ヤン・ヴァスニエ(Yann Vasnier)──庭の記憶と都会の感性を香りに

ヤン・ヴァスニエのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「音楽や芸術作品のように、自分を強く揺さぶる香りを作りたいですね。初恋のように胸が高鳴り、美しい映画のように、いくつもの展開と驚きを伴って変化していく香りを。」

ヤン・ヴァスニエ、ミニストリー・オブ・セントのインタビュー、2023年

1976年前後、フランス・ブルターニュ生まれ。

シャネル(Chanel)の香水に夢中だった少年は、やがてトム・フォード(Tom Ford)やマーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)の香りを作る調香師になります。故郷の庭や海岸から受け取った感覚と、ニューヨークで磨いた大胆さ。その両方が、ヴァスニエの作品には息づいています。

大手ブランドの香水と、小さなブランドの実験的な作品を行き来する人でもあります。一つの作風を繰り返すことより、依頼のたびに違う物語と向き合うこと。その仕事のあり方を、ヴァスニエは大切にしてきました。

調香史

ブルターニュの庭で育った感覚

ヴァスニエはブルターニュのレンヌで育ち、19歳までこの土地で暮らしました。2009年のインタビューで33歳と答えていることから、生年は1976年前後と考えられます。

両親は庭づくりに情熱を注ぐ人でした。バラや果樹、さまざまな花が育つ庭が、子供たちにとって身近な遊び場だったのです。長兄は植物学を学び、造園家になりました。家族は兄について、フランスやヨーロッパの有名な庭園を訪ねて回ったといいます。

もう一人の兄は宇宙工学に携わるエンジニアです。兄たちとの関わりは、庭や植物への関心だけでなく、科学や遠い土地への好奇心にもつながっていきました。

幼少期の香りとしてヴァスニエが挙げるのは、両親の庭のバラや果物、海、砂丘、砂、岩です。美しい花の香りと、潮を含んだ海岸の空気が、同じ記憶の中にあります。

その一方で、早くから人工的に組み立てられた香水にも惹かれていました。2009年のインタビューでは、少年時代をこう振り返っています。

「13歳の頃から、お金は全部香水に使っていました。新しい香りを買い、シャネルのコレクションを始めたのです。取り憑かれていましたし、今もそうです。」

ヤン・ヴァスニエ、ニューヨーク・バタフライのインタビューより(2009年)

ブランドだけでなく、創業者や職人仕事、カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)の世界にも心を奪われていたといいます。同僚がのちに彼を熱烈なシャネル好きと呼んだのも、長い時間をかけて育った愛情を知っていたからでしょう。

サン・マロやディナールに滞在すると、ディヴィンヌ(Divine)のイヴォン・ムーシェル(Yvon Mouchel)が営む香水店へ通いました。そこではアニック・グタール(Annick Goutal)やセルジュ・ルタンス(Serge Lutens)など、当時の個性的な香水に出会えました。後年、ムーシェルから香りを任されることになるのですから、この店は買い物の場所以上の意味を持っていたのでしょう。

フランソワーズ・キャロンのもとへ

調香師を目指し、ヴァスニエは数学、化学、物理を学び、バカロレア取得後はグランゼコールの準備学級へ進みます。その後、ヴェルサイユの香水学校イジプカ(ISIPCA)で専門教育を受けました。講演者紹介では、1999年に首席で卒業したとされています。

在学中の1996年には、クエスト・インターナショナル(Quest International)で研修を始めています。学校と実務の双方で学び、パリのファインフレグランス部門でフランソワーズ・キャロン(Françoise Caron)の指導を受けました。

キャロンは、ヴァスニエが繰り返し師として挙げる存在です。同じ職場にはクリスティーヌ・ナジェル(Christine Nagel)、フランシス・クルジャン(Francis Kurkdjian)、クリストファー・シェルドレイク(Christopher Sheldrake)らもおり、それぞれ異なる感性に触れる機会がありました。

2001年には国際若手調香師賞を受賞。同年のコム デ ギャルソン(Comme des Garçons)の「シリーズ2 レッド パリサンダー(Series 2: Red – Palisander)」と「シリーズ2 レッド ローズ(Series 2: Red – Rose)」は、初期の仕事を代表する作品です。キャロンとの仕事から出発しながら、ヴァスニエ自身の香りの輪郭も形になっていきます。

ニューヨークが開いた仕事と友情

2003年7月、ヴァスニエはクエストのニューヨーク拠点へ移ります。のちに、この決断についてこう語っています。

「間違いなく、キャリアの中で最良の決断でした。私生活にとっても、大きな転機でした。」

ヤン・ヴァスニエ、ミニストリー・オブ・セントのインタビューより(2023年)

