「私が香りに魅了されたのは、嗅覚が持つ力のせいです。嗅覚には、脳の無意識の部分——感情を処理する原始的な部分——への直接の神経経路があります。だから何かの匂いを嗅いで、ふと誰かのことを思い出し、そのあとでようやく何がトリガーだったかに気づくのです」
基本情報
- 設立年: 2013年(アムステルダムにて)
- 創設者: フランセス・シューマック(Frances Shoemack)
- 現在の拠点: ニュージーランド・ウェリントン(チームはアムステルダム、ニューヨークにも在籍)
- 公式サイト: abelfragrance.com
創設者・ブランドの成り立ち
ニュージーランドの農場で育った「嗅覚の探究者」
フランセス・シューマックは、ニュージーランド南部のサウス・カンタベリー州で育った。6人きょうだいの次女として生まれ、父は農家、母はヨガ教師という環境で、自然に囲まれた暮らしの中で幼少期を過ごした。
「私は自然のリズムとともに育ちました。母がすべての食べ物を育ててくれていて、本当に感謝しています」
有機野菜を食べ、自然派スキンケアを使うことが当たり前の日常だった。「意識的に新しいライフスタイルを選んだわけではない——持続可能性はずっと自分の一部だった」と彼女は言う。
ワインと香り——交差する「アート×サイエンス」
高校卒業後、フランセスはリンカーン大学(ニュージーランド)でビティカルチャー(葡萄栽培学)とエノロジー(醸造学)を学んだ。ワイン醸造家としての訓練は、後に香水づくりのベースとなる哲学を育んだ。
「ワインに惹かれたのと同じ理由で、香水にも惹かれました。どちらも技術と芸術と自然が交差するクリエイティブな営みです」
「良いワインは良いブドウからしか生まれない。だから素材がすべて」という感覚は、後にアベルの根幹となる思想——100%ナチュラル成分へのこだわり——に直結することになる。
アムステルダムでの転機
2011年、フランセスは夫デイヴとともにアムステルダムへ移住した。ヨーロッパのアルチザン(職人的)フレグランスの世界に触れ、その奥深さに魅了される。しかし、美しいセレクトショップやデパートのフレグランスコーナーを訪れるたびに、壁にぶつかった。
「素敵なパフュームリーやデパートに入って『天然香水はありますか?』と聞くと、スーパーマーケットに行けと言われていました」
あるとき、アントワープの画廊でアルチザンの香水を発見し、フランセスはその世界に引き込まれた。だが、どれもペトロケミカル(石油化学由来)成分を使っているか、あるいは天然素材を謳いながらも洗練に欠ける製品ばかり。クリーンビューティーがすでに台頭していた時代に、香水の世界だけが取り残されているように見えた。
「ならば自分で作るしかない」——アベルの誕生
「フレグランス分子の推定95%は石油化学から生まれていると知ったとき、本当に衝撃を受けました。ワイン醸造という、自然と職人技を称える産業から来た私には、それは根本的におかしいと感じました。天然でモダンな香水——自分の価値観と感覚に合うもの——を作りたいと思い、それが見つからないとわかったとき、これが自分の生涯の仕事だと気づきました」
フランセスは本業を続けながら、自らの貯蓄でブランドを立ち上げた。2013年の創業時の元手は約3万ユーロ(当時のレートで約29,700米ドル相当)。「貯金と根性で作り上げた」という表現がぴったりの出発点であった。
「フルタイムで働きながら、自分の貯金でやっていました。業界の経験は全くなかった」
運命の出会い——マスター・パフューマー、アイザック・シンクレア
ブランド誕生の鍵を握る人物との出会いは、一本の動画だった。ニュージーランドの固有林の中に立ち、「香水はワインに似ている」と語るアイザック・シンクレアの映像を見た瞬間、フランセスは確信した。「これが私たちのパフューマーだ」と。
「アベルはファウンダーが自ら作る製品ではないことは最初から決まっていました。私はパフューマーではないし、その技術と科学を深く尊重しています。だから世界最高の人材を探し、共に働くことが私のやり方です。アイザックと私は完全にクリエイティブな二人三脚です」
アイザック・シンクレアはオークランド出身のニュージーランド人。パリとミラノで香水を学び、現在はパリを拠点に活動するマスター・パフューマーだ。「マスター・パフューマー」の称号は世界に50人未満しか存在せず、宇宙飛行士より少ないとも言われる。ニュージーランド出身者として唯一この称号を持つ。かつてグエラン、DKNY、ランコムといったメジャーブランドのフレグランス開発も手がけてきた。
最初の香水「ヴィンテージ 13」と最初の学び
2013年にリリースされた最初の香水は、「ヴィンテージ 13(Vintage’13)」と名付けられたスパイシーなウッド系の香り。ワインの世界から来たフランセスらしく、ヴィンテージとしてリリースナンバーを入れ、毎年新しいヴィンテージを出すというアイデアも考えていた。
「ヴィンテージ 13は有機認証を取得した成分だけで作りました。私は強烈な理想主義者で、当初はオーガニック認証にこだわっていた。でもすぐに気づきました——認証を受けた天然成分は世界に非常に少ない、だから1つか2つしか香水が作れない、と。だから方針を変えました。とはいえ、石油化学由来成分を使わないという核心は絶対に譲りませんでした」
