フランシス・ファブロン(Francis Fabron)──花のやわらかさに、スパイスの芯を

フランシス・ファブロンのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル

「私は、愛する女性の肩に感じたい香りを思い描きました。……花のように、スパイシーに。」

フランシス・ファブロン、レールデュタンについて。ニナ リッチ公式サイト掲載

1913年生まれ、2005年没とされています。

二羽の鳩を載せたレールデュタン(L’Air du Temps)、オードリー・ヘプバーンの物語とともに知られるランテルディ(L’Interdit)、バレンシアガのル ディス(Le Dix)。戦後フランスの香水を代表するこれらの作品を、フランシス・ファブロンという一人の調香師が手がけました。

本人の声が豊富に残る人物ではありません。しかし、冒頭の短い言葉には、香水を考えるときに、まずそれをまとう人を思い描いていたことが表れています。大きな理念を掲げる前に、愛する女性の肩にどのような香りを感じたいか。その具体的な場面から始まる調香です。

調香史

ルールの調香室から、戦後のメゾンへ

ファブロンは、フランスの香料会社ルール・ベルトラン・デュポン(Roure Bertrand Dupont)に所属した調香師です。同社は現在のジボダン(Givaudan)につながる、グラースの歴史ある香料会社でした。

1940年代から1960年代にかけて、ファブロンはバレンシアガ(Balenciaga)、ニナ リッチ(Nina Ricci)、ジバンシイ(Givenchy)、ロベール ピゲ(Robert Piguet)などのために香水を作ります。服飾メゾンが香水を通して世界を広げた時期に、その香りの中身を支えた人でした。

同時代のルールには、ジャン・カール(Jean Carles)やジェルメーヌ・セリエ(Germaine Cellier)なども在籍していました。カルレスが1946年に設立した調香学校と、その嗅覚訓練の方法は、のちにジボダンへ受け継がれています。

ただし、ルールにいたというだけで、ファブロンの師をカルレスと特定することはできません。彼の修業時代を語るときには、会社の歴史と本人の経歴を分けて考える必要があります。作品を通して見ると、花々をなめらかに重ね、スパイスやアルデハイドで個性を与える仕事が、早い時期から現れています。

1947年、バレンシアガの最初の香り

1947年、バレンシアガは最初の香水ル ディスを発表します。名前はフランス語で「10」。パリのメゾンがあったジョルジュ・サンク通り10番地に由来します。

ファブロンが作ったのは、アルデハイドの明るい輪郭に、スミレ、ローズ、アイリスなどの花が重なる香水でした。柔らかさだけでなく、最初にはっきりした緊張感がある。その後、花と木の温かい余韻が現れてきます。

翌1948年には、ニナ リッチのレールデュタンが登場します。二つのメゾンに、続けて長く記憶される香水を残したことになります。

ロベール・リッチとの協働

ニナ リッチの香水事業を育てたのは、創業者の息子ロベール・リッチ(Robert Ricci)でした。1941年に香水部門を立ち上げ、1946年には最初の香水クール ジョア(Cœur Joie)を発売しています。

それに続いたレールデュタンで、リッチが求めたのは、戦争の後に訪れた時代にふさわしい香りでした。ファブロンは、花とスパイスを組み合わせた構成で応えます。重いシプレとは違う明るさがありながら、簡単には消えてしまわない存在感も備えていました。

ニナ リッチの公式サイトは、リッチの評価を次のように伝えています。

「レールデュタンは、嗅覚の小さな奇跡です。」

ロベール・リッチ、ニナ リッチの香水事業を率いた人物

これはファブロン自身の言葉ではなく、創作を依頼し、商品として育てたリッチの言葉です。調香師が思い描いた香りを、メゾンの代表作として送り出した協働の相手からの評価でもあります。

ピゲ、ジバンシイへと広がる仕事

1950年には、ロベール ピゲのバガーリ(Baghari)を手がけました。1955年にはバレンシアガのカドリーユ(Quadrille)、1957年にはジバンシイのランテルディやル デ(Le De)へと続きます。

