狂気(Folie)は、文字通り複数(Plusieurs)の道へと分岐したのだ。

モス・アンド・ラビットは、その分岐点において映画という座標軸を選び取り、今日までそこに立ち続けている。蛾(Moth)と兎(Rabbit)──光に引き寄せられる者と、闇に潜む者。その二元性の中に、映画が本来持つ光と影のドラマトゥルギーが、静かに息づいている。

ブランドのこだわり

このブランドが掲げるのは、単なる「いい香り」を超えた意味の創造である。

「モス・アンド・ラビットのすべての仕事は、より深い意味と価値を持つ製品を作ること——それが人間の拡大を助け、私たちの社会と香りそのものへの深い理解へのアクセスを提供することにある。」
— モス・アンド・ラビット公式サイト

このビジョンを実現するために、彼らは伝説的な調香師マーク・バクストンとの協力関係を築いた。映画監督や芸術家といった「類稀なる物語り手たち」の作品がインスピレーションのブリーフとして調香師に提示され、それが嗅覚の言語へと翻訳されるというプロセスが、このブランドの心臓部をなしている。

香りづくりの哲学:映画を嗅ぐ体験

モス・アンド・ラビットが他のニッチパルファムハウスと一線を画す最大の特徴は、各香水が映画作品をインスピレーションの起点としていることだ。映画監督や芸術家の作品が「クリエイティブ・ブリーフ」として調香師に提示され、バクストンはその映画を観たときに抱いた感情を嗅覚の言語へと変換する。

Smell Stories(セレクトショップ)は、そのアプローチをこう表現している。

「映画に戻れる嗅覚の物語——その映像、情景、感情状態へと。」
— Smell Stories

これはいわゆる「映画のライセンス香水」とは根本的に異なる。あのロゴを貼り付けるだけの商業的な製品ではなく、映画という芸術作品の本質的な感情を嗅覚に翻訳しようとするアートハウスのプロジェクトである。

パッケージにも宿る物語

モス・アンド・ラビットのこだわりは、香水の中身だけにとどまらない。成分表示にも独自の物語性が盛り込まれている。通常は無味乾燥な成分リストを「短い言葉遊び」へと変換し、ボトルにプリントすることで、パッケージ自体が視覚的・物語的な物理性を持つ。「以前は退屈で無視されていた成分が、新しい文脈で見れば驚くべきものに変わりうる」——それがこのアプローチの動機である。

ボトルデザイン

ボトルは黒を基調としたミニマルなデザインで統一されており、透け感のある白いプリントで香水名が印字されている。「高級感と皮肉のブランク」とブランド自身が表現するこのデザインは、過剰な装飾を排除することで香りそのものと物語に焦点を絞らせる役割を果たしている。

素材へのこだわり

すべての香水は「入手可能な最高品質の素材」を使用して製造されている。世界15カ国のハイエンド・エクスクルーシブネットワークに限定した販売戦略も、このプレミアムポジションの一部である。

香水ラインナップ

ブラインド・ビジョン・シリーズ(Blind Vision Series)

モス・アンド・ラビットの中核をなすのが「ブラインド・ビジョン・シリーズ」だ。これは通し番号が付された継続中のユニセックス香水シリーズで、それぞれが1本の映画を着想源にしている。現在(2025年時点)、No.1からNo.15まで展開されている。

選ばれる映画は、過去60年間の「もっとも挑戦的な映画」から選ばれており、ミシェル・ゴンドリー、北野武、ラース・フォン・トリアー、ポン・ジュノ、ルカ・グァダニーノ、ヨルゴス・ランティモスといった多様な文化圏と作風の映画監督たちが選ばれている点も興味深い。

以下に主要な香水と着想となった映画を示す:

No.香水名着想映画監督
1MOOD INDIGOうたかたの日々(Mood Indigo)ミシェル・ゴンドリー
2LOVE EXPOSURE愛のむきだし園子温
3DAISIESひなぎくヴェラ・ヒティロヴァ
5LA HAINE憎しみ(La Haine)マチュー・カソヴィッツ
6BLOW UP欲望(Blow-Up)ミケランジェロ・アントニオーニ
7ENTER THE VOIDエンター・ザ・ボイドギャスパー・ノエ
8THE LOBSTERロブスターヨルゴス・ランティモス
10DOLLSDOLLS北野武
11SINGLE MANシングルマントム・フォード
12PARASITEパラサイト 半地下の家族ポン・ジュノ
13MELANCHOLIAメランコリアラース・フォン・トリアー
14THE COLOUR OF POMEGRANATEざくろの色セルゲイ・パラジャーノフ
15I AM LOVEI AM LOVEルカ・グァダニーノ

各香水にみる調香師の言語

マーク・バクストンは、各作品についてのコメントを通じてその翻訳プロセスを明かしている。

No.8 THE LOBSTER(ヨルゴス・ランティモスの2015年のディストピア映画より)について:

「私はこの映画の撮影方法からインスピレーションを得た。登場人物のカップル、風景、森、そして彼らの感情をこの香りで表現した。愛することを制限されながら、恋に落ちる2人。寒さ、風、湿った木、湖、森の中でふたりは心の暖かさを見つけるのです。」
— マーク・バクストン

No.14 THE COLOUR OF POMEGRANATE(セルゲイ・パラジャーノフの1969年の詩的映画より)について:

「白いバラが感覚を通り抜けるように漂う……熟したザクロの味が舌に残る、甘くもほろ苦い、創造的な存在の複雑さの比喩として。」
— マーク・バクストン

No.15 I AM LOVE(ルカ・グァダニーノの映画「I AM LOVE」より、2025年リリース)について:

