ファニー・バル(Fanny Bal)──短い処方に、大胆な個性を

ファニー・バルのスケッチと代表作品を掲載した調香師名鑑のサムネイル 調香師名鑑

「香りを仕事にできると知った瞬間、その夢を叶えることに夢中になりました。」

ファニー・バル──ペンハリガンのインタビューより

1988年10月、フランス・リヨン生まれ。

ドミニク・ロピオンのもとで学び、フレデリック・マルのサル ゴスで頭角を現したファニー・バル。白い花の華やかさも、ベチバーの乾いた根も、子供時代のお菓子の記憶も、彼女にとっては明確な輪郭を持つ香水へと育てる材料です。大胆な組み合わせを支えているのは、原料を一つずつ理解し、配合する理由を問い続ける訓練でした。

調香史

リヨンで育った、匂いへの好奇心

バルは香料業界とは縁のない家庭で育ちました。幼いころから花や果物、スパイスだけでなく、家庭用品や本、衣服にも鼻を近づける子供だったといいます。水や砂糖、酢、レモン汁、葉や花びらを混ぜ、家族や友人に渡す「薬」を作っては、それに物語を添えていました。

2018年のカフルボン(ÇaFleureBon)のインタビューでは、最初の20年間をリヨンで過ごしたこと、家族の暮らすその街へ戻るのが今も好きなことを語っています。なかでも心に残ったのは、母親のイブ サンローラン(Yves Saint Laurent)のリヴ ゴーシュ(Rive Gauche)でした。

「私にとって、それはいつも母にあれほどの気品を与える最後の仕上げでした。こっそりボトルを借りずにはいられませんでした。」

ファニー・バル、カフルボンのインタビューより

香りは母を母らしく見せるものでもありました。匂いそのものへの興味が、人の印象や感情に香水が与える力へとつながっていきます。

15歳ごろに読んだ、パトリック・ジュースキント(Patrick Süskind)の小説『香水──ある人殺しの物語』も、職業としての調香を意識するきっかけになったと紹介されています。香りに夢中になることが仕事につながると分かると、その目標は急に具体的なものになりました。

化学の勉強から、ロピオンの研究室へ

リヨンの大学技術短期課程で化学を2年間学び、ヴェルサイユ大学(Université de Versailles)を経て、調香学校イジプカ(ISIPCA)へ進みます。化学だけでなく、植物学や香粧品を取り巻く制度、芸術などにも触れながら、天然・合成の数多くの原料を嗅ぎ分ける訓練を積みました。

2011年、学生だったバルは、課題の香水についてドミニク・ロピオン(Dominique Ropion)に助言を求めます。すると、授業が終わったあとに研究室へ来て原料を嗅いでみないかと誘われました。この出会いから、アイ・エフ・エフ(IFF)での修業が始まります。

「ゼロからのスタートでした。この仕事は謙虚さを学ぶ学校なのだと、すぐに分かりました。」

ファニー・バル、フラグランティカ掲載の本人発言より

ロピオンは厳しい完璧主義者である一方、親切で、よく笑う人でもあったといいます。バルは師を驚かせたいと思いながら、間違った方向へ進めば率直に指摘してくれる、その姿勢に支えられました。

短い処方に、一つずつ理由を与える

師から受け継いだのは、特定の花や香調以上に、原料を扱う精度でした。

「一つひとつの原料を配合する厳密さと正確さを学びました。すべての原料を使う理由が明確な、短い処方を書く技術です。それが香水に個性を与えるのです。」

ファニー・バル、フラグランティカ掲載の本人発言より

バルは原料をアルファベット順に並べるのではなく、揮発しやすいものから長く残るものへ、香料の性質ごとに整理します。紙の上の処方から、香りの立ち上がりと時間の流れを読み取るためです。

自分の作風を説明する際には、香りの「読みやすさ」を大切にしていると語ります。個々の素材がばらばらに主張するのでも、何も分からないほど混ざり合うのでもなく、中心となる発想が伝わること。思いがけない二つの素材の組み合わせから、その軸を見つけることもあります。

サル ゴスと、最初の大きな信頼

バルはアイ・エフ・エフでロピオンのアシスタントとして経験を重ね、次第に自分の名前で作品を発表するようになります。その初期の転機が、師から紹介されたフレデリック・マル(Frédéric Malle)との仕事でした。

2017年のサル ゴス(Sale Gosse)は、子供、いたずら、そしてジャン・コクトー(Jean Cocteau)の『恐るべき子供たち』へのオマージュをテーマにした香水です。バル自身は初期のインタビューで、マルから子供のための香水を任されたと振り返っています。現在のブランド紹介では、男女に向けた、ぬいぐるみのように親しみやすくバブルガムのように生意気なオードトワレとされています。

