匂いを感じない涙にも、人への化学的な働きはある?

匂いを感じない涙にも、人への化学的な働きはある? 香りの科学

涙は、見る人に気持ちを伝えるだけなのでしょうか。2023年の研究では、女性の情動性の涙を鼻から受け取った男性で、金銭ゲーム中の仕返しを表す指標が下がりました。涙を嗅いだという自覚につながるような匂いの評定差は見られず、培養細胞の嗅覚受容体と脳活動にも反応が見つかっています。

涙の化学的な働きを、三つの段階で調べる

研究の出発点は、涙に含まれる化学的な情報が、人の攻撃的な反応に関わるかという問いです。研究者は、男性の行動を調べる実験、ヒトの嗅覚受容体を使う細胞実験、ゲーム中の脳を撮影する実験を組み合わせました。

涙を提供したのは22〜25歳の女性6人です。悲しい映像を見たときに流れた涙を集めました。比較には、同じ女性の頬に生理食塩水を流して回収したものを使っています。頬の皮膚に触れたことの影響にも配慮した対照です。

最初の行動実験では男性31人を募集し、機器の不具合などによる除外後、25人を解析しました。各人は連続する2日間、同じ時間帯に参加し、一方の日は涙、もう一方は対照を受け取りました。順序を参加者間で調整し、参加者にも実験を進める担当者にも、どちらの液体かを知らせない二重盲検の設計です。

参加者は瓶から試料を10回嗅いだ後、試料を染み込ませた小さなパッドを鼻の下に着けてゲームを行いました。涙と対照の間で、匂いの強さ、快さ、なじみの評定に有意差はなく、最初に嗅いだ通常の生理食塩水との評定差も明確ではありませんでした。

「仕返し/挑発」の比が、涙条件で低下

ゲームでは、ボールを握る操作でお金を獲得できます。途中で相手にお金を取られる出来事が起こり、そのとき参加者は、自分には利益がないまま相手のお金を減らす「仕返し」を選べました。相手は人間だと説明されますが、実際にはコンピューターで制御されています。

研究者が使った指標は、受けた挑発の回数に対する仕返しの回数の比です。その平均は、対照条件の1.67から涙条件の0.94へ下がりました。平均値で43.7%低く、統計的にも有意でした。よく紹介される「約44%減少」は、この実験ゲームの比率についての結果です。

一方、二つの行動実験をまとめた質問紙解析では、ゲーム後に尋ねた相手への印象や、会ってみたい気持ち、ゲーム中の怒りなどには有意な条件差がありませんでした。行動上の仕返しの変化と、本人が答える気持ちの変化は、同じようには表れなかったのです。

匂いの自覚が乏しくても、受容体は反応した

次に、ヒトの嗅覚受容体62種類を培養細胞で調べました。最初の探索で候補を絞り、涙を段階的に薄めて再確認したところ、OR2J2、OR11H6、OR5A1、OR2AG2の4種類に、濃度に応じた反応が見られました。

この結果は、涙に含まれる何らかの成分を、通常の嗅覚受容体が受け取れる可能性を示します。ただし、実際にどの分子が作用したかは未同定です。また、この4種類の反応が男性の行動変化を引き起こしたという因果関係までつながったわけではなく、ヒトにある受容体の一部を調べた段階です。

脳では、挑発への反応と領域間のつながりが変化

三つ目の実験では、別に募集した男性33人がMRI装置内で同様のゲームを行いました。行動の解析は26人、脳画像の解析は24人です。仕返しの指標は対照の平均1.306に対して涙で0.967と低くなりましたが、最初の実験より効果は小さく、最初の実験を踏まえて低下方向を検討する片側検定でp=0.048となる結果でした。

この実験では、条件にかかわらず2日目に仕返しが増え、参加者の除外後には条件順序の人数も偏りました。脳活動については順序をそろえ直す追加解析も行われましたが、行動結果の再現の強さを読む際には、この事情が重要です。

脳画像では、涙条件で挑発に対する左前部島皮質や前頭前皮質の反応が小さくなりました。これらの活動の条件差は、仕返しの指標の条件差とも関連していました。また、左前部島皮質と、右側頭極から扁桃体・梨状皮質に及ぶ領域との機能的結合が強くなっていました。ここでいう結合は、脳活動の変動がどの程度連動するかを示す解析上の指標です。

つまり、単に脳全体が静かになったという結果ではなく、挑発に反応する領域の活動が弱まり、嗅覚にも関係する領域との連動が変わったという所見です。

日常への広がりは、これから確かめる

今回調べたのは、女性が感情によって流した涙と、それを鼻の近くで受け取る男性の組み合わせです。女性が受け取る場合や、子ども・男性の涙、日常の距離での作用は今後の課題です。

ホルモンも研究の背景にありましたが、今回採取した唾液は解析されず、テストステロンの変化は測定結果として示されていません。著者が予想した視床下部の活動・結合の変化も見つかりませんでした。受容体からホルモン、脳、行動へ至る具体的な経路には、まだ埋めるべき部分があります。

まとめ

女性の情動性の涙を受け取った男性では、対照の食塩水条件より、金銭ゲーム中の仕返しの指標が低くなりました。別のMRI実験でも小さいながら同方向の行動結果があり、挑発に関係する脳活動の低下と、嗅覚関連領域との連動の変化が観察されました。

さらに、涙に反応するヒト嗅覚受容体が細胞実験で見つかっています。涙が視覚的な表情の一部であるだけでなく、鼻を通じた化学的な情報にもなり得ることを、行動・受容体・脳の三方向から調べた研究です。

研究はイスラエル科学財団、米国のNSF・NIH、Rob and Cheryl McEwen Fund for Brain Researchなどの支援を受けています。資金提供者は研究設計・解析・発表判断に関与せず、著者らは利益相反なしと申告しています。

参考文献

Agron S, et al. (2023). A chemical signal in human female tears lowers aggression in males. PLOS Biology, 21(12), e3002442. 原著論文・公開全文