「私がこの香水を作り続けるのは、父の詩を生きつづけさせるためです。彼の言葉は、今も私が創る香りの中で息をしています。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ(パルファン・ドゥシタ創業者・調香師)
基本情報
設立年: 2016年
創設者: ピサラ・プロイ・ウマヴィジャニ(Pissara “Ploi” Umavijani)
公式サイト: parfumsdusita.com
創設者・ブランドの成り立ち
バンコクの「詩と庭」で育った少女
1990年代、バンコク。知性と芸術が満ちた家庭に、ひとりの少女が生まれた。父・モントリー・ウマヴィジャニ(Montri Umavijani、1941–2006)は、タイ最高峰の英文学者・詩人であった。英語・フランス語・ドイツ語に通じ、フルブライト奨学生として海外に学び、英語比較文学の修士・博士号を取得し、タイの大学で英文学を教えながら詩を書き続けた人物である。その詩風は日本の俳句にも似た、最小の言葉に最大の深みを込めるスタイルだったという。
「父は常にノートを手放さず、旅先での印象、出会った人々、心に響いた一瞬を言葉に刻んでいました。書くことへの情熱は、彼の生涯を貫く一本の軸でした。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
幼いピサラが育った家の庭には、ジャスミン、シャンパカ、フランジパニが咲き乱れていた。父がパリから持ち帰ったゲランのミツコや「ユー・ソバージュ」のボトルがいくつも並ぶ家で、香りは「日常の一部」であった。
父の詩、そしてパリの香水への憧れが、ピサラの内に芽吹いていった。「父の旅の話と詩が、私をいつかフランスへと夢見させた」。
バンコクでコミュニケーション・社会心理学を学んだのちに修士号を取得し、医学部でマーケティングの仕事に就いた時期もあった。しかし、学者の家系に生まれながら(母も哲学科の教授、兄も叔母も教授という環境だった)、彼女が選んだのは全く別の道だった。
喪失と誓い—父の死がすべての出発点
2006年、父・モントリーが逝去した。享年65歳。亡くなる前日、父はピサラを呼んで自分が書いた本を書き留めてほしいと頼んだ。その数は20冊以上に上った。
「一生懸命に働いて、もし世界にたった一人でもその仕事を評価してくれる人がいるなら、それで満足して死ねる」と、父は涙をこらえながら言いました。
— ピサラが父の言葉を回想して
父の詩集を手に取るたびに、ピサラは「まるで自分に向けて書かれたもの」という感覚に包まれた。「父の詩を生き返らせ、世界の人々に読んでもらう」という誓いを立てた。しかし、どうやって実現するかはまだ分からなかった。
答えは、意外な形でやってくる。
パリへ—「ジョヴォワ」との運命的な出会い
父の死後、ピサラはヴィンテージ香水のコレクターとして本格的に活動を深め、タイ在住の友人とともに自分たちで香料を取り寄せ、独学で調香を始めた。
「とにかく香りのマジックを解き明かしたくて、ふたりで調香素材を取り寄せ、嗅ぎ比べ、割合を探り、試行錯誤を繰り返しました。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
2011年、パリへ。ファッション学校「ESMOD」に入学するためだった。当時、正式な調香学校に国際プログラムはなく、EMSODで学びながら、独自に調香プロジェクトを続けた。
パリで彼女が通い詰めたのが、高名なニッチ香水店「ジョヴォワ(Jovoy)」だった。什器の隅々まで眺め、時間を忘れてボトルを嗅ぎ続けた。そのうち、創業者のフランソワ・エナン(François Hénin)と知り合った。
「エナン氏に会って、自分が作っているものを持ってきてほしいと言われました。彼に背中を押されて、自分のブランドを立ち上げることを決意したのです。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
ピサラはタイに戻り、ブランド立ち上げを目指した。しかし「3ヶ月で戻れる」と思っていた計画は、3年がかりの作業になった。最初の3作品―イッサラ(Issara)、メロディ・ドゥ・ラムール(Mélodie de l’Amour)、ウード・アンフィニ(Oudh Infini)―の概念を、それぞれ父の詩にある「自由」「愛」「旅」に重ねながら、丁寧に磨き上げていった。
師との出会い:シャンタル・ルースからの言葉
EMSODを卒業後に通ったラグジュアリーマネジメントの学校で、ピサラは業界の生きた伝説に出会った。「オピウム」「イヴ・サンローラン」など数々の名香を世に出した立役者として名高いシャンタル・ルース(Chantal Roos)が講義に来たのである。