師が与えてくれた信頼を、マルからも受け取れたことは、最初期の採用作に取り組む彼女にとって大きな経験でした。2018年1月には、ファッション・グループ・インターナショナル(Fashion Group International)のライジングスター賞で、美容・香水企業部門を受賞しています。

受賞式にはマルも出席しました。バルは、受賞の瞬間にその隣に座っていたことを誇らしく感じたと語っています。緊張と感動でフランス語訛りがますます強くなってしまうと謝辞で話した、というエピソードにも、若い調香師の素顔が見えます。

ジバンシィの共同制作、そしてジボダンへ

2018年には、ジバンシィ(Givenchy)のランテルディ(L’Interdit)を、ロピオン、アン・フリッポ(Anne Flipo)と共同で手がけました。2020年のイレジスティブル(Irresistible)や、その後の派生作でも、この協働が続いていきます。

大手ブランドの香水を作りながら、マスク ミラノ(Masque Milano)、レ バン ゲルボワ(Les Bains Guerbois)、ズーロジスト(Zoologist)など、異なる世界観を持つブランドにも参加します。依頼を受けたらまずブランドの店やウェブサイトを見て、その歴史や表現を知る。そうして評価担当者との対話のなかから、香りの出発点を探していくのがバルの進め方です。

2025年にはジボダン(Givaudan)へ移籍し、パリの創作拠点「46クレベール」でシニア調香師として迎えられました。原料の扱いを学んだ時代から、自分の作品世界を広げる時代へ。所属が変わっても、学んだものを誰かへ渡したいという意識は変わりません。

ペンハリガン(Penhaligon’s)のインタビューでは、調香の仕事について、次のように語っています。

「偉大な人から学ぶと、いつかこのすばらしい芸術をほかの人に伝えたいという気持ちが湧いてきます。」

ファニー・バル、ペンハリガンのインタビューより

天然香料、抽出できない花、人工知能

バルは天然香料を、数多くの成分を含んだ小さな香水のように捉えています。同じバラでも、青さ、果実味、動物的なニュアンスなど、原料によって表情が異なります。その違いを嗅ぎ分けること自体が、次の着想につながります。

一方で、スズランやフリージア、ガーデニア、スイカズラのように、花の香りをそのまま精油として取り出しにくい植物にも惹かれています。自然の匂いを手本に、ほかの原料を使って自分なりの花を組み立てる。その仕事を、印象派の画家の解釈になぞらえています。

好きな素材には、ムスク、カシュメラン、オレンジブロッサムを挙げています。天然か合成かという区分より、香りのなかで何ができるのかを重視する姿勢です。人工知能についても、2020年のウルトラ・インターナショナル(Ultra International)のインタビューでは、道案内のウェイズ(Waze)にたとえています。

「調香師にとって、カーナビのウェイズのようなものになり得ると思います。運転手はウェイズを怖がるでしょうか?」

ファニー・バル、ウルトラ・インターナショナルのインタビューより

新しい原料や組み合わせへの理解を助ける道具として捉え、最終的に香りを選び取る仕事と結びつけて考えているのです。

代表作とその背景

サル ゴス──コロンに忍び込むバブルガム

ネロリ、ベルガモット、プチグレンによる明るい出だしには、古典的なオーデコロンを思わせる親しみがあります。その内側へ、ナルシス、ローズ、バイオレット、そしてフランスのマラバールガムを思わせる甘い香りを忍ばせました。

香調紹介では、ベースはムスクとされています。ただし、香調表は公開される香りの説明であり、実際の全処方を示すものではありません。清潔なコロンにいたずらっぽい甘さを重ねた構成が、コクトーの世界や子供の自由さと結びついています。

ヘミングウェイ──ベチバーを三つの角度から

マスク ミラノのヘミングウェイ((homage to) Hemingway、2018)は、アレッサンドロ・ブルン(Alessandro Brun)とリッカルド・テデスキ(Riccardo Tedeschi)から託された作品です。師のロピオンがベチバーを得意としていたことも、バルへの関心につながったと紹介されています。

ハイチ産の乾いた木質感、ジャワ産の煙や革を思わせる側面、そして加工によって土っぽさを抑えたベチバー ハート(Vetiver Heart LMR)。三種類の原料を使い分け、ベチバーの一つの顔だけでは描けない奥行きを作りました。

作品紹介では、処方の半分以上をベチバー原料が占めるとされています。トップに置かれたジンジャーとルバーブの鋭さが、根の重さに新鮮な入口を与えています。

ランテルディ──白い花と暗い土台

1957年の同名作を現代に向けて刷新したランテルディは、過去の処方をそのまま再現した香水ではありません。2018年の作品では、オレンジブロッサム、ジャスミン、チューベローズの白い花々を、ベチバーとパチョリが支えます。

