ミラー・ハリス — ロンドン発、香りで語る物語

ミラー・ハリスの世界観と代表製品「Tea Tonique 100ml」を表現したブランドイメージ ブランド創業者

「あそこのことを考えない日はない」

— リン・ハリス、スコットランドの祖父母の農場での記憶について

基本情報

設立年: 2000年
創設者: リン・ハリス(Lyn Harris)
共同設立者(パートナー): クリストフ・ミシェル(Christophe Michel)
本拠地: ロンドン、イングランド
公式サイト: millerharris.com(グローバル)/ millerharris.jp(日本)

創設者・ブランドの成り立ち

匂いの記憶から始まった旅

リン・ハリスは、イングランド北部のヨークシャーとスコットランドの高地を行き来しながら育った。なかでもスコットランドにある祖父母の農場での夏休みは、彼女の感受性を根底から形づくった。

「祖父が家具を作っていた作業場の匂い、祖母の料理の匂い、祖母が毎朝最初に点けた暖炉の匂い、果物や野菜や花に満ちた庭——。あそこのことを考えない日はない」

— リン・ハリス、テレグラフ・マガジン(The Telegraph Magazine) 2012年インタビューより

幼少期、彼女は匂いへの執着を隠すことができなかった。ある親友の家が好きな理由として「お菓子の匂いと彼女の髪の匂いがするから」と言い、母親を狼狽させたというエピソードが残っている。この感覚の鋭さこそが、後に彼女を世界的な調香師へと導く才能の萌芽だった。

ハリファックスの香水ショップ、そしてロンドンへ

学校教育は得意ではなかったが、土曜日や学校の休暇中はハリファックスの香水ショップでアルバイトをし、学校を離れた後も約1年間そこで働いたと語っている。そこでクチュールハウスの香水が人々を変容させる様子に魅了された。

「これらの美しいクチュールハウスが彼らを代表するフレグランスを持っていること、そして香りがショップのお客様を変容させていくこと——それが彼女たちの個性の一部になっていく過程を、ただそこにあって見えないものとして、愛するようになった」

— リン・ハリス、プリンス(Plinth)などのインタビューより

20歳のとき、姉のあとを追ってロンドンへ。そこでアロマセラピー・アソシエイツというエッセンシャルオイルの輸入業者に就職し、2年間「嗅覚と天然素材の知識」を磨いた。その後、フランス調香の専門書に偶然出会う。そこに記されていたのが、パリのエッフェル塔のそばに調香学校を開いていたモニック・シュリアンジェ(Monique Schlienger)という女性の名前だった。

「あの本が私の世界を変えた」

— リン・ハリス

パリ、そしてグラースへ——フランス式調香の真髄を学ぶ

リン・ハリスはなんとかモニック・シュリアンジェに面会を申し込み、少量の香料を試調合した小さなプレゼンテーションを行った。その熱意がシュリアンジェの心を動かし、受講を認められた。しかし「科学の授業のためには通訳が必要よ」と言われ、彼女は自費で通訳を雇い、2年半にわたってジャン・カール(Jean Carles)のメソッドを学べるシュリアンジェの学校「サンキエム・サンス(Cinquième Sens)」で学んだ。

「私はとても意志が強かった(I was so driven)」

— リン・ハリス

学校修了後、グラースのフレグランスハウス「ロベルテ(Robertet)」から誘いを受ける。ロベルテはグラースに本拠を置く、天然香料のプロフェッショナルとして150年以上の歴史を持つ世界有数のフレグランスハウスだ。そこでマスターパフューマーのリシャール・メルキオ(Richard Melchio)に師事し、3年間、嗅覚の記憶とフォーミュラ(処方)の訓練を積んだ。

「私の作品はとても感情的だと彼(メルキオ)は言った」

— リン・ハリス

その後、フランスでLVMH(エルヴィエムエイチ)傘下のフレグランス・ビューティーブランドに勤務してから帰国。この頃にはすでに、商業的な大量生産香水が合成香料に頼る時代の中で、「天然素材で香水を作ること」という信念をリン・ハリスは持ち始めていた。