仕事の機会だけでなく、人との出会いにも開かれた都市でした。とりわけ重要なのが、同僚のロドリゴ・フローレス=ルー(Rodrigo Flores-Roux)との関係です。

二人が初めて会ったのは1999年、パリのクエストでした。2003年に再び同じチームで働くことになり、オフィスや研究室の改修中には部屋も共有します。仕事が採用された喜びから、家族や恋人の悩みまで話し合う友人になりました。共同制作で意見が食い違ったこともあったものの、それを乗り越えたことも共同インタビューで明かしています。

2004年には調香師へ昇進。2007年にクエストがジボダン(Givaudan)へ統合されると、ヴァスニエもジボダンの一員となりました。

ニューヨークとパリの両方で仕事をしてきた経験については、アメリカの効率のよさ、気取らなさ、楽しさと、フランスのスタイル、細部への注意、研究の深さを、それぞれ好ましく感じていると話しています。

ブランドの物語を香りへ変える

ヴァスニエの仕事は、ブランドが持ち込む物語、画像、音楽、色彩などから始まります。まずコンピューターで処方を考え、研究室で調合した試作品を、評価担当者とともに嗅いでいきます。依頼主の好みやブランドの方向を理解する評価担当者は、最初の提案を整える大切な協働者です。

提案後も往復は続きます。同じ会社の中でも、他の香料会社とも競いながら、試作を重ねていく仕事です。ヴァスニエは、独自性、新しさ、上品さを求めながら、依頼主と最終的な使い手を満足させたいと語っています。

好む素材には、木の香り、スパイス、アンバー、インセンスがあります。ブルターニュの砂丘に育つイモーテルへの親しみも、その一つです。2023年には、新しいスパイス抽出物や、副産物を活用した天然香料の分画にも関心を寄せていました。

「シモガ産の切りたてのジンジャーのような、新しいフレッシュなスパイスの抽出物で遊ぶのが好きです。新しい側面をもたらす、アップサイクルされた天然原料の分画にも惹かれます。」

ヤン・ヴァスニエ、ミニストリー・オブ・セントのインタビューより(2023年)

幼い頃の記憶に親しむ一方で、新しい抽出技術にも目を向ける。素材の印象を色や質感に結びつける感覚には、絵を描いてきた経験も関係しているといいます。

独立しないという選択

ヴァスニエは、大手のファッションブランドだけでなく、パルファン・デルレイ(Parfums DelRae)、ディヴィンヌ、アルキステ(Arquiste)などにも作品を提供しています。小さなブランドでは意思決定者と直接話せるため、制作が進めやすいことがあると説明しています。

そうした仕事が増えると、自分のブランドを持たないのかと尋ねられることもあります。2010年の共同インタビューで、その考えを次のように述べました。

「市場にはすでにたくさんのブランドがあります。コンセプトが本当に新しく、違いがあり、香水も素晴らしいものでなければなりません。私たちは大好きなブランドとそれを実現する機会を持っているので、自分で始める必要性はあまり感じません。」

ヤン・ヴァスニエ、カフルールボンの共同インタビューより(2010年)

2023年にも、独立を考える機会はありながら、実際に踏み出すことはなかったと語っています。一つのブランドを経営し続けるより、毎日違う依頼に向き合う現在の仕事が、本人の好奇心に合っているのでしょう。

また、調香師は日々作品を評価され、ときには厳しい批評を受けるとも話しています。批評をすべて自分自身への評価として受け止めず、距離を学ぶことも仕事の一部です。香料の使用条件が変わり、親しんだ素材を置き換える作業についても、創作とは別の難しさを感じてきました。

代表作とその背景

ゴールド──三人で組み上げたユリ

ダナ キャラン(Donna Karan)の「ゴールド(Gold、2006年)」は、共同制作の役割が具体的に語られた作品です。カリス・ベッカー(Calice Becker)がユリのアコードを作り、ヴァスニエが身につけやすい形へ整え、フローレス=ルーがみずみずしいトップノートを仕上げました。

完成した香りを三人がそれぞれ別の角度から支えています。共同調香という言葉の裏側に、どのような分担があったのかを知ることのできる例です。

ロラとバング──個性を多くの人へ届ける

マーク・ジェイコブスの「ロラ(Lola、2009年)」は、ベッカーとの共同調香です。2010年のフィフィ賞(FiFi Awards)で女性向け高級フレグランス部門を受賞し、ヴァスニエの名前が広く知られる契機になりました。