明るい花と暗い木質感の対比は、素材の組み合わせから香りの軸を見つけるバルの考えとも響き合います。同時に、ロピオン、フリッポとの共同作であることも、この作品を理解するうえで欠かせません。広告には俳優のルーニー・マーラ(Rooney Mara)が起用されました。

ゼロ──引き算で輪郭を残す

コム デ ギャルソン(Comme des Garçons)のゼロ(Zero、2022)は、シンプルさを主題にした作品です。紹介される中心的な素材は、ベルガモット、ハイチ産ベチバー、ローズオキシド、カシュメラン、シダーウッド、ムスクの六つです。

原料の数を減らすことだけが目的ではありません。残した素材がどんな役割を持つか、互いの輪郭をどう見せるかが問われます。ロピオンのもとで学んだ、一つの原料にも理由を求める姿勢を読み取れる作品です。

レトロスペクト──懐かしいのに新しい香り

メリット(Merit)の最初の香水、レトロスペクト(Retrospect、2024)は、2年と200回以上の試作を経て完成しました。チームとの会話は、子供時代と、それぞれの記憶を呼び起こす匂いから始まります。

祖母の世代の香水を思わせるアルデヒドやオリスに、洋梨や四種類のヴィーガンムスクを重ねました。特定の昔の香水を再現するのでなく、知らないはずなのに親しみを感じる、その感覚を目指したのです。

香料濃度は約30パーセント。朝の清潔な印象から、夜の温かく官能的な残り香まで、一本の香りが肌の上で変化する時間を大切にしています。バルは完成した処方について、次のように述べています。

「最終的な処方は、ヴィンテージの香調と現代的な構成の、絶妙なバランスを実現しています。」

ファニー・バル、ヴィータ・デイリーのインタビューより

ジュニエーヴル──瞬間の匂いを香水へ

ヘッドスペース(Headspace)のジュニエーヴル(Genièvre、2022)では、ジュニパー、ピンクペッパー、シダーウッド、オリバナムなどを組み合わせました。清涼感と樹脂の温かさを併せ持つ構成です。

ある場面の空気や感覚を香りへ置き換えるブランドの発想は、原料を具体的に感じさせながら、記憶や風景へつなぐバルの仕事とも接点を持っています。

ちなみに…

バルは洋菓子が好きで、食べるだけでなく自分でも作ります。正確な計量、材料の性質への理解、バランスを探す試行錯誤に、調香との共通点を見ています。マスク ミラノのマドレーヌ(Madeleine、2020)のような、お菓子と花が出会う作品を読むときにも興味深い一面です。

トルコのイスパルタでバラの収穫を見学した際には、蒸留前の花を集めた部屋の香りに圧倒されたといいます。原料瓶の向こう側に、花を一輪ずつ丁寧に摘む人の仕事があることも、強く心に残りました。

尊敬する調香師には、ロピオンに加えてジャン=ルイ・シュザック(Jean-Louis Sieuzac)も挙げています。初対面では緊張したものの、香水についての熱のこもった話と助言を聞くうちに、安心して話せるようになったそうです。

制作中の香水は自分の肌でも試します。一日を通じた変化を知ることが、バランスの判断に欠かせないからです。夜の外出に好む香水としては、師の作品であるポートレイト オブ ア レディ(Portrait of a Lady)を挙げています。