この経験がアベルの現在の立ち位置——「100%ナチュラル、ただしオーガニック認証に限定しない」という哲学——を形成した。
オランダとニュージーランドを結ぶブランド名の由来
ブランド名「Abel(アベル)」は、オランダの探検家アベル・タスマン(Abel Tasman)に由来する。1642年に初めてニュージーランドに到達したヨーロッパ人として知られるタスマンは、ニュージーランドとオランダ、両国への繋がりを象徴する人物だ。アムステルダムを拠点に活動するニュージーランド人として、フランセスはこの名前に「前人未到の航路を行く者」というエンパワーメントを感じたという。
「最初に挑んだとき、誰もが『不可能だ』と言いました。まるで未知の航路を進む船乗りのようで、その名前が力を与えてくれました」
ニュージーランドへの帰還と「アベル・ファブリーク」の誕生
フランセスは2020年初頭に家族とともにウェリントンに戻り、そこに「アベル・ファブリーク」(Fabriek=オランダ語で「工場」)を開設した。元パン屋だった建物を改装し、香水工場・研究所・オフィス・コミュニティースペースを兼ねたベースとした。週4日は一般公開もされており、「ワイナリーのセラードア体験」のような場として機能している。
資金調達と成長
2022年、アベルはアーリーステージ投資会社メーカー・パートナーズから135万ドル(米ドル換算)の資金調達を実施した。2025年の大規模リローンチ(後述)に際しては、150万ドルの資金を得て展開している。また、過去5年間で毎年30〜40%の売上増を達成し、33カ国以上で販売されるまでに成長した。
ブランドのこだわり
「ラジカル フレグランス」の哲学
アベルのキャッチフレーズは「Radical Fragrance(ラジカル・フレグランス)」。ただの「天然香水」ブランドではなく、業界の常識そのものに挑戦する姿勢が込められている。
「天然香水と言えば『まあ、天然にしては良い』という言い方をされることに我慢できませんでした。サステナビリティにおいて、それは十分ではない。価値を提供しなければ意味がない」
アベルは天然香水の中だけで比較されることを望まず、あらゆる香水と対等に評価されることを目指す。
ボルドーのワインメーカーからの着想
フランセスが石油化学系合成香料に否定的な背景には、ワインの世界で培われた哲学がある。
「ボルドーのワインシャトーが糖や香料を添加しているとしたら、あなたはどう思いますか?私にはそれが正気の沙汰とは思えません。フレグランスの合成香料に対しても、同じ感覚で向き合っています」
「良い香水は良い素材から」という一点を、アベルは創業以来ぶれずに貫いている。
バイオテクノロジーとの融合
アベルの革新性は「天然」に留まらない。バイオテクノロジーを積極的に採用し、植物由来の原料を発酵・精製したバイオテク成分を活用している。たとえば食品産業の廃棄物として発生するパッションフルーツやタンジェリンエキスをアップサイクルして使用したり、バイオテク由来のケタンバーやアニスアルデヒドを処方に組み込んでいる。
「アベルを始めた頃、バイオテクノロジーはフレグランスの世界でまだ語られていませんでした。それが現実になったのはここ6〜7年のことです。私たちはそれを業界のどのブランドよりも速く採り入れてきたと思っています」
アベルのもう一人のパフューマー、ドクター・ファニー・グロー(Dr. Fanny Grau)は生化学の博士号を持つフランス人科学者で、バイオテク成分の探求において重要な役割を担っている。
3人のトリオによる創造プロセス
アベルのフレグランス開発は、3人の異なる才能の掛け合わせから生まれる。フランセス(「ラジカル・シンカー」)、アイザック(「アーティスト」)、ファニー(「サイエンティスト」)——このトリオがニュージーランドとパリを結び、大陸をまたいでコラボレーションする。
創作プロセスは通常、フランセスの具体的なビジョンから始まる。インスピレーションは彼女が体験した場所、感情、自然の情景から来ることが多く、それをアイザックやファニーが香りとして実体化する。
成分の完全公開という透明性
香水業界には「企業秘密」として成分を非開示にする慣行がある。アベルはこれに反し、創業当初から全成分リストをウェブサイトで公開してきた。この透明性への姿勢は、業界に先駆けた取り組みであり、ブランドのアイデンティティの中核をなしている。
次世代パッケージング
2025年のリローンチに合わせ、パッケージも全面刷新された。ボトルはフランス製の再生ガラス(リサイクル素材11%使用)を採用し、スプレーポンプは取り外し可能でカーブサイドリサイクルに対応している。キャップはヴィヴォマー(Vivomer)という先進バイオテク素材で作られており、土に還せば20週以内に生分解する完全堆肥化可能な素材だ。ボックスは廃棄されたコーヒーカップ40%と消費後廃棄物60%から作られた100%リサイクルペーパー製で、紙パッケージのカーボンフットプリントは従来比96%削減を達成している。
香水ラインナップ
