香水は社会を映す鏡です。私は、その感情を解釈する芸術家なのです。
アルベルト・モリヤス — dsm-firmenich公式人物紹介
ジャスミンの香りに、軽やかな広がりを与えるヘディオン。龍涎香の研究から生まれたアンブロックス。香水の名前よりも、その中で働く素材を通してフィルメニッヒを知っている人もいるだろう。この会社は、香りの成分を解き明かす研究と、それを使って作品をつくる調香師の仕事を結びつけてきた。
1895年にスイス・ジュネーヴで始まったフィルメニッヒは、2023年にDSMと統合し、現在はdsm-firmenichの一部となっている。旧フィルメニッヒの歴史をたどることは、香水の表現が、花や動物由来の素材を研究する科学、製造の工夫、そして作り手の感性によって広がってきた過程を知ることでもある。
基本情報と現在のdsm-firmenich
- 旧フィルメニッヒの創業:1895年11月1日、スイス・ジュネーヴ
- 創業者:化学者フィリップ・シュイ(Philippe Chuit)と実業家マルタン・ネフ(Martin Naef)
- 現在のグループ:dsm-firmenich。オランダのDSMとスイスのFirmenich International SAが2023年5月に統合
- 現在の本社:スイスのカイザーアウグストとオランダのマーストリヒトの二拠点
- 公式サイト:dsm-firmenich
dsm-firmenichはスイスの会社で、ユーロネクスト・アムステルダムに上場している。現在の中核事業は、香りと美容を扱う「Perfumery & Beauty」、食品の味・食感・栄養を扱う「Taste, Texture & Health」、栄養・健康分野の「Health, Nutrition & Care」の三つである。
香水との関係が深いのはPerfumery & Beautyである。香水や日用品の香りを設計する仕事、天然・合成・バイオ技術による香料の開発と供給、美容・ケア製品の成分を扱う仕事がこの事業に集まっている。店頭に並ぶ香水ブランドの背後で、原料の選択肢と香りの処方を支える存在と捉えると、その役割が分かりやすい。
主な歩み
- 1895年 — 11月1日、シュイとネフがジュネーヴでChuit & Naefを創業。シャルル・フィルメニッヒの所有する建物を借りて出発する。
- 1900年 — フレッド・フィルメニッヒが事業に加わる。
- 1902–1903年 — ディアンティーヌを1902年、イラリアを1903年に発売。フランソワ・コティも顧客となる。
- 1925年 — 合成ムスク、エグザルトンの生産が始まる。
- 1934年 — 社名がFirmenich & Cieとなる。
- 1939年 — 研究に協力したレオポルト・ルジチカがノーベル化学賞を受賞。
- 1945年 — フレーバー部門を設立し、食品・飲料の香味へ事業を広げる。
- 1949–1950年 — アンブロックスの発見から構造・合成経路の解明へ。1949年の発見に続き、1950年には構造と合成経路が明らかになる。
- 1958–1962年 — ジャスミン研究からヘディオンが生まれる。ドモルが1958年に合成し、研究成果を1962年に発表。
- 1962年 — アンブロックスを香料として導入。
- 1966年 — エドモン・ルドニツカがディオール「オー ソヴァージュ」にヘディオンを用いる。
- 1968年 — 日本フィルメニッヒを設立。
- 1971年 — ムスコンを発売。
- 1977年 — マヨールを発売。
- 1982年 — ダマセノンを発売。
- 1988年 — クラリセージの供給不足に対応する化学合成経路から、アンブロックスDLを発売。
- 1999年 — ムスセノンを発売。
- 2014年 — アンブロックス スーパーを発売。バイオ技術による香料クリアウッドも登場する。
- 2016年 — アンブロックス スーパーのバイオ技術による生産を商業規模へ拡大。
- 2020年 — Microsoftと協働し、AIを活用した植物性代替肉向けの軽く焼いた牛肉風フレーバーの開発を発表。AIが処方の出発点や原料の組み合わせを提案し、フレーバリストの創作を支える。
- 2021年 — 植物に含まれる水を利用して香気成分を取り出すフィルグッドのコレクションを発表。
- 2023年 — 5月、DSMと統合し、dsm-firmenichが発足。
- 2026年 — 6月、パリで「Flowers Are Watching Us」を披露。新しい分子とフィルグッド、ネイチャープリントを組み合わせた「フルール ド パピエ」を発表する。
ジュネーヴの小さな研究拠点から香料会社へ
シュイとネフの創業、フィルメニッヒ家との結びつき
創業時の名は「Chuit & Naef」であった。シュイとネフは、シャルル・フィルメニッヒの庭の奥にある小さな建物を借りて事業を始めた。
シュイはシャルルの娘テレーズと結婚し、1900年にはその兄フレデリック、通称フレッド・フィルメニッヒが加わった。研究を担う化学者と、販売を担う家族。その結びつきが、のちのフィルメニッヒの形をつくっていく。
初期の香料ディアンティーヌは1902年、イラリアは1903年に発売され、フランソワ・コティも顧客となった。シュイは1910年に持分をフレッドへ売却したが、研究の仕事は続けた。シュイが1931年、ネフが1933年に退き、1934年に社名は「Firmenich & Cie」となった。フィルメニッヒ家の名は、創業の日から付いていたわけではない。
