ピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン(Pierre-François-Pascal Guerlain)──皇后のコロンを生んだ、ゲランの創業者

ピエール・フランソワ・パスカル・ゲランのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「良い製品を作りなさい。品質には決して妥協しないこと。それ以外は、シンプルな考えを持ち、それを誠実に実行しなさい。」

ピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン

1798年〜1864年

調香史

パリへ向かった、北フランスの青年

ミツコやシャリマーで知られるゲラン(Guerlain)。その歴史をさかのぼると、皇后に捧げたオーデコロンと、パリの一軒の店に行き着きます。

創業者ピエール・フランソワ・パスカル・ゲランが生まれたのは、1798年4月。北フランス、ピカルディ地方のアブヴィルでした。父は錫器やろうそく、食料品などを扱っていたと伝えられています。のちに彼の人生を描いた作品では、香辛料のある店の風景も印象的に取り上げられました。

しかし、家の商売をそのまま継ぐのではありません。19歳になった1817年、ゲランはパリへ出ます。香水を製造・販売するメゾン・ブリアール(Maison Briard)で商業の仕事に就き、続いてディセー・エ・ピヴェール(Dissey & Piver)で経験を積みました。

この頃の香水商は、香りを調合するだけの仕事ではありませんでした。石けん、クリーム、化粧水なども扱い、材料を仕入れ、製造し、店頭で顧客の相談に応じます。ゲランも、その実務の中から香水と化粧品の世界を学んでいったのです。

その後、彼はイギリスへ渡ります。当時のイギリスは香水や化粧品の製造でも先行していた国でした。ゲランは現地の製品や製法に触れ、化学の授業を受けます。のちに自分の店でイギリス製品を扱った背景には、この経験がありました。

30歳で開いた、リヴォリ通りの店

1828年、ゲランはパリのリヴォリ通り42番地に店を開きます。30歳のときでした。

彼が名乗ったのは、香水師兼芳香酢製造者を意味する「パルフュムール・ヴィネーグリエ(parfumeur vinaigrier)」です。今日の香水ブティックから想像するより、店の守備範囲はずっと広いものでした。香水のほかに石けん、クリーム、化粧水、髭剃り用品などを取りそろえ、フランスとイギリス双方の製品を販売していました。

自作の香水だけを並べ、初日から大勢の客を集めた、というわけではありません。すでに知られていた輸入製品も扱いながら、自分の店への信頼を少しずつ築いていきます。

創業時の香水として伝わるのが、サントゥール・デ・シャン(Senteurs des Champs)、ブーケ・デュ・ロワ・ダングルテール(Bouquet du Roi d’Angleterre)、エスプリ・ド・フルール(Esprit de Fleurs)などです。田園、花、王侯への献辞。初期の作品名には、当時の香水に求められた世界が表れています。

この時代、香水は肌につけるものだけではありませんでした。ハンカチや衣服、手紙に香りを添え、室内でも使われます。ゲランの仕事も、身につける香水という一つの枠では収まらない、暮らしの中の香りと関わっていました。

香水と同じくらい、化粧品にも向き合う

ゲランがイギリスから持ち帰った知識は、化粧品の事業でも生かされます。

その一例がゴーランド・ローション(Gowland’s Lotion)です。イギリスで知られていた化粧水を販売するだけでなく、処方を改め、自社製品として展開しました。この改良と特許をめぐる経緯は、薬学史の研究でも取り上げられています。

ただし、19世紀の化粧品を、現在と同じ安全性の基準で受け取ることはできません。当時の処方には、いまの化粧品とは異なる成分や考え方が見られます。ここで重要なのは、現代的な美容効果を先取りしていたということより、ゲランが製品の中身と製造方法にも関心を持つ事業家だったという点でしょう。

初期の商品には、ボーム・ド・ラ・フェルテ(Baume de la Ferté)というバームや、コールドクリーム、髭剃り用のクリームなどもありました。香水と化粧品を別々に考えるのではなく、顧客の身だしなみ全体に応える。その幅広さも、創業期のゲランを支えていました。

