ジャーミン・ストリート89番地の精神が、私たちのすることすべてに息づいています。
エドワード・ボーデンハム
店舗のはじまり
ロンドンのジャーミン・ストリート89番地。1730年、フアン・ファメニアス・フローリス(Juan Famenias Floris)と妻エリザベスは、ここで香水、櫛、髭剃り用品を売り始めた。店の上階には夫妻が暮らしていた。商いと家族の暮らしが重なるこの場所で、フローリスは香水をつくり、客に手渡す仕事を受け継いできた。
店内のマホガニーの棚と中央の展示ケースは、1851年にロンドンで開かれた万国博覧会で購入された。代々の家族がこうした什器を受け継ぎ、現在も香水を収め、客が香りを試すために使っている。
九代目のエドワード・ボーデンハムも、少年時代に父と祖父を訪ねてこの店に通った。香水「エリート(Elite)」は、その頃の店を思い出させる、彼にとって愛着のある香りである。家業に入り、香水を仕事で扱うようになってからも、店の匂いは家族の記憶と結びついていた。
89番地は、いまも創業者の子孫が営む店であり、フローリスの事業の中心である。奥には家族の資料を収めた博物室と、香りをつくる調香室がある。

店づくりの考え方
この店で受け継がれているのは、建物や什器だけではない。創業者フアンは香水の処方を革装の帳簿に書き込み、客のために香りを調合するたびに記録を増やした。その帳簿は後の世代に引き継がれ、現在の調香にも使われている。
同じ場所で香りをつくり続ける九代目のエドワード・ボーデンハムが大切にするのは、香りと一人ひとりの記憶との結びつきだ。客にとっても、大切だった場所や人の記憶が、香りを選ぶ手がかりになる。
誰もが、人生の中で自分にとって意味を持った香りを、それぞれの記憶に蓄えている。
エドワード・ボーデンハム
気になる香りを肌に乗せ、1時間ほど一緒に過ごしてみることも、エドワードが勧める選び方である。知識や言葉だけで好みを決めず、その人自身がどう感じるかを確かめる。この姿勢は、調香師と客が一緒に香りを仕立てるビスポークにも表れている。
訪れたい店舗
ジャーミン・ストリート店(ロンドン)
いま見られる地上階の店構えは19世紀初頭のもので、太い桟がショーウィンドウを八つに区切り、右手の入口は少し奥へ引き込まれている。その上には、1820年にジョージ4世から授けられた紋章が掲げられている。
店内では、万国博覧会から受け継いだ濃い色の木製棚に香水が並び、中央のアンティークの展示ケースをカウンターとして使っている。スタッフの案内で、コレクションを試すことができる。

家族から受け継いだ店にも、手を入れる必要があった。2010年代には、約100年ぶりとなる大きな改修が行われた。歴史的建造物としてGrade IIに指定された89番地で、設計を担ったのはソンダー・デザイン(Sonder Design)である。
設計者は計画担当部局やイングリッシュ・ヘリテージと連携し、職人と資材を供給する業者を選んだ。マホガニーの棚にはフレンチポリッシュを施して艶を戻し、木部やガラス細工を引き立てる柔らかな照明を、光源が見えないように組み込んでいる。
床は、下地の構造上の問題に対応したうえで新設し、アクセスの改善も図った。天井も全面的に更新され、床の細部に呼応する意匠が取り入れられている。
2017年には、店の奥に家族の資料を見せる博物室が公開された。手紙や写真、顧客との書簡、古い香水瓶、香りづくりの道具が並び、1820年の王室御用達に関する文書も、この店が続けてきた商いの一部として収められている。
博物室の特注の棚には、昔の瓶や処方帳とともに、2017年に過去の処方から八つの香りを再構成した「レジャー・シリーズ」も収められている。いま手に取る香りと、そのもとになった記録を同じ場所で見比べられる。店頭の古い什器を眺めた後に奥へ進むと、香水そのものが家族の記録から受け継がれてきたことも分かる。
調香室とビスポーク
店舗の奥にある青い扉の向こうが、調香室である。エドワードとチームはここで、フローリスのコレクションと、顧客のためのビスポークの香りを手がけている。
私たちはロンドンで、父が、その前には祖父が調香していたのと同じ部屋で香りをつくっている。
エドワード・ボーデンハム
調合には受け継がれたガラス器具を使い、液量は英国式の液量ドラムや液量オンスで量る。
コレクションとして発売する香水は、英国の取引先や製造業者と連携して製品にする。89番地に残るのは、その香りの構想と調香、そして顧客一人ひとりに向き合う仕事である。
個人のためのビスポーク・サービスが始まったのは2006年である。事前予約制の「フレグランス・カスタマイゼーション(Fragrance Customisation)」では、用意された香りの土台を選び、調香師がアコード、つまり複数の香料を組み合わせた香りのまとまりを加えて、構成を整えていく。
フローリスの調香師アンナには、ある客が繰り返した「フレッシュ」という言葉が、自分の思い描く香りと異なっていた経験がある。相手が何を求めているのかを理解するため、彼女が頼りにするのは、一緒に香りを嗅ぐことである。
同じ言葉でも、思い浮かべる香りは人によって違う。言葉だけで決めず、一緒に嗅いで反応を確かめることが、香りを仕立てる仕事になる。
カスタマイゼーションで完成した香りには、依頼者が名前をつける。瓶には手書きのラベルと調香師の署名が添えられ、処方はフローリスの帳簿に保管される。本人や次の世代が再注文するための記録になるのである。
参考文献
- Interview: Edward Bodenham/Hugh Francis Andersonによる本人Q&A(The Gentleman’s Journal)
- 89 Jermyn Street/店舗の由来、棚とカウンター、博物室、調香室(Floris London)
- Our History/創業、家族の手紙、改修、博物室、ビスポークの年表(Floris London)
- 89, Jermyn Street SW1/建物と店頭の構造、指定建造物の登録情報(Historic England)
- Floris/万国博覧会に由来する什器と店舗案内(Visit London)
- Spaces「Flagship Store Refurbishment: Floris London」/設計者による改修の記録(Sonder Design)
- Our Craftsmanship/処方帳の継承、調香室の仕事、道具と製品化(Floris London)
- In Conversation with Edward Bodenham/調香室と香りの記憶についての本人発言(NoteWorthy、2025年11月19日)
- Bespoke Fragrance Experiences/現行のビスポーク・サービス(Floris London)
- Fragrance Customisation/香りの制作、命名、ラベル、処方の保存(Floris London)
- 調香師アンナによるビスポークの接客/Lotte Brundleの訪問記事(Country Life、2026年2月7日)
- Meet Edward Bodenham/香りの選び方についての本人Q&A(Beaufort & Blake、掲載日表示なし)