本人は、この種の賞がブランドと商業的成功を評価する面もあると、慎重に受け止めています。それでもロラや「バング(Bang、2010年)」、シックス センツ(Six Scents)との仕事が、キャリアの重要な節目だったことは認めています。

マーク・ジェイコブスについては、直感的で完璧主義者であり、求めるものをよく理解していると評しています。調香師の個性を押し出すだけではなく、依頼するデザイナーの判断力にも応える仕事だったのです。

サンタル ブラッシュとコスタ アジューラ

トム・フォードの「サンタル ブラッシュ(Santal Blush、2011年)」は、メイクアップコレクションに呼応する香りとして作られました。制作意図としてヴァスニエが挙げたのは、官能性、豊かさ、質感、クリーミーさを、柔らかく自然な魅力として伝えることです。

サンダルウッドの柔らかな感触にスパイスを重ねる構成は、木の香りを好むヴァスニエの感性とも結びついています。

一方、「コスタ アジューラ(Costa Azzurra、2014年)」の出発点は地中海沿岸です。潮気、流木、松やオークの森、野生の香草を思わせる情景を組み立てました。海藻や流木のアコードに、柑橘、ジュニパー、ラベンダー、シダー、サイプレスなどが重なり、海と陸地の境目を描きます。

同じ2014年の「ヴェルヴェット オーキッド(Velvet Orchid)」では、ベッカー、アントワン・メゾンデュー(Antoine Maisondieu)、シャマラ・メゾンデュー(Shyamala Maisondieu)と共同制作しました。専門媒体では、ベッカーがトップ、ヴァスニエがハート、メゾンデュー夫妻がベースを担当したと紹介されています。

トゥルドン──香りを強くすることの難しさ

トゥルドン(Trudon)との仕事では、「モルテル(Mortel、2017年)」「エラエ(Elae、2019年)」「メディエ(Médie、2019年)」を手がけました。

モルテルは黒胡椒、フランキンセンス、ミルラの熱を感じる香り。エラエはネロリ、イランイラン、サンダルウッドを軸にした明るい花の香り。メディエではグレープフルーツやマンダリンなど、柑橘の輝きが前に出ます。

モルテルを発展させた「モルテル ノワール(Mortel Noir)」では、香りの強さと持続性を高め、マダガスカル産の黒胡椒を増やしました。ヴァスニエは、この仕事をこう振り返っています。

「好きなものには、もっと、もっと、と欲張りたくなるものです。処方のすべての要素のバランスを取り直す、技術的に難しい作業でした。」

ヤン・ヴァスニエ、ミニストリー・オブ・セントのインタビューより(2023年)

単に濃くすれば、元の香りがそのまま強くなるわけではありません。求める印象を維持しながら、素材同士の関係を組み直す必要があったのです。

アルキステと、その後の評価

建築家だったカルロス・ウーバー(Carlos Huber)とヴァスニエは、友人を通して出会いました。ヴァスニエがフローレス=ルーを紹介し、ウーバーは香りについて学び始めます。やがて生まれたのが、歴史上の時間と場所を香りで描くアルキステです。

「アニマ ドゥルシス(Anima Dulcis、2011年)」はフローレス=ルーとの共同調香。「ジ アーキテクツ クラブ(The Architects Club、2014年)」では、スモーキーな木とバニラに、ジンやジュニパーを思わせるひねりを加えました。

2021年には、前年発売のトム・フォード「ブラック オーキッド パルファム(Black Orchid Parfum)」が、米国フレグランス・ファウンデーション賞のユニバーサル・プレステージ部門を受賞しています。

さらにレゼルヴァシオン(Réservation)の「スイート909(Suite 909、2025年)」は、2026年のフランス・フレグランス・ファウンデーション年間レヴェレーションで、新興独立ブランド部門の最優秀ニッチフレグランスに選ばれました。長年の協働に加え、新しいブランドとの仕事も続いています。

ちなみに…

ヴァスニエが調香以外で大きな情熱を注ぐのは現代アートです。美術館やギャラリーを訪れ、以前はアクリル画もよく描いていました。旅をして新しい場所を発見することも好きだといいます。

理想のパリの休日は、早起きして泳ぎ、庭園や公園、セーヌ沿いを歩くか走ることから始まります。テラスで昼食を取り、展示を見て、友人と夕食を楽しみ、音楽に合わせて少し踊る。2010年のインタビューでは、ハウスやテクノ、テキーラを挙げて、パーティー好きな一面も見せています。

ニューヨークでは、チェルシーの住まいの暖炉やテラスを気に入り、街を歩くことを楽しんでいました。食の話題では、魚介料理のマレア(Marea)、故郷を思い出させるバール・ブルトン(Bar Breton)などを挙げています。いずれも当時のインタビューで語られた好みです。

