Nomenclature(ノーメンクレイチャー) ― 詩と科学が交差する、合成香料への讃歌

ノーメンクレイチャーの世界観と代表製品「adr_ett Eau de Parfum 100ml」を表現したブランドイメージ

「あなたはその名前を知らないかもしれない。でも確実に、あなたはその香りを嗅いでいる。そして、それらなしには、あなたの香水は存在しえない。」

— カール・ブラドル(Karl Bradl)、ノーメンクレイチャー共同創設者

基本情報

  • 設立年: 2015年
  • 設立地: ニューヨーク(アメリカ)
  • 創設者: Karl Bradl(カール・ブラドル)& Carlos Quintero(カルロス・キンテロ)
  • 公式サイト: nomenclature.nyc

「Nomenclature(ノーメンクレイチャー)」は「命名法」を意味する英語で、ラテン語の「名前を呼ぶこと」に由来し、香水化学のデザインを称賛するというブランドの使命を体現した名称である。

創設者・ブランドの成り立ち

カール・ブラドル——香りに魅せられたドイツ少年

ノーメンクレイチャーの物語は、1つではなく2つの人生の軌跡が交差するところから始まる。

カール・ブラドルは、ドイツの小さな町に育った。幼い頃から香りへの強い執着を持ち、1980年代初頭に母親からクリスマスプレゼントとしてロスチャイルドの香水を贈られたことが、その後の人生を方向づける転機となった。

「その香りに夢中になって、フレグランス市場を探求し始めた。80年代のグラマラスな時代は、デザイナーとその香水で溢れていた。」

— カール・ブラドル(Karl Bradl)

10代のうちにアルマーニ、イヴ・サンローラン(YSL)のクーロス、ディオール・ポワゾンなど当時のメジャーな香水を広く試し、20歳になる頃には「誰もが同じ香りをつけている現実」に倦み果てた。そんな彼を再び香りの世界へと引き戻したのが、ニッチフレグランスとの出会いであった。 ニッチの神秘性が、ブラドルに再び「香りへの恋」をさせたのである。

18歳でミュンヘンに移り銀行で働き始めたブラドルだったが、昼休みはいつも向かいの香水店で過ごした。 その後、友人のロバート・ゲルストナー(Robert Gerstner)がニューヨークの職に誘われたとき、ブラドルは迷わず同行を決意した。1992年9月、2人はすべてを置いてニューヨークへ渡った。

エデス・デ・ヴェヌスタス(Aedes de Venustas)——ニッチフレグランスの聖地をつくる

ニューヨークに渡ったブラドルはソーホーのアパレルショップで働きながら、自分だけが知っているブランドを世に紹介したいという思いを温め続けた。そして1995年1月の寒い夜、グリニッチ・ヴィレッジを歩いていた彼とゲルストナーは、クリストファー・ストリートの小さな物件を見つける。 退職金を投じて2人がオープンしたのが、後に「香水愛好家の聖地」と呼ばれるようになる Aedes de Venustas(エデス・デ・ヴェヌスタス) ——ラテン語で「美の神殿」を意味する——である。

当時のニューヨークには、ニッチフレグランス専門店というカテゴリー自体が存在しなかった。 ブラドルはある日、アポイントなしにコンデナスト・ビルを訪れ、ヴォーグの美容エディターに直談判するという大胆な行動に出た。そのエディター(エイミー・アストリー/Amy Astley)が店を訪問し、1996年10月号で紹介記事を掲載したことで、エデスの名はニューヨークの創造的な人々の間に一気に広まっていった。 ファッション業界のインサイダーたちがサンプルを回し合い、モデルがカメラマンに教え、そのカメラマンがスタイリストに伝えるという口コミの連鎖が生まれた。

こうして創業から数年のうちに、エデスはジャーナリスト、アーティスト、調香師、コレクターが集う「文化的なハブ」となった。 ブラドルはただ商品を並べるのではなく、一つひとつの香りを深く理解し、プレッシャーなく顧客に寄り添うサービスを信条とした。「フレグランスを押し売りするくらいなら、サンプルを持ち帰ってもらう方がいい」というのが、エデスの変わらぬ哲学であった。

