ジェルメーヌ・セリエ(Germaine Cellier)──革と白い花に、自由を吹き込んだ反骨の調香師

ジェルメーヌ・セリエのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

挑戦は受けます。来てもらいましょう。

ジェルメーヌ・セリエ、1948年の新聞『ランパルシアル』に掲載された発言。オーパルファンによる再録、2022年(日本語訳)

1948年、ジェルメーヌ・セリエは、アルゼンチンの調香師から持ちかけられた嗅覚の勝負に、こんな言葉で応じています。並べた香水の中身と配合を言い当てる、という大胆な挑戦でした。勝敗よりも印象に残るのは、相手を迎え撃とうとする、その迷いのない姿勢です。

革の苦みをむき出しにしたバンディ。青葉が一斉に揺れるようなヴァン・ヴェール。そして、チューベローズの濃密な白を描いたフラカス。セリエの作品には、似通った香りを重ねるのではなく、一作ごとに違う表情を押し出す強さがあります。

男性が中心だった20世紀前半の香水業界で、彼女は化学の知識と大胆な感覚を携え、自分の居場所を築きました。きれいにまとまることよりも、忘れられない存在になること。その生涯と作品をたどると、香水という小さな世界の中に、ずいぶん大きな自由が見えてきます。

調香史

ボルドーに生まれ、化学を学ぶ

セリエは1909年3月26日、フランス・ボルドーのヴォクルール通りに生まれました。フルネームはルイーズ・シャルロット・ジェルメーヌ・セリエ(Louise Charlotte Germaine Cellier)。父ジョルジュは路面電車会社に勤め、母ジャンヌは商業の仕事に就いていました。

家族を紹介する評伝では、父は自由奔放で浪費家、母は現実的で気丈な女性として描かれています。母は家計を支えるため、40代になってからも働きに出たといいます。セリエ自身の華やかさと芯の強さを思わせる家庭の風景ですが、それだけで後年の性格を説明しきれるものでもありません。

香りへの原初的な記憶として伝わっているのは、海辺に咲く小さなナデシコの仲間です。姪でジャーナリストのマルティーヌ・アズライ(Martine Azoulai)は、叔母がマルセイユ近くの丘で嗅いだ「砂地のナデシコ」の香りを思い出し、香水を作りたいと思ったのだと語っています。華麗な花束よりも先に、野に咲く花の、ぴりっとした匂いがあったのでしょう。

学校生活は、ジロンド県のクレオンから、エソンヌ県のサン=マルタン・デタンプへと続きます。1921年に優秀な成績で初等教育を修了し、1924年にはボワ=コロンブのポール・ベール校で補完教育の修了資格を得ました。

その後、パリのシアンティア校(École Scientia)で専門的な勉強に進みます。1925年10月14日に化学助手、翌1926年には細菌学助手の資格を取得。当時はアルジャントゥイユの親元で暮らしていました。のちに直感型の天才として語られるセリエですが、その出発点には、実験室で扱う物質を理解するための、具体的な学びがありました。

香料を売る会社から、香水を作る会社へ

1930年代、セリエはルール・ベルトラン・デュポン(Roure Bertrand Dupont)に入ります。後年、ジボダン(Givaudan)へとつながっていく香料会社です。ジャン・スフィラス(Jean Sfiras)の研究室で、合成香料の蒸留分画の分類などに携わり、香料を組み合わせた基材、いわゆるベースの制作を経験しました。

当時の香水業界では、カロン(Caron)、コティ(Coty)、ウビガン(Houbigant)、ゲラン(Guerlain)といった香水会社が完成した香水を販売し、香料会社は原料やベースを供給するという関係が大きな位置を占めていました。

この関係を広げようとしたのが、ルールの経営者ルイ・アミック(Louis Amic)です。香料会社が完成した香りを作り、クチュリエが自らの名前でそれを送り出す。今日ではごく自然に思える協業を、積極的に育てていきました。

セリエの才能が花開いたのは、この変化のただ中でした。香りを作る技術だけでなく、服を作る人が求める女性像、時代の空気、メゾンの個性を一つの作品にする仕事が、彼女を待っていたのです。

1943年には一度ルールを離れ、コルゲート・パルモリーブ(Colgate-Palmolive)で石けん用の香料を担当します。しかし、この在籍はわずか3か月で終わり、再びルールに戻りました。日用品の香りを作る仕事も経験したうえで、クチュールの香水が、彼女の代表作を生む舞台になっていきます。

