資生堂(SHISEIDO)— 銀座から世界へ、東洋の美を纏う香り

資生堂の世界観と代表製品「GINZA Eau de Parfum 50ml」を表現したブランドイメージ ブランド創業者

「美は普遍的なものだ。それゆえ、美に奉仕する製品もまた普遍的であるべきだ。」

——福原有信(資生堂創設者)

基本情報

設立年: 1872年(香水事業としての本格的な展開は1917年以降)
創設者: 福原有信(ふくはら ありのぶ)
公式サイト: https://www.shiseido.com

創設者・ブランドの成り立ち

海軍薬剤師という出発点

1848年、安房(あわ、現・千葉県館山市)に生まれた福原有信は、漢方医師を父に持つ家庭に育ちながらも、西洋医学に強い関心を抱いた人物であった。彼は西洋薬学を修め、やがて日本海軍の主任薬剤師(チーフ・ファーマシスト)の地位にまで上り詰める。しかし、軍に在職しながら彼は当時の日本の医薬品の質に深い不満を抱くようになっていく。「この世の良いものをすべて取り込み、新しいものを創り出す」——これが彼の胸に灯り続けた信念であった。

銀座に誕生した「資生堂薬局」

1872年、20代前半の福原有信は日本初の本格的な西洋式私設薬局を、当時の文明開化の中心地・東京銀座に開業した。その名「資生堂(しせいどう)」は、中国の古典『易経』の一節に由来する。「資生」は「すべてのものが生まれるところ」、「堂」は「家」を意味し、一節全体としては「大地の徳をたたえよ。万物はそこから生まれる」と読まれる。単なる薬局の名称を超えた哲学的な宣言でもあった。

福原は同時に、当時の日本にはなかった「医薬分業」という考え方を初めて実践に移した人物でもある。医師が処方し、薬剤師がそれを調剤する——今日では当然とされるシステムの先駆けを、彼は明治初期に切り拓いた。

化粧品ビジネスへの転換と二代目・福原信三

創業者・有信の息子である福原信三は、1915年に資生堂の経営を任され、事業の軸を医薬品から化粧品へと本格的に転換させた。彼は絵画・写真・芸術を深く愛する人物で、1916年に資生堂のデザイン部門「意匠部」(現在の資生堂クリエイティブにつながる組織)を創設し、製品を「芸術品としての商品」として世に送り出すという思想を確立した。

同年、1915年には椿をモチーフにした商標「花椿(はなつばき)」のデザインが誕生する。椿は日本の美の象徴であり、以後この花は資生堂のブランドアイデンティティとして今日に至るまで使われ続けている。

香水の誕生——1917年「花椿」

1917年、資生堂は日本人の手によって国内で作られた初の本格的な香水を発売した。その名も「花椿(はなつばき)」。実際の椿の花は香りをほとんど持たないため、この香水は「椿の花のイメージ」を纏うフローラルな香りとして構成された。ボトルのデザインは当時欧米で流行していたモダニズムの影響を受けながらも、重厚感のある日本的な趣を加えたものとなった。この一本が資生堂のすべての香水の原点である。

世界へ——1964年「禅(ZEN)」

第二次世界大戦後の焼け野原から奇跡的な復興を遂げた日本が、1964年に東京オリンピックを迎えた。この歴史的な好機を活かし、資生堂は同年、ブランド初の海外向け香水を発売した。その名は「禅(ゼン)」。

欧米における東洋への深い関心を巧みに捉えたこの作品は、アメリカ人女性の嗜好を徹底的にリサーチした上で開発された。調香を担当したのは、ギ・ラロッシュ(Guy Laroche)のフィジー(1966年)やエスティ ローダー(Estée Lauder)のユース・デュー(1953年)も手掛けたアイエフエフ(IFF)の調香師、ジョセフィン・カタパノ(Josephine Catapano)である。ゼンという名前が象徴する「日本らしさ」は、フレグランスだけでなく、パッケージデザインにも徹底して織り込まれた。