カルロス・キンテロ——「ルネサンス・デザイナー」との出会い

ノーメンクレイチャーのもう一人の主役、カルロス・キンテロは自らを「ルネサンス・デザイナー」と称する人物である。 テキサス大学オースティン校で広告学の学士号を取得し、その後ミラノのイスティトゥート・マランゴーニでファッションデザインを、さらにロンドンのセントラル・セント・マーティンズでもデザインを学んだ。 イタリアとニューヨークで、香水・ファッション・出版の大手グローバル企業でキャリアを積んだキンテロにとって、デザインとは特定のジャンルに縛られるものではなく、ファッション、グラフィック、家具、パッケージング、デジタル、アクセサリー、オブジェクトなど、あらゆる生活の局面に適用できる思考プロセスであった。

ブラドルが「美のための美」を追い求める本能的な嗅覚の人であるとすれば、キンテロは「美しく、実用的な解決策を見つける」ことに情熱を燃やす知性の人である。 この対照的な2人の出会いが、ノーメンクレイチャーの誕生へとつながっていく。

ノーメンクレイチャーの誕生——合成香料という「革命家たち」への讃歌

アイデアの発端は、キンテロの問いから生まれた。

「科学者たちは、現実的な問題に対する優雅な解決策として、これらの卓越した化合物を設計した。たとえば、ムスクの思いやりある代替物を見つけること、サンダルウッドの生態的代替物を見つけること、あるいはアンバーグリスのコスト効率的な代替物を見つけること。私は香水化学のデザインを祝福するというアイデアに夢中になった。」

— カルロス・キンテロ(Carlos Quintero)

「合成香料は悪者か、あるいは縁の下の力持ちか」——そんな問いを出発点に、2人は一つの確信に辿り着く。現代の名香の陰には必ず、特定の合成分子の革命的な発明があった。シャネル No.5のアルデヒド、ディオール・オー・ソヴァージュのヘディオン(Hedione)、エンジェルのエチルマルトール——いずれも合成分子なくしては存在しえない作品である。

しかし、これらの分子は長らく「語られない存在」だった。ブラドルは言う。「あなたはその名前を知らないかもしれない。でも確実に、あなたはその香りを嗅いでいる。そして、それらなしには、あなたの香水は存在しえない。」 この「知られざる革命家たちの名を呼ぶ」という使命こそが、ブランド名「ノーメンクレイチャー」に込められた意味である。

2015年、ニューヨーク発のニッチフレグランスブランド「ノーメンクレイチャー(Nomenclature)」は4種の香水を引っ提げてデビューした。 発表の場として選ばれたのは、フィレンツェの国際的な香水見本市「ピッティ・フラグランツェ(Pitti Fragranze)」。以来、ブランドは着実にラインナップを拡充し、現在では主要2コレクションで計17種のオードパルファムを展開する。

ブランドのこだわり

「キャプティブ」を主役に据える哲学

ノーメンクレイチャーの核心にあるのは、「キャプティブ(captive)」と呼ばれる独占的な合成芳香分子を、香りの主役として据えるという姿勢である。 キャプティブとは、フィルメニッヒ(Firmenich)、ジボダン(Givaudan)、高砂香料工業、アイ・エフ・エフ(IFF)といった大手香料メーカーが独自に開発し、外部には原料として一般販売せず自社の調香に用いる芳香分子のことで、原則としてその会社の調香師が使用する、いわば「企業秘密の宝」である。 各社が年に数種しか生み出せない、時間とコストを要する研究開発の結晶だ。

ブラドルはこのアプローチについて、インタビューでこう語っている。

「100%合成の香水は少し平板になりがちだ。私たちは従来の構造を逆転させている——合成素材が香りの主人公を定義し、そこに天然素材が丸みをつけるために加えられる。」

— カール・ブラドル(Karl Bradl)

この「逆転の構造」こそがノーメンクレイチャーの哲学である。香水がしばしば「天然素材を主役に、合成素材をサポートに」という形で語られるのに対して、ノーメンクレイチャーは意図的にその比率を反転させる。 しかし、完全な合成100%を目指すのではなく、あくまで「合成が主人公、天然が脇役」という均衡を保つ。

