「私が売っているのは香水ではない。完全なパッケージ——物語、状態、体験——を売っている。」
— Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)、ステップ アボード創設者
基本情報
- 設立:2016年、イタリア・パルマにてプロジェクト始動。2018年ミラノでデビュー。
- 創設者:Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)、Daniele Morando(ダニエレ・モランド)
- 公式サイト:https://www.stepaboard.it
創設者・ブランドの成り立ち
ルーマニアからイタリアへ——ジョルジアナの原点
ステップ アボードの創設者、ジョルジアナ・モカヌは「ダニューブ河のほとりに生まれ、古代ダキアの文化の中で育った」ルーマニア人である。19歳でイタリア北部へ渡り、ブレシア大学の外国語・文学部に入学した。在学中にエラスムス・プログラムを通じてパリへ留学し、ルーヴル美術館版画素描部門に奨学金を得て携わるという稀有な経験を積む。
「ルーヴルの地下コレクションは展示されているものよりはるかに大きく、世界中の美術館へ貸し出しが行われている。」
— Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)
版画素描部門では、作品の状態確認や展覧会の準備に立ち会い、「人類の傑作のそばで長い時間を過ごす、素晴らしくインスピレーショナルな体験だった」と振り返っている。芸術の文法とフランスの香水文化を同時に吸収したパリ生活が、後のブランド哲学の土台を形成したといえるだろう。
エルメスとの出会い——香水という夢の芽生え
国際関係学の修士号を取得した後、ジョルジアナはファッション業界へと転身する。バーバリー、マックス・マーラ、そしてエルメスでヴィジュアルマーチャンダイザーおよびセールスアシスタントとして勤務した。エルメスでの経験が特に重要で、新店舗のオープニング、マーケティング、VIPクライアントへの対応など、ラグジュアリー・リテールの本質を叩き込まれる場となった。
そのエルメスで、ジョルジアナはジャン=クロード・エレナ(Jean-Claude Ellena)の香水に出会う。ブルガリやヴァン・クリーフ&アーペルとも協働した、当時のエルメス専属調香師の作品に触れたことが、「新しい嗅覚ラベル、しかも型破りなマーケティングで展開するものを立ち上げたい」という着想を初めて抱かせた瞬間となった。
「子供の頃から香水が好きで、街ですれ違う香りを当てるのを楽しんでいた。」
— Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)
パルマの香水学校——ブランドの誕生
「きちんとしたビジネスにしたい」という思いから、ジョルジアナはパルマにある香水学校の存在を知り、迷わず入学を決める。2016年、香水コンサルタント会社 ムイエット・アンド・カンパニー(Mouillettes & Co.) が主催する専門コースに参加したことが、ブランドの実質的な出発点となった。
このコースがもたらしたのは知識だけではなかった。学校がビジネスプラン策定のコンサルタントとなり、業界に不可欠なコンタクトの紹介も行ってくれたのである。そしてここで、彼女はダニエレ・モランドと出会う。「相互の尊重と敬意に基づく友情を育み」、やがてジョルジアナは彼を自らのヴィジョンの実現に誘う。
2年間の試行錯誤と2018年のデビュー
コース終了後、ジョルジアナは約2年をかけてコレクションの構想を磨き上げる。香料の調達先、製品の仕上げ方、そして最大の技術的課題——グラフィティスプレー缶の金属面に香料を触れさせずに封じ込める方法——を解決するために、試行錯誤を重ねた。
「香料を誰が作るのか、グラフィティスプレー缶に金属面に触れずに香りを封じ込める方法など、約2年間このプロジェクトを考え続けた。」
— Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)
資金調達は自己資金のみ。外部からの投資は一切受けなかった。
「私は大きなリスクを負った。外部からの資金調達は一切なかった。でも、ビジョナリーなアイデアになり得ると信じていなければ、リスクを冒すことは絶対になかった。」
— Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)
そうして2018年12月、ミラノのファッション展示会「ホワイト(White)」にて、ミラノをテーマにした第1コレクションがデビューを飾った。香水業界は、グラフィティアート風のスプレー缶という前代未聞のパッケージと、ヘア&ボディ両用というカテゴリを越えた提案に驚愕した。
コロナ禍と世界展開