ボトルのデザインを手掛けたのは、資生堂デザイン部のデザイナー・山本武夫。彼は16世紀の高台寺の蒔絵を着想源とし、黒漆を背景に秋草や秋の庭園のモチーフを金で描いた。琳派(りんぱ、17世紀の京都に興った芸術の流れ)の花鳥風月の表現を取り込んだこのボトルは、東洋の神秘を纏う唯一無二の美術品ともいえるものとなった。

翌1965年には資生堂はニューヨークに現地法人を設立し、のちに三代目・福原義春氏が社長として渡米してアメリカ市場の開拓にあたった。ゼン(ZEN)は日本航空の機内販売品としても採用され、欧米に徐々に浸透していった。やがて日本人モデル・山口小夜子との専属契約(1973〜1986年)により、この香水は「ゼン(ZEN)」として日本に逆輸入されるようになった。

セルジュ・ルタンスとの出会い——1980年代の革命

資生堂の香水史に最大の転換点をもたらしたのは、1980年に始まる一人のフランス人アーティストとのコラボレーションだった。セルジュ・ルタンス(Serge Lutens)——写真家、映像作家、メイクアップアーティスト、そして後に類稀な調香家となるこの多才な人物は、1942年フランス北部のリール生まれ。14歳から地元の美容院で働き始め、その後パリへ出て『フレンチ・ヴォーグ』でリチャード・アヴェドンやアーヴィング・ペンら伝説的な写真家たちと共同作業を行った。1968年から1980年にかけては、クリスチャン・ディオールのビューティーラインのクリエイティブ・ディレクターを務め、同ブランド初のメイクアップ・コレクションを創り上げた。

1980年、ルタンスは資生堂のアーティスティック・ディレクターに就任する。その審美眼とクリエイティビティは、資生堂がヨーロッパ市場へ本格進出するうえで大きな推進力となった。就任から間もない1982年、ルタンスは資生堂との協働による初のフレグランス——ノンブル・ノワール(Nombre Noir)——を世に問う。

このフレグランスは、調香師ジャン=イヴ・ルロワ(Jean-Yves Leroy)が手掛けた、ダマセノン(ダマスクローズの合成香料成分)を前例のないほど大量に使用した傑作だった。オスマンサス(金木犀)の高価な天然エキスとの組み合わせが生み出す深みあるローズは、当時の香水界に衝撃を与えた。しかし、光に敏感なダマセノンの不安定さ、瓶の製造コストの高さと漏れの問題が重なり、資生堂は発売から数年以内に全在庫を廃棄するという苦渋の決断を下したと伝えられる。1990年代以降、批評家のルカ・トゥリンが「世界に五つある偉大な香水の一つ」と称えたことで伝説的な地位を確立し、現在ではボトル一本が数十万円で取引されるほどの希少品となっている。

ブランドのこだわり

「東西の融合」という哲学

資生堂の香りづくりの根幹にあるのは、創業者・有信が掲げた「東西融合」の哲学である。西洋の先端的な化学・調香技術を取り込みながら、日本の美意識——「侘び寂び」「間(ま)」「引き算の美」——をその精神として織り込む。禅の静けさ、椿の潔い美しさ、蒔絵の繊細さが、各時代の香水の世界観を形成してきた。

創業者・有信の言葉「美は普遍的なものだ。それゆえ、美に奉仕する製品もまた普遍的であるべきだ」は、国境や文化を超えた香水づくりへの姿勢を体現するものとして今日でも語り継がれている。

ボトルを「作品」として設計する文化

資生堂は早くから香水のボトルを「製品」ではなく「アート」として捉えてきた。1964年のゼン(ZEN)ボトルに高台寺の蒔絵を取り入れたことに始まり、セルジュ・ルタンスがデザインを手掛けたフェミニテ・デュ・ボワの独特な曲線ボトル(くびれがある老バラ色のフォルム)、2007年のゼン(ZEN)ボトルで茶室をイメージしたデザインを採用したことなど、フレグランスと視覚芸術を常に一体として設計してきた。2016年には資生堂ギャラリーで「レ・パルファム・ジャポネ ―香りの意匠、100年の歩み―」展を開催し、香水ボトルのデザイン史を一堂に展示している。