キンテロは合成香料の安全性と持続可能性についても明確に述べている。

「合成素材はシンプルな分子だ。アレルゲンになりにくい、よくテストされた分子になるまで精製できる。天然素材はより複雑なので、アレルギーを引き起こす要素が多い。合成は5つの可能性しかないかもしれないが、天然は1,000あるかもしれない。」

— カルロス・キンテロ(Carlos Quintero)

「調香師ではない」調香デザイナー

ブラドルは自らを「ノーズ(調香師)」とは呼ばない。彼の役割は、各香りのコンセプトを立案し、使用するノートと原材料を選択し、調香の開発プロセス全体を通じてパフューマーをガイドすることである。 これは「調香デザイナー」とも呼ぶべき特異なポジションであり、エデスでの長年のキュレーション経験から培われた、嗅覚的インテリジェンスとコンセプチュアルな思考の産物である。

一方、実際の調香は、業界を代表するレジェンド級の「ノーズ」たちに委ねられる。創業時から主力として起用されているのは、2005年にフィルメニッヒ(現DSM-フィルメニッヒ)に入社した フランク・フォルクル(Frank Voelkl)。ル・ラボのサンタル 33をはじめ、数多くの時代を定義する香りを生み出してきた人物である。 フォルクルは自身のアプローチをこう表現している。

「香水創造を絵画の芸術に例えるなら、分子を使うことは精密な線を引くことに匹敵する。天然素材を使うことは、大きな筆のストロークを使うことに似ている。」

— フランク・フォルクル(Frank Voelkl)

他にも、高砂香料工業に所属していた パトリシア・シュー(Patricia Choux)(創業4作のうち2作を担当)、ニッチ香水界の「カルト的人物」 ベルトラン・デュショフール(Bertrand Duchaufour)、独立アトリエ「ラブセント(LAB scent)」を率いる ナタリー・フェイストハウアー(Nathalie Feisthauer) など、各香りには当代一流の鼻が起用されている。

ボトルとパッケージのデザイン哲学

ノーメンクレイチャーのボトルは、香りのコンセプトそのものを体現するミニマリスト・デザインである。 カルロス・キンテロが「360度すべてがデザインされている——ボトルもパッケージングも、そして中の成分さえも人間の手によってデザインされた合成素材だ」と語ったように、 ビジュアルと香りは一貫したメッセージを伝えるシステムとして設計されている。

各香水の名前には、アンダースコア(_)を含むユニークなフォーマットが採用されている——「アデレット(adr_ett)」「エフロレセ(efflor_esce)」「シソー(shi_sõ)」のように。これは化学式の表記法を連想させる視覚的なコードであり、「詩と科学のハイブリッド」というブランドアイデンティティを端的に表している。

香水ラインナップ

ノーメンクレイチャーの現行ラインナップは、大きく2つのコレクションで構成されている。

モレキュラー コレクション(Molecular Collection)

ブランドの中核をなすコレクション。香水業界に革命をもたらした重要な芳香分子——特に、各香料メーカーが独自に開発した「キャプティブ」分子——に焦点を当て、各作品でその歴史と化学と詩を讃える。 以下では、創業時から展開されてきた主な10作品を紹介する。

創業4作(2015年)——現代香水史を変えた4つの瞬間

  • adr_ett(アデレット) — ヘルヴェトライド(Helvetolide)®という「重力ゼロのムスク」分子を主役に据えた作品。ドイツ語で「きちんとした、粋な」を意味する名を持ち、ピンクペッパー、アイリス、アンバーグリス、バニラ、トンカ豆が宇宙空間のような静寂を構築する。調香師はフランク・フォルクル。
  • efflor_esce(エフロレセ) — フィルメニッヒが1996年に特許取得した「パラディゾーン(Paradisone)®」を主役とした「天使の花」。ネロリ、チュベローズ、ベルガモット、オスマンサスが天上的な輝きを醸す。調香師はフランク・フォルクル。
  • orb_ital(オービタル) — 高砂香料工業の「オービトーン(Orbitone)®」——ウッディ・アンバーの均衡分子——を核に、ペッパー、ルバーブ、バイオレット、サンダルウッドが惑星系を描く。調香師はパトリシア・シュー。
  • iri_del(イリデル) — アイリス・アルデヒドを主役とし、都会的でシャープなアイリスを表現。「貴族のパウダーウィッグを脱いで細身のスーツを纏ったアイリス」と評される。調香師はパトリシア・シュー。