いずれも花を重要な要素に持ちますが、同じ香水をブランドごとに繰り返したわけではありません。レールデュタンのカーネーションとスパイス、ル ディスのスミレとアルデハイド、バガーリの厚みを持った花束。素材の重なり方を変えながら、それぞれのメゾンに似合う表情を探しています。

1959年にはジバンシイの男性用香水にも取り組み、ムッシュ ド ジバンシイ(Monsieur de Givenchy)とオー ド ヴェティヴェール(Eau de Vétyver)を発表しました。花の香水だけでなく、柑橘や木の乾いた香りにも、ファブロンの調香を見ることができます。

代表作とその背景

レールデュタン──花の柔らかさと、スパイスの芯

1948年のレールデュタンは、ファブロンの仕事を語るうえで中心となる香水です。ニナ リッチは、平和、愛、自由を象徴する作品として紹介しています。

香りの核には、カーネーションを思わせるスパイシーな花のアコードがあります。そこへガーデニア、ローズ、ジャスミンの豊かさを重ね、アイリスやサンダルウッドの柔らかな余韻へとつなぎます。花の軽やかさの中に、スパイスがはっきりした芯を作っています。

サリチル酸ベンジルという合成香料の使い方も、この作品を説明する際によく挙げられます。香りの専門資料では、花束の明るさやなめらかさを支える重要な要素として紹介されています。

冒頭のファブロンの言葉は、この香りを「花のように、スパイシーに」と表しました。実際の構成と本人のイメージが、短い言葉の中でつながっています。

五週間の熟成が作る、丸みのある香り

レールデュタンの特徴は、素材の選び方だけではありません。2012年の『フィガロ・マダム(Madame Figaro)』の記事で、当時ジボダン調香学校を率いていたジャン・ギシャール(Jean Guichard)は、熟成の重要性を説明しています。

「この香水の驚くべきところは、濃度がわずか5%ほどでありながら、とても力強い余韻を持つことです。それは原料の質と、アルコールの中で五週間かけて熟成させる時間によるものです。……香水が十分な丸みを得るためには、欠かせない工程なのです。」

ジャン・ギシャール、レールデュタンの製造工程について、2012年

これはファブロンの発言ではなく、後の世代の調香師による解説です。配合を完成させてすぐに終わるのではなく、混ぜた素材が馴染む時間も、仕上がりの一部になっていたことを伝えています。

なお、当時の解説にある濃度を、現在販売されるすべての種類に当てはめることはできません。ニナ リッチの現在の公式説明でも、オードトワレとオードパルファムは区別され、処方には規制への対応などによる調整が行われてきたとされています。

二羽の鳩が伝えるもの

レールデュタンの瓶は、香りと同じくらいよく知られています。しかし、発売当初から現在の二羽の鳩だったわけではありません。

ラリック美術館によると、1948年の最初の瓶は、彫刻家ジャン・ルビュル(Jean Rebull/Joan Rebull)が手がけた太陽をかたどるデザインでした。そして1951年、マルク・ラリック(Marc Lalique)が、二羽の鳩を載せたクリスタルの瓶を制作します。

柔らかくねじれるような瓶の上で、二羽の鳩が寄り添う。平和と愛というメゾンのメッセージが、ガラスの形になっています。ニナ リッチの公式サイトは、この瓶が2000年に「世紀の香水瓶」に選ばれたと紹介しています。

香り、名前、容器が別々の方向を向かず、同じ時代の希望を語る。そのまとまりも、この作品が長く記憶される理由の一つでしょう。

ル ディス──スミレの輪郭を、アルデハイドで照らす

1947年のル ディスは、レールデュタンとは違う形で花を表現しています。アルデハイドのきらめきの下に、スミレやアイリスの粉っぽさがあり、ローズやイランイランの厚み、木の温かさへ続きます。