バンディと、戦時下の鮮烈な登場

大きな転機となったのは、クチュリエのロベール・ピゲ(Robert Piguet)との出会いでした。ピゲはポール・ポワレのもとで経験を積み、自らのメゾンを開いた人物です。1944年、第二次世界大戦がまだ続いていた時期に、セリエはピゲのためにバンディ(Bandit)を生み出します。

名前は「山賊」や「ならず者」を意味します。その名にふさわしく、香りの中心には、革を思わせる苦く鋭い感触がありました。花をまとった清楚な女性像だけでは収まりきらない、強く、挑発的な作品です。

バンディについては、セリエ自身のこんな言葉が伝えられています。

テーブルの片隅で、5分で。

ジェルメーヌ・セリエ、バンディの制作について伝えられた言葉。ラ・ヴォワ・デュ・パルファン(日本語訳)

完成までの試作をすべて数えた記録というより、本人らしい大胆な回想として残る一言です。迷いなく香りの輪郭をつかむ、その作り手の気風まで伝わってきます。

同じ1944年、週刊誌『セプ・ジュール(7 Jours)』は、セリエが男性から「最高の鼻」の独占を奪う、という趣旨の見出しを掲げました。当時の報道には、クチュリエが香りの秘密を買い取り、自分たちが作ったと名乗る一方、調香師の報酬はその売り上げに比べて大きくない、という指摘もあります。華やかな成功の陰には、作る人の名前と仕事が、必ずしも同じだけ評価されない構造もありました。

ジャン・カールとの衝突、そしてエグザロム

ルールには、もう一人、強い個性を持つ調香師がいました。ジャン・カール(Jean Carles)です。素材を体系的に学ぶ方法を築き、調香教育に大きな足跡を残した人物でした。

一方のセリエは、規則よりも感覚を信じるタイプだったと伝えられています。知識がないのではありません。化学を学んだうえで、知識をどう使うかに、自分なりの判断を強く持っていたのです。

二人の関係は険しく、同僚へのセリエの批評も、遠慮のないものでした。後年の記録には、アミックのもとで行われる会議が、ときに大荒れになったという話も残っています。

1946年、セリエはルールの子会社エグザロム(Exarôme)を任されました。ヌイイ=シュル=セーヌのルーヴレー通りとヴィクトル=ユゴー大通りの角にある邸宅が、創作の拠点となります。カールと場所を分けることも、この環境が用意された理由でした。

会社から独立して自分のブランドを始めたわけではありません。ルールの枠組みの中で、助手たちとともに、自分のペースを保てる制作の場を得たのです。ここから、1940年代後半から60年代にかけての作品が次々に生まれていきます。

短い処方で、大きな色を描く

セリエの香水を理解する鍵の一つが、香料の大胆な使い方です。素材を一つずつおとなしく並べるのではなく、ある香りを強く押し出し、それまでとは違う印象を作る。しばしば「過剰使用」と訳されるオーバードーズの発想です。

調香師のピエール・ブルドン(Pierre Bourdon)は、その表現を絵画になぞらえています。

コティがキュビスムによって現代香水の基礎を築いたのだとしたら、セリエはフォーヴィスムを体現しました。

ピエール・ブルドン、マルティーヌ・アズライによる人物評に収録。オーパルファンによる再録、2022年(日本語訳)

フォーヴィスムは、鮮やかな色彩と自由な表現で知られる絵画の運動です。ブルドンが見たのは、セリエの香りが持つ、くっきりとした構造と表情の強さでした。

香水評論家のマーク・ベーンケ(Mark Behnke)も、カールとセリエの違いを音楽にたとえています。カールは個々の音が明瞭なジャズ、セリエは音が厚く重なって迫ってくるフィル・スペクターの音作りに近い、という比較です。これは批評家による見立てですが、二人の香水を聴き比べるように嗅ぐ、という楽しみ方を教えてくれます。

短い処方を好んだと評されるセリエが、単純な香りを作ったわけではありません。当時のベースは、それ自体が複数の香料から成り立っていました。処方箋の項目が少ないことと、香りの中で働く成分が少ないことは、同じではないのです。

バンディ──革の苦みに潜む美しさ

バンディの革らしさを支える重要な素材が、イソブチルキノリン(isobutyl quinoline)です。青さ、苦み、動物的な革の感触を持つ合成香料で、使い方によって香り全体の印象を大きく変えます。

当時の配合について、1%と記す資料もあれば、2.5%とする香水史の記事もあります。数字には幅がありますが、この素材を目立つ量で使い、レザーシプレの鋭い個性を作ったことは、多くの解説に共通しています。