その後の展開

  • lumen_esce(ルーメネセ) — フィルメニッヒが2000年に特許取得した「バイオレッティン(Violettyne)®」を主役とした「電気バイオレット」。スミレの複数の顔を光の色として表現する。調香師はフランク・フォルクル。
  • shi_sõ(シソー) — ジボダンの「グリコリエラル(Glycolierral)®」(アイビーの葉の涼やかな香り)を核に、シソ・カルダモン・スペアミントなどで構成。日本語の「紫蘇」と「思想」に重ね、ブランドが「現代の思想」と説明するタイトルの通り、古典的なオー・ド・コロンへのモダンな再解釈。調香師はベルトラン・デュショフール。
  • holy_wood(ホリーウッド) — フィルメニッヒが2014年にカリフォルニアで開発した「クリアウッド(Clearwood)®」を主役とする。サトウキビの発酵から生まれたホワイト・バイオテクノロジーの産物で、21世紀のパチョリとも称される。1970年代カリフォルニアへの讃歌。調香師はフランク・フォルクル。
  • fluo_ral(フルオラル) — 1990年代のアクアティック香水ブームを生んだ「カロン(Calone)®」を再解釈。「生物発光するプランクトン」をインスピレーションに、海洋香水の常識を覆す。調香師はナタリー・フェイストハウアー。
  • psy_cou(サイクー) — 1882年の「フジェール・ロワイヤル」で最初に使用された近代香水の原点「クマリン(Coumarin)®」を主役に、その「本来のモダニティを蘇らせる」作品。サフラン、コーヒー、ウード、パロ・サントで深みを出す。調香師はフランク・フォルクル。
  • red_wood(レッドウッド) — フィルメニッヒが1986年に開発した「ノーリンバノール(Norlimbanol)®」——香水評論家チャンドラー・バーが「金の重さに値する天才分子」と称した強力なウッドノート——を核に、巨大なレッドウッドの木を香りで再現する試み。調香師はフランク・フォルクル。

モダン エクレクティクス コレクション(Modern Eclectics Collection)

Z世代を中心とした新しい層を意識した、より軽やかでウェアラブルな7作品のコレクション。 「個性的でありながら肌馴染みが良く、シングルノートを超えた印象的で清潔な構成」を特徴とする。 ナイト・セラム(night serum)、アロエ(aloeae)、ピンク・アイボリー(pink ivory)、ミンテッド(minted)、ネオ・ローズ(neo rose)、ウッド・デュー(wood dew)、パルメット(palmetto)の7種が展開されている。 モレキュラー コレクションが分子史の探求であるとすれば、こちらは日常の中の香りを詩的に切り取ったシリーズという位置づけである。

ちなみに…

  • ノーメンクレイチャーが創業4作の一つとして選んだ「アイリス・アルデヒド(iris aldehyde)」は、アイリスの香りを現代的に表現する分子である。アルデヒドという香料群そのものは、かのシャネル No.5(1921年)を語る際にも欠かせない。 ノーメンクレイチャーは、100年前の名香を生み出した縁の下の主役たちを、改めてスポットライトの下に連れ出したと言える。
  • キンテロとブラドルは、ノーメンクレイチャーの先駆者として「ハルストン・カタリスト」「コム デ ギャルソン・シンセティック・シリーズ」「エセントリック・モレキュルズのモレキュル01」を挙げている。 しかし彼らのアプローチは、単一分子の提示ではなく、各分子の「歴史、化学、詩」を一つの香水の物語として語るという点で独自性を持つ。
  • フランク・フォルクルの本来のキャリア志望は「外交官」だったという。調香学校イジプカ(ISIPCA)で学んだ彼は、「常に目指す場所を忘れずに」という伝説的調香師エドモンド・ルードニツカの言葉を今も胸に刻んでいるという。
  • ノーメンクレイチャーは2024年4月29日に日本初上陸を果たし、ノーズショップ(NOSE SHOP)の麻布台・有楽町・札幌の各店舗とオンラインストアで販売が開始された。 天然香料ブームの逆を行くブランドとして、日本のニッチフレグランス市場でも独自の立ち位置を確立しつつある。
参考文献