伝統と質、人気。これらが揃った香水ブランドは世界でも稀有であり、最も有名なブランドは、間違いなくゲラン一択でしょう。そして、ゲランと言えば、かつてゲラン家の血筋、しかも男性しか調香師にしないということで有名でした。例えば、ニッチの先駆けであり、数年前まで香水の博物館オスモテックの2代目調香師という栄誉を受けたパトリシア・ド・ニコライは、4代目専属調香師の姪でありました。しかし、彼女にゲランの調香師役は回ってきませんでした。(この部分は別途考察が必要)
さて、そんなゲランが5代目の調香師に選んだのは、ゲラン家とは全く関係のないティエリー・ワッサーという人物でした。なぜ、ゲランは彼を選んだのか?この記事で考察をしてみたいと思います。(今のところ、何も参考にしていない、完全オリジナル考察です)
ゲランの歴代調香師
考察の前に、まず歴代のゲランの調香師をおさらいしましょう。
- 初代:ピエール=フランソワ・パスカル・ゲラン…1828年にゲランを創業
- 2代目:エメ・ゲラン…パスカルの息子で、1862年に跡を継ぐ。1889年のジッキーが最も有名。
- 3代目:ジャック・ゲラン…エメの甥で、1895年に就任。アプレロンデやルールブルー、ミツコ、シャリマー、夜間飛行と今でも生きる傑作を作り出す。さらには1970年に調香師養成学校イジプカを設立。
- 4代目:ジャン=ポール・ゲラン…ジャックの孫で、1962年に就任。アビルージュやシャマード、ナエマといった香りを調香。
- 5代目:ティエリー・ワッサー…2008年、初めてゲランの血筋以外で専属調香師となる。
さて、これだけ見ると、ジャン=ポール・ゲランには子供がいなかったため、跡を継げる人がいなかったのでは?と思うかもしれません。姪のパトリシア・ド・ニコライはまだ現役で調香できるし、ジャン=ポールには唯一の息子ステファン・ゲラン(Stephane Guerlain)もいます。ただ息子はたしかに調香師ではないので、跡継ぎがいなかったという線もありえます。
しかし、①ティエリー・ワッサーが力を入れているのは過去の名香の維持、②2000年代前後から突然多くの調香師がゲランの香りを創り始めた、③ゲラン秘伝のゲルリナーデがティエリー時代から使われなくなった(はず)、④下記のジャン=ポールの言葉、この4点から別の推測をしたいと思います。それは「偉大なる香水を創ってきた自身の家系に傷をつけたくなかったのではないか?」という線です。
誰かが、私のキャリアの最後に、どの香水が自分の中で傑作か?と尋ねたなら、私はこういうだろう。ベチバー(1961)かナエマ(1979)だ、と。
ジャン=ポール・ゲラン
ゲランとLVMH
ナエマは偉大なるマイケル・エドワーズもゲラン最後の傑作と言い放つ香りである。なぜジャン・ポールはこのようなことを言ったのか?それはLVMHの買収が背景にあるのではないかと考えました。現在では当たり前のようにLVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)グループとして紹介されますが、元々ゲランは家族経営でした。
1987年、LVMHは、香水業界における重鎮ゲランの買収を開始します。当時、M&AをいくつもしていたLVMHはコスメ・香水を強化しようと考えたのかもしれません。買収は94年に完了します。
このとき、専属調香師であったジャン・ポールは、買収されることにより、ゲランの発言権が亡くなり、これまでゲラン家が歴代で築き上げてきたアイデンティティや伝統が失われると感じたのかもしれません。その兆候として、ナエマ(1979年)のときは一切なかったマーケティング戦略が、サムサラ(1989)のときは一転、数千万ドルの広告費用を使用されます。結果、大成功はおさめたものの、ここからゲランは何かを失いはじめたのかもしれません。
ティエリー・ワッサーが専属調香師に就任以降、ゲランの新しい香水にはゲルリナーデが(恐らく)使われていません。ゲルリナーデとは、エメ・ゲランが紡ぎだした隠し味のようなもので、ゲランの香水にはこのゲルリナーデが使われてきました。それが使われなくなったのです。たしかにティエリーはゲラン家ではありませんが、こういうことは考えられないでしょうか?ジャン・ポールは、LVMHに買収されると知るや、ゲルリナーデを自身を最後に封印し、ティエリーのみに伝え、過去の香りたちの維持を至上命令としたのではないか、と。
イジプカ出身の調香師とゲランの調香師
さらに考察をしてみると、面白いことに、90年代後半から作られたアクアアレゴリア、ラールエラマティエールなどの専属調香師以外の調香師が作った作品は、イジプカ出身の学生が多いことに気が付きました。ジャン・ポールは、祖父の作ったイジプカの学生に目をつけ、能力を試しながら、新生ゲランを引き継ぐ者を探していたのではないか?かつての伝統は失われるかもしれないが、できるだけ過去の作品を維持し、新たなゲランを創ることのできる調香師を。
