好きな香りに出会うと、つい、もう一度ゆっくり嗅いでみたくなる。香りを楽しむ時間には、鼻で感じる印象だけでなく、呼吸の仕方も関わっているのかもしれません。
2025年10月、フランスのリヨン神経科学研究センターのValentin Ghibaudoらは、一人ひとりが好む香りと音楽を用い、呼吸、心拍、脳波、本人の気分を同時に調べた研究を発表しました。研究チームが確かめたかったのは、好ましい香りが呼吸をゆっくりにし、その変化と心拍・脳活動のリズムが結びつくのか、そして同じく好ましい音楽でも同様の反応が現れるのか、という点です。
みんなに同じ香りを使わない
参加したのは、19〜51歳の健康な成人30人です。最初の日に、調香師が用意した10種類の香りと、10曲の音楽をそれぞれ評価し、その中から本人が最も心地よいと感じたものを選びました。香りにはローズ、バニラ、ピーチラベンダーなどの名前がつけられた混合香料が使われています。
翌日、参加者は椅子に座り、目を開けたまま安静に過ごしました。最初の10分は香りも音楽もない基準条件。その後、選んだ香りを嗅ぐ条件と、選んだ音楽を聴く条件を、それぞれ10分ずつ体験しました。香りと音楽の順番は無作為に決め、二つの間には15分の休憩を設けています。
香りは、溶液をしみ込ませたビーズを小瓶に入れ、鼻から10センチほど離れた位置に置いて提示しました。鼻の気流を捉えるセンサー、心電図、頭皮上の脳波計で反応を記録し、各条件のあとに、そのときのリラックス感や覚醒の程度も答えてもらいました。
香りの条件では、呼吸の間隔が長くなった
一回の息を吸って吐くまでの時間は、基準条件で平均約4.71秒、香りの条件で約5.41秒でした。香りがあるときには、呼吸がゆっくりになっていたのです。音楽の条件では約4.14秒となり、この実験では反対に呼吸が速くなりました。
心電図でも違いが見られました。心臓の拍動から次の拍動までの間隔は、基準条件の約811ミリ秒に対し、香りの条件では約830ミリ秒へと延びています。拍動の間隔が長いほど、心拍は遅くなる関係です。音楽の条件では、基準条件との有意な差はありませんでした。
さらに、拍動間隔が一拍ごとにどのくらい変動するかという「心拍変動」の指標も、香りの条件で大きくなりました。研究者は、こうした変化を、呼吸と自律神経の働きが関わる反応として考察しています。ただ、心拍変動の増加を、そのまま健康状態の改善やストレスの解消と読み替えることはできません。
呼吸に合わせて変わる脳波にも注目
研究では、脳波を呼吸の周期に合わせて重ね、息を吸ったり吐いたりするときに、どのような変化が繰り返し現れるかも調べました。香りの条件では、頭の側面から頭頂・中央付近にかけた複数の電極で、呼吸に伴う脳波の変化が基準条件より大きくなりました。
また、呼吸の一周期が長いほど、呼吸に伴う脳波の変化も大きいという関連が見られています。音楽条件にも一部の電極で変化はありましたが、香り条件と同じ広がりの変化は見られませんでした。著者らは、香りを嗅ぐ際の呼吸の変化が、身体と脳のリズムを結びつける可能性を重視しています。
ここでいう変化は、「脳全体の性能が上がった」「脳が休まった」といった意味ではありません。今回測ったのは呼吸と脳波の対応で、記憶力や集中力の向上を調べた実験ではありません。また、呼吸を意図的に変える操作で因果の順序まで確かめたわけではなく、研究者が示した仕組みには仮説も含まれます。
リラックス感の条件差は、はっきりしなかった
一方、参加者自身が答えたリラックス感はどうだったのでしょう。0〜1に換算した平均値は、基準条件で0.64、音楽で0.72、香りで0.75でした。数字の上では高くなりましたが、三つの条件の差は統計的に有意ではありませんでした。
これは、誰も心地よくならなかったという意味ではありません。今回の人数と測り方では、条件の違いによるリラックス感の変化を、明確な結果として示せなかったということです。身体指標の変化だけから、主観的リラックスの増加が実証されたとはいえません。
覚醒の程度、つまり気持ちがどれくらい活性化していると感じるかについては、香りと音楽の両条件で基準条件より高くなり、音楽でより大きく上がりました。「好き」と「静かに落ち着く」は、必ずしも同じ方向の体験ではなかったのです。
著者らは、参加者がもともと比較的落ち着いていたことや、リラックス感を一つの質問で測ったことが影響した可能性を挙げています。好きな香りを選んでも、それが穏やかな気分を誘う香りなのか、気分を高める香りなのかまではそろえていませんでした。
どこまで日常の香りに当てはめられる?
この実験の特徴は、一般に好まれるとされる香りを一律に使うのではなく、本人の好みを確かめてから提示した点です。その条件で、呼吸や心拍に測定できる変化が現れたことは、香りを楽しむ体験を理解する具体的な手がかりになります。
ただし、基準条件はいつも最初だったため、実験への慣れや時間の経過の影響を完全には分けられません。嫌いな香りや好みが中立の香りを比べたわけでもないので、変化のどこまでが「好きであること」に由来するかは、さらに確かめる必要があります。
対象は30人、各条件は10分間です。不安や不眠などの症状を治療した研究ではなく、長期的な健康効果や、特定の市販香水の効果を示したものでもありません。音楽についても、選び方や聴く場面が変われば結果が変わり得るため、「香りのほうが音楽より優れている」という順位づけにはできません。
まとめ
香りの体験には、鼻で感じる快さだけでなく、呼吸を介した身体と脳のリズムのつながりも関わる可能性があります。今回、好ましい香りの条件で呼吸が遅くなり、心拍や呼吸に伴う脳波にも変化が見られたことを、著者らはその手がかりと考えています。同じく好ましい音楽では同じ広範な反応が見られなかった点も、嗅覚に注目する理由となりました。ただし、呼吸がほかの変化を引き起こすという因果の順序や、健康への効果を確かめた段階ではありません。
主観的なリラックス感には明確な条件差がなかったことから、日常で香りを楽しむ際にも、測定値と自分の実感を分けて考える、という読み方ができそうです。心地よいのか、静かに落ち着くのか、少し気分が高まるのか。これは研究が効果を確かめた楽しみ方ではありませんが、自分の体験を丁寧に見るための視点になります。
参考文献
著者:Valentin Ghibaudo, Matthias Turrel, Jules Granget, Maëlys Souilhol, Samuel Garcia, Jane Plailly, Nathalie Buonviso
論文名:Pleasant odors specifically promote a soothing autonomic response and brain–body coupling through respiratory modulation
掲載誌:Scientific Reports 15, 36417(2025年)
公開日:2025年10月17日
DOI:10.1038/s41598-025-20422-x
原著全文:出版社の論文ページ
原著ライセンス:CC BY 4.0


