「私たちは、父が、そして祖父がそうしたのと同じ部屋で、ロンドンで香りを調合しています」
——エドワード・ボーデンハム(9代目パフューマリー・ディレクター)
基本情報
ブランド名: FLORIS(フローリス)
正式社名: J. Floris Ltd(ジェイ・フローリス社)
設立: 1730年
創設者: ジュアン・ファメニアス・フローリス(Juan Famenias Floris)
創業地・旗艦店: ロンドン、セント・ジェームズ地区、ジャーミン・ストリート89番地
公式サイト: https://www.florislondon.com/
フローリスは、メノルカ島出身のジュアン・ファメニアス・フローリスと妻エリザベスが、1730年にロンドンのセント・ジェームズ地区で始めた香水・グルーミング用品店である。創業時の89ジャーミン・ストリートを現在も本拠とし、創業家の子孫が9代にわたって経営と香りづくりに関わっている。
ジュアンの若き日の歩みは、紹介される伝記によって少しずつ異なる。正確な誕生日、海を渡った年、結婚や修業の時期まで、すべてが一枚の年表に収まるわけではない。それでも、1730年に夫妻がロンドンで店を開いたという、この家の出発点は変わらない。
創設者とブランドの成り立ち
地中海からロンドンへ
ジュアンの故郷は、地中海西部のバレアレス諸島に浮かぶメノルカ島であった。9代目エドワード・ボーデンハムが語るその足跡は、理容師としての仕事から、フランス南部モンペリエでの香水づくりの修業、そしてロンドンへと続いている。どの学校で誰に師事し、何年を過ごしたのかという細部には、まだはっきりしないところが残る。
1730年、ジュアンは妻エリザベスとともに、王宮や紳士クラブに近いセント・ジェームズの89ジャーミン・ストリートで商いを始めた。扱ったのは香水だけではなく、櫛、シェービング用品、歯ブラシ、マウスウォッシュなど、当時の上流階級の身支度を整える品々であった。つまりフローリスの原点は、現代的な意味での「香水専門ブランド」というより、理髪と身だしなみを包括する店であった。
ジュアンの初期作品には、理髪店と結びついたタルク、コロンなどの清潔感ある香調が色濃かった。その一方で、彼はメノルカの少年時代を思わせる香りを再現しようとし、その例として語られるのが「ライムズ」である。ブランドの歴史では1740年に生まれた香りとして親しまれ、レモンとプチグレンに、ライムブロッサム、ネロリ、スズラン、ムスクを重ねた現在の構成にも、地中海的な明るさが残る。
故郷を離れた人が、その土地の匂いを香水に託す。フローリスが今に伝える望郷の物語には、そんな温かさがある。ただ、それはジュアン自身の言葉を直接たどれる独白ではなく、後の世代が受け継いできた記憶でもある。創業の理由を望郷だけで語り尽くせるわけではないが、香りの背景を知る大切な手がかりになる。
エリザベスとの共同事業
ブランド史をジュアン一人の物語として語ると、エリザベスの役割が抜け落ちる。家に伝わる記録の中で、彼女は7人の子を育てながら帳簿を管理し、店のために香水を発注し、ジュアンの死後には事業運営を引き継いだ。その働きぶりから見えてくるのは、創業者の妻という補助的な立場ではなく、事業継続を担った共同経営者の姿である。
ジュアンは新しい処方を大きな革装の帳簿へ手書きし、顧客ごとの調合も記録した。帳簿は代々89ジャーミン・ストリートで保管され、後世の香水を復刻・再解釈するための基盤となった。フローリスにとって「アーカイブ」とは展示物にとどまらず、今も新作を生むための実用的な設計図なのである。
海外調達とロバートの旅
次世代では、ロバート・フローリスが海外を巡り、香料の仕入れ先を探した。現存する家族宛ての手紙には、イタリアの調香師ジョヴァンニ・マリア・ファリーナとコロン原料について交渉したこと、マルセイユで蜂蜜の不足を知りメノルカからの調達を検討したこと、グラースからローズオイルやイチジクを得ようとしたことが記されていると、エドワードは説明している。
紙代と郵便代を節約するため、ロバートの手紙には、書いた紙を90度回して既存の文章に交差させる「クロス・ライティング」が使われていた。この航海記録は、のちにネロリを軸とする「ネロリ・ヴォヤージュ」の着想源になった。家族史をそのまま保存するのではなく、香りへ翻訳する現在のフローリスらしい例である。
王室御用達と店の確立
王室との縁も、香水だけから始まったわけではない。フローリスの年表が最初のロイヤル・ワラント(英国王室御用達認定)として掲げるのは、1820年、ジョージ4世から受けた「滑らかな先端を持つ櫛の製造者」という称号だ。エドワードのインタビューには、それより早い1800年、当時のプリンス・オブ・ウェールズから始まる認定の話も登場する。王太子時代からの関わりを語る家族の記憶と、国王として認められた1820年という節目。その二つが、この家と王室の長い歩みを伝えている。