ゲラン家以外の調香師
調香師名 | 経歴 | 作品 |
---|---|---|
デルフィーヌ・ジェルク | GIP→Drom→ゲラン | ラプティットローブノワール(2009)、ラールエラマティエール多数 |
フランシス・クルジャン | イジプカ(1992年卒業)→クエスト社(1993年~)→高砂香料→自身のブランド | ローズバルバル(ラールエラマティエール、2005) |
ベアトリス・ピケ | イジプカ→IFF | ランスタンドゲランプールオム(2004) |
ソニア・コンスタン | イジプカ→ジボダン社 | ティアラミモザ(アクアアレゴリア、2009年) |
クリストフ・レイノー | イジプカ→シムライズ、ドラム、クエスト、ジボダン | Love is all(2005)、My Insolence(2007) |
マリー・サラマーニュ | イジプカ→フィルメニッヒ社(2001年) | マンダリンバジリック(アクアアレゴリア、2007年) |
アニック・メナード | イジプカ→フィルメニッヒ社→クリエイションアロマティック→シムライズ社 | ボワダルメニ(ラールエラマティエール、2006) |
ソフィ・ラべ | イジプカ卒業(1987年)→ジボダン(1987年~)→IFF(1992年~)→フィルメニッヒ(2019年~) | Cologne du 68(2006) |
マチルド・ローラン | イジプカ入学(1992年)→ゲラン(1994年)→カルティエ | パンプルリューヌ(アクアアレゴリア、1999年) |
カリン・デュブルイユ・セレーニ | ジボダンパフューマリー→ドラム→マン | ピヴォワンヌ・マグニフィカ(アクアアレゴリア、2005年) |
オーレリアン・ギシャール | ジボダンパフューマリー→フィルメニッヒ社、ジボダン社 | アニシアベッラ(アクアアレゴリア、2004) |
ティエリー・ワッサー | ジボダンパフューマリースクール→ジボダン社(1987年~)→フィルメニッヒ社(1993年~) | アイリスガナッシュ(ラールエラマティエール、2007) |
ダニエラ・アンドリエ | ジボダンパフューマリースクール→シャネル→ジボダン | アンジェリーク・ノワール(ラールエラマティエール、2005) |
ランダ・ハマーミ | シムライズ社 | ランスタンマジー(2007)、クルーエルガーデニア(ラールエラマティエール、2008) |
フランク・フォルクル | シムライズ社→フィルメニッヒ社 | プレシャスハート(2004) |
モーリス・ルーセル | シャネル→独学→IFF→シムライズ | ランスタンドゲラン(2003年)、Grosellina(アクアアレゴリア、2006年) |
オリヴィエ・ポルジュ | シャラボ→IFF→シャネル | キュイールベルガ(ラールエラマティエール、2005) |
クリスティーヌ・ナジル | フィルメニッヒ社→シムライズ→クエスト(1997)→ジボダン→シムライズフレグランスリソース→エルメス | エリクシールシャルネル(2008) |
オリヴィエ・クレスプ | 独学→クエスト社(1980年)→フィルメニッヒ社(1992年) | シャンゼリゼ(1996) |
オリヴィア・ジャコベッティ | ロベルテ社→独立 | プチゲラン(1994) |
このように、これまでゲランで香水を創ってきた調香師を見てみると、表の20名のうち8名がイジプカ出身であることが分かります。そして、ゲランの名を持たない調香師たちが香水を創っているのは、1994年=LVMHに完全買収された以降であります。
考察
最終的に選ばれたのは、いや、自らその道を選んだのかもしれないが、5代目専属調香師はティエリー・ワッサーとなりました。マチルド・ローラン、マリー・サラマーニュ、ソニア・コンスタン、フランシス・クルジャン、アニック・メナードなどの今や売れっ子調香師が名を連ねる中、なぜティエリーだったのか?マチルド・ローランは現在、カルティエの専属調香師、フランシス・クルジャンはディオールの専属調香師になっているのに、その才を見抜けなかったのでしょうか?
否、ゲランの過去の栄光を維持しながら、マーケティング重視になった香水を、ゲランという偉大なブランド名を背負いながら調香していくことができるのが、彼しかいなかったからだと考えます。実際、ティエリーは、今では、新作の調香よりも過去の名香たちの香りを維持するのに世界を飛び回っているようです。その証拠として、最近の新作はデルフィーヌ・ジェルクが手掛けていることが多いです。
マチルド・ローランらは、ゲランへの憧れと現実とのギャップが埋まらず、マーケティング重視の新しい香りを生み出しながら、過去の名香を維持するのは嫌だったのかもしれません。
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