評論家ヴィクトリア・フロロヴァ(Victoria Frolova)は、ル ディスを、時間が経つほど美しさの増すヴィンテージドレスにたとえました。端正な外観の下に、複雑な構造がある香水です。

2025年9月、バレンシアガは新しい高級香水コレクションの一部として、ル ディスを再び取り上げました。ケリング(Kering)の公式発表によると、保管資料から再発見した1947年の瓶を詳しく調べ、容器だけでなく香りも分析・再構成しています。

この新しい版は、歴史的な作品を現代に向けて再解釈したものです。ファブロンが新作を作ったという意味でも、1947年の内容物をそのまま再販したという意味でもありません。それでも、メゾンが新しい香水の出発点としてル ディスを選んだことは、原作の重要性を物語っています。

ランテルディ──ヘプバーンのための、私的な香り

1957年のランテルディは、ユベール・ド・ジバンシイ(Hubert de Givenchy)と女優オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の関係とともに知られる作品です。

ファブロンは、ヘプバーンのための香水を作る依頼を受けました。一般発売に先立って彼女が私的に愛用し、ジバンシイが販売を考えた際に、彼女が冗談めかして禁じた、という逸話から名前が語られています。ランテルディは「禁じられたもの」を意味します。

一般発売前にどのくらいの期間使っていたのか、制作は何年から始まったのかには、資料によって違いがあります。確かに語り継がれているのは、個人的な贈り物として作られた香水が、やがてメゾンを代表する製品へなったという関係です。

原作は、アルデハイドの清潔な輪郭に、スミレ、ローズ、ジャスミンなどが重なるフローラルでした。制作の着想にクリーニング店の匂いがあったとするブランド関連の紹介もあり、親しみのある清潔感と、花の官能性が共存しています。

ヘプバーンは広告の顔も務めました。映画スターと香水の関係を印象づけた初期の著名な例ですが、あらゆる香水広告の「史上初」とまでは言い切れません。

ランテルディは、その後も再調香や再解釈を重ねています。2018年以降のよく知られた白い花の香水と、ファブロンの1957年版は、作品の系譜としてつながりながら、香りの構成を区別して見る必要があります。

バガーリ──厚みのある花束を、ロベール ピゲに

1950年のバガーリは、ロベール ピゲが服飾のアトリエを閉じる前に発表した香水です。ファブロンが、同メゾンへ残した重要な作品でした。

アルデハイドと柑橘の立ち上がりから、ローズなどの豊かな花が現れ、木やバニラの温かい余韻へ続きます。明るいフローラルでありながら、レールデュタンとは異なる厚みと、少し暗いニュアンスを持っています。

ボワ・ド・ジャスマン(Bois de Jasmin)の評では、他のファブロン作品との共通性を持ちながら、ピゲの香水群にも馴染むものとして語られています。同じ調香師の美意識と、依頼主の個性の両方が読み取れる一本です。

2006年には、オーレリアン・ギシャール(Aurélien Guichard)が再調香を担当し、復刻されました。ヴィンテージの原作と現代版は同一ではありませんが、バガーリという香りの世界は、その後の調香師へ受け継がれています。

カドリーユ──花だけでなく、果実の明るさも

バレンシアガのカドリーユは1955年の作品です。踊りの名前を持つフルーティ・シプレで、プラムやピーチを思わせる果実に、花、スパイス、苔や木の香りが重なります。

ル ディスのアルデハイド・フローラルとは違う方向から、同じメゾンへ香りを提案した作品でした。華やかに始まりながら、土台には古典的なシプレの深さがある。ファブロンの表現の幅を知ることができます。

ジバンシイの二つの男性用香水

1959年のムッシュ ド ジバンシイは、柑橘とハーブ、木の乾いた香りを中心にした作品です。明るい出だしと落ち着いた余韻があり、女性向けフローラルで知られるファブロンの、別の側面を見せています。

