私たちの庭は、香りを楽しむことだけが目的ではありません。
冨田直己、長谷川香料総合研究所(2026年)
川崎にある長谷川香料の総合研究所には、季節ごとに香る植物の庭がある。ジンチョウゲ、サクラ、バラ、クチナシ、キンモクセイ。そこは研究者が花の開き方や時刻による香りの変化を確かめ、調香の手がかりを見つける場所でもある。
長谷川香料(T. Hasegawa)は、食品の風味を作るフレーバーと、香水や化粧品、日用品の香りを作るフレグランスを手がける総合香料メーカーである。始まりは、1903年に日本橋で開いた香料の商店だった。商いで培った原料の知識を製造と研究へ広げ、現在では、植物の香りを調べる人、成分を合成する人、調合する人が協力して、新しい香りを生み出している。
基本情報
- 正式社名:長谷川香料株式会社/T. HASEGAWA CO., LTD.
- 創業:1903年5月、長谷川藤太郎商店として創業
- 創業者:長谷川藤太郎
- 現在の会社の設立:1961年12月。設立者は長谷川正三
- 本社:東京都中央区日本橋本町
- 主な事業:食品香料、香粧品香料、天然抽出エキス、フルーツ加工品、化粧品素材などの研究開発・製造・販売
- 公式サイト:長谷川香料
日本橋の香料商から研究・製造へ
長谷川藤太郎の修業と1903年の創業
長谷川藤太郎は1877年に生まれた。父の藤七は呉服の商いをしていたが、藤太郎が関心を向けたのは化粧品と香料だった。日本橋へ出かけるたびに香料を扱う松沢商店の店先で足を止め、そこで働きたいと考えるようになった。14歳で奉公に入り、12年の修業を経て独立する。1903年5月、日本橋本石町に長谷川藤太郎商店を開いた。
藤太郎は、香料を扱う商人として出発した。石けんや化粧品、バニラの香りを使う食品が広がる時代に、香料の需要も増していった。素材を見きわめ、使う人へ届ける商いが、後の香料メーカーの基礎となった。
1923年にはエッセンスの製造を始める。食品や飲み物へ香りを付けるための製品で、イチゴ、メロン、レモンなどの香りは、かき氷にも使われた。香料を仕入れて売る仕事から、用途に応じた香りを作って供給する仕事へ、商店の役割が広がっていく。
息子・正三と林良四郎による戦後の再建
家業を受け継いだのが、藤太郎の息子、長谷川正三である。正三は初めから香料の仕事に熱中していたわけではない。別の仕事にも挑んだ後、香料を学ぶようになった。夜の調香室で父が集めた試料瓶を開け、一つずつ香りを嗅ぐうちに、調香そのものに魅力を感じていった。商いの継承は、素材を自分の鼻で知り直す過程でもあった。
1945年、商店は空襲で焼失する。その年の秋、正三は三田の母校で旧友の林良四郎と再会し、事業の再建に誘った。11月には呉服橋近くで営業を再開。正三と林に、臨時の従業員と経理担当者を加えた四人の出発だった。
1947年には合成香料の製造を始め、翌1948年には株式会社長谷川藤太郎商店を設立し、川崎工場を開設した。食品香料の販売を進めた。戦後の再建は、店を再び開くことに加えて、自ら香料を作る体制を整える仕事であった。
1961年12月、正三を設立者として長谷川香料株式会社が生まれ、株式会社長谷川藤太郎商店の事業を引き継いだ。1903年の創業、1948年の商店の法人化、1961年の現在の会社の設立は、それぞれ別の節目である。社名に「香料」を掲げる新会社は、商店から製造企業へ発展した姿を明確にするものでもあった。
研究者と生産拠点が支えた発展
製造を伸ばすためには、原料を調合する技だけでなく、必要な成分を作り、分け、精製する技術も要る。1958年には東京大学の桑田勉教授の研究室を借り、小清水茂の協力のもとで、新しい物質や反応、分離方法を研究した。反応・精製装置の改良も進め、1959年には新しい装置の試運転へ進んだ。
1964年に深谷工場を開設して食品香料の製造部門を移し、1969年には合成香料の製造部門を移転する。同年に開設された川崎研究所は、後の総合研究所につながる研究の拠点となった。1977年には香粧品香料の製造も深谷へ集まり、製造の基盤が整う。1984年には板倉工場を開設した。
2009年、川崎に総合研究所が竣工し、研究部門を集約した。現在は技術研究所、フレーバー研究所、フレグランス研究所の三つが連携する。成分の分析・合成や評価の方法を考える人と、食品や香粧品の香りを作る人が、専門を持ちながら成果を共有する体制である。創業者の原料の商いは、研究者と調香師が協働する仕事へ受け継がれている。
国際展開と現在の事業
海外では1978年に米国法人を設立した。中国では1996年に上海の貿易会社、2000年に長谷川香料(上海)有限公司を設け、後者は2001年に本稼働する。2006年に設立した蘇州の会社も、本稼働は2009年である。
