エメ・ゲラン(Aimé Guerlain)──花を写す香りから、心を動かす香りへ

エメ・ゲランのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「ほかの人と違っていたいなら、女性はそれぞれ自分の香りを持たなければならない。」

エメ・ゲランの言葉として、ザ・パフューム・ソサエティ、2018年

1834年生まれ、1910年2月26日没。

ゲラン(Guerlain)の歴史には、父から受け継いだ仕事を守りながら、その意味を変えてしまった調香師がいます。二代目のエメ・ゲランです。

代表作のジッキー(Jicky、1889年)は、ラベンダーの清涼感とバニラの甘さ、そして動物的な余韻を一つに収めた香水でした。ひとつの花を思い浮かべるだけでは、その香りを説明できません。自然の香りを再現する技術が、人の感情や個性を表現する技術へ広がっていく。その転換を考えるとき、エメの名が登場します。

本人の発言が豊富に残る現代の調香師ではありません。冒頭の言葉も、後世の専門媒体がエメに帰したものです。それでも、残された作品と記録をたどると、伝統を受け継ぐことと、新しい素材を使うことを対立させなかった姿が見えてきます。

調香史

父の工房から、二代目の仕事へ

エメの父は、ピエール・フランソワ・パスカル・ゲラン(Pierre-François-Pascal Guerlain)。1828年、パリのリヴォリ通りに店を開いた創業者です。1853年には皇妃ウジェニーにオーデコロン インペリアル(Eau de Cologne Impériale)を捧げ、皇室御用達の称号を得ました。

その家に1834年、エメが生まれます。母を7歳で亡くしたこと、父に英国へ留学させられたこと、帰国後に父から調香を学んだことは、香水専門媒体オーパルファン(Auparfum)の伝記に記されています。ロンドンでの学びは、後にジッキーの命名をめぐる恋物語とも結びつけられることになります。

父の体調が悪化すると、1862年、エメと弟のガブリエル(Gabriel)に事業が引き継がれます。エメが香りをつくり、ガブリエルが経営を担うという役割分担でした。父が亡くなるのは1864年です。ゲランの公式史も、この年からエメの時代を数えています。

引き継いだのは、小さな工房だけではありません。ラ・ペ通りの店舗とコロンブの工場・研究所を持ち、欧州に顧客を抱える事業でした。父が築いた品質と信用を保ちながら、二代目は自分の香りを探していきます。

1867年のパリ万国博覧会には、ブーケ・ド・レクスポジシオン(Bouquet de l’Exposition)を発表。さらに1878年以降は、博覧会への出品を審査する仕組みにも関わります。エメにとって調香師の仕事は、研究室の中だけで完結するものではなかったのです。

花の香りの、その先をつくる

19世紀後半、合成香料の発展は、調香師が扱える素材を増やしました。エメが受け継いだ花や柑橘の世界にも、新しい選択肢が加わります。

その可能性を形にしたのが、1889年のジッキーでした。パリではエッフェル塔が完成し、万国博覧会が開かれた年です。エメ自身も博覧会の審査に関わっていました。

ジッキーを「合成香料を使った世界最初の香水」と言い切ることはできません。それ以前にも、ウビガン(Houbigant)のフジェール ロワイヤル(Fougère Royale、1882年)など、新素材を使った作品が存在します。重要なのは、天然か合成かという二者択一ではなく、それらを組み合わせて、自然界の一つの花には還元できない香りをつくったことでした。

「ジッキーは伝統的な調香との根本的な断絶を示します。自然を模倣していた調香から、花の香りを写すのではなく、感情を呼び起こそうとする調香への始まりなのです。」

ジャン=クロード・エレナ(Jean-Claude Ellena)、マイケル・エドワーズ『Perfume Legends II』所収の発言をオーパルファンが引用、2022年

エレナの評価が示すのは、新素材を使ったという技術的な出来事だけではありません。香水が何を表すものなのか、その問いが変わったということです。

ジッキー──ラベンダーとバニラが出会う場所

ジッキーの輪郭をつかむ鍵は、芳香性のあるラベンダーと、甘く温かなバニラの対比です。柑橘やハーブの明るさに、トンカビーンを思わせる甘さ、シベットの動物的な気配が重なります。清潔で涼しいだけでも、甘く官能的なだけでもない。その両方が同居しています。