「私の先生は、アイリスやローズを使おうとすると笑って言った——『それらは学ぶべき素材だが、使うことはない』と。でも私は、それらの素材なしに調香師になるつもりはなかった。私は天然素材を調香の世界に再び呼び戻す先駆者だった。あの動きの最前線にいた。そして全員がついてきた」

— リン・ハリス、プリンス(Plinth)などのインタビューより

ミラー・ハリスの誕生

1998年にパートナーのクリストフ・ミシェルとともにロンドンへ帰国。2000年、銀行からの融資7万5千ポンドと自己資金7万5千ポンド、合計15万ポンドを元手に、ノッティング・ヒルに最初の店舗を開いた。スタート時のコレクションはわずか4作品。

ブランド名「ミラー・ハリス(Miller Harris)」は、リン・ハリスの父親のミドルネームとラストネームに由来する。自らの名前ではなく父へのオマージュを込めた命名——これは、ブランドに込めた家族への敬意と、個人的な記憶を大切にするリン・ハリスの姿勢を象徴している。

ミラー・ハリスは瞬く間にロンドンのニッチ・フレグランス界で注目を浴びた。リン・ハリスは「最初の女性マスターパフューマーのひとり」として業界に名を残すことになる。

ターニングポイント:ジェーン・バーキンとの共同制作

2006年、ミラー・ハリスはある伝説的なコラボレーションを世に送り出す。リン・ハリスが女優でスタイルアイコンのジェーン・バーキン(Jane Birkin)のためにビスポーク(完全オーダーメイド)で作った香水が、のちに市販化された「レール ド リアン(L’Air de Rien)」である。

ふたりは共通の友人を通じて知り合い、ジェーンが「自分だけのシグネチャー・フレグランスを見つけたことがない」という悩みを語ったことから、プロジェクトが始まった。バーキンが掲げたブリーフはジェーン・バーキンらしく、個人的で奇抜だった——兄の髪の匂い、父親のパイプ、古い図書館の埃、パリの地下鉄、過去の恋人の抱擁。こうした「最も大切な記憶の匂い」をひとつの香水に封じ込めることを求めた。

「静寂のエッセンス、疲れた本の香り、埃、愛された肌の温もり、近さと遠さ——そのすべてを表現してほしいとジェーンは言った」

— ダッパー・キッド(dapper kid)によるレビュー記事が伝えるバーキンのブリーフより

完成までに2年を要した。ムスク、アンバー、チュニジアン・ネロリ、モス、バニラで構成されるこの香りは、ジェーン・バーキンという人物の内面をそのまま纏ったような、親密で懐かしい一本となった。

「『ユニーク』という言葉は彼女を表すには言い足りなかった。彼女は息をのむほどユニークだった(She was breathtakingly unique)」

— リン・ハリス、サザビーズ(Sotheby’s)寄稿文より(2023年、バーキン追悼)

現在「レール ド リアン」は年間小バッチで生産され、ミラー・ハリスの店舗と公式サイトのみで販売されている。

資本参加から、創業者の旅立ちへ

2010年には、当時のイギリス首相デイヴィッド・キャメロンの妻サマンサ・キャメロンが、ホワイトハウス訪問の際にミシェル・オバマへの贈り物として「クラシック・センツ・コレクション」のキャンドルを選んだ。このエピソードはブランドの品格と認知度を一気に高めることとなった。

2012年10月、ロンドンを拠点とするプライベートエクイティ「ネオ・キャピタル(NEO Capital)」がミラー・ハリスに出資した。ネオ・キャピタルはトム・ディクソンやラデュレーなどのラグジュアリーブランドにも投資する会社である。

