3500年前の香りのバームから、遠い土地とのつながりを読む

3500年前の香りのバームから、遠い土地とのつながりを読む 香りの科学

中身が失われ、空になったように見える古代の壺。その内側に残る薄い膜から、3,500年前の材料と、人々のつながりが読み取れることがあります。

2023年の研究は、古代エジプトの女性セネトナイの臓器を収めていた二つの壺から、保存用のバームの残留物を分析しました。蜜蝋、油脂、瀝青、香りを持つ樹脂などが組み合わされており、当時としては複雑な配合が使われていたことが分かりました。

王の乳母のために作られた保存剤

セネトナイは紀元前1450年ごろに生き、後にファラオとなるアメンホテプ2世の乳母を務めた女性です。死後、その臓器はミイラ化され、四つのカノポス壺に収められました。

壺は1900年、ハワード・カーターにより王家の谷の墓KV42で発見されました。今回調べたのは、肺と肝臓を収めていた石灰岩製の二つです。ドイツ・ハノーファーのアウグスト・ケストナー博物館に所蔵されています。

臓器そのものは失われていましたが、壺の底や壁にはバームの薄い層が残り、一部は多孔質の石灰岩に染み込んでいました。バームは、身体や臓器を来世のために保存する処置に用いた混合物です。

古代の文献は、ミイラ化の手順に触れていても、材料の詳しい配合までは十分に伝えていません。研究者は、残留物の分子からその空白を補い、材料の調達や技術、セネトナイの社会的地位を考えようとしました。

二つの壺から六つの試料を、三つの分析法で調べる

各壺の底から一つ、内壁から二つ、計六つの試料を採取しました。底の残留物は分子の保存がよく、壁の薄い残留物は保存状態が劣っていました。

試料を抽出し、ガスクロマトグラフィー質量分析、高温で扱う同分析、液体クロマトグラフィー・タンデム質量分析を組み合わせました。脂肪酸、ワックス、樹脂成分など、性質の違う分子を別々の方法で捉えるためです。

古い混合物では、元の材料がそのまま残るとは限りません。酸化や分解でできた分子も含め、標準物質や既知の化学的特徴と照合し、何が入っていたかを推定します。一つのピークの名前を読むだけでなく、複数の成分がつくるパターンを手がかりにしました。

蜜蝋、油脂、瀝青。バームの土台が見えてきた

両方の壺では、蜜蝋を示す複数の特徴が見つかりました。長い炭素鎖を持つワックスエステル、脂肪酸、アルコール、炭化水素が組み合わさり、蜜蝋が主要な材料の一つだったという根拠になっています。

また、ホパン類やステラン類という天然石油に特徴的な成分が見つかり、瀝青の存在が確認されました。瀝青は天然のアスファルト状の物質です。単に黒い残留物があったから推測したのではなく、化学的な目印を調べています。

脂肪酸の分布からは、植物油と、分解した脂肪の混合が考えられました。ただし脂肪については、保存剤として加えた動物由来のものと、もともと収められていた本人の組織由来のものを区別できませんでした。

こうした油脂、蜜蝋、瀝青を土台に、さらに香りを持つ植物由来の成分が加わっていたと考えられます。

針葉樹の樹脂と、もう一つの香りの材料

樹脂では、アビエチン酸やその酸化生成物などが検出され、マツ科の針葉樹由来の材料が使われていたことを示しました。元の樹脂が時間とともに変化しても、その特徴を残す分子があったのです。

肺の壺からはラリキソールも検出され、カラマツ属の樹脂を候補に挙げる手がかりになりました。ただし、この推定は一つの目印に基づくため慎重さが必要で、ほかのマツ科樹脂との混合も考えられます。

同じ壺では、別の樹脂を示すダンマラン型の成分なども見つかりました。候補はダンマル樹脂、またはピスタキア属の樹脂です。両方に共通する成分や、経年変化で生じうる成分があるため、今回の分析では一意に区別できませんでした。

さらに、安息香酸やクマリンなど、芳香性の植物材料に関わる分子も検出されました。クマリンはバニラ様の香りを持ちますが、広い種類の植物に含まれるため、特定の植物名までは絞れません。

バニリン酸も見つかっていますが、著者はこの文脈では木質の分解に由来する可能性が高いと考えています。名前から古代のバニラ使用を読み取るのではなく、分解を含めた材料の履歴を見ることが重要です。

材料はどこから来たのか

マツ科の針葉樹はエジプトに自生しないため、その樹脂は域外から運ばれた材料である可能性が高いと考えられます。地中海周辺から西アジアに分布する針葉樹などが候補になります。

ピスタキア属なら地中海沿岸からレバントにかけて、ダンマル樹脂なら主に東南アジアの熱帯林が供給地の候補です。もし後者だと確かめられれば、とても遠い土地とのつながりを示すことになります。

ただし論文本文は、現時点ではピスタキア属と考えるほうが、より簡潔な説明になるとしています。ダンマル樹脂の同定自体が未確定なので、この壺から東南アジアとの交易経路が確定したとまでは言えません。

それでも、複数の域外材料を組み合わせる配合は、エジプトが周辺地域から植物材料を調達していたことを具体的に考える証拠です。香りのある樹脂は、儀礼と遠隔地の資源を結ぶ材料でもありました。

二つの壺の違いと、特別な配合

肺の壺では、肝臓の壺で見つからなかった追加の樹脂成分やラリキソールがありました。臓器ごとに配合を変えていた可能性があります。

一方、約3,500年の間に分解の進み方が違ったり、最初から材料が均一に混ざっていなかったりしても、差は生じます。研究者は、臓器別の処方という考えを支持する手がかりとして扱い、決定的な証明とはしていません。

先行するミイラ化材料の分析と比べると、セネトナイのバームは、この時代として非常に複雑でした。とくに蜜蝋と瀝青などを含む配合は、後の時代に広がる処置を先取りしたように見えます。ただ、分析方法や保存状態の違いでも検出できる材料数は変わるため、年代ごとの比較には幅があります。

王家の谷に葬られたことや称号と合わせ、研究者はこの手の込んだ処置を、彼女が王の周囲で高く評価されていた証拠の一つと捉えています。

まとめ

セネトナイの二つの臓器保存壺には、油脂、蜜蝋、瀝青、針葉樹樹脂などを組み合わせた複雑なバームの痕跡が残っていました。香りのある材料の一部は域外から運ばれたと考えられ、儀礼、技術、材料調達のつながりが見えてきます。

樹脂の種類や産地、当時の香り全体には、なお確定できない点があります。それでも、発掘から一世紀以上たった所蔵品に分子の情報が残り、新しい分析で歴史を読み直せたことは大きな成果です。空に見える壺にも、まだ語れる過去が残っていました。

研究と論文公開はマックス・プランク協会などの支援を受け、著者の一人にはJoachim Herz財団のフェローシップ支援がありました。著者は利益相反なしと申告しています。

参考文献

Huber B, et al. (2023). Biomolecular characterization of 3500-year-old ancient Egyptian mummification balms from the Valley of the Kings. Scientific Reports, 13, 12477. 原著論文・公開全文