天然の香りを研究し、使える素材にする
有機化学を学んだシュイにとって、天然の香気成分のなかには、入手が難しかったり、製品に使うには高価すぎたりするものがあった。化学合成は、その香りに別の入り口をつくる方法であった。初期に扱った合成バニリンも、そうした取り組みの一つである。
シュイは化学者レオポルト・ルジチカ(Leopold Ružička)と協力し、ムスクの香りを生む分子の研究を進めた。大きな環状構造を持つ分子を扱う研究は、合成ムスクのエグザルトンやエグザルトリドの製造へつながる。公式の年表では1925年にエグザルトンの生産が記録され、ルジチカは1939年にノーベル化学賞を受賞している。
ここで重要なのは、香りを分析できることと、香料として生産できることが別の仕事だという点である。天然物の構造を理解し、つくる方法を見つけ、調香師が使える素材にする。フィルメニッヒの歩みには、この三つを近づける研究が繰り返し現れる。
事業は香水だけにとどまらず、1945年にはフレーバー部門が設けられた。フレーバーとは、食品や飲料の香味を設計する分野である。1968年には日本フィルメニッヒが設立され、香りと味の仕事はジュネーヴから各地へ広がっていった。
ヘディオンとアンブロックスが広げた香水の表現
ジャスミン研究から「オー ソヴァージュ」へ
1950年代後半、エドゥアール・ドモル(Edouard Demole)はジャスミンの香りを研究していた。既知の成分を組み合わせるだけでは、その香りを十分に再現できない。残る成分の構造を探る仕事から、ジャスモン酸メチルと、その関連物質であるヘディオンの研究が進んだ。
ドモルは1958年にヘディオンを合成し、一連の研究成果を1962年に発表した。新しい素材の採用は、すぐに広がったわけではない。ロジェ・フィルメニッヒが社外の調香師にも試料を送り、その一人であるエドモン・ルドニツカは、1966年のディオール「オー ソヴァージュ」に用いた。原料会社で生まれた技術が、別の作り手の判断を通して香水へ届いたのである。
ヘディオン(ジヒドロジャスモン酸メチル)の役割は、ジャスミンの匂いを加えるだけではない。花の香りに存在感と拡散性を与えながら、必ずしも匂いの強さそのものを増すわけではないという性質を持つ。強くすることと、広がりを持たせることは同じではない。この違いが、素材を読む面白さである。
現在のディオールも、オー ソヴァージュのベルガモットと花の香りの構成にヘディオンを挙げている。研究の成果は、発見年だけを覚えるよりも、香水の中でどのような働きを与えられたかを見ると、ぐっと身近になる。
龍涎香の研究から、アンブロックスの生産技術へ
アンブロックスの出発点は、龍涎香(アンバーグリス)の複雑な香りを解き明かす研究であった。1930年代に始まった研究は、1950年の構造・合成経路の解明へ進んだ。初期の合成では、クラリセージから得られるスクラレオールに由来する原料が使われた。
1988年には、クラリセージの供給不足を避けるため、別の化学合成経路による「アンブロックスDL」が登場する。2014年に「アンブロックス スーパー」が発売され、2016年にはバイオ技術による生産が商業規模へ拡大した。
アンブロックス スーパーは、私を最も驚かせた分子の一つです。その比類ない深みから、時代を超える自然な官能性が漂います。
アルベルト・モリヤス — Firmenich「Sharing Innovation Perfumery」2016年
モリヤスの言葉は、この素材を使う調香師の感覚を伝えている。一方、製造側では、原料の確保や工程を変える研究が続いてきた。現在の「アンブロックス スーパー ネオ」は、糖の発酵、生物変換、蒸留を組み合わせて製造される。香りの個性を追う仕事と、その素材を供給し続ける仕事が、ここでも隣り合っている。
アンブロキシドと関連する商品名を知るときは、この関係も押さえておきたい。龍涎香を研究して生まれた素材であることと、天然の龍涎香をそのまま採取して使うことは同じではない。
天然香料の抽出と、調香師の選択
素材自身の水を利用する「フィルグッド」
合成香料の研究で知られるフィルメニッヒは、天然香料の取り出し方も探ってきた。グラースで開発された「フィルグッド(Firgood)」は、植物などの原料に電磁波を作用させ、原料が含む水を温めて香気成分を取り出す技術である。
ですから、水以外の溶媒は必要ありません。その水も、主に原料そのものに由来します。
ソフィー・ラヴォワーヌ、当時の天然香料イノベーション担当ディレクター — Nez、2023年5月18日掲載
2021年に最初に示された素材は、ジンジャー、洋梨、緑のピーマンであった。花だけでなく、果実や野菜も香りの素材になる。加熱の程度を原料の量に合わせて制御し、香りが煮えたり変質したりすることを避けるのも、この技術の要点である。
抽出方法が変われば、得られる香りの側面も変わる。ラヴォワーヌは、バニラの超臨界二酸化炭素抽出ではバニリンが豊富になる一方、フィルグッドでは酸やフェノール、グアイアコールとその関連成分が現れると説明している。超臨界抽出とは、温度と圧力を調整した二酸化炭素を溶媒に使う方法である。同じバニラからでも、異なる香気成分のまとまりを取り出せるのである。