現在の海外展開は北米、中国、東南アジアを中心とし、現地の嗜好を踏まえて香りを作る。米国では2024年にABELEIを子会社化し、食品向けのフレーバーの提案力を広げた。2025年11月には、ベトナムで食品香料と食品素材を製造・販売するHoàng Anhの全株式を取得した。これらは食品分野の事業拡大である。
2024年10月には長谷川研治が社長・COOに就任し、会長・CEOの海野隆雄と役割を分担する体制となった。現在の事業は調合香料に加え、コーヒー、茶、バニラなどの天然抽出エキス、フルーツ加工品、化粧品素材にも広がる。香りを付ける技術だけでなく、食品に使う天然色素から不要な香りを除く技術も持つ。
植物の香りを調べ、調合へつなぐ技術
咲いている花を調べるAquaspace法
蒸留した精油と、花のそばに漂う香りは必ずしも同じではない。長谷川香料は、朝もやの中で香りが水分に運ばれる情景に着想を得て、独自の香気捕集方法Aquaspace(アクアスペース)法を開発した。植物の周囲の空間、つまりヘッドスペースへ加湿した空気を送り、花や果実から出る香気を捕集して分析する方法である。
これは香料を大量に採る製造用の蒸留と同じ工程ではない。生きた植物から漂う香りを知り、調香の基礎データを得るための技術である。そのデータとパフューマーの感性を合わせ、咲いている花のような印象を香水、ヘアケア、柔軟剤などへ生かすフレグランスのシリーズがaroma CAPTURE(アロマキャプチャー)である。
総合研究所の庭では、バラの苗を取り寄せて育て、開花した花を評価・分析して、九種類のバラの香りを再現した。切り花にすると変わる香りも、敷地内で栽培すれば、開花の段階や時刻を追って調べられる。庭は、研究のために花が咲く瞬間へ近づける場所なのである。
和菓子の楊枝から始まったクロモジの研究
宮島良子のクロモジ研究は、和菓子を食べたときの小さな経験から始まった。菓子に添えられた楊枝を使うと、口へ運ぶたびに清々しい香りが感じられた。その正体を知りたいという思いから、楊枝、精油、研究所の庭から採った枝を比べていく。
天然物のリアルな香りの魅力を、あらゆる人々に広く届けたい。
宮島良子、長谷川香料総合研究所フレグランス研究所(2024年)
楊枝では内樹皮を削って香りを調べ、新枝では切り口から漂う香気を捕集した。同じ植物でも、加工した木と伸びたばかりの枝では成分のバランスが違う。分析に加えて人の鼻で香りへの寄与を確かめ、楊枝のウッディフローラルと、新枝のみずみずしいウッディグリーンをそれぞれ再構築した。新枝の再現香料はアロマキャプチャーのラインアップへつながった。
宮島は技術研究所、研究企画、マーケティングを経て基礎調香に携わる。身近な道具に感じた香りを、研究と調合を通じて扱える素材へ変える仕事は、香りを知ることと作ることが切り離せない例である。
バラの微量成分を見つける分析と合成
2016年、大橋輝久らはダマスクローズの重要香気成分に関する研究を学会で発表した。花弁から漂う香気を調べ、rotundoneと、ダマセノライド(DAMASCENOLIDE)と名付けた成分の役割を明らかにする研究である。大きな割合で含まれる成分だけをそろえても、生花の香りへ届くとは限らない。わずかな成分が全体の印象を変えることがある。
ダマセノライドの同定では、ローズアブソリュート330グラムから2.8ミリグラムの成分を単離した。構造を調べ、合成したものと比較して確かめる。二つの成分を同時に加えた香気の再構築液は、比較試験で華やかさ、甘さ、天然感などが高まると評価された。ここに、分析と合成の成果が調香の選択肢を増やす具体的な過程がある。
食品香料で生かされる抽出・分析・調香
同じように微量成分を探る研究は食品香料にも生きる。長谷川香料は、食品素材の香気の抽出・分析、合成、調香を組み合わせたハセアロマ(HASEAROMA)の開発で、2015年度の日本農芸化学会の農芸化学技術賞を受賞した。食品加工で失われやすい、本来の素材らしい風味を補うための研究である。
例えばユズの果皮油から、わずかな量でも特徴に強く関わる成分を探り、ユズノン(YUZUNONE)と命名した。天然物との比較によって構造を確かめ、合成方法を整え、調合香料へ生かす。香りを知るだけでなく、使える量で供給することまでが、香料メーカーの仕事である。
食品向けの素材では、水蒸気蒸留、溶剤抽出、分離・精製に加えて、酵素処理、発酵、加熱反応も使う。茶やコーヒーのエキスを得ることと、調理で生じる香りを再現することでは、必要な技術が違う。フレーバリストは、原料の香りだけでなく、飲み物や食品に加えたときの風味を考えて組み立てる。
調香師が製品の中で香りを完成させる
