Sissel Tolaas(シセル・トラース)— 匂いを採集・再構成し、身体と都市の認識を問うアートと研究

匂いの採集と記録を象徴する試料瓶、金属容器、石、ノートを配した温かな静物。Sissel Tolaas(シセル・トラース)の記事サムネイル。 香りの世界を広げる

「もし嗅覚が、私が世界を理解する方法になったら?」

— シセル・トラース

シセル・トラース(Sissel Tolaas)の作品では、美術館の白い壁に手を触れ、その手を鼻に近づけることが鑑賞になる。目の前に人がいなくても、身体から採集し、再構成された匂いによって、他者の存在が立ち上がる。彼女が素材にするのは、花や木だけではない。汗、街の空気、衣服に残る痕跡も、世界を知るための情報である。

トラースを理解する鍵は、珍しい匂いの収集量よりも、それを採集し直し、別の場所で人に渡すまでの仕事にある。何を残すのか。説明を先に読んだときと、何も知らずに嗅いだときで、認識はどう変わるのか。彼女の研究と作品は、鼻を使うことで、普段の判断を問い直す場をつくっている。

基本情報

名前:Sissel Tolaas(シセル・トラース)
活動:匂いの研究、採集・分析・再構成、嗅覚を用いたアート
出身・拠点:ノルウェー出身、ドイツ・ベルリンを拠点に活動
研究拠点:SMELL RE_searchLab Berlin。2004年、香料会社IFFの支援を受けて設立
本人の発信:Instagram @sssl_berlin

本人が名乗るのは、smell researcher and artist、すなわち匂いの研究者でありアーティストという立場である。また、自分を「professional in-betweener」と呼ぶ。化学、言語、視覚芸術などの間を行き来する仕事を示す言葉だ。香料技術を用いていても、彼女の問いを、心地よい香水を設計する仕事だけで説明することはできない。

空気への関心から、匂いを研究する仕事へ

ノルウェーの屋外生活と、呼吸への問い

トラースはノルウェー西海岸で育ち、屋外で過ごすことを好んだ。幼い頃の喘息は、活動に制約を与える一方で、見えない空気と呼吸に関心を向けるきっかけになった。空気は目には映らないのに、生きることに欠かせない。その関心が、周囲の匂いを探る仕事につながっていった。

数学、化学、言語、視覚芸術を学んだ経歴には、一つの専門だけでは扱いにくい対象に近づく道筋がある。化学は空気中で起こることを調べる手段となり、言語学は見えないものについて話す方法を考える手段となる。芸術は、その問いを研究室の外へ持ち出し、人々の反応に出会う場となった。

1990年代の採集と、2004年の研究室設立

1990年代、トラースは7年間にわたり旅をし、匂いを採集して分類・記録した。場所、出会い、出来事を参照情報にし、その匂いを彼女にとって定義するものを書き留めていった。言語の知識は、見えない対象を言葉にする助けとなった。その後、IFFの支援を受け、2004年にベルリンで匂いの研究室を設けた。

その能力を、生まれつきの特別な鼻だけに帰してはいない。2021年の対話では、朝、ほかのことを始める前に、分子や化学物質の匂いを嗅ぐ訓練をする日課を語っている。旅先にも訓練用の道具を持参するという。

「生まれつき、ものすごく匂いを嗅ぐ能力があったわけではありません。まったく。」

— シセル・トラース

この言葉から見えるのは、嗅覚を特別な才能として遠ざけず、使い続ける技能として扱う姿勢である。彼女にとって、研究室で分子に向き合う時間と、実際に人や場所のある現場へ出ていく時間は、どちらも仕事を支えている。

匂いを採集し、分析し、保存する方法

発生源そのものの保存から、成分の記録へ

初期のアーカイブでは、匂いを発する実物を金属容器に入れ、真空密封した。容器には場所、文脈、日時、言語などの情報を添えた。のちに技術を使って匂いを記録できるようになると、発生源そのものを研究室へ運び続ける必要はなくなった。採集物を保つことから、再構成のための情報を残すことへ、保存の方法が広がったのである。

トラースはまず、自分の鼻で現場を確かめる。そのうえで、機器を使って採集するかを判断する。本人が説明する方法では、携帯機器で発生源から放出される分子を採り、研究室の化学者が分析して成分を特定する。得られたデータを使い、記録した匂いにできる限り近づけて化学的に再構成する。

ここで用いられる技術の一つが、ヘッドスペースである。対象の周囲の空気に含まれる揮発性成分を採取し、分析につなぐ方法だ。2020年の本人との対話では、IFFの研究開発部門や機器へのアクセスが、こうした仕事を支えていると説明している。

採集・記録ごとに分子のデータを残し、都市、身体、海、自然・生物多様性などのアーカイブに加えていく。さらに、再構成した匂いを元の場所から切り離して別の媒体に置く。何を嗅いでいるかという説明を外すことも、鑑賞者の認識に働きかける方法の一部なのである。