1820年の紋章は、現在も店頭上部に掲げられている。さらに1851年のロンドン万国博覧会で購入したスペイン産マホガニーのキャビネットとガラス什器も、89ジャーミン・ストリートに残されている。店は過去を再現した舞台装置ではなく、18世紀から営業が続く建物に、各時代の層が積み重なった空間である。
1863年には、クリミア戦争から帰国したフローレンス・ナイチンゲールが、「美しく甘い香りの花束」への礼状を「ミスター・フローリス」宛てに送った。手紙は現在も店内に展示されている。エドワードは、彼女が「ナイト・センテッド・ジャスミン」をまとっていたとも語っている。礼状に花の種類や香水名が書かれているわけではないが、花束への感謝を綴った一通と、家族が伝える香水の話を通して、ナイチンゲールとこの店のつながりが浮かんでくる。
フローリス家からボーデンハム家へ
メアリー・アン・フローリスはジェームズ・R・D・ボーデンハムと結婚し、1878年に兄ジョセフから事業を引き継いだ。ここから経営にボーデンハム姓が現れるが、事業は売却されたのではなく、婚姻を通じて創業家の系譜内で承継された。この連続性が、現在の「9代目」という表現につながっている。
1890年には「スペシャル No.127(ナンバー127)」が生まれた。エドワードによれば、もとはパリに亡命していたロシアのオルロフ大公のために作られ、処方が特注帳簿の127ページに記録されたことから現在の名になったという。ベルガモット、オレンジ、ラベンダー、プチグレンに、ネロリ、ローズ、ゼラニウム、イランイランを重ね、ムスクとパチョリで結ぶシトラス・フローラルである。
20世紀の顧客と海外進出
1934年12月の領収済み請求書には、ウィンストン・チャーチルがスペシャル No.127と「ステファノティス」を購入した記録が残る。著名人の香りの話は伝説めいたものになりやすいが、ここには日付と品名を記した一枚がある。大きな歴史の中の人物が、香水を選ぶ一人の客として身近に感じられる。
1951年、店の番地を名にした「No.89(ナンバー89)」が登場した。ベルガモット、ラベンダー、ネロリ、ナツメグなどから始まり、ローズとゼラニウムを経て、サンダルウッド、シダー、ベチバー、オークモスへ落ち着くウッディ・アロマティックである。作家イアン・フレミングは店の常連で、この香りを好み、1955年の小説『ムーンレイカー』でフローリス製品に言及した。「ジェームズ・ボンドの香水」という呼び名でも知られるが、その結びつきの中心にいるのは、生みの親であるフレミング自身なのだ。
1950年代、フローリスは米国向け輸出を増やした。1959年12月の社内記録には、ビバリーヒルズ・ホテル滞在中の「マリリン・モンロー・ミラー」宛てに「ローズ・ゼラニウム」が購入されたことが残っている。いつも愛用していた香り、とまではこの一枚から語れない。それでも、遠くロンドンの香りがハリウッドの女優のもとへ届いた、そのひとときは記録の中に残されている。
需要拡大を受けてデヴォンに生産拠点が設けられ、1989年にダイアナ妃が正式開設した。現在も香りの開発はロンドンの89ジャーミン・ストリートで行われる一方、製品化ではデヴォンの拠点や英国の長年の製造パートナーが役割を担う。香りが生まれる場所と、多くの人へ届けるために製品を仕上げる場所。それぞれの仕事を、店と英国の製造拠点が支えているのである。
9代目への継承
現在、香りづくりを率いるキーパーソンが、9代目のエドワード・ボーデンハムである。幼い頃から父や祖父を訪ねて店に通い、香りを「昔からの友人」のように感じていると語る。
「懐かしい香りを守ることは大切です。同時に、新しい香りをコレクションへ加え、それが次の世代にとって未来のクラシックになることにも、大きな喜びがあります」
——エドワード・ボーデンハム
この言葉に、古い香りを守るだけでは終わらないフローリスの姿勢が表れている。過去の処方を保存しながら、新作が家の文脈に収まるかを考える。エドワードは新作を検討するとき、先祖がその香りを嗅いだら認めるだろうかと自問すると語っている。
2006年には一般顧客向けのビスポーク・フレグランス・サービスを本格的に開き、店奥の調香室で個人の香りを作れるようにした。完成した処方は代々の帳簿にならって記録され、本人だけでなく将来の世代も再注文できる。この仕組みは、18世紀の顧客別調合を現代のサービスとして再構成したものといえる。
ブランドのこだわり
アーカイブを使う
フローリスの核は、約300年分の処方帳、注文記録、書簡、領収書、器具を「現在の制作に使う資料」として保持している点にある。グレードII指定建造物である89ジャーミン・ストリートには、100年以上ぶりの大規模な改修も施された。店舗の紹介では2016年、年表では2017年に位置づけられる、この家の新たな節目である。その後、アーカイブを見せるミュージアム空間を設け、古い顧客台帳から8作品を選んだ「レジャー・シリーズ」も発表した。
同じ場所で調香する