「シャンタルは私に言いました。『信じてくれない人たちの声は無視しなさい。ただ夢に従いなさい』と。オピウム発売時の批判にも彼女は揺らがなかった。その姿に、どれほど勇気をもらったか分かりません。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
ルースはブランドの「ピラー(支柱)」——語るべき物語、最高品質の原料、細部への注意——を持つ重要性を説いた。ピサラは講義後に個人的にアドバイスを求め、以降、ルースは彼女にとって精神的な師となった。
ブランドの誕生:2016年、パリのジョヴォワにて
2016年、パルファン・ドゥシタは正式にデビューを果たした。場所は、かつてピサラが時間を忘れて香りに浸ったあのジョヴォワ、パリのカスティリオーニュ通り4番地である。3つの作品が並んだ棚の前で、ニッチ香水の世界は新しい声を聞いた。
「ドゥシタ(Dusita)」という言葉は、タイ語で「天上の楽園」「至福の境地」を意味する。単なる地名ではなく、状態を指す言葉だ。
「ドゥシタとは、今この瞬間に自分の内面で生きることのできる楽園です。情熱と喜びがある場所、それがドゥシタです。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
2018年にはパリ1区サン・トノレ通りほど近くの「ラ・スルディエール通り11番地」に自社ブティックをオープン。2022年にはアトリエ・ドゥシタ(Atelier Dusita)として調香ワークショップも開始した。
ブランドのこだわり
調香哲学:詩を香りに翻訳する
ドゥシタの香りはすべて、モントリーの詩を「着想源」とする。ただし、詩の内容を文字通り再現するのではなく、詩が喚起する「感情の色彩」を香りに変換する作業だとピサラは語る。
「詩と香りはよく似ています。どちらも目に見えない。手で掴むことができない。でも、どちらもあなたの心を変えることができる。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
各作品には、インスピレーションとなった父の詩の一節が添えられる。詩を選ぶ作業は、香りが完成してから「この感触に呼応する言葉はどれか」と父の詩集をめくる作業であり、時に詩の方が先行して香りの設計が始まることもある。それは「マーケティングの選択ではなく、娘が父に答える行為」だとピサラは言う。
また、ピサラはすべての香りに合わせて自ら水彩画のイラストを描く。香りの情景と詩の世界を視覚的に表現したこのイラストが、各フレグランスに同封される。「香り・詩・絵画」の三位一体が、ドゥシタの世界観の核心をなす。
素材へのこだわり:グラースの調香師とともに
ドゥシタの香りはすべて、フランス・グラース近郊の「アコールド・エ・パルファン(Accords & Parfums)」社で製造される。ピサラが自ら調合したフォーミュラを同社に委ねる形をとっており、初めて同社の工場から自分のフォーミュラが返ってきた時、「タイで自分が作ったものとはほぼ別物だった」と驚いたほど、プロの手仕事と使用する原料の質が大きく異なることを実感したという。
好んで使う素材としてピサラは、グラース産の5月のバラ(ローズ・ド・メ)、インド産ジャスミン・サンバック、カラブリア産ベルガモット、インドネシア産パチョリ、ハイチ産ベチバー、フランス産アイリスバター、マダガスカル産バニラを挙げる。
なお、すべてのドゥシタ香水は動物実験を行わないクルエルティフリー(cruelty-free)かつヴィーガン仕様であり、倫理的調達・責任ある生産にコミットしている。
タイのエレガンスとフランスの精緻が溶け合う香り
ドゥシタの独自性は、「古典的フランス香水の洗練」と「タイの伝統的な芳香文化」の統合にある。タイでは何百年にもわたって、儀式のたびにバラ、ジャスミン、ベンゾイン、蜜蝋、白檀などの天然香料が使われてきた。
「タイでは、香りは生活から切り離されていません。ジャスミンの花輪、水に浮かぶ花びら、寺院の線香の煙。誰も『嗅覚教育』とは呼ばなかったけれど、あれがすべての始まりだったのです。」
— ピサラ・ウマヴィジャニ
ピサラ自身の言葉を借りれば、「タイが感情と温かさを与え、パリが洗練と規律を与えた。ドゥシタはその交差点から生まれた」。
香水ラインナップ
最初期の3作品(2016年デビュー時)
- イッサラ(Issara) — ドゥシタ最初の香水。「自由」をテーマにしたネオ・フゼア(fougère:シダを基調とした香りの分類)で、松、クラリセージ、オークモス、ベチバーなど自然の素材を中心に、南タイの森林の解放感を表現。父の詩「かつて木が立っていたところ/今は古い雨の避難所がある」を着想源とする。