花の柔らかさに、革の苦みと暗い奥行きが重なります。ギー・ロベール(Guy Robert)が「美しいが容赦がない」と評したと伝えられるのも、この、惹きつけながら簡単には近づかせない感触ゆえでしょう。

発表時のショーには、マスクを着け、ナイフやおもちゃの拳銃を携えたモデルが登場したといわれています。さらに、舞台裏でセリエがモデルたちの下着の匂いに着想を得た、という有名な逸話もあります。こちらは、後年の香水評に繰り返し登場する制作伝説です。バンディを、単なる革の再現ではなく、人の身体や既存の女性像への挑戦と結びつけて受け止めてきた歴史を物語っています。

同性愛の女性たちとの結びつきも、その受容史の一部です。ただし、香水がどう受け取られたかと、作り手本人の私生活は別のもの。作品の大胆さは、セリエの性的指向を推測しなくても、十分に伝わります。

ヴァン・ヴェール──青葉を主役にした「緑の風」

1947年、ピエール・バルマン(Pierre Balmain)のために生まれたのが、ヴァン・ヴェール(Vent Vert)です。名前は「緑の風」。その名のとおり、植物の青さが前面に広がる、グリーン系香水の先駆的な作品となりました。

中心となったのはガルバナム(galbanum)。セリ科の植物から得られる樹脂系の香料で、茎を折ったときや葉をもんだときのような、鋭い青さを持ちます。香水史の解説では、このガルバナムが8%という大胆な比率で使われたとされています。

花の香りを補う背景だった緑が、主役として風を起こす。青草、つぼみ、湿り気を帯びた葉を思わせる印象に、花の輪郭が重なります。バンディの暗い革とは違う方向に、セリエの強さが開いた作品でした。

ルネ・グリュオ(René Gruau)のイラストとともに語られることも多く、緑のフェルトの袋を用いた装いには、セリエ自身の提案があったと伝えられています。香りの中の緑と、目に見える緑をつなぐ、クチュールらしい発想です。

ヴァン・ヴェールは、その後、処方の見直しを重ねています。かつて使われたベースの一部が入手できなくなったことも背景にあり、1991年版はカリス・ベッカー(Calice Becker)、1999年の改訂はナタリー・フェイステュアー(Nathalie Feisthauer)によるものとされています。時代ごとに姿を変えながらも、植物の青さを大胆に見せた原作は、グリーンの香りを語るうえで大きな参照点となっています。

フラカス──チューベローズを忘れられない花に

1948年のフラカス(Fracas)は、ロベール・ピゲのために作られたチューベローズの香水です。名前には、騒音、激しい音、騒ぎといった意味があります。繊細な花を静かに差し出すというより、白い花がその場の空気を変えてしまうような存在です。

セリエはこの作品を、女優のエドヴィージュ・フイエール(Edwige Feuillère)に捧げたと伝えられています。1935年の映画『ルクレツィア・ボルジア』での大胆な登場も知られる女優でした。

チューベローズは、甘く華やかなだけの花ではありません。乳のようなまろやかさ、青さ、熟した果実や人の肌を思わせる濃密さが同居します。フラカスは、そうした複雑さを、オレンジブロッサムやジャスミン、アイリス、バイオレットリーフなどの香りとともに膨らませました。

チャンドラー・バー(Chandler Burr)の解説では、インドのチューベローズ、チュニジアのオレンジブロッサム、フランスのジャスミン、イタリアのアイリスといった素材に加え、シベットを思わせる動物的な要素や、乳白色の質感を作る合成香料の役割が紹介されています。

また、オーパルファンの香水史では、桃を思わせるC-14やココナッツを思わせるC-18といったラクトン類の大胆な使い方にも注目しています。花を花だけで作るのではなく、果実や乳、肌を連想させる質感で、その存在感を厚くしていくのです。

フレデリック・マル(Frédéric Malle)は、自身のブランドでチューベローズの香水を手がけるにあたり、その大きな影響をこう表現しました。

チューベローズの香水を作る人は誰もが、その古典であるフラカスを模倣しようとしているのです。

フレデリック・マル、『ウィメンズ・ウェア・デイリー』、2005年9月30日。ナウ・スメル・ディスによる再録、2006年(日本語訳)

もちろん、後に作られたチューベローズの香水が、すべて同じ香りという意味ではありません。新しい一本を考えるとき、まず向き合うことになるほど、フラカスの存在が大きかったという言葉です。

バーは『ニューヨーク・タイムズ』の批評でフラカスに5つ星を与え、個性、肌への持続性、周囲への広がりを高く評価しました。マドンナ(Madonna)やソフィア・コッポラ(Sofia Coppola)、イザベラ・ブロウ(Isabella Blow)らの名前も、愛用者として香水史の記事に登場します。香りそのものが、着る人の人物像まで想像させる一本なのです。