デビュー後まもなく、新型コロナウイルスの感染拡大がブランドの計画を大きく変えた。イタリアの店舗が閉鎖された時期、ジョルジアナはビューティーブロガーとの協業やオンラインへとチャネルを転換。その結果、ロシア(グラマー・ロシアのビューティー特集にボスコ・ソスペーゾが掲載された)、アラブ首長国連邦(UAE、アブダビのニッチパフュームショップ「リミテッド・ギャラリー」)、そして2022年には日本(ノーズショップ(NOSE SHOP)渋谷・名古屋)へと展開を広げた。
パリのデザインフェア「トラノワ(Tranoi)」のプレジデントにインタビューされ、フランスのデパート「ギャラリー・ラファイエット」の「オンリー・アット・トラノワ(Only At Tranoi)」プロジェクトに採択されたほか、ル・ボン・マルシェ・リヴ・ゴーシュ、さらにはコム・デ・ギャルソンのリテール部門「ドーバー・ストリート・マーケット」からもコラボレーションの打診を受けるなど、デビューからわずか1年余りで世界的な注目を集めた。ピッティ・フラグランツェ(Pitti Fragranze)には2021年、2022年、2023年と継続的に出展している。
ブランドのこだわり
香りづくりの哲学——都市の「魂」を瓶に詰める
ステップ アボードの根幹にあるのは、「都市の香りと空気を缶の中に閉じ込める」というコンセプトである。各フレグランスは、実在の都市のある場所や芸術作品から着想を得ており、ジョルジアナ自身がそれぞれの「エヴォケーション(喚起文)」を書き下ろした。
「ジョルジアナは、まさに特定の場所や建物の精神を”瓶に詰めた”のです。専門コンサルタントの助けを借りながら、ブランドの若き創設者は自らが創造物の基礎となるエヴォケーションを書き上げ、フランスの大御所調香師たちの作品を選び出した。」
— 公式サイト
調香を手がけるのは、いずれも香水史に名を刻む人物たちである。中心的な役割を担うのはフランスの調香師 Bertrand Duchaufour(ベルトラン・ドゥショフール)。1985年にグラースで調香師としてのキャリアを始めて以来、アムアージュ、アクア・ディ・パルマ、ラルティザン・パルファン、ペンハリゴン、コム・デ・ギャルソンなど錚々たるメゾンと協働してきた「ニッチ香水界の巨匠」だ。ジョルジアナがパルマの学校の教師に紹介を頼んだことがドゥショフールとの出会いのきっかけとなった。ミラノ・ロンドン両コレクションの大半は彼が担当している。
ボトルデザイン——グラフィティ缶という革命
ボトルのデザインは、そのまま「グラフィティアートに使う塗料スプレー缶」である。香水ブランドが施す繊細なガラスボトルとは真逆の発想であり、「一般的な香水のイメージとはほど遠い、ストリートでポップな雰囲気」が業界に強烈な衝撃を与えた。
機能面でも革新的な選択をしている。缶の内部には「360° Bag-on-Valve(バッグ・オン・バルブ)システム」が採用されており、これはエアロゾル缶の中に小型の袋が入り、袋の中に香料が収められた構造である。袋と推進剤(圧縮空気/窒素)が分離されているため、どの角度からでも均等に噴射でき、香料の品質が劣化しにくく、内容量の約99%を使い切れるという環境にも優しい技術だ。
素材へのこだわり
アルコール使用率を通常の香水より低く設定することで、髪や肌へのダメージを最小限に抑えている。ジョルジアナによれば、2022年当時の製品はアルコール含有率を約20%に抑えていたため、ひげにも使えるオール・オーバー(全身用)として中東市場でも好評を博した。パラベン不使用の処方で、保湿性のある成分を配合している。全製品がイタリア製(メイド・イン・イタリー/Made in Italy)である。
「イタリア製であることは大きな強みです。ここではヨーロッパで販売される化粧品の65%が製造されており、プレミアム品質を意味するのです。」
— Georgiana Mocanu(ジョルジアナ・モカヌ)
コレクションはジェンダーフリー、年齢不問を明確に打ち出しており、「都市に生きるトライブ(部族)」すべてに向けた香りを目指している。
香水ラインナップ
ステップ アボードの香水は「都市」ごとにコレクションが組まれており、現在はミラノ、ロンドン、シカゴの3都市を舞台としている。いずれも実在のランドマークや芸術作品から着想を得ており、それぞれの「停車駅」がひとつの香りに対応するという仕組みだ。
ミラノ コレクション(2018年)
5つの「架空の地下鉄の停車駅」として、ミラノの具体的な場所や芸術作品が選ばれている。
- 3D Sul Duomo(スリーディー スル ドゥオーモ) :ルーチョ・フォンターナが1951年ミラノ・トリエンナーレのために制作したネオン彫刻(ノヴェチェント美術館では、ルーチョ・フォンターナ財団公認の2010年再制作版を展示)から着想。「過去が未来に照らし出される」というヴィジョン。香調はアロマティック・スパイシー・ウッディ。