香水の企画・調香は今も店奥のパフューマリーで行われる。エドワードと調香チームは、古いガラス器具を使い、メートル法ではなくインペリアル・フルイド・ドラムやオンスで香料を量るという。古い道具を使えば、それだけでよい香りになるわけではない。処方帳に記された数字、その数字を量る単位、手になじんだ器具まで一緒に受け継ぐ。その積み重ねが、フローリスの仕事を今につないでいる。
「ほんの一滴が本当に重要です。背後には科学の厳密さが必要です」
——ペニー・エリス(ビスポーク調香師)
天然と合成を対立させない
素材の扱いにも、この家が重ねてきた取引が生きている。アブソリュート(溶剤抽出で得る高濃度香料)と精油は、長年取引する供給者から持続可能性に配慮して調達し、収穫ごとの品質を確かめるという。また天然原料を多く使いつつ、倫理面・環境面と表現の幅を理由に、高品質な合成香料も組み合わせるとしている。天然だけを絶対視せず、トレーサビリティと処方上の役割で素材を判断する立場である。
「最高品質」や「持続可能性」は、フローリスが素材選びで掲げる姿勢である。ただ、その言葉だけで、原料ごとの産地や天然香料の正確な配合率、第三者認証の範囲まで分かるわけではない。すべての素材を同じ基準で語り切るのではなく、長年の供給者との関係と、個々の原料を見極める仕事に目を向けたい。
ボトルとパッケージ
現在につながる角形ボトルのデザインは2000年に導入され、19世紀末から1930年代まで使用していた旧ボトルを強く参照したものだと、エドワードは説明している。透明な直方体、中央の矩形ラベル、金色のキャップという抑制された造形は、過度に装飾を足すのではなく、アーカイブを現代向けに整えるフローリスの姿勢と一致している。
石鹸では、1800年代初頭に作られた型と同じ意匠が現在も使われ、デヴォンで手包みされている。香水だけでなく、入浴、髭剃り、口腔ケア、ホームフレグランスまで扱う構成は、創業時のグルーミング商の記憶を残している。
香水ラインナップ
香水選びの軸となるのが、オードトワレのシグネチャー・シリーズと、より濃密なオードパルファムのプライベート・シリーズである。前者は代々探究してきた英国香水の定番、後者は世界各地の素材と物語を結ぶ、家の最上位レンジとして紹介されてきた。これに、アーカイブ復刻・再解釈のレジャー・シリーズ、個人調香のビスポークが加わる。
シグネチャー・シリーズ
- ライムズ:ブランドの歴史で1740年にさかのぼる初期作。レモン、プチグレン、ライムブロッサム、ネロリ、スズラン、ムスクによる、短い構成のシトラス・グリーンである。
- ナイト・センテッド・ジャスミン:1806年の処方に由来するフローラル・グリーン。ジャスミン、ガーデニア、ネロリ、イランイランなど、白い花を幾層にも重ねる。
- スペシャル No.127(ナンバー127):1890年生まれのシトラス・フローラル。特注帳簿のページ番号を名前に持ち、チャーチルの購入記録も残る。
- No.89(ナンバー89):1951年作。シトラス、ラベンダー、ナツメグから、花、サンダルウッド、シダー、ベチバー、オークモスへ進む。英国的なグルーミング香の中核を知る一本である。
- エリート:ベルガモット、グレープフルーツ、レモンの冷涼な導入に、パチョリとベチバーの木質感を合わせた、フレッシュかつウッディな構成である。
- サンタル:ベルガモット、黒胡椒、カルダモン、ラベンダー、ナツメグから、サンダルウッド、乳香、シダー、アンバーへ至るウッディ・フゼア。フゼアとは、ラベンダーやハーブに木質・苔様の基調を合わせる香調群である。
プライベート・シリーズ
- ハニー・ウード:英国産蜂蜜とバニラの甘さで、ローズとウードの濃さを滑らかに包むオードパルファム。使用するウードオイルは、認証された持続可能な沈香供給源に由来すると公式に説明されている。
- ア・ローズ・フォー…:モロッコのバラ畑とマラケシュのスークの対比から着想された。ローズをオリス、香辛料、インセンス、ウード、木々で暗く組み立て、ボトルの「For…(フォー…)」部分へ持ち主の名やイニシャルを書ける。
- ネロリ・ヴォヤージュ:ロバート・フローリスの旅行記と、エドワード自身のリグーリア旅行をつなぐ作品。ネロリを中心に、地中海沿岸の植生と海の移動を描く。
- パープル・メモワール:メアリー・アン・フローリスとジェームズ・ボーデンハムの家「アイヴィー・ロッジ」を題材に、ラベンダー、ベルガモット、マンダリン、ジャスミン、サンダルウッド、アンバーで家族の記憶を表現する。
レジャー・シリーズ
レジャーとは「台帳」の意で、顧客の注文や処方を記した帳簿から歴史的作品を選び、復刻または再解釈するシリーズである。2017年の展開時には、ステファノティス、レッド・ローズ、マルメゾン・アンコール、ニュー・モウン・ヘイ、サンダルウッド、ベチバー、ローズ・ゼラニウム、フロリッサ・アンコールの8作が紹介された。規制対象となった素材を含む作品では、現行基準に合わせて再構成されたものもあり、当時の香りを、今の時代に楽しめる形へつなぎ直している。
最初に試すなら