「見知らぬ人との短い出会い、無邪気に見えるその遭遇が、喜びと深い繋がりの忘れられない瞬間へと導く。イタリアの甘いオレンジ、爽快なジンジャー、シトラットを注入した一口が、完璧に制御されたガラス質の透明な光沢を打ち砕く。大理石とガラスは老いていく。ミラネーゼの春に生命の喜びが花開く。」
— マーク・バクストン

ちなみに…

ブランド名が宿す象徴:「モス(蛾)」と「ラビット(兎)」という組み合わせは、一見不思議に思えるが、深い意味を持っている。蛾は「光に向かって変容する存在」として変容の象徴であり、兎は「再生の象徴」である。この「変容と再生」という原則が、ブランドの香水制作と伝達の方法を規定している。

「モスとラビットという象徴的な二元性——光と闇、感受性と持久力——に導かれ、このハウスは香水がいかに知覚を変え、現代的な生活のより深い層を明らかにするかを探求する。」
— 創設者Seong Nam Christian Choi、個人サイトより

ポン・ジュノの「パラサイト」を香りに:2020年にアカデミー賞作品賞を受賞した「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)は、No.12 PARASTIEとして香りに変換された。社会格差という複雑なテーマを持つこの映画が嗅覚作品として選ばれたことは、このブランドが映画の視覚的な印象だけでなく、社会的・感情的メッセージをも香りに落とし込もうとしていることを示している。

バクストンとクイズ番組の縁:ドイツの伝説的なクイズ番組「Wetten, dass..?」はバクストンを調香師の道に引き込んだが、それから約25年後、同番組のホストであるフランク・エルスナーが別番組で「今週の人物」としてバクストンを取り上げた。バクストンが当時の若かりし映像とともに再び同じ司会者の前に立ったというエピソードは、香りの記憶と同様に人生が思いがけない形で輪を描くことを示している。

  1. MOTH and RABBIT 公式サイト About ページ – https://www.moth-rabbit.com/pages/about
  2. Izabela Corina: “MOTH & RABBIT – The Multisensory Path From Perfume to Cinema” – https://www.izabelacorina.com/post/moth-rabbit-the-multisensory-path-from-perfume-to-cinema
  3. Smell Stories – Moth and Rabbit ブランドページ – https://www.smellstories.be/en/brands/moth-and-rabbit/
  4. Olfactif – “An Interview with Mark Buxton” – https://www.olfactif.com/blogs/blog/11064749-an-interview-with-mark-buxton
  5. Be Primitive – “Fragrances by Mark Buxton” – https://www.beprimitive.com/stories-descriptions/fragrances-by-mark-buxton
  6. Homofaber – Mark Buxton 工芸家プロフィール – https://www.homofaber.com/en/artisans/mark-buxton-zrhcos
  7. Seongnam Christian Choi 公式サイト Introduction – https://www.seongnamchoi.com/new-dropdown
  8. Instagram @choichevalier – https://www.instagram.com/choichevalier/
  9. Aliphatic EU – “The Colour of Pomegranate: Avant-Garde Fragrance” – https://www.aliphatic.eu/scents/the-colour-of-pomegranate
  10. Luckyscent – I Am Love 商品ページ – https://www.luckyscent.com/products/i-am-love-by-moth-and-rabbit
  11. Apodep – “From Film to Perfume: Moth and Rabbit N°12 Parasite” – https://www.apodep.com/blogs/news/from-film-to-perfume-moth-and-rabbit-n-12-parasite
  12. Moskvich Mag – “Аромат недели: Dolls, Moth and Rabbit”(La Folie à PlusieursからMoth and Rabbitへのリブランドに言及)– https://moskvichmag.ru/krasota-i-zdorove/aromat-nedeli-dolls-moth-and-rabbit/
  13. Now Smell This – Folie à Plusieurs(The Lobster、Blow Up)レビュー – https://nstperfume.com/2017/01/09/folie-a-plusieurs-the-lobster-blow-up-fragrance-reviews/
  14. Reddit r/fragrance – Folie à PlusieursからMoth and Rabbitへの言及 – https://www.reddit.com/r/fragrance/comments/1nktxm0/fragrances_that_reminds_you_of_a_certain_film/
  15. Permanente – LA HAINE 商品ページ(マーク・バクストンのコメント)– https://permanente.world/en/products/mar-12005
  16. Now Smell This – “Folie a Plusieurs Mood Indigo” (2014年5月)
  17. The New York Times – “Perfume That Smells Like ‘Checking Into a Fantasy'” (2016年3月)
  18. The Candy Perfume Boy – “Le Cinéma Olfactif – Folie À Plusieurs” (2015年5月)
  19. Neue Luxury – “Folie à Plusieurs”
  20. The Slowdown – “How Folie à Plusieurs Uses Scent to Amplify Emotional Encounters with Art” (2021年7月)
  21. Vogue – “A New Series of Art World Perfumes” (2019年5月)
  22. Persolaise – Live Interview with Kaya Sorhaindo (2020年7月)
  23. Moth and Rabbit 公式サイト – About
  24. Seongnam Christian Choi 公式サイト – Introduction
  25. Izabela Corina – “MOTH&RABBIT – The Multisensory Path From Perfume to Cinema” (2022年5月)
  26. Release Distribution – Moth and Rabbit
  27. Parfumo – Folie à Plusieurs
  28. Parfumo – Moth and Rabbit
この記事を書いた人
Root

香りの学び場「ルシェルシェパルファム」の運営者。
元香水販売員で、現在はとあるIT企業の管理職。
香水への愛が抑えきれず、自身の学んだことをはきだすサイトを作ってしまう。エルメス・フレデリックマルを主に愛用。

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