鼻に入った香りの分子は、そのまま受容体へ届くとは限りません。鼻の奥を覆う粘液にとどめられたり、酵素によって別の分子へ変わったりすることがあります。
2023年の研究は、人から採取した粘液の分析、においの感じ方の試験、培養細胞での受容体実験を組み合わせました。香りを捕まえる働きと、化学的に変える働きを確かめ、さらに年齢による粘液量の違いも調べています。
鼻の粘液は、香りを受け取る前に何をしている?
においの感覚神経は、鼻の上部の「嗅裂」と呼ばれる場所にあり、表面を粘液が覆っています。この粘液にはタンパク質、酵素、無機元素などが含まれます。
研究の目的は、それらの成分が実際に香りの分子を捕まえたり、変換したりするか、その働きが知覚とどう関係するかを調べることです。加えて、粘液の量や性質が年齢とともに違うか、嗅覚の変化を説明する候補になるかも検討しました。
参加したのは、鼻や副鼻腔に明らかな炎症や感覚の訴えがない、日本人の成人30人です。内視鏡で位置を確認し、嗅裂と、より下方の下鼻道に小さな吸収パッドを5分間置いて粘液を採りました。唾液も比較に使っています。
嗅覚検査では、アンブレットリド、フェニルエチルアルコール、tert-ブチルメルカプタンの三つについて、どれくらい薄い濃度まで検知できるかを測りました。
タンパク質や銅を含む、個人差の大きい液体
嗅裂から採れた粘液量には大きな個人差があり、片側当たり7〜144mg、中央値は約37mgでした。タンパク質の濃度は6.2〜20.8mg/mLで、採れた量が少ない人ほど濃い傾向がありました。
嗅裂の粘液は、下鼻道の粘液や唾液より、タンパク質や、マグネシウム、鉄、銅などの濃度が高い傾向を示しました。抗酸化に関わるグルタチオンも検出されています。
銅は、一部の硫黄系のにおいに反応する受容体を助けることが知られています。今回の細胞実験でも、銅を加えるとOR2T11という受容体の反応が高まりました。しかし、人の粘液中の銅濃度と、tert-ブチルメルカプタンへの感度には有意な関連がありませんでした。
細胞で働きを示す成分でも、人の感度の個人差をその量だけで説明できるとは限りません。銅の存在形態や、受容体側の違いなども関わる可能性があります。
香りを捕まえる力はある。でも、感度とは結びつかなかった
香りを捕まえる働きは、粘液に香料を加え、その上の空気へどれくらい出てくるかを測って調べました。結合の性質が知られたブタのタンパク質で測定法を確かめた後、人の粘液を試しています。
アンブレットリド、ムスコン、フェニルエチルアルコールは、嗅裂の粘液と混ぜると、比較用の液体より空気側へ出る量が少なくなりました。試料量の制約で、この初期比較には統計的検定に必要な反復をそろえられませんでしたが、アンブレットリドを詳しく調べると、10倍に薄めた粘液でも保持する働きが見られました。
アンブレットリドは粘液の中に残っており、減少が分解だけによるものではないことも確認しました。保持する力はタンパク質濃度と関連していました。
ところが、その力が強い人ほどアンブレットリドを敏感に嗅ぎ取れる、という関連はありませんでした。著者は、こうした捕捉が、感覚神経の周囲から香りの分子を回収し、長い順応や有害物質の蓄積を防ぐ役割を持つ可能性も考えています。
粘液の酵素は、香りの分子を作り替えた
次に、採取した粘液へ香料を加え、元の分子と生成物を分析しました。たとえば、酢酸p-クレシルはp-クレゾールへ、ベンズアルデヒドはベンジルアルコールへ変わりました。オクタナールからはオクタノールやオクタン酸が生じました。
変わりやすさは分子によって異なります。複数のエステルが分解される一方、立体的に反応しにくい構造を持つ酢酸リナリルなどは、この条件では変換されませんでした。鼻の粘液には、すべてを同じように処理するのではなく、分子を選ぶ性質があります。
酢酸p-クレシルに絞った比較では、10倍に薄めた粘液で5分後の変換率が5〜45%と、人によって違いました。CES-1という酵素も関わる候補でしたが、その酵素だけの液体は粘液と同じ反応を再現できず、阻害剤を加えても粘液には反応が残りました。複数の酵素が働いていると考えられます。
鼻の中の変換は、感じ方にも関わる?
ここを調べるため、8人で「順応」を利用した試験を行いました。同じにおいをしばらく嗅ぐと、後でそのにおいを弱く感じやすくなります。
参加者はp-クレゾールの強さを評価し、別の刺激を2分間嗅いだ後、再びp-クレゾールを評価しました。p-クレゾール自体に慣れたときだけでなく、その変換前の物質である酢酸p-クレシルを嗅いだ後にも、p-クレゾールを弱く感じました。対照のムスコンでは同じ変化は起きませんでした。
二つの分子が同じ受容体を刺激した可能性も調べています。ヒトの378種類の嗅覚受容体を細胞で調べると、p-クレゾールに敏感だったOR9Q2は、酢酸p-クレシルには反応しませんでした。
採取粘液での化学変換、感覚の順応、受容体の反応差を合わせると、鼻の中で酢酸p-クレシルからp-クレゾールが生じ、それが知覚に関わるという説明が支持されます。
著者はさらに、酢酸メンチルを嗅いだときの冷感と、冷感受容体TRPM8の反応にも注目しました。酢酸メンチルは細胞ではTRPM8を活性化せず、変換後のメントールは活性化するため、鼻内での変換を補う手がかりになります。こちらはにおいの質そのものではなく、体性感覚である冷感の議論です。一回の吸気中にどれだけ分子が変わるかを、鼻内で直接時系列測定した研究ではありません。
年齢と粘液量の関係を、細胞モデルで考える
年齢が高い人ほど嗅裂から採れる粘液量が少なく、タンパク質濃度や酵素活性が高い傾向がありました。著者は、水分が減って成分が濃くなっている可能性を挙げています。嗅覚感度の年齢との関連は、今回の三物質ではアンブレットリドで見られ、ほかの二つでは有意ではありませんでした。
粘液量の少なさが受容体の働きへ影響しうるかを、別の細胞実験で調べました。嗅覚受容体を持つ培養細胞の上を覆う培地を減らし、気相から香りを届けたところ、培地を50µLから20µLへ減らすと、二種類の受容体の最大反応は元の約33%、35%になりました。
このモデルは、細胞を覆う液体量が応答を左右しうることを示します。ただし培地は人の粘液そのものではなく、30人の観察と合わせても、鼻へ水分を与えると嗅覚が改善するという治療効果を確かめたものではありません。加齢と感度の関係を、粘液という環境から調べる具体的な仮説を提供しています。
まとめ
人の嗅裂の粘液には、香りの分子を保持し、一部を別の分子へ変える働きがありました。保持する力や銅の量は今回の感度の個人差を説明しませんでしたが、化学変換が感じ方に関わることは、順応と受容体の実験から支持されました。
年齢が高い人で粘液の採取量が少ない傾向と、細胞を覆う液体量が受容体応答に影響する結果も得られました。鼻は香りをただ通す入口ではなく、分子が受容体へ届くまでの環境そのものが、香りの経験に関わっているのです。
論文では、著者8人中7人が花王の社員と記載されています。同社の支援に加え、p-クレゾール受容体、鼻粘液への水分投与法、受容体への気相刺激法に関する特許・出願が開示されています。
参考文献
Shirai T, et al. (2023). Functions of human olfactory mucus and age-dependent changes. Scientific Reports, 13, 971. 原著論文・公開全文