販売と処方の歴史は一続きではなく、1999年には、当時ピゲの香水を所有していたファッション・フレグランシズ&コスメティクス(Fashion Fragrances & Cosmetics)が、フラカスとバンディの再構成版を発売しています。2008年のバーの記事では、新しい版を担当する調香師としてオーレリアン・ギシャール(Aurélien Guichard)が紹介されました。セリエの作品は、後の調香師たちによる継承の仕事を通じても生き続けています。

ジョリー・マダムと、バルマンの女性像

1953年、バルマンからジョリー・マダム(Jolie Madame)が登場します。バンディにも通じるレザーシプレの輪郭を持ちながら、スミレの香りが、より柔らかく、装いの整った表情を作る作品です。

革の奥に、イオノン系の香料がもたらすスミレの感触が重なります。ほのかな煙草を思わせる深みもあり、花と革が互いを引き立てる構成です。ボワ・ド・ジャスマン(Bois de Jasmin)のヴィクトリア・フロロヴァ(Victoria Frolova)は、バンディの魅力的な妹を思わせる香りとして評しています。

ピエール・バルマン自身の言葉も、その女性像をよく伝えています。

情熱と魅惑の夜のための、冒険の香り。

ピエール・バルマン、ジョリー・マダムについて。ラ・ヴォワ・デュ・パルファンに収録(日本語訳)

セリエとバルマンの関係は、この一本だけにとどまりません。1946年のエリゼ64-83(Élysées 64-83)はメゾンの電話番号にちなみ、毛皮のような感触を持つ初期作として知られています。1951年のオー・ド・ヴェルヴェーヌ・シトロネル(Eau de verveine citronnelle)は、ヴェルヴェーヌを大胆に用いた爽やかな作品で、1964年のムッシュ・バルマン(Monsieur Balmain)へとつながりました。

そして1967年には、ミス・バルマン(Miss Balmain)。セリエは一つのメゾンのために、革、青葉、ハーブ、花と、異なる表情の香りを長年にわたって作り続けたのです。

ニナ・リッチ(Nina Ricci)の最初の香水、1946年のクール・ジョワ(Cœur Joie)も彼女の仕事です。香りを包むクリスタルのボトルは、ルネ・ラリックの息子マルク・ラリック(Marc Lalique)が手がけました。バレンシアガ(Balenciaga)の1949年のラ・フュイット・デ・ズール(La Fuite des Heures)では、ハーブとジャスミンを組み合わせています。大胆な革とチューベローズだけで、彼女の仕事の幅を測ることはできません。

芸術家たちに囲まれた、もう一つの暮らし

セリエの人生には、実験室の外にも豊かな人のつながりがありました。作家のジャン・コクトー(Jean Cocteau)、俳優のフランソワ・ペリエ(François Périer)、女優のマリア・カザレス(Maria Casarès)らと交流し、画家のアンドレ・ドラン(André Derain)のモデルにもなっています。

女優ヨランド・ラフォン(Yolande Laffon)と、その夫で『ル・フィガロ(Le Figaro)』の局長を務めたピエール・ブリッソン(Pierre Brisson)も、その交友圏にいました。画家でジャーナリストのジャン・オベルレ(Jean Oberlé)とは親しく、彼を通じて、のちに長い時間を共にするクリスチャン・ブスー(Christian Boussus)と出会います。

ブスーは、1920年代から30年代に活躍したフランスの左利きのテニス選手です。デビスカップのフランス代表にも名を連ねました。セリエとは結婚しませんでしたが、約30年間生活を共にしたと伝えられています。1955年には、二人でパリのボッカドール通り8番地へ移りました。

服装はエレガントでした。バルマンのスーツ、毛皮、大きな指輪、友人ローズ・ヴァロワ(Rose Valois)の帽子。一方で、ゴーロワーズ(Gauloises)を吸い、ジョニー・ウォーカー(Johnnie Walker)を飲み、会話には俗語も交じりました。見た目の洗練と、物おじしない言葉遣いが同居していたのです。

パッケージデザイナーのピエール・ディナン(Pierre Dinand)は、セリエをこう記憶しています。

エレガントで手強い、シャネルのような人でした。

ピエール・ディナン、ボワ・ド・ジャスマンの記事に寄せた本人名義のコメント、2013年3月8日(日本語訳)