バルザックのための香り、雑誌から届く香り

店の評判が高まるにつれ、ゲランは文化人や上流階級の顧客を持つようになります。その中でよく語られる人物が、作家オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)です。

バルザックは、香水商を主人公とする小説『セザール・ビロトー(César Birotteau)』を1837年に発表しました。ゲランは彼のための香りを作ったとされ、ブーケ・ド・セザール・ビロトー(Bouquet de César Birotteau)という名も、メゾンの歴史に残されています。

なお、小説の主人公のモデルとして知られるのは、別の香水商ジャン=ヴァンサン・ビュリー(Jean-Vincent Bully)です。ゲランがバルザックと関わりを持ったという話と、主人公のモデルだったという話は、分けて考えたいところです。

顧客やその人の世界に結びついた香りを作る仕事は、のちの宮廷向けの創作にもつながっていきます。ゲランだけがオーダーメイド香水を発明したわけではありませんが、特定の人物に捧げる香りが、この店の評判を形作ったことは確かです。

一方で、ゲランは新しい人に香りを知ってもらう方法も試していました。

1839年、アンリ・ド・ヴィルメサン(Henri de Villemessant)のファッション誌『ラ・シルフィード(La Sylphide)』では、ゲランの香料を使った小袋を雑誌に添える試みが行われます。香りを提供することと引き換えに、誌面で店を紹介してもらうという仕組みでした。

文章や絵だけでは、香水のよさは伝えきれません。実際に香りを届けるこの方法は、今日の香りつき広告やサンプル配布を思わせる、早い時期の事例です。ゲランの仕事には、調合だけでなく、香りと顧客の接点を作る工夫もありました。

ラ・ペ通りへ、そして宮廷へ

事業は順調に広がり、1842年には店をラ・ペ通り11番地へ移します。番地はのちに15番地となり、この住所がメゾンの歴史に長く刻まれることになりました。

製造の規模も大きくなっていきます。エトワール近くの製造拠点を経て、1844年にはパッシーに移り、1854年にはパリ郊外のコロンブに蒸気動力を使う工場を設けました。上質な店頭の奥には、それを支える製造設備と事業の判断があったのです。

そして、その間の1853年に、ゲランの名を決定的に広める香りが誕生します。

ナポレオン3世(Napoléon III)と皇后ウジェニー(Eugénie)の婚礼に際して作られた、オーデコロン アンペリアル(Eau de Cologne Impériale)です。皇后のために捧げたこのコロンは、ゲランが皇后御用達の地位を得るきっかけとなりました。

その後、メゾンの歴史には、イギリスのヴィクトリア女王(Queen Victoria)、スペインのイザベラ2世(Isabella II)、オーストリアのエリザベート皇后(Empress Elisabeth)らの名も登場します。北フランスから出てきた青年の店は、ヨーロッパの宮廷と結びつく香水店へと成長していったのです。

皇后のコロンと、69匹の蜂

オーデコロン アンペリアルを語るとき、香りと切り離せないものがあります。69匹の蜂で飾られた、ビー・ボトル(Bee Bottle)です。

蜂はフランス帝政の象徴でした。その模様をガラスに刻み、ヴァンドーム広場の記念柱を着想源とする装飾を組み合わせています。製造を担ったのは、ポシェ・エ・デュ・クールヴァル(Pochet & du Courval)のガラス工房でした。

金色の蜂を施す仕上げには、現在も手仕事が生きています。香りのために生まれた容器が、やがてメゾンそのものの象徴になったわけです。

香りは、ベルガモットやレモンの明るさに、ネロリのやわらかな花の気配を重ねた、清々しいコロンです。ラベンダーなどの芳香も、その爽やかな印象を支えています。

皇后の頭痛を和らげるために作られた、とも伝えられています。ただし、これは香水の誕生をめぐる物語であり、香水に医学的な治療効果があるという意味ではありません。皇后にとって心地よい香りを考えた、という個人的な関係のほうに、この作品らしさを感じます。