「匂いは手段です。大切なのは目的であり、私の目的は寛容さです。」

— シセル・トラース

コレクションの数字が数えているもの

2025年3月のシェーリング財団の人物紹介では、コレクションを「匂いのサンプルと処方」15,000件とし、55のSmellScapesにも触れている。同じ紹介は、海や森林の匂いの保存、ポンペイ遺跡の匂いの遺産アーカイブへの取り組みを挙げる。これは、その時点の紹介にある数値と活動である。

一方、初期の金属容器、個別の分子、複雑な匂いの構造、再構成した匂いは、同じ単位ではない。「15,000種類の都市の匂いを瓶詰めした」といった読み替えはできない。トラースのアーカイブは、物とデータと処方が重なる複数の記録であり、作品はそこから異なる問いに応じて組み立てられる。

身体の匂いを壁で嗅ぐ——恐怖をめぐる作品

「The FEAR of smell—the smell of FEAR」は、身体の匂いを、他者との距離を考える素材にする仕事である。メディアマティックの2006年の紹介は、2005年に始まった研究で、強い恐怖症を持つ、背景の異なる20人の男性を対象にしたと説明している。恐怖が訪れそうなときに脇の下で装置を用い、匂いの情報をトラースへ送り、ベルリンで汗の匂いを再構成した。

展示へ移す際には、再構成した匂いを微小なカプセルに閉じ込め、匂いのない結合材に混ぜて壁に組み込んだ。触れることで匂いが放出される仕組みである。人の汗そのものをそのまま壁に塗った、という理解とは異なる。

2006年10月12日から12月31日まで、MITリスト・ビジュアル・アーツ・センターの「Sensorium: Part I」でも、この作品が展示された。公式の素材表記は、人工的に再構成された汗と合成の結合材を示す。ほとんど空の部屋で壁をこすると、匂いが解放されると同時に、来場者がそこに触れた痕跡も残った。

見えている身体と向き合う前に、匂いに反応する。しかも、鑑賞者自身が壁へ近づき、手を動かさなければならない。ここでは鼻だけでなく、自分が他者へどれほど近づけるかという身体の振る舞いも、作品の経験に含まれる。恐怖が単一の分子として証明された、と読む作品ではない。

メルボルンの歴史を、触れて嗅ぐ記憶ゲームへ

都市を扱う代表例が、2017年のNGVトリエンナーレに制作した「SmellScape Melbourne_PastPresentPast」である。ヴィクトリア国立美術館の公式紹介は、メルボルンの20の異なる匂いを、触れて嗅げる「匂いの風景」として示している。好ましいものも、好ましくないものも含み、鑑賞者はそれが何の匂いかを考える。

作品は実在する匂いの再構成と抽象的な匂いのコードを使い、都市の過去と現在に関わる記憶を呼び起こし、また新しい記憶をつくる。展示ラベルには、数字と文字に対応する物体から同じ匂いを探し、文字を数字の位置に置いて言葉をつくる仕組みが説明されている。四つの壁を順にたどると、一つのフレーズになる。

「人々に鼻を使うことを促せば、世界を理解するための新しい方法と手段を与えられます。」

— シセル・トラース

抽象的な物体は、見た目だけで答えを教えてくれない。同じ匂いを覚え、別の場所でそれを認め、対応を考える必要がある。都市の歴史を説明文として受け取るだけでなく、自分の身体で記憶を働かせるように、展示そのものが設計されている。

絶滅した花の匂いを、共同研究で再構成する

「Resurrecting the Sublime」は、トラース、アーティストのアレクサンドラ・デイジー・ギンズバーグ、クリスティーナ・アガパキスが率いるギンコ・バイオワークスのチームによる共同プロジェクトである。2019年、パリのポンピドゥー・センターで始まった展示は、人間の活動で失われた花の匂いを手がかりに、絶滅とその土地の歴史を考える。

ギンコのチームは、ハーバード大学の植物標本庫にある三つの花の標本から微量のDNAを抽出し、香気成分の生成に関わる酵素をコードしていた可能性のある遺伝子配列を予測・再合成した。トラースはその成果を受け、同一または比較可能な匂いの分子を用いて、研究室で花の匂いを再構成した。植物標本から昔の香りをそのまま取り出したわけではない。

2021年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展でも、この共同作品が展示された。そこで扱われた、ハワイのマウイ島に自生したヒビスカデルフス・ウィルデリアヌスは、植民地期の牧畜によって生息する森林が失われ、最後の木が1912年に枯れかけた状態で見つかった。作品は、その花だけでなく、失われた場所と人間の行為を結びつける。