- Bosco Sospeso(ボスコ・ソスペーゾ:宙吊りの森) :ミラノのビルに吊り下げられた緑地からインスピレーションを得たグリーン・ウッディの一作。調香師はベルトラン・ドゥショフール。
- Milano Centrale(ミラノ・チェントラーレ) :ミラノ中央駅の喧騒と旅人の交差する瞬間を捉えた香り。調香師はベルトラン・ドゥショフール。
- Cuoio di Thaon(クオイオ・ディ・タオン) :バイクショップや革製品が並ぶタオン・ディ・レヴェル通りをテーマにしたアーバン・レザーの一作。スウィートオレンジ、ラム、にんじんの種、アイリス、スエードで構成される。調香師はベルトラン・ドゥショフール。ブランドのベストセラーとして知られており、2022年のインタビューでは売り切れと報じられるほどの人気を誇った。
- Menta sui Navigli(メンタ・スイ・ナヴィリ) :ナヴィリ運河沿いのバー・クラブシーンの夏の夜を表現したミント&レッドフルーツのフレグランス。
ロンドン コレクション(2021年)
ロンドンの地下鉄エリザベス・ラインの整備に際して多くのアーティストが参加した路線をコンセプトに据えた第2コレクション。2021年のピッティ・フラグランツェで発表された。調香師はベルトラン・ドゥショフールが中心。
- Transitions Gate(トランジションズ・ゲート) :ロンドン・カナリーワーフの単色的なモノクロームとグレースケールの都市リズムを表現。タイム・ラベンダーのアロマティックな立ち上がりから、レザー・シダーウッド・ベチバーの建築的でドライな香りへと落ち着く。調香師はベルトラン・ドゥショフール。
- Sunday Street(サンデー・ストリート) :ホワイトチャペル地区の地下鉄駅で、行き交う人々の多様な顔を色鮮やかな表現主義的ポートレートのコラージュに見立てた作品。東洋的・グルマン・ウッディの甘くスパイシーな香調。調香師はベルトラン・ドゥショフール。
- Infinite Square(インフィニット・スクエア) :リバプール・ストリートエリアのレッドとミラースティールを映し出したフルーティー・フローラルの一作。ユズ・グレープフルーツの明るい立ち上がりから、ドリフトウッド・トフィーへと広がるウッディな余韻が特徴。
シカゴ コレクション(2023年)
「野外美術館のような都市、パブリックアートの街」シカゴをテーマにした第3コレクション。各作品のインスピレーションとなった美術作品が明確に定められており、コレクション全体が「都市に解き放たれたアートを纏う」というコンセプトで統一されている。
- Red Flamingo(レッド・フラミンゴ) :シカゴのフェデラル・プラザ(クルチンスキー連邦ビル前)に立つアレクサンダー・カルダーの赤い彫刻「フラミンゴ」から着想。マンダリン・ブラックティーリーフの鮮やかなシトラスが開き、タイフローズ・サフランが彫刻の存在感を立体的に表現する。調香師はArthur Marrast(アルチュール・マラスト)。
- Black & White(ブラック&ホワイト) :シカゴのジェームズ・R・トンプソン・センター前にあるジャン・デュビュッフェ作「モニュメント・ウィズ・スタンディング・ビースト」を起点に、黒と白・対比と対話をテーマにしたフローラル・ムスク。調香師はLuca Maffei(ルカ・マッフェイ)。
- Silver Cloud(シルバー・クラウド) :こちらはシカゴ・ミレニアムパークにあるアニッシュ・カプーア作「クラウド・ゲート」にインスパイアされながら、鏡のように変化する乳香とラベンダー・ジュニパーの冷たい輝きで「自己と他者の合わせ鏡」を表現するアロマティック。調香師はベルトラン・ドゥショフール。
ちなみに……
ルーマニア人創業者がミラノを舞台に選んだ理由:ジョルジアナ・モカヌ自身、19歳でルーマニアからイタリアへ渡り、ファッションや美術の世界でキャリアを歩んできた移民だ。ミラノというコスモポリタンな都市こそが、彼女がブランドを立ち上げる上での「エモーショナルな本拠地」だったといえる。第2コレクションのテーマにロンドンを選んだ理由も同様で、「多文化でありながら本物のブリティッシュスタイルを保っているから」と語っている。
日本のアーティストとのコラボレーション:2023年8月、ノーズショップ(NOSE SHOP)渋谷にて、ステップ アボードのフレグランスにインスピレーションを受けた若手アーティスト・Keeenue(キーニュ)による展示が行われた。Keeenue(キーニュ)は1枚の作品に対して2つのタイトルを付けるという初めての試みで、5種類の香りを起点に5作品・10のタイトルを制作した。「1枚の絵に異なる2つのタイトルを付けた。どちらもイメージの元になった香りがそれぞれあり、絵と同時に鑑賞することができる」と語っている。グラフィティアートと香りという二つのメディアが同じ原点から生まれているというブランドの世界観が、日本のアート界とも共鳴した実例となった。