歴史解説で繰り返し挙げられる合成素材は、クマリンとバニリンです。一部資料はリナロールも挙げています。ただし、解説によってバニリンとエチルバニリンの表記が混在し、後年の処方との区別も明瞭ではありません。1889年の処方が、現在語られる特定の3分子に確定していたとは扱わないほうがよいでしょう。

スミソニアン誌は、天然のバニラ抽出物が高価で、香りの力にも限界があったことを説明しています。エメが合成素材に求めたのは、単なる代用品という役割だけではなかったのでしょう。天然素材とは異なる強さや持続性が、作品を組み立てる新しい手段になったのです。

名前には二つの物語が残っています。一つは、英国留学中に出会った恋人の愛称。もう一つは、甥のジャック・ゲラン(Jacques Guerlain)の愛称です。どちらかを史実として確定する資料は、ここで参照した範囲では見つかりません。失われた恋への香水という話は魅力的ですが、伝説と伝記は分けておきたいところです。

当初は男性の支持を集め、その後女性にも広まったという受容史も、専門媒体で紹介されています。ジッキーを、男性用か女性用かという区分だけで理解しにくい理由は、香りの中にも歴史の中にもあるのです。

「ジッキーの物語は、近代香水の物語です。科学と芸術、そしておそらく、少しのロマンスが結びついています。」

ジミー・スタンプ、スミソニアン誌「Jicky, the First Modern Perfume」、2013年

ジッキーは、2012~2013年にニューヨークのアート&デザイン美術館(Museum of Arts and Design)で開かれた「香りの芸術 1889–2012」にも選ばれました。展覧会は香水を、デザインと芸術の作品としてたどるものでした。原作から処方の変化はあっても、エメの仕事は今も実際に香りを通して考えられる歴史として残っています。

コックのオーデコロン──革新だけではない、端正な一面

ジッキーの大胆さの一方で、エメは古典的なオーデコロンもつくっています。1894年のオーデコロン デュ コック(Eau de Cologne du Coq)です。

現在のゲラン公式説明では、レモン、ベルガモット、オレンジの柑橘に、ローズマリーとラベンダーの芳香を重ねた構成として紹介されています。春の朝を思わせる軽やかさを、フランスを象徴する雄鶏の名に託した作品です。

「控えめでありながら惹きつける、フレッシュで芳香豊かな、刺激的で生き生きとした香り。」

ゲラン、オーデコロン デュ コック公式製品説明

俳優ブノワ=コンスタン・コクラン(Benoît-Constant Coquelin)のためにつくられたという逸話も流通していますが、現在のゲラン公式説明では、この由来には触れられていません。

新しい表現を求めることは、古典的な型を捨てることではありません。オーデコロン デュ コックは、そのことを伝えるもう一つの代表作です。2026年9月の確認時点でも、ゲランのフランス公式サイトに製品が掲載されています。

香水の外へ広がった仕事と、甥への継承

エメの革新は香水だけにとどまりません。1870年には、ヌ・ムブリエ・パ(Ne m’oubliez pas)という口紅を手がけました。ゲランはこれを、初めての詰め替え式リップスティックとして紹介しています。スライド式のケースに収めた口紅は、化粧をする仕草そのものを変える提案でもありました。

1890年6月25日には、シャルル・ガレ(Charles Gallet)とともにフランス香水業組合の設立に携わり、初代会長となります。これはパリ大学の医薬学系図書館が公開する産業史資料でも確認できます。香水産業に共通する課題について、同業者が一緒に考える基盤をつくったのです。1892年にはレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章しました。

そして、研究室では甥のジャックを育てました。パフューム・プロジェクツ(Perfume Projects)は、16歳のジャックが叔父のもとで学んだと記しています。家族の技術を、次の世代の創造へ渡す役割です。