アベルのコレクション管理には、独特な「1つ出して1つ入れる」哲学がある。新作をリリースするたびに既存作品の1つをラインナップから外し、常に7作品前後のコア・コレクションを維持する。数字の「7」に東西の文化にまたがる精神的な意味合いがあると、フランセスは語っている。
コア・エドゥ・ドゥ・パルファン コレクション
現在のコレクションに含まれる代表的な香水を以下に紹介する(ラインナップは変動する)。
シアン ノリ(Cyan Nori)
アベルのベストセラー。ニュージーランドの断崖の上に建つ家で見た、夕暮れ時の大洋から着想を得た。タンジェリン、ホワイトピーチのトップノートに、フランス海岸に生育する海藻(ノリ)のアブソリュートを使ったブライニー(潮の香り)なドライダウン。2020年のコロナ禍に発売され、当初は反応が鈍かったものの、6〜9カ月後に米国・アジア・欧州で初めて同時に火がついた最初の作品となった。アイザックがサンパウロのスタジオで夕日を眺めながら「海藻アブソリュートがたった今デスクに届いた」と言った瞬間に着想が生まれたという、ほとんど偶然の産物でもある。
ピンク・アイリス(Pink Iris)
トレンチコートの持つタイムレスな魅力にインスパイアされたジェンダーレス・フローラル。四川ペッパー、ラズベリーリーフ、バジルのスパイシーなトップから、オリス・ルート(アイリス)・ローズ・ジャスミンのフローラル・ハートへと展開し、バニラとムスクのベースに落ち着く。クリーン+コンシャス・アワードのナチュラルパフューム部門で受賞歴を持つ。
コート チェック(Coat Check)
旧称「ブラック アニス」。スモーキーなダーク・アンバー系の香り。かつてのブラック・アニスを全面的にリフォーミュレーションし、深みとロングラスティング性を向上させた。アベルのブルー・プリント誌インタビュアーが「1920年代の酒場でタバコ越しにすれ違うような香り」と表現している。
グリーン シダー(Green Cedar)
テキサスとモロッコのアトラス山脈からそれぞれ採取した2種類のシダーを中心に据えた香り。テキサス産はクリーンでドライな印象、モロッコ産はスウィートでオピュレント。これにマグノリア、カルダモン、グアイアックウッドが加わり、フォレスティーかつオリエンタルな複雑さを生み出す。
コバルト アンバー(Cobalt Amber)
ジュニパー、ピンクペッパー、ラブダナム・アブソリュート、トンカビーンなどから構成される現代的なアンバー。「コペンハーゲン・シックが真夜中のパリに出会う」と形容されることもある。セクシーかつ上品なユニセックス・フレグランスとして評価が高い。
ランドリー デイ(Laundry Day)
春の最初の晴れた日、洗い立てのリネンが風に舞うイメージ。バーガモット、ライム、パッションフルーツ(食品加工廃水からアップサイクルした成分)のフレッシュなシトラス開口部と、ベチバーのアーシーなベース。「合成アルデヒドの代わりにバイオテク由来の天然アルデヒドを使用」というアベルらしい技術革新が生きている。フランセス自身が「これが一番好き。あの『何でもできそう』という春の喜びが詰まっている」と語るほど思い入れの深い作品。
ナーチャー(Nurture)
妊娠中・授乳中でも使用できるよう、低アレルゲン処方で設計されたフローラル。ドクター・ファニー・グローとの共作で、ジンジャー(つわり対策)などのセラピューティックな成分を含む。「母親の抱擁のような香り」と評される。
ポーズ(Pause)
フランセス自身のペリメノポーズ(更年期移行期)の経験から生まれた作品。ファニーとの共同開発で、情緒を安定させる作用が知られるミモザを主役に据えた。2022年の世界更年期の日(10月18日)に合わせてリリースされた。
ジ アパートメント(The Apartment)
フランセスとアイザックがパリで部屋を共有したときの体験から生まれた香り。アルク・ド・トリオンフを見下ろすそのアパルトマンで、「ここに住んでいる人はどんな人物だろう」とイマジネーションを膨らませたことが出発点だという。
ファンクショナル・フレグランス(機能的香水)という試み
ナーチャーやポーズに象徴されるように、アベルは「ただ良い香りのする香水」を超え、ウェルビーイングに働きかけるセラピューティック成分を組み込んだ「ファンクショナル・フレグランス」の探求も続けている。
ちなみに…
- アイザック・シンクレアとファニー・グローはパートナー
公表されている情報によれば、マスター・パフューマーのアイザック・シンクレアと、ドクター・ファニー・グローはプライベートでも夫婦である。かつてはともにサンパウロを拠点としており、現在は二人ともパリを拠点としている。香水界ではやや珍しい、アーティストと科学者のパートナーシップが、アベルのフレグランス開発を内側から支えている。 - コロナ禍に Zoom で生まれたベストセラー
シアン・ノリはコロナ禍のさなか、アイザックがサンパウロ、フランセスがニュージーランドにいる状態でビデオ通話を通じて開発された。「Zoomで香水を作るのは理想的ではないが、クリエイティブ・ディレクションが非常に強固だったのでうまくいった」とフランセスは語っている。 - 「ラジカル」なパッケージ失敗談