風刺紙『ル・カナール・アンシェネ(Le Canard enchaîné)』を読み、ラジオのウーロップ1(Europe 1)を聴く。犬をかわいがり、ヌイイの市場を歩く。長毛のダックスフンドにはクレオパトル、フェリックス、ヴァランタンという名前があり、オウムも飼っていたといいます。市場では、堂々とした姿から貴婦人のような呼び名で親しまれました。

休暇にはピラへ出かけ、カード遊び、ペタンク、ミニゴルフを楽しみました。友人が欲しがるものを探し、気前よく贈り物をする一面も伝わっています。激しい言葉や同僚との衝突だけで人物像を塗りつぶすには、ずいぶん生活の彩りが豊かな人です。

自由な言葉と、残された香り

セリエは1976年6月12日、クリシーのボジョン病院で肺水腫により亡くなりました。67歳でした。ポーで両親と同じ墓に埋葬されています。

彼女を、歴史上初めての女性調香師とすることはできません。それでも、男性が多数を占めていた業界で、作品と名前の両方を広く知られるようになった、重要な先駆者の一人であることは確かです。

調香師のジャニーヌ・モンジャン(Jeannine Mongin)は、セリエの自由をこんな言葉で表しました。

私生活も自由でした。それは当時としては珍しいことでした。そして考え方も自由でした。それは、もっと珍しいことでした。

ジャニーヌ・モンジャン、オスモテークでの講演についての記録。ラ・ヴォワ・デュ・パルファンによる引用(日本語訳)

その生涯は、2023年刊行のバンド・デシネ『ジェルメーヌ・セリエ──ある調香師の大胆さ(Germaine Cellier – L’audace d’une parfumeuse)』でも描かれました。ベアトリス・エジェマール(Béatrice Égémar)が脚本、サンドリーヌ・ルヴェル(Sandrine Revel)が作画を担当した作品です。彼女の名を掲げる香水店サント・セリエ(Sainte Cellier)のように、後世の香りの世界で、その存在を受け継ごうとする試みもあります。

バンディの革と、ヴァン・ヴェールの緑と、フラカスの白い花。まったく違う素材を選びながら、そこには、香りを小さくまとめないという共通した姿勢があります。セリエが残した自由は、人物伝の中だけにあるのではありません。その作品を嗅ぐとき、私たちはいまも、その強い輪郭に触れることができるのです。

調香作品

作品名は初出時に原語を併記しています。年は原作の発表年を基本とし、再発売・再調香された版は備考で区別しています。

年 ブランド 作品 備考
1943 コルゲート・パルモリーブ 石けん用香料(名称不明) 約3か月の在籍時に担当。個別の商品名は不詳。
1944 ロベール・ピゲ バンディ イソブチルキノリンの革らしさを押し出したレザーシプレ。
1945 ロベール・ピゲ ヴィザ(Visa) 原作の発表年には1946年、1947年とする資料もあります。後年の再調香版とは区別。
1946 ピエール・バルマン エリゼ64-83 メゾンの電話番号に由来する作品名。
1946 ニナ・リッチ クール・ジョワ ブランド初の香水。ボトルはマルク・ラリック。
1947 ピエール・バルマン ヴァン・ヴェール ガルバナムを大胆に用いた、グリーン系香水の先駆作。
1948 ロベール・ピゲ フラカス チューベローズを主題にした代表作。
1949 バレンシアガ ラ・フュイット・デ・ズール ハーブとジャスミンを組み合わせた作品。
1951 ピエール・バルマン オー・ド・ヴェルヴェーヌ・シトロネル ヴェルヴェーヌを高比率で用い、のちのムッシュ・バルマンへつながります。
1952 ニナ・リッチ フィーユ・デーヴ(Fille d’Ève) セリエ作とする資料がある一方、ジャック・ベルシア(Jacques Bercia)とミシェル・イ(Michel Hy)に帰属する資料もあります。
1953 ピエール・バルマン ジョリー・マダム スミレと革の表情を重ねたレザーシプレ。
1950年代とされる エルメス(Hermès) オー・デルブ(Eau d’Herbes) 香水史資料に記載。発表年や詳細は不詳。
1950〜60年代とされる エリザベス・アーデン(Elizabeth Arden) 複数作品(名称不明) アメリカ市場向けの仕事が伝えられています。
1963 ロベール・ピゲ クラヴァッシュ(Cravache) 木質的な男性用香水。後年の再調香版とは区別。
1964 ピエール・バルマン ムッシュ・バルマン 柑橘とハーブの爽快さを持つ男性用香水。
1967 ピエール・バルマン ミス・バルマン 後期の主要作。

参考文献