- メロディ・ドゥ・ラムール(Mélodie de l’Amour) — 父の詩「あなたへの想いは/空っぽの部屋に咲く花のよう」に触発された白い花の香り。ガーデニア、チュベローズ、ジャスミンに白檀と白樺を組み合わせた。エドワード・エルガーの「愛の挨拶」にちなんだ名前。2017年のアート&オルファクション・アワードでフレグランス・オブ・ザ・イヤーを受賞。
- ウード・アンフィニ(Oudh Infini) — 「旅」をテーマとした、シベット、バルサミックノート、ウード、ローズ・ド・メを配した深みのある1本。のちにブランドの成熟とともに生産が終了した。
躍進を告げた作品群
- エラワン(Erawan) — タイ・ヒンドゥー神話の象の神「エラワン」と同名の自然公園にインスパイアされたグリーン・フゼア。2018年のFiFiアワードでブレイクスルー・フレグランス・オブ・ザ・イヤーを受賞。日本では2023年の上陸時から根強い人気を誇る。
- フルール・ドゥ・ラリタ(Fleur de Lalita) — 2018年作。フローラル系の「爆弾」とも呼ばれる、強烈な花の香り。ピサラのベストセラー作品のひとつ。
- ル・パヴィヨン・ドール(Le Pavillon d’Or) — 台湾の日月潭、フランスのゲルレダン湖、タイのアイサワン離宮にある水上パビリオンへのオマージュ。メンタ・シトラータ、フィグリーフ、フランキンセンス、タイム、アイリスバターという類を見ない組み合わせ。2019年のモスクワFiFiアワード・ニッチ顧客選択賞受賞。
詩人の父へ直接捧げた1本
- モントリ(Montri) — 創業者の父・モントリー・ウマヴィジャニを直接表現した香り。ウード・パラオ、アイリスバター、スパイス、ローズ、レザー、タバコ、高貴な木材を組み合わせ、「父が旅したネパールやインドのスパイスの香りも含まれる」とピサラは語る。2022年FiFiアワード・セレブリティ賞受賞。
感情の旅が続く近年の作品
- ムーンライト・イン・チェンマイ(Moonlight in Chiangmai) — ゆずと白グレープフルーツの爽やかな開幕から、夜に咲くジャスミン、ミルラ、ベンゾイン、タイのチーク材へとたゆたう。2023年のグローバルベストセラー作品。
- スプレンディリス(Splendiris) — 2018年に発表した名称公募コンテストで生まれた香名。アイリスバターを核に据えた多層的な香り。フラグランティカとの協力で2,200人以上が参加し、10万個以上のサンプルが配布されたという、ファン参加型のプロジェクトとして知られる。
- ロザリーヌ(Rosarine) — パリのバガテル公園のバラ園を訪れた日の感動に触発された、5月のバラを中心とした多面的な香り。2023年のベスト・パルファン受賞作。
- ペラゴス(Pelagos) — ギリシャ語で「海」を意味する作品。妊娠中にも取り組み続け、出産後2週間で完成した。水中を感じさせながら、伝統的な海洋系素材(カロン)を使わない独自のアプローチが話題となった。
ちなみに…
- 「ドゥシタ」という言葉は、父・モントリーが自ら詩に書き記した言葉でもある。「死ぬとき、私はドゥシタにいたい」という一節が残されており、娘がブランド名に選んだのは、その言葉への返答でもあった。
- ピサラが2011年にパリ初訪問した際、セーヌ川沿いを歩いていると、父が愛したものと同じ古いローファーを履いた男性を見かけた。反射的に後をつけながら、涙が止まらなかったと振り返っている。「もし父が生きていたら、パリのどこを案内してくれただろう」と。
- ブランドのベストセラー「メロディ・ドゥ・ラムール」は、天然由来原料を91%使用している。「ラ・ラプソディ・ノワール(La Rhapsodie Noire)」は85%が天然由来原料。
- ピサラは調香に加えて、各香水に付随する水彩画イラストも自ら描く。将来的にはそのアートワークを陶器などに応用することも構想しているという。
- ドゥシタはブティックに来客があると、飲み物を勧め、急かさず、座ってゆっくり語り合う雰囲気を大切にしている。これはタイ文化に根ざした「ホスピタリティ(おもてなし)」の精神に基づいている。
- Parfums Dusita 公式サイト「Our Universe」 – https://www.parfumsdusita.com/dusita-universe