一人のために作った香りが、長い時を経てメゾンの原点として語り継がれる。オーデコロン アンペリアルは、創業者の仕事を知るうえで、欠かせない作品です。

花束の名に残された、19世紀の香水

創業者の作品は、オーデコロン アンペリアルだけではありません。

初期作のサントゥール・デ・シャンは、「田園の香り」という名を持ちます。故郷の風景を思い浮かべたくなる名前ですが、具体的にどの記憶から作られたのかを、作品名だけで決めつけることはできません。むしろ、花や自然の印象を名前に託した、初期のゲランを伝える作品として捉えられます。

また、ブーケ・ド・ヴィクトリア(Bouquet de Victoria)や、1840年のプリンス・アルバーツ・ブーケ(Prince Albert’s Bouquet)には、イギリス王室との関係がうかがえます。後者はヴィクトリア女王とアルバート公の婚礼に結びつけて紹介される香りです。

1830年代の作品として記録されるシプレ(Chypre)も興味深い存在です。シプレという名称や香りの伝統は、20世紀になって突然現れたものではありません。ゲランの初期作品にも、その系譜を見ることができます。

ただし、19世紀のシプレと、のちにフランソワ・コティ(François Coty)が1917年に発表したシプレを、同じ構造の香水と考えるわけにはいきません。同じ名の下で、素材も香りの組み立て方も変化していったのです。

ゲランでは1903年にも、ジャック・ゲラン(Jacques Guerlain)のシプレが登場します。初期作と後年の作品を並べると、一つのメゾンの中でも、香りの言葉が世代を越えて書き換えられていく様子が見えてきます。

香水一族へ受け継がれた仕事

1864年11月2日、ゲランはコロンブで亡くなります。66歳でした。

晩年には、息子たちも事業に関わっていました。創作を担ったエメ・ゲラン(Aimé Guerlain)と、商業面を担ったガブリエル・ゲラン(Gabriel Guerlain)です。父の死後、二人はそれぞれの役割からメゾンを支えていきます。

エメは1889年にジッキー(Jicky)を発表しました。天然香料と合成香料を組み合わせた、近代香水の重要な作品です。創業者が宮廷のためにコロンを作った時代から、自然の香りを写すだけではない、より抽象的な香りへ。メゾンの仕事は、新しい時代に踏み出します。

さらにエメの指導を受けたジャックが、アプレ ロンデ(Après l’Ondée、1906年)、ルール ブルー(L’Heure Bleue、1912年)、ミツコ(Mitsouko、1919年)、シャリマー(Shalimar、1925年)などを生み出していきました。

これらは創業者自身の作品ではありません。しかし、調香の仕事を一つの家の中で育て、事業として継続できる形にしたことも、彼が残したものです。1994年にエル・ヴイ・エム・エイチ(LVMH)の傘下に入るまで、メゾンは長くゲラン家とともに歩みました。

創業者の言葉として伝えられている、もう一つの短いモットーがあります。

「栄光は束の間のもの。名声だけが長く残ります。」

ピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン

冒頭の、品質には妥協しないという言葉と並べると、このモットーはよく響き合います。宮廷の称号も、美しい容器も、評判を広める力を持っています。しかし、その名を次の世代に手渡すには、製品を作り続ける仕事が必要です。

ゲランの歴史の最初にいるのは、皇后のために香りを作った調香師であると同時に、その長い仕事の土台を築いた創業者でもありました。

ちなみに…

ゲランは1830年、医師の娘ルイーズ=アデライード・ブレー(Louise-Adélaïde Boulay)と結婚し、5人の子どもをもうけたと伝えられています。のちに息子たちが事業を継いだこともあり、メゾンの歴史はそのまま家族の歴史として語られてきました。

また、ゲランの初期史には、香水以外の興味深い化粧品も登場します。ラ・ピロメ(La Pyrommée)は、その一つである目元用の化粧品です。東方の美容法にまつわる物語とともに紹介され、長くメゾンの品ぞろえの一部となりました。こうした商品の存在からも、19世紀の香水商が、美容全体を扱う仕事だったことが分かります。