香りの成分表は創作の重要な手がかりだが、そのまま混ぜれば必ず望む香りになるわけではない。分析担当者とパフューマーは、まだ捉えていない成分がないか、量のバランスは適切かを確かめながら、香りを作り直す。試料瓶の中の香料と、シャンプーや柔軟剤に加えた後の香りの広がりも異なるため、最後の製品の状態で評価することが欠かせない。
香りを依頼するメーカーの「花の香り」という言葉も、一つの処方には決まらない。バラでも品種や季節によって印象が異なる。エバリュエーターやマーケターがイメージを具体化し、パフューマーとの間をつなぐ。香りの方向性とともに、基材との相性、安定性、使ったときの印象を確かめて改良を重ねる。
フレグランス研究所の調香師A.S.は、栽培者を訪ねて一泊二日で花の香りを追い、朝・昼・夕方の違いを確かめた経験を語る。午前9時頃の香気を手がかりに、分析担当者と協力し、記憶した生花の香りへ近づける微調整を繰り返した。分析期間を含めると約半年かかったという。この仕事から、数値と嗅覚の両方を使う調香の実際が伝わる。
社内では、入社後に原料と香りの表現を学び、職種を越えて共通の理解を持つ訓練を行う。「明るさを加える」といった言葉を具体的な変更へつなげるための教育である。これは採用された社員の育成であり、一般入学型の調香学校ではない。
ちなみに…留学生奨学財団に受け継がれた願い
正三が残したものには、香料の事業とは別に、アジアの若い世代の育成と交流を支えたいという願いもある。創業100周年に自らの資産を提供して留学生を援助する財団を作りたいと考えていたが、2001年に、その実現を見る前に亡くなった。妻の多美子と会社幹部が遺志を受け継ぎ、2003年10月10日に長谷川留学生奨学財団を設立した。香料会社の社内教育とは別の、留学生の学びを支える活動である。
主な歩み
- 1903年5月:長谷川藤太郎が日本橋で長谷川藤太郎商店を創業。
- 1923年:エッセンスの製造を開始。
- 1945年:空襲で商店が焼失。11月に営業再開。
- 1947年:合成香料の製造を開始。
- 1948年:株式会社長谷川藤太郎商店を設立。川崎工場を開設し、食品香料の販売を展開。
- 1958〜1959年:東京大学の研究室で新物質・反応・分離方法や装置を研究。1959年に新装置を試運転。
- 1961年12月:長谷川香料株式会社を設立。商店の事業を継承し、スパイスフレーバーの研究を開始。
- 1964年:深谷工場を開設。食品香料の製造部門を移す。
- 1969年:川崎研究所を開設。合成香料の製造部門を深谷へ移す。
- 1977年:香粧品香料の製造部門も深谷へ移転。
- 1978年:米国法人を設立。
- 1984年:板倉工場を開設。
- 1994年:技術情報誌HASEGAWA LETTERを創刊。2022年に電子化。
- 2000〜2001年:上海の製造会社を設立し、翌年本稼働。
- 2003年:創業100周年。長谷川留学生奨学財団を設立。
- 2006〜2009年:蘇州の会社を設立し、2009年に本稼働。2009年には川崎の総合研究所が竣工、研究部門を集約。
- 2015年:食品香料ハセアロマの開発に関わる研究で日本農芸化学会の農芸化学技術賞を受賞。
- 2016年:バラの微量重要香気成分に関する研究を学会で発表。
- 2024年:米国でABELEIを子会社化。10月に長谷川研治が社長・COOへ就任。
- 2025年11月:ベトナムのHoàng Anhの全株式を取得。
参考文献
- 冨田直己「ようこそ、香りの庭へ」(2026年)
- 会社概要:創業・設立・事業
- 長谷川藤太郎の修業と創業(上海法人公式の歴史紹介)
- 『長谷川香料八十年史』書誌・概要(渋沢社史データベース)
- エッセンス、家業継承と戦後の再建(上海法人公式の歴史紹介)
- 公式沿革:製造・研究・国内外拠点の歩み
- 法人化、研究と製造体制の整備(上海法人公式の歴史紹介)
- 総合研究所の三研究所と開発体制
- Abelei Flavorsの買収(米国法人公式)
- 経営体制と2025年のベトナム事業取得(会長メッセージ)
- 長谷川研治「香りで より豊かな生活を目指して」(2025年)
- 長谷川香料の事業:天然抽出エキス・調合香料など
- フレグランス分析:Aquaspace法と製品の香気
- aroma CAPTUREの特徴と用途
- 宮島良子「和の香り『クロモジ』」(2024年)
- バラの微量重要香気成分を解明:2016年学会発表の研究資料
- 2015年度農芸化学技術賞受賞とハセアロマ
- 食品香料の抽出・分析・合成・調香とユズノンの研究資料
- 食品加工技術:抽出・酵素処理・発酵・加熱反応
- フレグランスの香気分析を担う社員の仕事
- 若田忠之「香りの創り方―長谷川香料株式会社インタビュー」(2024年、色彩学)
- フレグランス研究所の調香師A.S.の仕事(2026年更新の社員紹介)
- 長谷川留学生奨学財団の設立趣旨



コメント