「バッグ・オン・バルブ」の先駆け:ステップ アボードは「2018年に、香りを髪と全身に噴きかけるというジェスチャーを初めて提案したブランドのひとつ」と自ら位置づけている。ヘア&ボディ両用フレグランスは今日のニッチ香水業界でも一般的なカテゴリになりつつあるが、ステップ アボードはその草分けとしての自負を持っている。
参考文献
- Step Aboard "Who We Are"
- Step Aboard "Fragrances"
- PR TIMES – 日本初上陸プレスリリース (2022年3月)
- Forbes Romania – "Brandul Step Aboard se extinde pe piețele din Japonia și Orientul Mijlociu"
- Dialog Textil – "Step Aboard – pășește în lumea marilor parfumuri de nișă" (Georgiana Mocanuへのインタビュー)
- ÇaFleureBon – "2021 Pitti Fragranze Best of Show: Trends and New Perfume Launches"
- Wikipedia – "Bertrand Duchaufour"
- Profumeria Tafuri – Step Aboard Silver Cloud 商品説明
- Profumeria Tafuri – Step Aboard Sunday Street 商品説明
- Profumerix Luxury Brands – Step Aboard Milano 3D Sul Duomo 商品説明
- La Boutique de Marie – Step Aboard Bosco Sospeso 商品説明
- Essenzaltro – Step Aboard Red Flamingo 商品説明
- Limited Gallery – Step Aboard Transitions Gate 商品説明
- La Parfumerie USA – Step Aboard Infinite Square 商品説明
- PR TIMES – 「Step Aboard × Keeenue」コラボレーション展示のお知らせ (2023年8月)
- Fashion Snap – 「ステップ アボードが日本初上陸」
- Pitti Fragranze back in Florence with 140 exhibitors, special guest …
- 5 things to discover at Pitti Fragranze 2023 | I'M FIRENZE DIGEST
- ミレニアル世代の香りの選び方
- Bertrand Duchaufour: The Genius of Entropy | How the Perfumer Reorganizes the World of Fragrance
- Bag-On-Valve Technology | Aptar
- The Benefits of Bag on Valve Technology – Cosmosol Srl
- Bag-on-valve (BOV) aerosol technology explained – TUNAP
- Milano Centrale Hair & Body Perfume | Step Aboard | Arada Perfumes
- Piramide olfattiva Cuoio di Thaon di Step Aboard
- Step Aboard Cuoio Di Thaon – Profumeria Tafuri
- Home – Step Aboard
- Step Aboard Transitions Gate 150ml
- SUNDAY STREET
- Red Flamingo Perfume | Step Aboard | Arada Perfumes
- Step Aboard Black&White Hair & Body Perfume 150ml – Essenzaltro
- シルバー クラウド
- Perfumes will always be the main pieces in any fragrance collection …
- ステップ アボード公式|製品コンセプト
- ステップ アボード公式|ブラック アンド ホワイト
- ステップ アボード公式|レッド フラミンゴ
- シカゴ建築センター|連邦センター
- フルラ財団・ノヴェチェント美術館|展覧会資料