家族の歴史にも、継承の背景が見えます。公文書や香水史の書籍を参照したオーパルファンの伝記では、エメは1882年に結婚し、マルグリットとジャンという二人の子をもうけたとされています。同記事は、1893年のジャンの急死を、エメが第一線を退く契機として記しています。独身だったとする古い香水記事もありますが、その説を前提に「子どもがいなかったから甥を育てた」と説明することは避けたいところです。確かな接点として残るのは、エメがジャックの師であったことです。

ゲラン特有の香りのつながりを表す、ゲルリナーデ(Guerlinade)にも同じ注意が必要です。ベルガモット、ローズ、ジャスミン、イリス、トンカビーン、バニラなどが織りなす香りの署名は、エメのジッキーにその源流を見いだせます。しかし、公式史はゲルリナーデの確立をジャックに帰しています。エメ一人が完成させた固定処方というより、後継者が展開し、メゾンの美学として育てていったものと考えると、両者の仕事が見えやすくなります。

エメは1910年2月26日に亡くなりました。その後、ジャックはルール ブルー(L’Heure Bleue)、ミツコ(Mitsouko)、シャリマー(Shalimar)を生み出します。叔父が開いた可能性は、同じ香りの反復ではなく、次の世代の異なる作品へ受け継がれたのでした。

調香作品

19世紀の作品には、資料によって年や作者の記載が異なるものがあります。以下はエメの作品として伝わるものと、同時代のゲランの作品記録です。後者は個別の作者を確定できないため、その旨を共同調香師欄に記しています。「記録なし」は単独制作を証明する意味ではありません。

年 ブランド 作品名 共同調香師・帰属の注記
1867 ゲラン ブーケ・ド・レクスポジシオン 記録なし
1872/1875 ゲラン キュイル・ド・ルシー(Cuir de Russie) 年に異説あり
1877 ゲラン ポア・ローザ(Poa Rosa) 記録なし
1884 ゲラン フルール・ディタリー(Fleurs d’Italie) 記録なし
1885 ゲラン スキーヌ(Skine) 記録なし
1885 ゲラン フルール・ド・ギルド(Fleurs de Guildo) 年・個別帰属の再確認が必要
1887 ゲラン ロココ・ア・ラ・パリジェンヌ(Rococo à la Parisienne) 記録なし
1889 ゲラン ジッキー 記録なし
1889 ゲラン ユヌ・ヴェルヴェーヌ・ス・ムール(Une Verveine se meurt) 記録なし
1890 ゲラン エクセランス(Excellence) 記録なし
1890 ゲラン ロー・エジェモニエンヌ(L’Eau Hégémonienne) 個別帰属は未確定
1890 ゲラン オ・ボン・ヴュー・タン(Au Bon Vieux Temps) 個別帰属は未確定
1891 ゲラン マルク・ノワール(Marque Noire) 個別帰属は未確定
1892 ゲラン ベル・フランス(Belle-France) 記録なし
1892 ゲラン ベル・エポック(Belle Époque) 個別帰属は未確定
1893とする記録あり ゲラン ショアーズ・カプリス(Shore’s Caprice) 年・個別帰属の再確認が必要
1894 ゲラン オーデコロン デュ コック 記録なし
1894 ゲラン シプリアーヌ(Cypriane) 個別帰属は未確定。シプリシムとは区別
1895 ゲラン オー・ド・チュベローズ(Eau de Tubéreuse) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ドイエ(Eau d’Œillet) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ド・カメリア(Eau de Camelia) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ド・ガルデニア(Eau de Gardenia) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ド・ジェラニウム(Eau de Géranium) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ド・ジャスマン(Eau de Jasmin) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ド・ミュゲ(Eau de Muguet) 個別帰属は未確定
1895 ゲラン オー・ド・ローズ・ポンポン(Eau de Rose Pompon) 個別帰属は未確定
1896とする資料あり ゲラン フォワン・クペ(Foin Coupé) 年・個別帰属の再確認が必要
1898 ゲラン ア・トラヴェール・シャン(À Travers Champs) 個別帰属は未確定

オー・ド・ゲラン(Eau de Guerlain)は後代のジャン=ポール・ゲラン(Jean-Paul Guerlain)の作品であり、エメの現存作品には含めません。

参考文献