才能ある外部クリエイターとの協働

資生堂の香水史において特筆すべきは、外部の一流クリエイターを積極的に起用してきたその姿勢だ。ゼン(ZEN、1964年)ではアイエフエフ(IFF)のジョセフィン・カタパノ、ノンブル・ノワール(1982年)ではジャン=イヴ・ルロワ、フェミニテ・デュ・ボワ(1992年)ではピエール・ブルドンとクリストファー・シェルドレイクというように、時代ごとに当代一流の調香師に日本の美意識を託してきた。「日本文化は日本人の手によって」という制約から脱却し、「海外の一流の調香師が描く日本のイメージ」を追い求めてきたとも言える。

香水ラインナップ

原点の香り:花椿(1917年)

日本初の本格国産香水として誕生した「花椿」は、資生堂のすべての香りの起点である。欧米では「ユースリシン(Euthrixine)」の名称で紹介された。椿の香りを直接再現するのではなく、「椿の花のイメージ」を纏うフローラルな香りとして構成されており、ボトルのストッパーには花のレリーフが施されていた。その後廃番となったが、2008年に限定復刻されている。

伝説の名香:禅(1964年〜)

資生堂が世界に向けて初めて発売した香水。調香師ジョセフィン・カタパノによるシプレで、ヒヤシンス、ガルバナム、ベルガモット、オレンジブロッサムのトップから、カーネーション、ローズ、ナルシスなどのハート、ムスク、サンダルウッド、オークモスなどのベースへと展開する。高台寺の蒔絵に着想を得た黒漆と金彩のボトルは、「東洋の神秘」を凝縮した傑作デザインとして今も語り継がれている。

その後、禅は時代に合わせて数度にわたりリニューアルを重ね、2000年にはナタリー・ローソン、2007年にはミシェル・アルメラックとマイケル・フォスターによって現代版へと生まれ変わった。2007年版は「静から動へ」というコンセプトのもと、グレープフルーツ・パイナップルの爽やかなシトラスとブルーローズ・フリージアのフローラルハート、パチョリとアンバーの温かなウッディベースが構成される。発売後1年で工場出荷130万個を超えるヒットとなった。

幻の傑作:ノンブル・ノワール(1982年)

セルジュ・ルタンスが調香師ジャン=イヴ・ルロワと制作した、調香史に残る問題作。光に対して不安定とされるダマセノンを前例のない量使用し、原料の安定性や製造コストなどが課題となって、発売から数年で廃番となったとされる。資生堂は残存する在庫を日本に回収したとされ、その後この香水は伝説化した。批評家のルカ・トゥリンが「世界で五本の指に入る香水」と絶賛したことで(チャンドラー・バーの著書『天才の香り』より)、その希少性はさらに際立ち、現在では数十万〜数百万円で取引されることもある。

香水史に革命を起こした一本:フェミニテ・デュ・ボワ(1992年)

1992年、セルジュ・ルタンスの指揮のもと、調香師ピエール・ブルドンとクリストファー・シェルドレイクが制作した傑作。この年は、ティエリー・ミュグレーのエンジェル、イッセイ・ミヤケのロー・ディッセイが同時に発売された記念すべき年である。しかしフェミニテ・デュ・ボワはその両者とはまったく異なる方向性を示した。

当初は「シセイドウ フェミニテ・デュ・ボワ」として発売されたこの香水は、モロッコ産アトラスシダーをベースに、蜂蜜、スパイス(シナモン、クローブ、カルダモン)、ピーチ、プラム、バイオレット、バニラ、ムスクを重ね合わせた構成で、シダーウッドに女性のような曲線美を与えたと評された。このフレグランスを起点に、「ウッディ・フルーティ」という香りのジャンルが開拓されたといっても過言ではない。