研究を作品へ移すモリヤスとクレスプ
アルベルト・モリヤスは、ジュネーヴの美術学校で学んだ後、1970年にフィルメニッヒへ入社した。そこで学んだのは原料の化学、とりわけ天然の匂いを再構成する仕事であった。芸術への関心と、素材を理解する訓練は、彼の歩みの中で離れたものではない。
「CK One」の制作では、ブランドから渡される指示が何度も変わり、アイスティーのノートを加えることも求められた。処方は、調香師の好みだけで決まるものではない。求められるイメージを読み取り、素材の働きを使って香りへ移す。その試行を支える場所として、香料会社がある。
オリヴィエ・クレスプ(Olivier Cresp)は1992年に旧フィルメニッヒへ入り、2006年にマスターパフューマーとなった。入社から14年後に得た称号である。現在のdsm-firmenichも、彼をマスターパフューマーとして紹介している。
一年に一つのアイデアで十分です。ただし、それが最高のものであれば。
オリヴィエ・クレスプ — dsm-firmenich公式人物紹介
クレスプが制作に携わったミュグレー「エンジェル」は、1992年に登場した。プラリネやキャラメルを思わせる甘さをつくるエチルマルトールと、パチョリの力強さを組み合わせた香水である。甘い原料を増やすだけでなく、甘さがどのような輪郭を持つかを設計する。新しい素材の価値は、調香師がどのような関係を組むかによって作品に現れる。
2026年の「フルール ド パピエ」に見る協働
2026年6月にパリで披露された「Flowers Are Watching Us」は、調香師と現代の芸術家が、花の表現をともに考える企画である。そのための香水「フルール ド パピエ(Fleur de Papier)」は、アマンディーヌ・クレール=マリーとコラリー・スピシェが、紙を使う造形作家ジュニオール・フリッツ・ジャケとの協働でつくった。
題材は、実在する花一種の再現ではなく、想像上の花である。自社で開発し、社内の創作に用いるキャプティブ香料「ヘリオブリス」を軸に、乾燥イランイラン花のフィルグッド抽出物や、宵咲きのプリムローズの香りを捉えたネイチャープリントを組み合わせた。植物から取り出す香り、匂いを捉える技術、新たにつくる分子が、一つの創作の中で出会っている。
フィルメニッヒの仕事を見ると、香水の背景は「天然か合成か」という二択では収まらない。何を取り出し、何をつくり、どう組み合わせるか。その選択を知ることで、花の香りにも、甘い香りにも、原料名の先にある作り手の仕事が見えてくる。
参考文献
- Master Perfumer Alberto Morillas — dsm-firmenich公式人物紹介
- Our history — dsm-firmenich Integrated Annual Report 2025
- Discover Our Story — 旧Firmenichの創業・社名・製品化の年表
- dsm-firmenich at a glance — 現在の会社・本社・三つの事業
- Perfumery & Beauty — 香水・香料・美容事業
- Performance and Sustainability Report 2015 — シュイとルジチカ、合成ムスク研究の背景
- Christian Chapuis「The Chemistry and Creative Legacy of Methyl Jasmonate and Hedione」— Perfumer & Flavorist、2011年12月
- HEDIONE — dsm-firmenich公式香料資料
- Eau Sauvage Eau de Toilette — Dior公式、現行作品とヘディオン
- Sharing Innovation Perfumery 2016 — アンブロックスの研究史とモリヤスの発言
- AMBROX DL — 化学合成経路の開発
- AMBROX SUPER NEO — バイオ技術による現在の製造方法
- Aurélie Dematons「Natural extraction over the next decade by Firmenich」— Nez、2023年5月18日、ソフィー・ラヴォワーヌとグザヴィエ・ブロシェの発言
- Nez à Nez avec Alberto Morillas — The Fragrance Foundation France、2022年7月19日
- Master Perfumer Olivier Cresp — dsm-firmenich公式人物紹介
- Angel Eau de Parfum — Mugler公式、制作者と香りの構成
- Flowers Are Watching Us — dsm-firmenich公式発表、2026年7月6日
- Firmenich Announces the World’s First AI-Created Flavor — 公式発表、2020年10月2日、Microsoftとの協働とフレーバリストを支えるAI
- Ingredients — dsm-firmenich公式、2014年のクリアウッドと2021年のフィルグッド



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