香りにしてみたい場所を尋ねられると、ボリビアのウユニ塩湖を思い描きました。

「塩気のあるムスキーな香水を作り、砂漠のさまざまな光の効果を表現したいです。大地と空のぼやけた境目を描く香りを捉えたいのです。」

ファニー・バル、ペンハリガンのインタビューより

原料の輪郭を明確にすることと、境界の曖昧な風景を表現すること。その両方を求めるところに、バルの調香の広がりが見えてきます。

調香作品

主な作品を年代順にまとめています。共同調香師欄の「—」は、参照資料に共同作者の記載がないものです。

ブランド 作品名 共同調香師
2016 パコ ラバン(Paco Rabanne) オリンピア アクア(Olympéa Aqua) アン・フリッポ、ドミニク・ロピオン、ロック・ドン(Loc Dong)
2017 フレデリック・マル サル ゴス
2017 ジョルジオ アルマーニ(Giorgio Armani) ニューヨーク(New York)
2017 ビクトリオ&ルッキーノ(Victorio & Lucchino) アグア No.7 エクスプロシオン シトリカ(Agua N°7 Explosion Cítrica)、アグア No.9 パシオン トロピカル(Agua N°9 Pasion Tropical)
2017 イストワール ドゥ パルファン(Histoires de Parfums) アウトレキュイダン(Outrecuidant) ジュリアン・ラスキネ(Julien Rasquinet)
2017 ビオテルム(Biotherm) オー リラックス(Eau Relax) ドミニク・ロピオン
2018 マスク ミラノ ヘミングウェイ
2018 ジバンシィ ランテルディ ドミニク・ロピオン、アン・フリッポ
2018 イッセイ ミヤケ(Issey Miyake) ロードゥ イッセイ ピュア ネクター ド パルファム(L’Eau d’Issey Pure Nectar de Parfum) ドミニク・ロピオン
2018 ランコム(Lancôme) ラ ヴィ エ ベル フラワーズ オブ ハピネス(La Vie Est Belle Flowers of Happiness)
2018 パコ ラバン オリンピア アクア オードパルファム レジェール(Olympéa Aqua Eau de Parfum Légère) ロック・ドン
2018 ポール スミス(Paul Smith) ハロー ユー!(Hello You!)
2018 フィアット(Fiat) フィアット500 フォーハー(Fiat 500 for Her)
2019 ジバンシィ ライブ イレジスティブル ロージー クラッシュ(Live Irrésistible Rosy Crush) ドミニク・ロピオン
2019 ジバンシィ ランテルディ オードトワレ(L’Interdit Eau de Toilette)、ランテルディ エディション クチュール(L’Interdit Edition Couture) ドミニク・ロピオン、アン・フリッポ
2019 ミュグレー(Mugler) エイリアン フュージョン(Alien Fusion) ドミニク・ロピオン
2019 オリフレーム(Oriflame) ボーン トゥ フライ フォーハー(Born to Fly For Her)、セントセーショナル(ScentSational)
2019 キャシャレル(Cacharel) アモール アモール エレクトリック キス(Amor Amor Electric Kiss) ドミニク・ロピオン
2019 アザロ(Azzaro) ウォンテッド ガール(Wanted Girl) ドミニク・ロピオン、ロック・ドン、ジャン=クリストフ・エロー(Jean-Christophe Hérault)
2019 シャキーラ(Shakira) ダンス マグネティック(Dance Magnetic)
2019 4711 アクア コロニア インテンス ピュア ブリーズ オブ ヒマラヤ(Acqua Colonia Intense Pure Breeze of Himalaya)
2019 アリストクレイジー(Aristocrazy) インテュイティブ(Intuitive)
2019 ベティ バークレー(Betty Barclay) ボヘミアン ロマンス(Bohemian Romance)
2019 コスチューム ナショナル(CoSTUME NATIONAL) コスチューム ナショナル J(Costume National J)
2019 ヴィクター&ロルフ(Viktor & Rolf) フラワーボム ボンブリシャス(Flowerbomb Bomblicious)
2020 ジバンシィ イレジスティブル、ランテルディ インテンス(L’Interdit Eau de Parfum Intense) ドミニク・ロピオン、アン・フリッポ
2020 イッセイ ミヤケ ネクター ドゥ イッセイ プルミエール フルール(Nectar d’Issey Première Fleur) ドミニク・ロピオン
2020 マスク ミラノ マドレーヌ
2020 レ バン ゲルボワ 2018 ロクソ トニック(2018 Roxo Tonic)
2021 イブ サンローラン ワイルド レザー(Wild Leather)
2021 メゾン マルジェラ(Maison Margiela) レプリカ ウェン ザ レイン ストップス(REPLICA When the Rain Stops)
2022 バイ ファー(By Far) デイドリーム オブ ア ビンゴ クイーン(Daydream of a Bingo Queen)、デイドリーム オブ ア スプラッシュ(Daydream of a Splash)
2022 コム デ ギャルソン ゼロ
2022 クロエ(Chloé) アトリエ デ フルール ヴィオレット(Atelier des Fleurs Violette)
2022 ヘッドスペース ジュニエーヴル
2022 レ バン ゲルボワ ダミエ(Damier)
2023 ペンハリガン ジ オムニシエント ミスター トンプソン(The Omniscient Mr Thompson)
2023 ラコステ(Lacoste) L.12.12 ローズ オー インテンス(L.12.12 Rose Eau Intense) カロリーヌ・デュミュール(Caroline Dumur)
2024 ペンハリガン アルウラ(AlUla)
2024 ズーロジスト ラビット(Rabbit)
2024 メリット レトロスペクト
2024 ラタファ(Lattafa) アサド ザンジバル(Asad Zanzibar)
2024 ジバンシィ ランテルディ アブソリュ(L’Interdit Absolu) ドミニク・ロピオン、アン・フリッポ
2024 ジバンシィ イレジスティブル ヴェリー フローラル(Irresistible Very Floral) ドミニク・ロピオン、アン・フリッポ、カロリーヌ・デュミュール
2024 レーヌ ドゥ サバ(Reine de Saba) ジャルダン ドゥ サバ(Jardins de Saba)

参考文献