2013〜14年頃、リン・ハリスはミラー・ハリスを離れ、2015年にロンドン・マリルボーンに新たなフレグランスハウス「パフューマー H(Perfumer H)」を設立。離脱後もコンサルタント・株主として関わったと報じられたが、その後は独立した調香師として「パフューマー H」を中心に活動している。

ブランドのこだわり

香りづくりの哲学:植物と記憶から生まれるストーリー

ミラー・ハリスの中心的な哲学は、「ボタニカル(植物由来原料)へのこだわり」と「香りによるストーリーテリング」にある。

「私たちのフレグランスのDNAは、クラシックな調香の技術にイギリス的な感性を加えること。美しさと楽観主義を、香りの物語として常に伝えること」

— ミラー・ハリス公式サイト 「ブランドについて(About Us/アバウト・アス)」 より

フレグランスはオードパルファム(EDP)を中心に展開されており、「香料の美しさを最大限に引き出し、肌の上で長く香るように設計されている」という姿勢の表れでもある。また、ほぼ全てのフレグランスがユニセックスで設計されており、性別に縛られない香りの在り方を体現している。

サステナビリティへの取り組み

天然素材への敬意は、環境への責任とも連動している。提携する香料会社は、マダガスカルで毎年1万〜2万本のイランイランの苗木を植え、52ヘクタールの生物多様性保護区を設けている。キャンドルのワックスはイギリス産の大豆・菜種ワックスを使用し、ディフューザーにはオーガニックアルコールを採用。公式説明では、オードパルファムの20%が「アップサイクルされた素材」を少なくとも一つ含む処方になっているという。

パッケージングについては「必要最小限の素材」という方針を掲げ、使い捨てではなく「アフターライフ」を持てる容器の開発に取り組んでいる。外箱はFSC認証のリサイクル可能素材を使用している。

ボトルデザイン

ミラー・ハリスのフレグランス・ボトルは、繊細なラインドローイング(線描)が特徴的な形状で知られており、ブランドのリブランディング時にも「このボトルのデザインは維持する」方針がとられた。また製品ラインナップ全体において、ヴィーガン処方であり、フタル酸塩・人工着色料・パラベン・ホルムアルデヒド不使用となっている。

香水ラインナップ

ミラー・ハリスのフレグランスは、コレクションやシリーズという形で、それぞれ明確なテーマやストーリーのもとに制作されている。以下に主要なコレクションを紹介する。

リン・ハリス時代の名作たち

リン・ハリスがミラー・ハリスを率いていた時代(〜2013年頃)には、彼女自身が全フレグランスを創作した。初期の代表作「シトロン・シトロン(Citron Citron)」はブランドを象徴する柑橘フレグランスとして長く愛されたが、現在は廃番となっている。2003年発売の「ノワ・ド・チュベローズ(Noix de Tubéreuse)」はチュベローズ・フレグランスの傑作として、発売から20年以上経った現在も熱心なファンを持つ。

2011年発売の「ラ・フュメ(La Fumée)」はイエメンのお香をはじめ、エジプト産ゼラニウム、ガテマラ産カルダモン、マイソール産サンダルウッドなどを組み合わせた、煙と神秘をテーマにした作品だ。インセンスと木材の複雑な層は、古代の儀式へのオマージュと評された。

レール ド リアン(L’Air de Rien)

前述の通り、2006年にジェーン・バーキンとの2年越しの共同制作によって生まれた。ムスク、アンバー、モス、バニラが絡み合うこの香りは「親密さと懐かしさを持つ、唯一無二の作品」と公式サイトでも説明されている。現在も根強い人気を保ち、年間小バッチ生産で販売継続中である。

マチュー・ナルダンとのパートナーシップ

リン・ハリスが去った2014年以降、フランス・グラース出身でロベルテ育ちの調香師マチュー・ナルダン(Mathieu Nardin)がミラー・ハリスの中心的な調香師となった。