- PlezuroMag インタビュー記事「Pissara Umavijani: Creating Happiness Through Perfumes」 – https://plezuromag.com/interviews/pissara-umavijani-creating-happiness-through-perfumes
- Nez magazine(bynez.com)インタビュー記事「Pissara Umavijani (Dusita): The hardest thing for a perfumer…」 – https://mag.bynez.com/en/reports/pissara-umavijani-dusita-the-hardest-thing-for-a-perfumer-is-expressing-your-signature-style-in-your-work/
- The Sniff インタビュー記事「Interview: Parfums Dusita」 – https://the-sniff.com/2018/11/08/interview-parfums-dusita/
- Fumerie Parfumerie インタビュー「Interview with Pissara Umavijani」 – https://fumerie.com/blog/pissara-umavijani-interview
- Fragrance Journey インタビュー「Interview with Pissara UMAVIJANI (Parfums Dusita)」 – https://fragrance-journey.com/interview-with-pissara-umavijani/
- ÇaFleureBon「A tribute to my father Montri Umavijani (1941–2006)」 – https://cafleurebon.com/the-scent-of-poetry-a-tribute-to-my-father-montri-umavijani-1941-2006/
- Essencional.com インタビュー「Parfums Dusita: Paradise On Earth with Pissara Umavijani」 – https://www.essencional.com/en/posts/parfums-dusita-paradise-on-earth-with-pissara-umavijani/
- The Edge Malaysia「Pissara Umavijani honours her father’s life with fragrances inspired by the poems he wrote」 – https://www.optionstheedge.com/topic/people/pissara-umavijani-honours-her-father%E2%80%99s-life-fragrances-inspired-poems-he-wrote
- Robb Report Malaysia インタビュー「Power Individuals: Pissara Umavijani」 – https://robbreport.com.my/robb-society/pissara-umavijani-parfums-dusita-power-individuals/
- Parfums Dusita 公式サイト「Awards」 – https://www.parfumsdusita.com/awards
- NOSE SHOP プレスリリース「Dusita 日本初上陸」 – https://noseshop.jp/blogs/blog/230324-dusita-debut
- PRTimes プレスリリース「タイ出身の女性調香師が創設した香水ブランド『Dusita』が2023年3月24日、日本初上陸」 – https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000039.000024774.html
- A Tribute to Montri Umavijani(ブログ) – https://mvijani.blogspot.com
- Ascentofelegance.com「Poetics of Olfaction: The Divine Homage of Pissara Umavijani」 – https://www.ascentofelegance.com/2017/05/poetics-of-olfaction-divine-homage-of.html