その人生を物語として読みたい人には、香水史家エリザベット・ド・フェドー(Élisabeth de Feydeau)の『ゲラン一族の物語──パリの香水師たち(Le Roman des Guerlain : Parfumeurs de Paris)』(2017年)があります。

2018年には、ピエール=ロラン・サン=ディジエ(Pierre-Roland Saint-Dizier)の脚本と、リ=アン(Li-An)の作画によるグラフィックノベル『ゲラン──香水の王子(Guerlain : Le Prince des parfums)』の第1巻も刊行されました。創業者の時代を描く作品ですが、人物の台詞には物語としての脚色も含まれます。実際に残された発言とは区別しながら読むことで、歴史と創作の両方を楽しめる一冊です。

調香作品

創業者の活動期に記録されている、ゲランの主な香りです。19世紀の商品には、資料による年代や名称の違いがあります。年はおおよその記録を含み、後年の同名作品と、同じ処方であることを意味するものではありません。

ブランド 作品名 共同調香師・補足
1828年 ゲラン サントゥール・デ・シャン 初期作。「田園の香り」
1828年 ゲラン ブーケ・デュ・ロワ・ダングルテール イングランド国王にちなむ名
1828年 ゲラン エスプリ・ド・フルール 初期作。「花の精」
1828年 ゲラン ローズ・エキストラクト(Extract of Roses) 初期のバラの香り
1828年 ゲラン エステルハージ・ミクスチャー(Esterhazy Mixture) エステルハージ家にちなむ名
1828年 ゲラン オー・ダルクブザード(Eau d’Arquebusade) 当時の芳香水の名称
1830年頃 ゲラン オー・ド・ラ・レーヌ(Eau de la Reine) 「女王の水」
1830年頃 ゲラン エスプリ・ド・フルール・ド・セドラ(Esprit de Fleurs de Cédrat) セドラは柑橘のシトロンを指す名称
1830年頃 ゲラン オー・デステルハージ(Eau d’Esterhazy) 初期の商品記録に登場
1833年頃 ゲラン シプレ 1903年の同名作とは区別
1833年頃 ゲラン ヴィオレット(Violette) スミレの名を持つ香り
1833年頃 ゲラン ミュゲ(Muguet) スズランの名を持つ初期作
1830年代 ゲラン ブーケ・ド・ヴィクトリア 資料に1833年頃などの記録がある
1830年代 ゲラン ブーケ・ド・セザール・ビロトー 一部の商品年表は1834年とする。小説の刊行は1837年
1834年頃 ゲラン ブーケ・アンディアン(Bouquet Indien) 「インドの花束」
1839年頃 ゲラン オー・ド・コロン・アンペリアル・リュス(Eau de Cologne Impériale Russe) ロシアにちなむ名
1840年 ゲラン ブーケ・クラトリスキー(Bouquet Cratorisky) ポーランドのチャルトリスキ公に結びつけて紹介される作品
1840年 ゲラン プリンス・アルバーツ・ブーケ イギリス王室の婚礼にちなむ作品
1842年 ゲラン ブーケ・ド・スヴラン(Bouquet de Souverains) 君主たちへの献辞を持つ名
1853年 ゲラン オーデコロン アンペリアル 皇后ウジェニーに捧げたコロン
1853年 ゲラン ブーケ・ド・ランペラトリス(Bouquet de l’Impératrice) 皇后にちなむ名
1853年 ゲラン ブーケ・ド・ナポレオン(Bouquet de Napoléon) ナポレオンにちなむ名
1853年 ゲラン トリプル・エクストレ・ド・シプレ(Triple Extrait de Chypre) シプレを名に持つ香り
1859年 ゲラン ゼフィール・ド・ラ・レジャント(Zéphyre de la Régente) 歴史的な商品記録に登場
1863年頃 ゲラン パルファン・アンペリアル(Parfum Impérial) 創業者晩年の商品記録に登場
1863年頃 ゲラン パルファン・ド・フランス(Parfum de France) 創業者晩年の商品記録に登場
1863年頃 ゲラン オー・ド・コロン・リュス(L’Eau de Cologne Russe) 1839年頃のロシア名のコロンとは別項目として記録

参考文献