ブランドの起点をたどるなら、地中海的なライムズ、白花のナイト・センテッド・ジャスミン、理髪文化の系譜を感じるNo.89の3本がわかりやすい。もう少し現代的で濃密な方向を知りたいなら、ハニー・ウードまたはア・ローズ・フォー…を加えると、古典保存だけではない現在のフローリスが見えてくる。
ちなみに……
89ジャーミン・ストリートの隣、88番地には、17世紀末にアイザック・ニュートンが4年間住んでいた。現在もブルー・プラークが掲げられている。フローリスが歴代の顧客として挙げる顔ぶれも、ネルソン提督、オスカー・ワイルド、ヴィヴィアン・リー、ケーリー・グラント、デヴィッド・ボウイと実に多彩だ。誰がいつ、どの香りを選んだかまですべてが伝わっているわけではないが、同じ店先を異なる時代の人々が訪れたことに、この住所の奥行きがある。
フローリスは、2023年にチャールズ3世から「国王陛下のトイレタリー製造者」としてロイヤル・ワラントを授与されたと紹介している。この認定が語るのは、王室へ商品やサービスを届け続けてきた仕事の歴史だ。どの王族がどの香水を私的に好むのかという話とは意味が異なる。王室の求めに長く応え続けることにも、この家らしい誇りが感じられる。
フローリスの魅力は、単に「英国最古級」という年数ではない。メノルカから渡った理容師の記憶、顧客別の処方帳、旅する仕入れ人の手紙、王室向けの櫛、万国博覧会の什器、著名人の領収書が、今も同じ住所で香水の制作へ接続している。試香するときは香りの好みだけでなく、「どの時代のフローリスを嗅いでいるのか」という視点を持つと、この家の世界がいっそう立体的になるはずである。
参考文献
- Floris London, “Our History”
- Vogue Arabia, “Floris is the British Heritage Perfume Brand Loved by Royalty”
- Floris London, “89 Jermyn Street”
- Nose Paris, “Interview with Edward Bodenham”
- Floris London, “Our Craft”
- Floris London, “Frequently Asked Questions”
- Penelope Clague, “Floris / Edward Bodenham Interview”
- Floris London, “An Anthology of Scents”
- Floris London, “The Power Behind 89 Jermyn Street”
- Turnbull & Asser, “71/72: An Interview with Edward Bodenham”
- The Tweed Pig, “Floris 1730 – London’s Celebrated Perfumery”
- Rocco Forte Hotels, “A Fragrant Family Bond”
- Floris London, “Bespoke Perfume Design”
- Floris London, “Collections”
- Floris London, “Our Craftmanship”
- Stephan Matthews, “Floris Unlocks Its Archives”
- Fragrantica, “Floris Perfumes and Colognes”
- Fragrantica, “No 89 Floris”
- Floris London, “Limes Eau de Toilette”
- Floris London, “Night Scented Jasmine Eau de Toilette”
- Floris London, “Special No.127 Eau de Toilette”
- Floris London, “No.89 Eau de Toilette”
- Floris London, “Elite Eau de Toilette”
- Floris London, “Santal Eau de Toilette”
- Floris London, “Honey Oud Eau de Parfum”
- Floris London, “A Rose For… Eau de Parfum”
- Floris London, “Purple Mémoire Eau de Parfum”
- Floris London, “Floris London & The Royals”
- Wikipedia, “Floris of London”
- Soap Collection | Pick Your Own | Floris London UK
- Honey Oud Eau de Parfum | Floris London UK
- Luxury Fragrances | Floris London UK