尊敬する調香師には、シャネルの往年の香りを作ったエルネスト・ボー(Ernest Beaux)や、イジプカで最初の授業を受けたドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)、ソフィア・グロスマン(Sophia Grojsman)、そして師のキャロンらがいます。

もし調香師でなかったら、という問いには、建築は以前から頭にあり、今は彫刻にも惹かれていると答えました。香りの構造を考える人が、空間や立体にも関心を寄せていることは興味深いところです。

調香作品

代表作を年代順に掲載します。共同調香師欄の「—」は、参照資料でヴァスニエ以外の調香師が挙げられていない作品です。

年 ブランド 作品名 共同調香師
2001 コム デ ギャルソン シリーズ2 レッド パリサンダー フランソワーズ・キャロン
2001 コム デ ギャルソン シリーズ2 レッド ローズ フランソワーズ・キャロン
2004 ケイコ メシェリ(Keiko Mecheri) グルマンディーズ(Gourmandises) —
2005 ジャック ブラック(Jack Black) シグネチャー ブラック マーク(Signature Black Mark) —
2005 ディヴィンヌ ロム サージュ(L’Homme Sage) —
2005 セルッティ(Cerruti) 1881 コレクション(1881 Collection) ロドリゴ・フローレス=ルー
2006 ダナ キャラン ゴールド カリス・ベッカー、ロドリゴ・フローレス=ルー
2009 マーク・ジェイコブス ロラ カリス・ベッカー
2009 ディヴィンヌ オー ディヴィーヌ(Eau Divine) —
2010 マーク・ジェイコブス バング —
2010 パルファン・デルレイ クー ドゥ フードル(Coup de Foudre) —
2010 シックス センツ シリーズ3 オーネ ティテル(Series Three – Ohne Titel) —
2011 マーク・ジェイコブス バング バング(Bang Bang) —
2011 マーク・ジェイコブス オー、ロラ!(Oh, Lola!) カリス・ベッカー
2011 トム・フォード サンタル ブラッシュ —
2011 トム・フォード ラベンダー パーム(Lavender Palm) —
2011 アルキステ アニマ ドゥルシス ロドリゴ・フローレス=ルー
2011 アルキステ インファンタ アン フロール(Infanta en Flor) —
2011 トゥルー リリジョン(True Religion) ドリフター(Drifter) —
2013 トム・フォード プラム ジャポネ(Plum Japonais) —
2013 トム・フォード ウード フルール(Oud Fleur) —
2013 トム・フォード ロンドン(London) —
2013 アダム・レヴィーン(Adam Levine) フォー メン(for Men)/フォー ウィメン(for Women) —
2013 ヴィクトリアズ シークレット(Victoria’s Secret) ヴィクトリア(Victoria) アドリアナ・メディナ(Adriana Medina)、スティーヴン・ニルセン(Stephen Nilsen)、オーレリアン・ギシャール(Aurélien Guichard)、カンタン・ビシュ(Quentin Bisch)
2014 アルキステ ジ アーキテクツ クラブ —
2014 トム・フォード コスタ アジューラ —
2014 トム・フォード ヴェルヴェット オーキッド カリス・ベッカー、アントワン・メゾンデュー、シャマラ・メゾンデュー
2016 トム・フォード ヴェール ダンサン(Vert d’Encens) —
2017 トム・フォード バニラ ファタール(Vanille Fatale) —
2017 ジョー マローン ロンドン(Jo Malone London) イングリッシュ オーク&ヘーゼルナッツ(English Oak & Hazelnut) —
2017 トゥルドン モルテル —
2019 トゥルドン エラエ —
2019 トゥルドン メディエ —
2019 ジョー マローン ロンドン ケード&シダーウッド(Cade & Cedarwood) —
2019 ジョー マローン ロンドン ウィロー&アンバー(Willow & Amber) —
2019 モスキーノ(Moschino) トイ ボーイ(Toy Boy) —
2020 トム・フォード ブラック オーキッド パルファム —
2021 メモ パリ(Memo Paris) シシリアン レザー(Sicilian Leather) —
2022 アトキンソン(Atkinsons) ジェームズ(James) —
2024年以降の新解釈 ディヴィンヌ レートル エメ(L’Être Aimé) イヴォン・ムーシェル
2025 レゼルヴァシオン スイート909 —

レートル エメは以前の同名作品と区別した新解釈です。発売年を2024年とする紹介と2025年とするデータベースが存在します。ドリフターは制作実績で2010年、香水データベースでは2011年と記載される場合があります。

参考文献