ただし、どの分子があり得たかを探れても、各成分の量は失われている。ギンズバーグの展示では、匂いの断片が空間で混ざり合う。唯一の正確な匂いを提示する構造ではない。生命そのものの復活でもない。再構成によって近づける部分と、もはや取り戻せない部分を、ともに経験させる試みなのである。

RE________——説明より先に、自分の反応に出会う

2021年10月8日から12月30日まで、オスロのアストルップ・ファーンリー美術館で開催された「RE________」では、作品の説明文の代わりにコードが置かれた。作品名と詳しい情報は最後の部屋に集められ、鑑賞者は、先に自分の印象をつくることも、情報を知ってから巡ることもできた。

美術館の立地や建築そのものに向き合い、作品はその展示のために制作、または組み直された。2022年9月16日から12月30日には、米国フィラデルフィアのICAへ場所を移し、20の作品からなる展覧会として開かれた。同じ内容を容器ごと運ぶだけでなく、会場に応じて展開する仕事である。

ICAでは、ノルウェー西海岸の匂いを、現地の嵐に連動して作動する送風機で空間へ運ぶ展示もあった。匂いを含ませたブロックや石は、個人の記憶を呼び起こすと同時に、人々が話すきっかけにもなる。説明に正解を求める前に、嗅いだものから何を思い出し、何を話したくなるかに、注意を向けさせるのである。

衣服に残る分子から、着ていた人を考える

2024年5月10日から9月2日までメトロポリタン美術館で開催された「Sleeping Beauties: Reawakening Fashion」では、傷みやすい衣服を視覚だけで鑑賞する限界に、匂いの研究が関わった。同展は保存分析や多様な技術によって衣服の感覚的な側面を再び働かせる企画であり、トラースは一部の展示物に伴う匂いを担当した。

デニーズ・ポワレが着たドレスから採集した分子は、こすると匂う壁に使われた。別の空間では、衣服から集めた匂いを管から放出したり、ガラス容器を壁の異なる高さに配置したりしている。同じ採集物でも、身体をどう近づけるかに応じて、提示方法が変わる。

「私は空間に香水をつけているのではありません。」

— シセル・トラース

本人はこの仕事を、保存担当者とともに衣服を調べ、そこに生きられた時間を示す分子の情報に目を向けることとして語る。衣服に見合う心地よい香りを付け足すのではなく、物の表面の下にある情報を、鑑賞者が別の仕方で受け取れるようにするのである。

よい匂い・悪い匂いの先に、何を知れるか

トラースとアガパキスが2012年に発表した論考「Smelling in multiple dimensions」は、匂いを単純な快・不快の軸だけで捉える見方を問い、化学、神経科学、美学、社会科学を横断する必要を示している。彼女の展示でも、成分を分析することと、人がその匂いをどう受け取るかは、別々の問いとして重なる。

汗の匂いを持つ壁、都市の記憶を探るゲーム、成分比の失われた花、衣服から採集した分子。これらをつなぐのは、すべてをよい香りに変える方針ではない。嗅ぐための条件を組み替え、私たちが何を知り、どんな説明を信じ、何を避けてきたかを確かめる仕事である。

参考文献

  1. Exploring the depth of smell through art — Penn Today(2022年9月15日)
  2. Sensorium: Part I — MIT List Visual Arts Center(2006年)
  3. Sissel Tolaas: The Stories of Smell, Revisited — Future of StoryTelling、本人との対話・公開トランスクリプト
  4. Conversation with the artist Sissel Tolaas — Art of Change 21、Alice Audouinとの対話(2020年6月)
  5. Sissel Tolaas RE________ — Astrup Fearnley Museet(2021年)
  6. Sissel Tolaas — NGV Triennial 2017、公式作家紹介
  7. On scaling down to scale up — The Creative Independent、René Kladzykによる本人インタビュー(2021年3月29日)
  8. It’s a smell world — KTCHNrebel、Ilona Marxによる本人インタビュー(2021年7月)
  9. Sissel Tolaas, Berlin — Collectors Agenda、本人インタビュー
  10. Smelling — Schering Stiftung(2025年3月11日の催事・人物紹介)
  11. The Smell of FEAR — Mediamatic(2006年の作品紹介)
  12. NGV Triennial Large Print Labels — 作品説明・素材表記(pp.110–112)
  13. About — Resurrecting the Sublime、共同プロジェクト公式解説
  14. Resurrecting the Sublime — ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展(2021年)
  15. First major US exhibition… — ICA Philadelphia公式発表(2022年8月15日)
  16. The Metropolitan Museum of Art Releases New Details… — The Met公式発表(2024年4月15日)
  17. Everything Is About Chemistry — Vogue、Laird Borrelli-Perssonによる本人インタビュー(2024年5月16日)
  18. Smelling in multiple dimensions — Christina M. Agapakis/Sissel Tolaas、Current Opinion in Chemical Biology(2012年、抄録)