ルタンスが長年温めてきたシダーへの偏愛は、モロッコへの初旅行(1968年)にその原点があるとされている。「シダーは神が自らの手で植えたといわれる唯一の木だ」——ルタンスはそう語ったとされる。

フェミニテ・デュ・ボワは後に「セルジュ・ルタンス」ブランド名に移行し、発売30周年を迎えた2022年のインタビューでは、その時点のフォーミュラについてシダーウッドが60%を占め、オレンジブロッサムとプラムのノートを含むと紹介されている。

むらさき(Murasaki)

日本で1980年に誕生し、後に欧米でも展開されたフローラル・シプレ。ベルガモット、ガルバナム、ヒヤシンス、ガーデニアのトップから、ローズ、オリス、ミュゲのハート、ヴェティヴァー、レザー、オークモスのベースへ。濃い紫色のボトルは後に廃番となり、1990年代以降は透明ガラスに紫キャップのスタイルに変わっている。

別の作品として展開される「ジンザ オーデパルファン ムラサキ」は、デザイナーのコンスタンス・ギセが設計した重厚なガラスブロックに黒いダガー(短刀)が突き刺さるという大胆なボトルデザインで、バイオレット、フジアップル、ポメグラネートのトップから、ジャスミン、フジ(ウィスタリア)、フリージアのハート、サンダルウッドとアンバーのベースへと展開する。

エバー・ブルーム(Ever Bloom)/ ジンザ・フラワー

2015年にヨーロッパ32カ国で発売された「エバー・ブルーム」は、資生堂がグローバルブランドとして本格的な香水事業に再参入したことを示す重要な一作。調香師は「イッセイ・ミヤケ プリーツ・プリーズ」や「ナルシソ・ロドリゲス ナルシソ」を手掛けたオーレリアン・ギシャール。白いフローラルの香りで、2017年には「エバー・ブルーム・ジンザ・フラワー」も発売された。

ジンザ(Ginza)コレクション

資生堂の発祥の地・銀座をテーマにした現行の主力フレグランス・ライン。「繊細でありながら力強く、知的でありながら情熱的」というコントラストを纏う現代的な女性像を表現している。オーデパルファン(ジャスミン、マグノリア、日本オーキッドのフローラルハートとヒノキ・パチョリ・サンダルウッドのウッディベース)、インテンス(ダマスクローズとカシスリーフのフローラル・アンバー、創香はタカサゴのカリン・デュブルイユとマイア・ルヌー)、ムラサキのほか、ナイトバージョンも展開されている。

ちなみに…

山口小夜子という存在
資生堂の香水「ゼン(ZEN)」と切っても切り離せないのが、日本を代表するモデル・山口小夜子の存在だ。1973年から1986年にかけて専属契約を結んだ彼女は、ゼン(ZEN)の広告に登場することで「禅」そのものの顔となり、この香水を欧米から日本に「逆輸入」させる象徴的な存在ともなった。資生堂とセルジュ・ルタンスの縁を仲介したのも彼女であったと伝えられている。

「ルタンスがいなければ欧州進出はなかった」
資生堂は2015年に「セルジュ・ルタンス」商標の取得に向けた基本合意書を締結した際のプレスリリースの中で、「このコラボレーションのおかげで、資生堂はヨーロッパ市場への進出に成功した」と明言している。35年以上にわたるルタンスとの協働は、資生堂をニッチ・パフュームの聖地として世界に認識させた出来事でもあった。

ソウル・オブ・モーション(2017年)
資生堂はマツダ自動車との異色のコラボレーションで、コンセプトカーの「魂動デザイン」を香りに昇華させたフレグランス「ソウル・オブ・モーション」を制作。そのパッケージはドイツのアイエフ・デザイン・アワード(iF Design Award)2017でパッケージング部門・金賞を受賞した。

参考文献