同年のオー ド ヴェティヴェールは、ベチバーを主役にした香水です。ユベール・ド・ジバンシイが個人的に好んだ香りとしても紹介され、後年の評論家から高い評価を受けてきました。2007年には、レ パルファム ミティーク(Les Parfums Mythiques)として往年のジバンシイ香水を紹介する企画にも含まれています。

ムッシュ ド ジバンシイには、1980年代に高濃度版のオート・コンサントラシオン(Haute Concentration)もあり、同じ名前でも版によって違いがあります。作品を辿る際には、発売年や濃度の表示も手がかりになります。

カプリッチ──ニナ リッチで続いたフローラルの探究

カプリッチ(Capricci)は1960年、あるいは1961年発売と記されるニナ リッチの香水です。レールデュタンに続き、ファブロンが同メゾンへ提供した作品でした。

花とアルデハイドを中心にしながら、ガーデニア、ジャスミン、スズラン、ローズなどの花々へ、サンダルウッドやベチバーの落ち着きを重ねます。レールデュタンのスパイスの印象とは、また違ったフローラルの姿を見せています。

調香スタイルと、その後

ファブロンの作品を通して繰り返し現れるのは、花を単独で立たせるより、複数の花が溶け合うブーケへまとめる方法です。そこへアルデハイドの輝き、カーネーションのスパイス、木の柔らかな質感を加え、作品ごとの性格を与えていました。

ただ穏やかで控えめな香水だけを作った、ということでもありません。ル ディスの鋭い始まり、バガーリの豊かさ、カドリーユの果実など、はっきりした存在感もあります。花の香りと、着けた人の身体の間に、どのような距離を作るか。その調整に、ファブロンの仕事の特徴があるように思えます。

同じ時代のルールからは、セリエのフラカ(Fracas)やバンディ(Bandit)など、強烈な個性を持つ作品も生まれました。ファブロンは、そのような才能が集まる会社の中で、複数のメゾンのために独自の香りを残しています。

2005年の没後にも、レールデュタンの限定ボトル、バガーリの再調香、ル ディスの再解釈などが続きました。昔の作品を、そのまま現代に移すことはできません。原料の調達や規制、ブランドの方向性も変わります。それでも、作品名と香りの特徴が後世に受け継がれていることが、彼の仕事の長さを示しています。

ちなみに…

レールデュタンは、映画『羊たちの沈黙』(1991年)でも言及されます。香水が登場人物の記憶や人物描写に入り込んでいる、印象的な場面です。

ファブロンの名前より、鳩の瓶やヘプバーンの逸話のほうを先に知ったという人も多いかもしれません。調香師名鑑として作品を読み直すと、その背後にいた人と、冒頭の「愛する女性の肩」という具体的なイメージに出会うことができます。

調香作品

年 ブランド 作品名 共同調香師・備考
1947 バレンシアガ ル ディス 同メゾン最初の香水。2025年版は再解釈
1948 ニナ リッチ レールデュタン オードトワレ、パルファムなど複数の濃度・版があります
1950 ロベール ピゲ バガーリ 2006年の再調香はオーレリアン・ギシャール
1955 バレンシアガ カドリーユ —
1957 ジバンシイ ランテルディ オリジナル版
1957 ジバンシイ ル デ オリジナル版
1959 ジバンシイ ムッシュ ド ジバンシイ —
1959 ジバンシイ オー ド ヴェティヴェール —
1960/1961 ニナ リッチ カプリッチ 発売年に資料差があります
2013 ニナ リッチ レールデュタン・パー・オリヴィア・プットマン(L’Air du Temps par Olivia Putman) 没後の限定ボトル。新規の本人調香ではありません
2015 ニナ リッチ レールデュタン・レクラン・デ・コロンブ(L’Air du Temps L’Écrin des Colombes) 没後の限定版
2016 ニナ リッチ レールデュタン・ル・ゼニット(L’Air du Temps Le Zénith) 没後の限定版

参考文献