アベルはサステナビリティへの取り組みで失敗した経験も包み隠さず公開している。コーンスターチ、キャッサバルート、サトウキビから作られた生分解性ラッピングをプラスチックのセロファンの代替として試みたが、香水が傷んでしまい断念した経緯がある。この失敗を顧客に正直に報告したことが、ブランドの透明性に対する信頼を高めた。
- “Founder Q&A: Frances Shoemack on Abel Fragrance’s Redesign” – https://blue-print.co/fragrance/abel-fragrance-founder-frances-shoemack-interview/
- “Abel Fragrance Relaunches with Biotech Innovation” – https://beautymatter.com/articles/abel-frances-shoemacks-vision-for-the-next-era-of-naturals
- “Abel Odor Secures $1.35M To Raise The Global Profile Of Its Natural Luxury Fragrances” – https://www.beautyindependent.com/abel-odor-raise-global-profile-natural-luxury-fragrances/
- “Our Story | Abel” (公式サイト) – https://abelfragrance.com/pages/our-story
- “Abel, the Niche Perfumier Bottling Scents of Nature” – https://www.anothermag.com/fashion-beauty/16712/abel-natural-sustainable-fragrance-perfume-interview
- “The Future Of Fragrance Smells Like Abel” – https://10magazine.com/the-future-of-fragrance-smells-like-abel/
- “Abel Revamps Natural Perfume And Hopes To Transform The Fragrance Industry” – https://www.forbes.com/sites/eshachhabra/2025/10/14/abel-revamps-natural-perfume-and-hopes-to-transform-the-fragrance-industry/
- “master perfumery | Abel” (公式サイト) – https://abelfragrance.com/pages/master-perfumery
- “A Radical Thinker, An Artist, and A Scientist | Abel” (公式サイト) – https://abelfragrance.com/blogs/journal/a-radical-thinker-an-artist-and-a-scientist
- “The Quality Makers: Frances Shoemack of Abel (2024)” – https://www.thequalityedit.com/articles/frances-shoemack-abel-interview
- “Frances Shoemack on her natural fragrance brand Abel Odor” – https://homestyle.co.nz/frances-shoemack-abel-odor/
- “Future of Fragrance | Abel” (公式サイト) – https://abelfragrance.com/pages/future-of-fragrance
- “packaging | Abel” (公式サイト) – https://abelfragrance.com/pages/packaging
- “Abel Odor Pause” – https://www.nzherald.co.nz/viva/beauty/ (NZ Herald)
- “Abel Fragrance” (公式ブランド説明) – https://flowing-cosmetics.com/our-brands/abel-organic-perfume/
- “Rising Star Perfumer: Isaac Sinclair” – https://www.essencional.com/en/posts/rising-star-perfumer-isaac-sinclair/
- “Abel Odor Cyan Nori” – https://www.be-ecocentric.com/s/6141_331599_cyan-nori-abel
- “sustainable perfume | Abel” (公式サイト) – https://abelfragrance.com/pages/sustainability

