森を映したVRを見ながら、「この装置は匂いも再現します」と説明されたら、鼻に届く香料がなくても森の匂いを感じるのでしょうか。2025年、Anton BergとPentti Henttonenは、アマゾンの森の映像と、実際には香料を出さない装置を使い、この問いを調べました。
結果として、匂いも再現されると説明された人たちは、そう説明されなかった人たちより、嗅覚体験を報告しやすくなりました。研究の焦点は、鼻へ入る分子だけでなく、「これから何を感じるはずか」という短時間の期待が、匂いの体験やその報告にどう関わるかです。
本物らしい装置で、匂いへの期待をつくる
参加したのは大学の学生や職員など成人30人で、女性が21人でした。研究者は、期待を操作する群16人と、対照群14人に分けました。割り付けは論文で「擬似ランダム」とされており、厳密な無作為化試験と同じ扱いにはできません。実験の計画と主な仮説は、あらかじめ登録されていました。
期待を操作する群には、映像と音に加えて匂いもモデル化しており、室内へ蒸気が出ると説明しました。さらに、水の蒸気を出すディフューザーにケーブルや小型コンピューターを組み合わせた、匂いを再現する装置らしい外観を見せました。対照群には、この説明と装置の実演がありませんでした。
どちらの群も、VRヘッドセットでアマゾンの森を描く360度映像を見ました。1分間の映像を2回、合計2分間です。装置から森の香料を放出する操作はしていません。ただし、普通の室内での実験なので、空気に一切のにおい物質がないことを化学測定で確かめた試験ではありません。
何を「匂いの体験」として尋ねたのか
映像を見た後、参加者は、嗅覚の体験がどれくらい現実的で説得力があったかを1~10で答えました。同様に、映像、音、身体の感覚、VR体験全体についても評価しています。これは匂いの強さそのものの尺度でも、実際の香料を当てる正答率でもありません。
さらに、感じた匂いの内容や、特に強く感じた場面などを自由に記述しました。研究者は、その回答を「感じなかったと確信」「感じたか不確か」「感じたと確信」の3種類に分けました。
参加者の想像に没頭しやすい傾向、VRへの没入度、嗅覚をどれくらい大切にしているか、社会的に望ましい答えをしようとする傾向なども質問紙で調べました。匂いの報告の違いを、こうした要因だけで説明できるかも検討するためです。
期待を持たせた群では、16人中10人が明確に報告
自由記述の分類では、期待を操作した群の16人中10人が、匂いを感じたと確信している回答になりました。不確かな回答が3人、感じなかった回答が3人です。対照群14人では、感じたと確信する回答が2人、不確かな回答が1人、感じなかった回答が11人でした。
この分布には統計的な群間差があり、不確かな回答を「感じた」に含めるかどうかを変えても、説明と装置を提示した群のほうが報告しやすいという結果は残りました。ただし、説明された全員が感じたわけでも、説明のない群では誰も感じなかったわけでもありません。
嗅覚体験の現実らしさの平均は、期待操作群が3.56点、対照群が1.86点でした。1~10の尺度で有意な差はありましたが、期待操作群でも平均が最高点に近いほど鮮明だったわけではありません。映像、音、身体の感覚、体験全体の評価には、有意な群間差は見られませんでした。
質問紙の得点やVR経験などを含めた解析でも、期待操作と嗅覚体験の評価の関連は残りました。単にVR全体を高く評価した人が、すべての項目を高く採点した、という結果ではなかった点を、著者らは重視しています。
期待が知覚に加わるという考え方
著者らが手掛かりにしたのは「予測処理」という考え方です。脳は外からの情報を受け取るだけでなく、経験や状況から、何がそこにあるはずかを予測する。その予測と入ってきた情報が組み合わさって、体験が成り立つと考えます。
今回なら、森の映像に加え、匂いも出るという説明と装置の外観が、森の匂いを期待させる材料になります。著者らは、短い事前説明でも嗅覚体験の報告が変わったことを、嗅覚にも上からの予測が関わるという枠組みを支持する結果と解釈しました。VRは、場面を共有しながら期待の条件を変えられるため、その働きを調べる道具になり得るという提案です。
本当に感じたのか、答え方が変わったのか
この研究だけでは、本人の知覚自体が変わった部分と、「匂いを答える実験なのだろう」という理解から回答が変わった部分を分けきれません。社会的に望ましい回答をしようとする傾向を解析に入れても、この問題が完全に解決するわけではありません。著者らも、体験したことと、体験を報告したことを区別できない設計だったと認めています。
加えて、自由記述を分類した研究者は、参加者がどちらの群かを知っていました。分類に期待が入り込む可能性があり、参加者自身の嗅覚能力を実測した基準値もありません。30人という小規模な実験で、映像と期待操作も一組だけです。
著者らは今後、群を知らない第三者による回答の分類、行動や生理反応の測定、本物の匂いを提示する条件との比較が必要だとしています。嗅覚障害のリハビリテーションなどへの応用も展望していますが、今回は患者への治療試験ではなく、嗅覚を回復させた証拠ではありません。
まとめ
香料を出さないVRでも、匂いが出るという説明と装置の実演を加えると、森の匂いを感じたという報告が増えました。その変化は嗅覚の評価に現れ、映像や音を含む体験全体の評価が一様に上がったわけではありませんでした。
ここから見えてくるのは、匂いの体験を理解するためには、外から与える刺激だけでなく、これから何を感じると思っているかも調べる必要があるということです。VRで期待を操作する方法は、その働きを実験で捉える入り口になります。知覚の変化と回答の変化を分けて確かめることが、次の重要な一歩です。
参考文献
Berg, A., & Henttonen, P.(2025). Believing in simulated virtual scents produces reported olfactory sensations. Scientific Reports, 15, 41583. DOI: 10.1038/s41598-025-25418-1 / 原著全文。
原著:© The Author(s) 2025. CC BY-NC-ND 4.0。