  • ティー・トニック(Tea Tonique):イタリアン・ベルガモット、マテ・アブソリュート、スモーキーなバーチタールが醸し出す、紅茶農園の早朝をイメージしたフレグランス
  • ローズ・サイレンス(Rose Silence):「現代のためのローズ香水」として再解釈された作品。マンダリン、ローズ、パチュリ、カシミアムスクの透明感ある一本
  • ヴェチベール・アンソラン(Vetiver Insolent):ベチバーという「よく使われすぎた素材」を多汁で知覚的に解釈した作品
  • リュミエール・ドーレ(Lumière Dorée)& エテュイ・ノワール(Étui Noir):光と影を表現する対をなすフレグランス。2016年発売

ストーリーズ・コレクション(Stories Collection)

ミラー・ハリスの現代的な創造性を象徴するコレクション。「有名文学作品の一節だけをブリーフとして調香師に渡し、テキストからフレグランスを創る」という実験的なアプローチが特徴だ。

コレクションのスタートは2018年発売のスケルツォ(Scherzo)とテンダー(Tender)の2作品。F・スコット・フィッツジェラルドの小説『夜はやさし(Tender is the Night)』の一節だけを受け取ったマチュー・ナルダンが、スケルツォをタンジェリン、ダバナ、ダークレッドローズ、ピオニー、オリバナム、ナルシス、ピトスポラム、パチュリなど豊かな果実と花を纏った作品として完成させた。これは同コレクションで最初に誕生したフレグランスの一つであり、ミラー・ハリス全体を代表するベストセラーでもある。

その後コレクションはエーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』からインスピレーションを得たソフロ(Soufflot)、中国古典文学『紅楼夢』に着想したセラドン(Celadon)、バージニア・ウルフの『灯台へ』をテーマにしたミネール(Mìneir)、そして2025年秋にはカレブ・アズマー・ネルソンの小説『オープン・ウォーター(Open Water)』からインスピレーションを得たレガート(Legato)が加わるなど、現在7作品を擁するコレクションへと成長している。

ワンダー・コレクション(都市の採集)

2018年、ロンドンの「アーバンフォレジング(都市採集)」をテーマにした3作品——ワンダー・スルー・ザ・パークス(Wander through the Parks)、ロスト・イン・ザ・シティ(Lost in the City)、ヒドゥン・オン・ザ・ルーフトップス(Hidden on the Rooftops)——を発売。

ロンドンを歩き回り、ロイヤル・フェスティバル・ホールのブルータリスト様式の屋根で採集された蜜蜂の蜜、鉄柵に絡まる野生ルバーブ、コンクリートの割れ目から芽吹くイラクサなど、都市の中に潜む野生の植物をそのまま香りに変換した。包材にはスマイル・プラスチクス(Smile Plastics)製の廃材プラスチックを採用し、コンセプトをパッケージにまで貫いている。

ちなみに……

ミラー・ハリスのキャンドルはかつてホワイトハウスへ贈られたことがある——これが一番の「トリビア」として知られるエピソードだ。2010年のイギリス首相官邸のホワイトハウス訪問の際、サマンサ・キャメロンがミシェル・オバマへの贈り物としてミラー・ハリスの「クラシック・センツ・コレクション」のキャンドルを選んだ。シトロン・シトロン、クール・ド・フルール、テール・ド・ボワ、フルール・オリエンタルの4種類だった。

また、ジェーン・バーキンのための「レール ド リアン」制作中、バーキンは「話し続けていた(didn’t stop talking)」と言われている——彼女の奔放な語り口がリン・ハリスの創作意欲に火をつけたと伝えられる。制作期間は2年に及んだ。

リン・ハリスは「タマネギ、ニンニク、カレーを食べると翌日は仕事ができない」と語っており、これらの食べ物が嗅覚のパレットを圧倒してしまうからだという。また、仕事中は香水をつけず、週末だけに楽しむという徹底ぶりを公言している。

参考文献